三月十五日。午前八時。
室内に反響するデジタル音を止め、ベッド脇のカーテンを勢いよく開ける。
広がる青い空。予報通りの快晴だ。
この日のために見繕ったワンピースへ目をやり、ガッツポーズ。普段はスキニーのパンツスタイルが多いけれど、春だし、何より今日は特別な日だし。女の子らしいパステルやとろみ素材で全身を固めてもいいはずだ。
待ち合わせまで三時間。早めに到着して、文庫本でも開きながら、清楚な雰囲気を漂わせていたい。
どうしよう。にやけてしまう。洗面台の鏡に映った自分の顔は、空気を抜いた風船のようにへにゃりとしている。こればかりは仕方ない。
だって、今日は哲也さんを独り占めできるのだから!
「悪い、待たせた」
駅前のロータリーでそわそわすること二十分。結局文庫本の内容は全く頭に入らず、同じページを長いこと凝視しているおかしな人になりかねなかったので、渋々カバンの中へしまった矢先だ。
「私もちょうど着いたところです」
クルーネックのニットに深い色のジーンズ。シックな色合いのマウンテンパーカーを羽織った哲也さんはあまりにもかっこいい。未だ見慣れないジャージ以外の私服姿に、頬が熱くなる。
「そうか、なら良かった」
行こうか。
私の指先をするりと取った哲也さんが、ふいにむっとした表情を浮かべる。
「寒くないか?」
「え、そうでしょうか」
「手が冷たい」
しまった! 今来たばかりなど、うっとりのたまってしまったばかりに。哲也さんに気を遣わせてしまった!
「いえ、その、えーっと、実は冷え性で。末端が冷たくなりがちで」
「ならその格好は寒いだろう」
おっしゃる通り。羽織は厚手のストールのみだ。でも、お昼には気温も上がるはずだし、多少は我慢できる。なにより。
「……この服、下ろしたばかりなので一番に見てほしくて」
たっぷり数秒間をあけて、そうか、と頷いた哲也さんは、そのまま上着を脱ぐないなや、私の肩にかけてみせた。
「日陰はまだ寒いからな。着てるといい」
「いやいやいや、ダメです! ホッカイロも貼ってますので! お腹と背中と二箇所! 哲也さんが風邪でも引いたら明早大になんてお詫びすればいいか……」
「俺は着込んでいるから気にするな。暑いくらいだ」
ベタだ。ベタすぎる。でも、好きすぎる。
ゆるゆるのだらしない表情筋をさすりつつ、上着に顔を埋めると、ほんのり結城家の匂いがする。
私のブルーグレーのストールは、せめてもとマフラーがわりに哲也さんの首へ巻きつけた。私の持ち物を哲也さんが使っている、という非日常感に胸が高鳴りっぱなしだ。
パブリックスペースで手をつなぐのも、彼氏に奢ってもらうのも、多分私は好きじゃない。多分としているのは、哲也さん以外とそうしたことがないから。哲也さんが相手の場合は嬉しさが勝ってしまうから。
さっきも入園チケットを買う横顔に見惚れ、流れで奢られてしまった。惚れた弱みもいいところだ。
どうか、心臓の鼓動が触れた皮膚づてで響いていませんように。
「空いていて良かった」
のんびり歩を進めつつ、哲也さんが周囲を見渡す。
花見シーズン到来とはいっても、まだ八分咲き程度。満開まであと少し、かつ平日の都心から少し離れた場所ということもあり、客層はまばらだ。
急ぐ必要もないので、普段より三割減のスピードでお花見スポットまで移動。持ち寄ったシートとミニクッションで位置を確保し、腰を下ろす。
「稲代大の近くに、お蕎麦の美味しいお店があるんです。そこのお弁当で」
バックの中からウェットティッシュと箱を二つ取り出す。水筒から紙コップへ熱いほうじ茶をそそぐと、ふわり香ばしい匂いが漂った。
「ありがとう。蕎麦か……是非お店にも行ってみたい」
「是非! 案内します!」
告げながら蓋を開けると、海苔巻き、色とりどりの飾り切り野菜、箱の半分は、一口大に整えられた蕎麦が詰められている。別添えの容器には麺つゆ。
じいっと中身を見つめる哲也さんの目が心なしかキラキラしている気がする。
「すっごく美味しそう。遠慮せずに食べてください」
「そうだな、美味そうだ……ところで」
箸は?
本日二回目の失態。
うっかり店員さんが入れ忘れてしまったらしい。早めに気がついていれば調達できたのに。慌ててバックをひっくり返すもお目当てはなく、読みかけの文庫本がぽろりと飛び出し、やたらと恥ずかしかった。
結局、哲也さんに、入り口近くの売店まで向かわせる始末。片道五〇〇メートル。私が行きますと切り出したけれど、ランナーの進塁を制すがごとく止められてしまった。
私の最大の悩み。哲也さんの前でまったく決まらないこと。
高校時代はクラスでも毎期委員長を務めていたし、部活でもマネージャーの仕事割り振りを担当していた。部員の期末テスト対策に付き合うこともしばしばあった。
しっかり者が売りのはずなのに、どうしていつもこんなことになっちゃうの!
前回、一ヶ月半前のデートで上野の博物館(山田浅右衛門の企画展示があった)に行った時は、なんと家にお財布を忘れた。
その前はデート中にお気に入りのヘアアクセサリーを落として、そのまま紛失した。
さらにその前は、カフェで携帯アプリを使って対局し、真剣な顔にときめいていたら、配慮なく大勝ちして凹ませてしまった。
尊敬、憧れ、眩しい。一生、何をしても、私はこの人に敵わない(将棋は除く)。絶対に嫌われたくない。素を見せて嫌われるくらいなら、表向きを取り繕っていた方がまし。
そう思うのに、そもそも取り繕えてさえいないなんて。
大きく傾いた「好き」の天秤が少しでも釣り合うよう、猫をかぶり、その度空回る悪循環。頑張っているのに、なかなか流れが来ないチームと同じ。
あーあ! 私のバカ! アホ!
なんて考えつつ、十分ほどして帰ってきた哲也さんが「せっかくだから、団子も買ってきた」と笑うので、また好きが積もってしまった。
私も哲也さんも、メッセージアプリでのやりとりをそこまで頻繁に行うわけではないから、久しぶりに顔を合わせると前半は近況報告になりがちだ。
互いの大学の話、部活の話をして、その後は共通の知り合いのこと、この場合だと青道時代の野球部員のことだったりを、思い出すたびぽろぽろ話す。
「そういえば、この間同期で飲んだ」
「あ! 貴子先輩から聞きました。結構集まったんですか?」
「そうだな、関西の奴らも来たからな」
「大所帯ですねえ」
「しっかり者の彼女ができて良かった、と皆から言われたよ」
「……それは、それほどでもというのもおこがましいような」
空回りが続いている身としては痛い言葉だ。
「ちなみになんてお答えを……?」
「ん、そうだな」
哲也さんは静かにほうじ茶を啜り、思っていることをそのまま言っただけなんだが……、と続けた。
「知れば知るほど可愛いと思う」
金属質な音が頭の中で反響。
私側の天秤が、のせられた好きの重さに耐えきれず、地面に衝突した、
こんなの、白旗だ。