*
梅雨前線の機嫌を伺う日々が続いている。
毎度夕方以降でタイミング悪く降り出す雨へ、竹青荘の住人たちが夜ジョグを控えてしばらく。日課になりつつあった行動を制限されたことで、入浴後の時間が手持ち無沙汰になった面々は、入れ替わり立ち替わりで王子の部屋を訪れていた。彼が所有する漫画を読んで、束の間の娯楽を楽しむためだ。
本を丁重に扱うことを心がけ、勝手な持ち出しをしなければ、部屋主は我関せず。手軽かつ無料の漫画喫茶である。図書館のように、誰かが集中している空間に自身もいたいと、ただそれだけの目的で訪問する者もいる。
例に漏れず、その日もそうだった──のだが。
「……聞きたいことがあるんだけど」
ぽつり。王子が呟いた。自室での彼は読書に没頭していることがほとんどで、陶酔を解いてまで自分から何者かに関心を向けるのは、非常にめずらしいことだった。
積まれた本の背表紙をぼんやり眺めていた走は、それが自分へ向けられたものだと理解するのに少々時間を要したようだ。目を数度開けては閉じ、しばしの沈黙を挟んで、「あ、はい」慌てて背筋を伸ばす。
テンポの悪い返答には触れず、王子はひと月ほど前に走へ貸し出した文庫を手にとった。二巻完結の少女漫画。一般的な娯楽体験が乏しい走にあわせ、王子自ら選んだもの。
物語は基本的に作中の誰かへ感情移入するという楽しみ方が一般的である。語り手や視点が大事と言われるのはまさにこれが所以で、媒体問わず本に触れた経験が少ない者は、登場人物との共通点を見つけるのが下手だからのめり込めない。その点を的確に見定めた王子は、走に漫画の尊さを理解させるため、「陸上選手」が主役の作品を選び取っていた。
主人公──小泉るう子は、中学最後の北海道大会決勝にて全中記録保持者と接触、相手を巻き込んで転倒事故を起こした過去を持つ。激しいバッシングを受け、陸上競技をやめてしまった彼女だが、高校でのとある出会いをきっかけに、ふたたび走りだす──そんなあらすじだった。
スポーツをテーマにしながら、恋愛の甘酸っぱさや苦さ、青春のあっけなさとうつくしさを、さらりとしたタッチで描いた傑作。著者には別の代表作があるため、そちらが取り上げられることが多いのだが、これこそ作者の真骨頂だと王子は信じてやまない。所属する漫画研究会のメンバーともその見解は一致している。
「──きみも、この八〇〇メートルという種目に出たことがあるの?」
王子が尋ねたのは、るう子の専門種目を受けての疑問だった。
走ることに天賦の才能を持つ彼女は、甲子園で盗塁王をとった野球部の俊足部員に短距離走で勝利し、冬は駅伝で一万メートルを、クライマックスのホノルル・ジュニアマラソンでは四二・一九五キロを激走する。
そのため、作品内で八〇〇メートルのレースが描かれたのは競技から離れる要因となった中学時代の大会と、高校の復帰戦のみ。しかし、彼女の本領が中距離にあることは、節々の描写から明らかだった。なにより、無心で八〇〇メートルのゴールに駆け込む主人公は、白黒のページが色づいて見えるほどに輝いていた。
「……王子さんも出たいんですか?」
「まさか」
走の逆質問に身震いする。
竹青荘のメンバーは、清瀬によって五〇〇〇メートルの記録会にはたびたび駆り出されているが、それよりも短い距離に出走したことはない。
当然、作品理解のためとはいえ、これ以上レースに出るだなんて、王子はまっぴらごめんであった。自ら好き好んで地獄を体験するだなんて。だからこそ、こうしてわざわざ後輩へ問いかけているというのに。
「……中学一年のときに、何度か。ただ、二年からは短くても一五〇〇までで」
走は記憶をたぐり寄せるように返事をする。
「へえ……。八〇〇メートルってきみでもきついもの? 北別府先輩の台詞にもあったけれど……ほら、ここの。八〇〇メートルランナーには四〇〇メートルの絶対的スピードが必要。高度なスピード持久力の戦いが、死のレースと呼ばれる所以、と」
「そうですね……。きつい、とは思いますが、どちらかと言うと力を出しきれなかったような。距離が短くて、気がついたら終わってしまうので」
一五〇〇を「短くても」と評する青年の言葉だ。王子は感覚のギャップに眩暈を覚えた。とはいえ、今さらその部分を突いたりもしないのだが。
「多分、そのときの俺がまだレースの構成をちゃんとわかっていなかったんです」
「八〇〇メートルの走り方、ねえ……」
王子は二巻のクライマックスシーンを回想する。
ひょんなことからハワイのジュニアマラソンに出場することになったるう子。優勝候補のジャッキー・ホリーを追いかける彼女は、終盤のデットヒートで靴紐が緩み、真夏のハワイのロード上で立ち止まってしまう。しかし、観衆が「ゴールまで八〇〇メートル」と叫ぶ声を聞いて、はっと気がつくのだ。
彼女は両足の靴を脱ぎ捨て、その地点でもう一度スタンディングスタートの姿勢をとる。そして、頭の中で号砲を鳴らす──昔叩き込まれた八〇〇メートルを走り出す。
最初の二〇〇はおさえぎみ、四〇〇で少し前へ出て、六五〇あたりで勝負をかける。そして──七〇〇でスパート。
ライバルたちをラスト一キロ未満ですべて抜き去る主人公の姿は、カタルシスという他なかった。
「本の中の走り方は、あくまでひとつの例だとは思います。……前半飛ばして逃げ切るのが得意な選手もいるし、二周目のラップがほぼ落ちない選手もいます」
走は、おずおずと、王子の心を読んだかのように補足をする。
「ただ、どんな走り方をするにも、八〇〇は根本のスピードがなければ話にならない……それは確かです。だから、北別府先輩の言っていることは正しい、と思います」
後輩の語る経験則への感嘆以上に、作中の人物をまるで知り合いのようにあげる様子が、王子にとっては感慨深い。数週間前まで、最低限の文字しか目に入れてこなかった青年が、よくぞここまで育ったものだ。
「……きみも、走っていれば何かいいことが待っているって、そう考える?」
王子の呟きに、走は「……はあ」と眉根を寄せた。
「……わかりません。ハイジさんなら、きっと北別府先輩と同じように、保証するって言ったかもしれませんけど……俺にそこまでの断言はできない。でも……──いいことがあればいいのに、と……思います」
「……へえ」
ふと、もし今この世界が何かの物語だとしたら、万が一本当にこのチームが箱根駅伝本戦への出場を決めることがあろうものなら。きっと主役はこの青年なのだろうと、王子は直感した。不器用な天才を主軸にまわるストーリーだ。
王子はその中で脇役のひとりに過ぎず、今こうして持っている思考もすべて本編の派生にすぎないのかもしれない。それどころか、主人公の足を引っ張り、バランスを調整する役割だったら。読者から「しっかりしろよ」とため息をつかれる存在であったら。
王子は、自身の回答の精度へ、律儀に首を捻っている走の姿を見て薄く笑った。
不思議なことに、たとえそうであったとしても別に構わない気がしていた。自身には自身の役目がある。弱者だからこその心の叫び。それは主役の大立ち回りと同じくらい、重要なシーンのはずだった。いつか、なまえから「巻頭カラーの見開きもの」と言葉をもらった記憶が蘇る。王子のことを友人のように語る誰かが、ページの向こうに一人でもいたのなら、それだけで十分すぎるくらい。
それに──。
「──スピンオフが原作を喰うこともあるからね」
「……なんなんですか、それ」
置いてけぼりの走は、いよいよ怪訝な表情を浮かべた。