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考えたことはないですか。
出雲が大社から駆け出し、全日本が神宮を目指し、箱根が神社を中継する──その理由。
大学三大駅伝とよばれる大会はそれぞれ神を祀る場所と縁があるんです。
とある宮司は、その訳に神事をあげたのだとか。日本の明日を背負う若者が、一年に一度、決められた道筋を辿る。それは紛れもない祭事だと。想いを人の足で繋ぎ、届け、見つけた答えを持ち帰る。その意志にこそ意味があり、神道を「神への道」と書く意図にもなり得る、と──とても面白い考察だと思います。
けれど、日本は神道、仏教、その他宗教がまぜこぜ。文化圏として特定の神を信仰しているわけではありません。キリスト教ではなくともクリスマスを祝うように、多くは宗教の慣例行事をある種の娯楽として享受している。海外からは無宗教の国だと認識されてもいる。到底、一本の襷をつなぐ全員が同じ神を信仰しているとは考えられない。
にも関わらず、事実彼らは何より純粋な「走る」という行為の中に、まっさらで透明な何かを見つけています。
目を閉じたらまぶたに映るんです。
一歩、また一歩と進みながら──次の瞬間にも、悲鳴をあげている肺が破けて、重い脚が地面に溢れて、滴る汗で溺れて、吹きさすぶ強い風に身を裂かれそうな中で、それでも──。
──……走るって、どういうことなんでしょう。
右脚と左脚を交互に前へ送り出す。たったそれだけのこと。
手を合わせ、そっと目を閉じるのと同じ。深く二度礼をして、音を立てずに四度拍手し、最後にもう一度頭を下げるのと同じ──誰にだってできる単純なこと。
わかりません。……結局、ずっとわからなかった。
ただ、一つだけ。誰にでも許されて。それでいて、きっと何ものにも変え難い。
そんな所作を、わたしたちは「祈り」と呼ぶんです。