*
清瀬が風呂からあがると、リビングのソファーでなまえが潰れていた。
潰れていたというのはあくまで体勢のこと。おそらくではあるが、「お酒に」などの前段がつくわけではなさそうだ。彼女の酒の強さは折り紙付きで、特に仕事関連の場ともなれば無茶な飲み方は避けるだろう。
廊下を見やれば、彼女の自室につながる扉が数センチ開いていた。ジャケットや腕時計を身につけていないことから、きちんと定位置に片付けてきたようだ。その半ばで力尽きたに違いない。
そろりそろりと近づき、上から覗き込む。彼女はフローリングに直接座りこみ、腰掛ける部分に腕を置いてその中に顔を埋めていた。耳を澄ますと、すやすや寝息を立てていることがわかる。
ここ一週間、清瀬が起きるよりも早く家を出て、清瀬が布団に入った後に帰宅していた姿を思い出す。基本的に多忙な彼女だが、今週は特に忙しかったようだ。
そんな中でも、清瀬が夜のうちにつくっておいた弁当は、綺麗に完食され、箱が洗われ、流しに置かれていた。付箋で貼られた走り書きの「ありがとう」を見るたび、律儀さに頰をかいたものだ。ただ、それも全部清瀬に余計な心配をかけまいとしていたことなのだろう。
元来の性質と諦めているが──本当にこのひとは、まったく。
清瀬は同じく床に直接座って、真横から彼女の顔を眺めた。まだ化粧を落としていない。このまま放っておけば「気づいてたなら起こしてよー!」と翌朝大目玉を喰らいそうな気もする。
清瀬が対応する選択も頭をよぎるが、シートタイプのメイク落としは肌が荒れるため好まれない。なんとか自分の足で洗面台まで移動してもらわねば。
若干の躊躇いを抱えながら、清瀬は「なまえさん」と耳元で囁いた。
「こんな格好で寝ていたら逆に疲れます」
まだそこまで深い睡眠に至っていなかった様子のなまえが、声とも息ともつかない音を漏らす。
「顔を洗って、ベッドで寝ましょう。服もシワになる」
「…………ん」
掠れた声の返事。ぼんやりと覚醒の気配。
「あれ……わたし寝てた?」
「そりゃもうぐっすりと」
「瞑想するだけのつもりだったんだけど……」
なまえが寝ぼけ眼を携え、ゆっくりと頭を上げる。首を左右に捻り、凝り固まった筋を伸ばす。ポキポキと小さな音が鳴った。
「一週間、お疲れ様です」
「……ありがと。灰二君もお疲れ様。今週あんまり家のことできなくてごめんね──明日のお弁当はわたしがつくるよ。ちゃんと材料買ってきたんだ」
なまえは「へへ」と愉快そうに笑った。
実業団のコーチをしている清瀬は、休みの取れ方がまちまちだ。土日も練習や試合があれば同行するし、外部との折衝もある。大学時代に名前を売った清瀬目当てで、いまだに取材が入ることすらあった。
一方、明日は選手の通常練指導のみであるため、タイムスケジュールが想定しやすい。きちんとお昼の時間にランチができるのだ。そういった日は、普段の食事のお礼とばかりになまえがキッチンに立ちたがる。彼女も、今では随分と料理の腕が上達したのだ。
疲れているのだから明日くらいゆっくり朝寝してもよいのに。清瀬は思ったが、以前近い会話で言い争いになったことがあることを思い出し、その切り込みは胸にしまった。やると言ったらやりたいのだ、なまえは。
「それならなおさら朝が早い。ほら、行きますよ」
清瀬に促されたなまえは、
「行くよ。行くんだけど……ちょっとだけ待って。一分、ううん、三十秒だけ、ね?」
自身の顔横で彼を手招いた。しかし、二、三度手をひらひらさせてから、「あ」と声を出す。
「……そっか、灰二君はお風呂済んでるのか」
「はあ」
「なら今は大丈夫」
「なんですか。気になりますって」
清瀬はそそくさ立ちあがろうとする彼女の肩に手をやり、無理やり座らせた。早く床に着かせてやりたい気持ちは大きいが、それ以上にあからさまな誤魔化しが気になる。
彼女は「本当に大したことじゃないんだけど」と困っていたが、清瀬の意思の強い瞳に押されて渋々告げた。
「その……ちょっと充電させてもらおうと思っただけで」
「ふむ」
「…………ハグを」
「そういうことは早く言ってください」
清瀬は聞くが早いが、目の前の彼女を引き寄せた。
健康的に華奢な体は、いとも容易く胸に収まる。細い腰に手を回し、首筋に顔を埋めた。呼吸をすると、薄れた香水、ブラウスの柔軟剤と混ざり合い、なまえ自身の匂いで満たされる。清瀬が愛してやまない香りだった。
「こ、こら! いいの⁈」
当の本人は驚き、その勢いで少しだけ反抗するが、無言でさらに抱きしめる力を強くすると、潔く観念したようだ。清瀬の肩口にこてんと頭を預けた。青年の肩甲骨のあたりに手が回される。柔らかな髪が首に擦り付けられて、くすぐったい。
「本当は……今日の仕事を片付けたら、絶対きみに抱き締めてもらおうと思ってたの。そのために一週間頑張った」
「えらい」
「でしょ?」
彼女が「ふへへ」と先刻よりも一層無邪気に笑った。
なまえの強がり──ある種の悪癖がぶり返したのではと気を揉んでいたが、清瀬の杞憂だったらしい。大学で再会したばかりの彼女なら、こんな風に他者へご褒美を要求したりしなかったはずだ。
彼女はとろけそうな声で「一方的に抱きつくだけだと、ここまでほっとしないもんねえ……」と呟いた。
「もしかして、試しました?」
おや、と思った清瀬が尋ねる。
「………………わたし、今墓穴掘ったよね?」
なまえの悲痛なぼやきを無視し、詳細を深掘る。
「いつですか」
「あー……昨日の夜、寝込みを襲いました。ごめんなさい」
「次から、そういうときは叩き起こしてください」
当時ノンレム睡眠を享受していたであろう自分が憎たらしい。清瀬は悶々とした思考を押し込め、話を続ける。無言でいたら、この後離してやれなくなるような気がした。
「なまえさん、昔より甘えるのが上手くなりましたね」
「それは、清瀬君が甘やかし上手だからだと思うな」
「……清瀬じゃなくて」
「あ、そうだった。灰二君が甘やかし上手だから」
「できれば敬称もとって欲しいところですが」
「だったらきみも敬語をやめんかね」
「それはちょっと……おいおい検討で」
なまえは「ええー」と不満そうな声とともに、清瀬の肩口へと頰を擦り付ける。
中学時代の名残、歳上に対する礼儀というのはもちろんあるが、清瀬がなまえに対する言葉遣いのベースが敬語なのは「彼女という人間に対する根本からの尊敬」に基づいている。
そしてもうひとつは、自制のため。特別なひとだと深層心理に焼き付けておかないと、万が一理性のタガが外れたとき、どんな求め方をしてしまうかわからない。極力優しく、壊れ物を扱うようになまえへ触れたいのだ。それこそ、今なんてまさに。
「……なまえさん、この週末って何か予定ありましたっけ」
「何にも。平日が忙しそうだったから、土日はゆっくりしようと思って」
「じゃあ、今日の夜……どうですか」
「どう、って……あ」
抽象的な誘いの意図に気がついたらしい。なまえは清瀬の腕の中で何やらもぞもぞと動いた。
「ええっと……灰二君の日曜の予定は?」
「久々のオフです」
「…………する。したい」
答えを聞いて、抱きしめる力を柔めた清瀬の胸へ両の手のひらを添え、なまえが体を起こした。別にこんな会話や行為ははじめてではないにも関わらず、少しだけ頰が染まっている。
「楽しみだ」
額同士をこつんと合わせ清瀬が笑いかける。すると、彼女は青年の頰を抑え、唇へ触れるだけのキスをした。ドラマのように綺麗なリップ音が鳴る。
「わたしも。続きはまた夜だね」
するりと包囲を抜け、廊下に消えていったなまえに、清瀬はまだまだ勝てないらしい。