Triangler 別冊 フレンチキス

……すっごく失礼なこと聞いてもいい?

歯切れ悪くなまえが切り出したのは、七海SAIが龍水財閥のIT担当を渋々引き受けることが決まってすぐ。とある午後のことだった。

千空等が月より帰還してしばらく、世界各国を回っていたSAIも、ここ最近はインドア生活が続いている。パソコン前での作業が以前にも増して多くなってきた所以だ。今や世界有数のプログラマーであるSAIにとって、決まった場所へ腰を落ち着けられる環境はありがたい。
特に、龍水が用意した仕事場の居心地はさすがの一言だった。IT担当へ絆された要因の一つである。
弟が日本にいる時の拠点も近隣どころか同じ敷地内にあったのだが、その分フランソワの料理にありつける機会も多く、等価交換だと諦めがついている。なんだかんだ、この新たな暮らしを気に入っているのだ。
対するなまえは、いまだ世界を飛び回る日々を送っていた。旧現代で各国が囲っていた優秀な学者、エンジニアを宇宙機構へ勧誘するためである。長くて一週間、短くて二、三日の間隔で飛行機へ乗り込む彼女のバイタリティは、あのコハクが感嘆するほどだ。
この状況で定住先を探すのは難しいだろうと、日本へ戻ってきた際は、恋人の家へ転がり込むのもお決まりである。
そんなわけで、昨晩、およそ一ヶ月ぶりにSAIとなまえは対面を果たしたのだった。
なかなかの弾丸スケジュールであったらしい。玄関に辿り着いた彼女はへとへとに疲れ切っていた。お風呂沸かすよ、とSAIが少し目を離した隙に、ソファーへ倒れ込んで眠りこけ、ゆすっても目を覚まさないくらいには。
せめてベッドへ運ぼうかと思案するも、いかんせん彼の筋力では厳しい。仕方なく、頭の下に枕を入れたり、タオルケットをかけたり、彼女が気に入っているパンダのぬいぐるみを抱きしめさせたりなどして、ソファーを即席ベットに仕立てた。
その甲斐あり、翌日昼頃起床したなまえはご機嫌で、「久しぶりに目覚ましが鳴らない部屋で寝られたよー」と、伸びをした。シャワーを済ませた後、フランソワが運んでくれた朝昼兼用の食事に舌鼓を打ち、数時間前まで彼女が寝こけていたソファーにて、互いに雑談ベースの近況報告を行う。
そして、窓から差し込む日がやや橙に染まってきた時。会話の切れ間にて、冒頭の一言を投げかけられたわけである。

「……失礼なこと?」
おうむ返しをするSAIへ、なまえは一瞬躊躇い「ぶっちゃけた話」と言い換えた。
「……その、七海君の、経験人数を聞きたくて」
それは、おそらくSAIへ数学を叩き込んだ教師の数でも、彼が尊敬するゲームクリエイターの人数でもない。
突然のセンシティブな話題に、顔を赤らめるSAIは、同じくらい、もしくはそれ以上にゆでダコであるなまえを見やった。
「私から言わないとフェアじゃないから一応伝えると、二人……最後までしたのは一人」
「最後まで……?」
「初めての時すっごく痛かったから、ちゃんとできなくて……。もうね、体が真っ二つに裂けるかと思った」
エピソードの半ばで当時の痛みを蘇らせた彼女は、剥き出しの両腕を自ら抱きしめるようにしてさすった。
「それで、七海君はどうだろ……って」
覗き込む瞳には、たくさんのハイライト。そのきらめきに「ぐ」と押されつつ、SAIは小さな声で自身の過去を告げた。
「確か十四歳の時……かな。上が勝手に手配して、そのっ……やり方とか、何回か」
なまえの顔が、まさに「ぽかん」としか言いようのない表情でかたまった。
「……素人童貞ってこと?」
「言い方!」
おそらく悪気なくではあろうが、考えうる限りでもっとも下世話な一言を放った彼女へ釘を刺す。
「でもっ、それからは……してない、よ」
「その顔で? ほ、本当に? お姉さんに誘われたりしなかった? カマティプラとか」
「行かないよっ、怖いしっ」
彼女がインドの置屋街をおさえていることに驚きつつ、あれだけ定期で訪れていれば当然かと思い直す。
ムンバイの南に位置する国内有数の風俗街。そこでは、日本では考えられないような破格の値段で女性を買うことができるのだ。
別件で近くを訪れた際、キャッチの男性に百メートル近く付きまとわれたことは、SAIにとって小さなトラウマであった。以降極力近寄らないようにしていたため、これらは全て聞き齧りである。
興味がないと言えば嘘になるが、女性を値切るような真似はごめんであったし、本能に近い衝動をゆきずりの他人で済ませるのも抵抗があった。
SAIの真剣かつ焦った表情に、証言の信憑性を認めたなまえは、「ふーん、ほーん、へー」と、唇を尖らせた。
やましいことは一切ないが、やたらと気になる反応である。
「……なんだよ」
なまえはソファーにもたれかかり、先日持ち込んだパンダのぬいぐるみを抱え込んだ。そのもちもちふわふわとした布地で口元を隠しながら、上目でSAIへ視線を送る。
「七海君、ちゅって軽いキスしかしてくれないんだもん。実はすっごく経験豊富で、私にそういう魅力感じないのかなーって思ってたんだけど」
彼女の質問意図が明確化され、SAIの脳内で回路が整う。同時に「待て!」と、真っ赤な警告が盛大に鳴り響いた。
「半年以上経つのに、全っ然進まないし。そりゃあ、そういうことするのだけが目的じゃないし? 私がバタバタしてるだけで七海君のせいじゃないのは分かってるけど……」
最近、SAIの邸宅を訪れるたび、彼女の持ち込むルームウェアの布地がやけに少ない理由へ合点がいく。薄手のショートパンツだったり、ヘソが見えそうなTシャツであったり。思い返せば、向こうからのスキンシップも直近の逢瀬はかなり多かった。
「──し、したいよっ! 僕だって! そんなの、すっごくしたいっ!」
本心だ。こんなところで取り繕って格好つけても、後で自分が後悔するだけである。一瞬の恥であれば晒した方がいい。手放したくない相手ならなおさら。
ただ。
「…………がっつく、のは、いやで」
「……?」
「みょうじさんを……汚すみたいで」
「んん?」
なまえは、予期せぬ反撃を喰らったように数回瞬きをして、言葉を詰まらせた。
「だ、だって、みょうじさんってすっごく綺麗だろっ⁈ だからっ、僕がそういうの見ちゃって、手を出して……いいのかなって」
好きな女性がその気で、積極的にアプローチをかけてきているのに、自覚なしで据え膳を許されるのは、漫画やその手のゲームの主人公のみだ。当然、SAIも彼女を暴きたい欲は多大にあった。
しかし一抹の罪悪感が防波堤となり、それを押し留めている。友人期間がすこぶる長かったせいか、彼女への憧れが大きいせいか。なまえを性的に消費することに対して、理性の折り合いをつけられずにいる。
そのくせ、時折見てしまう夢の中で、あられもない姿の彼女に誘われ、目覚めると下着が濡れていたなんて一度や二度ではない。拗らせてしまった今、本物が目の前にあった場合、獣のように襲いかかってしまいそうで怖かった。
「だ、出して欲しいに決まってるでしょ⁈ 私だって本当はだるだるのスウェットが着たいもん! 楽だし! 手を出してもらえるように、頑張って作戦立ててたの!」
なまえがキャンキャン吠え、ゆっくりと右手を構える。
「……グーで行こうか迷ったけど、暴力はポリシーに反するからデコピン」
彼女のデコピンが単語の可愛らしさに似合わずそこそこの威力を持っていることを、身をもって知るSAIはとっさにぎゅうっと目を瞑った。額へ神経を集中させ、衝撃に耐える準備をする。
と。
柔らかく甘い何かが、彼の口元に触れた。普段はそのまま遠ざかるそれは、ちろりと唇をひと撫でし、若干の余韻を持って離れる。
「……へ?」
「なーんて。最初に言ったでしょ、七海君のせいじゃないって。なんか褒められちゃったし。綺麗かー、そっか」
まぶたを開けると、そこには首をすくめながらSAIの頬を両手で挟んだなまえがいた。
「どうよ、ちょっとはドキドキした?」
彼女のいう「ドキドキ」が、デコピンへの恐れか、不意打ちのキスか、どちらを指すのか不明だが、後半ならば大正解だ。
「…………した」
頭の中では「手を出して欲しい」と宣言した彼女の声が渦巻いている。SAIは、目の前の華奢な肩に手を添え、おもむろにソファーへ押し倒した。

鎖骨、首筋、頬、顎、まぶた、額、鼻と、ついばむようなキスを送る。耳へのキスと合わせて息を吹き込めば、彼女は「ひゃ」と小さな声をあげた。
「……口、開けて」
そのまま耳元で囁くと、ゆっくり唇が開かれ、白く小さな歯が除く。口端へちゅ、と音を立ててキスをして、そっと舌を差し入れると、彼女はゆるやかに膝をすり合わせた。

過去、数人の女性から入れ替わり立ち替わり指導された記憶がSAIの中にふと蘇る。
数学にいらないものは極力切り捨てられた日々を過ごし、性に対する知識はほぼないも同然であった。精通した時でさえ自身の体から出たらしいそれの処理方法がわからず、途方に暮れたものだ。
そんなある日、太陽が陰った頃合いでいきなり呼び出され、薄暗く、むせかえるような甘い匂いがする部屋に通され、裸に剥かれた衝撃たるや。消し去りたい記憶であるにも関わらず、初めて感じる直接的な快感と一緒に、脳へこびりついてしまっている。
七海財閥の方針なのか、あくまで男性を喜ばせるのは女性であるとの前提に基づいてカリキュラムが組まれており、いかに相手を組み敷くか、いかにベッドの上で主導権を握るか、が実技のほとんどを占めていた。今思えば、SAIを囲んだ女性たちは悪い人ではなかったのだろうし、経験値がゼロの若造によくもあそこまで尽くしてくれたものだと思う。
その中でとある指導員が、キスは「口で行う性行為」と述べたのだ。特に挨拶で行うバードキスとは別種の、フレンチキス。やや大袈裟な言い方をすれば、舌は「挿れる」ものだと。
やることやってるんだからそんな萎縮しないで。七海少年の背中を人差し指でなぞり「今下でしたことを上でするだけよ」と、猫目の女性は微笑んだ。
当時こそ意図を理解しきれず流されていたが、こうして恋人を前にして、ようやく彼女の言わんとしたことがわかった気がする。

そっと舌同士を触れ合わせる。舌先から根本までを舐めると、なまえの舌が反射的に跳ねた。彼女のものはSAIより熱くて、柔らかい。さらに言えば甘いような気もする。直前まで二人ともブラックのコーヒーを口にしていたため、そんなはずはないのだが。
遠慮がちにSAIのものへ絡み、粘膜が擦れる。ざらざらしたそこが、たっぷりの唾液とともに一つになる時間は官能的で、彼は自身の下腹部が兆すのを感じた。
なまえの片腕は、気がつけば彼の服の前裾をきゅっと掴んでいる。もう片方はなぜかずっとぬいぐるみを抱いている。
SAIの肩へ両腕を回せば良いものを、こういうところで見せる謎の意地らしさに胸が揺さぶられるのだ。
下唇をはむはむともて遊ぶ。ひと時の休憩から、彼女の上顎へ舌を這わせじっくり優しくなぶれば、「ん」吐息が漏れた。
薄く目を開ければ、彼女の口端から飲み込みきれない唾液が溢れている。親指で拭ってやると、感じ入っている吐息と一緒に服を引く力が強まる。
攻守交代の合図で、唇を舐めるとなまえの舌が彼の口腔に侵入した。SAIの歯列を丁寧になぞり、水音を立てて舌を吸う。
舌先を互いの唇の外で離すと、銀色の糸が引き、窓から差し込む光に照らされ、ぷつんと切れた。最後の方は無我夢中で呼吸を止めてしまい、二人息を切らしている。
すっかり蕩けたなまえの瞳には生理的な涙も浮かんでいた。
「……気持ち良かった」
「……じゃあ泣かないでよ」
悪戯っぽく、SAIが鼻先を擦り合わせる。子ども扱いされていると感じたのか、なまえは濡れた唇をひと舐めし、強がった。
「……もう一回キスしてくれたら、びっくりして止まるかも」
「それ、しゃっくりだったよね?」
自分から持ち出すかな。
懐かしい勘違いに、思わずSAIが吹き出す。
一回じゃなくてもいい? 囁けば、彼女はひどく甘やかな笑みを浮かべて、返事の代わりに彼の唇へ齧り付いた。