Prayer 4章④ 柏崎茜

結局、皆が布団に入ったのは時計の針が午前一時を回った頃であった。
が、いつものルーティンをこなすべく、六時前には清瀬を除く全員が竹青荘前に屯する。
その中にはなまえの姿もある。葉菜子の学校行事が続くため、ここ数日朝練にも付き合ってくれているのだ。慣れた様子で庭先の自転車を引き、遠巻きに住人たちを見つめている。
王子が把握している限りでは、なまえが昨晩竹青荘を出たのは深夜零時半ごろ。送ります、と気遣うムサに「わたしは大丈夫だから。皆は明日のためにすぐ寝ること」と言い残して出て行った。
祖師ヶ谷大蔵近辺に家があるとは聞いているが、竹青荘からは徒歩で片道二十分強かかかるらしい。帰宅後に風呂等を済ませ、今もこうしてこの場に揃っているということは、どんなに多く見積もっても四時間寝ていない。飲み会の中で、極力当日中に片付けたい研究室の用事があるとも言っていた。
清瀬に違わず、どう時間を管理しているのか読めない御仁である。
そんな取り留めのない思考を重ねる王子の横、一同は今後の方針を決めるべく頭を悩ませていた。もっぱらの課題は代理の主将である。
「──はあ? 勘弁してくれよ。代理でもできねえって。キャプテンなんて」
真っ先に白羽の矢が立ったニコチャンは、焦りながら手を横に振った。
「やはりここは年長者であり、経験者であるニコチャン先輩が適任だと」ムサがフォローを入れるも、当の本人には一切その気がないようだ。
「無理。人の面倒見られるほど余裕はねえの、俺には」
「じゃあ、ユキさん」神童が続く四年生へ手を合わせる。
「やはりそうきたか……──だが断る」
ユキの言い回しに、王子は岸辺露伴の勇姿を思い起こす。
「そんなあ」
「言っとくが、俺は今でも行けるなんて思ってねえからな、箱根。どんな顔して仕切りゃいいかわかんねえよ」
「お前まだそんなこと言ってんの? こんだけ練習に参加しといて」
「うるさい、だめ。他当たれ」
キングに刺されても、ユキの決意は固い。
「じゃあ──有村さんはどうですか?」
「……わたし?」
思いもよらないタイミングで名前を呼ばれたなまえが、数回瞬きをする。
「ニコチャン先輩に続いての年長ですし、中学の時キャプテンだったってハイジさんから……さすがにダメですよね」
「ダメっていうか──……ダメだね」
オブラートへの内包を試みたようだが、さすがに突発的な依頼には丁寧な対応をしかねたらしい。「ダメなんじゃねえか」ニコチャンが呆れたように告げた。
「じゃあ、走。どう?」
神童がぼんやりと後方に佇む後輩へ呼びかける。
「おい、俺は? 順当にいけば次は俺だろ。つーか、有村さんの前に一旦俺だろ」
「ええ、キングさん絶対にいやがるじゃないですか」
「だとしてもお願いだけはされてえだろ。お願いされて断る。そういう先輩らしい一面を見せてえだろ」
「……少しも尊敬できない」双子が目配せし合うのと同時に、
「……俺はいいですけど──俺、優しくないかもしれませんよ」
皆を見回した走が、最後に後ろ髪を引かれたかのようにアパートの中へ視線をやった。

「……いいでしょう、ハイジさんと同じにしなくても」
王子は荒い息に、隣を行く青年への文句をひそませる。
「放っておくとどんどん遅れるでしょう。皆のペースが上がってきているのに、その努力が無駄になるんです──王子さんのせいで。ふざけてないでちゃんと向き合ってください」
走の言葉にはいつだって無駄な要素がない。省いて、省いて、最小限の重さでボールが投げられる。常に世界を一人称で見ている。一個体として社会を生きている以上は王子だってそうだが、彼よりはもう少し客観的な物事の見方を身につけているつもりであった。三人称視点での俯瞰能力に特に優れていると思われる神童を、走も見習って欲しいものだ。
彼の言うことは一論としては正しいのかもしれない。けれど、彼の視点で流れる世界は、王子が見ている世界と違う色をしている。今の心拍数が、二者間で全く異なるように。
王子はぜえぜえと肩で呼吸を繰り返した。
「……きみ、いつから速かったの?」
「え?」
「子どもの時から? ……だよね。天才だから」
「そんなこと」
「──じゃあ、僕の速度で話してよ」
王子は汗ばんだ額に張り付く髪の毛を払った。
瞳の中に、目を見開いた走が映る。正面に望む彼は、いつだって仏頂面だったから気が付かなかった。
──この青年はいつも、こんな子どもみたいな顔をしていたのか。

朝のジョギングを終えた後も、走は永遠に王子の後をついて回った。姑のように「なんで帰ってすぐ漫画読むんですか。着替えが先です」いちいち事細かな指示を出してくる。
「今日発売の雑誌は今日読まないと」
王子が汗ばんだジーンズのまま階段を降りると、「逃げません、漫画は。着替えて」と、またしても一切の余白がない言葉が飛んでくる。
「鮮度が命なの!」
思わず振り向き大声を上げた王子は、「はあ?」と疑問符をこぼす走の背後で、玄関の引き戸が勢いよく開かれるのを目の当たりにした。
「──その通り! 鮮度が命!」
そこにいるのは、大きな段ボールを抱えた葉菜子である。
「ハイジさんが倒れたって聞いて。差し入れ持ってきました!」
瞬間、俊敏な動きで食堂から飛び出した双子たちが、走と王子を追い越し、少女の元へ走っていく。
「ハナちゃん学校はいいの⁈ 体育祭の準備は?」
「でも、ちょうどいいところに!」
「会いたかった!」
いきなり手を握られ、「え、あ」と、顔を赤らめる葉菜子は、
「──料理できる?」
との質問に、一拍置き小首を傾げた。

「──そうなんだ! ハナちゃんが朝ごはんを」
はしゃぐニラのリードを持ち直したなまえが「さすがだねえ」と相槌を打つ。
朝練終了後、教授との面談のために急ぎ研究室へ向かった彼女は、葉菜子がやってきたこと自体を知らずにいた。
王子が午後の授業を終え竹青荘に戻ったところを、ちょうど研究室からUターンしてきたなまえに捕まったのは数十分前。くだんの件から彼女からの誘いを断る術を持たない彼は、本練習開始までの時間を使って、夕飯の買い出しと飼い犬の散歩へ赴くことになった。
そもそも少女が差し入れを持ってきた発端は、なまえから八百勝の主人──つまり葉菜子の父に、清瀬が倒れたという情報を共有したことであったようだ。彼は、日頃から竹青荘の住人たちを目にかけてくれている。お得意の清瀬の話が、お気に入りのなまえから入ったとあって、すぐさま行動に出たらしい。
朝食の話題を彼女へ持ちかけた王子は、竹青荘を襲った惨劇を思い返し、「……ある意味さすがでしたよ」とつとつと漏らした。
顔を真っ青にしてトイレの扉を叩く住人たち。食堂でエプロンを身につけた葉菜子が「ご、ごめんなさい! お口に合わなかったのかな……。たまに家で作る時は皆美味しいって。お父さんなんか泣きながら食べるんですけど」と不安そうに漏らしていた姿。走の隣に座りながら、少女の言葉と危険な色をした料理を無感情に咀嚼したこと。
それらの出来事を一斉に脳裏へ投影した王子は、「端的に表現するのであれば、有村さんの運転といい勝負でした」と告げる。
「誰にでも得意不得意はあるから……」なまえは気まずそうに頬をかく。
「それは……僕にとっての走ることですね」
「そうかなあ」
「そうですよ」
王子は「得意というよりも才能です。生まれつき持っていない人間というのはいるものなんですよ……」と呟く。
哀愁漂う発言に「うーん……」と視線を彷徨わせたなまえが、眼鏡のつるを押さえて話題の方向転換を試みる。
「そうだ──柏崎君、最近ルームランナーを導入したんでしょう? あれ、前に進む力はあんまり養われないから適度な頻度で使うようにしてね」
「それはどういう?」
「足元のベルトが勝手に後ろへ進むでしょう? 力的には上方向に矢印だけ、軽くジャンプするだけでバランスを維持できる仕組みなの。だから、ルームランナーの上での走り方に慣れすぎちゃうと、その場で足踏みする癖がついちゃう。もったいない」
なまえの説明は、陸上初心者である王子にもわかりやすかった。
「……そうなんですか。知らなかった」
「とは言っても、柏崎君は体力づくり目的だと思うから気にしすぎないで。やりすぎにだけ注意ってこと。あくまで念のため」
「以前から思っていましたけど、有村さんは物知りですよね。現役の時もきっと速かったんでしょう。僕の代わりに走ってくれたらよかったのに」
「わたしの専門は中距離だから」
なまえが口ごもる。王子は真面目な顔で「本気にしないでください」と返した。
「僕だって、そりゃあ今でも走るのはいやですよ。……でも、僕一人のせいでアオタケの皆やハイジさんの想いが潰れるくらいなら──……ほんのちょっとくらい走ってやってもいいと思えてきたんです」
「……そっか」
なまえが可笑しそうに告げた。
「おそらく、僕が漫画を手放せないように、彼らにとって走るっていうのは大事なことなのだろう、と。言霊の念珠で押さえつけられても、止められないことなんですよ」
王子は言葉を続ける。竹青荘の住人でも、選手でもない彼女にだからこそ、言える想いというのはあるような気がする。
彼自身にも不思議であったが、なまえの保つ距離感は居心地がよかった。否定せず、そういうものとして丸ごと存在を受け止めれてくれる寛容さ。
昨晩の飲み会で、陽気な双子から彼女が「神社の娘」なのだと聞いた。とっさに高校生が戦国時代へタイムスリップするファンタジーを想像した王子は、もしかするとこの女性は本当にそういう力を持っているのではないか、と考えてしまった。神通力や霊力といった類のそれ。ならば、やたらと心地よい声色の理由にも納得がいく。
が、どんな背景があれ、自身の特性が万人受けするものではないであろうと自覚している青年にとって、自分にありふれたタグをつけない彼女の存在はありがたく、竹青荘の面々と同じく貴重で、それが変わらない以上、王子も彼女の見方を変える理由はなかった。
「……まったく、不思議ですね」
「不思議?」
「──見ていてもらえるということは……。なんて言うんでしょうか。今日、はじめて彼に見られた気がしたんです。うざったいですけど、少し腹も立ちますけど、決していやではなかったんですよ」
王子の示す「彼」が誰なのかを察したなまえは、少しだけ口元を緩め、もう一度「……そっか」と告げた。

事前に検討したメニューとにらめっこし、スマートフォンにメモした食材リストを使いながら、買い物を終えた帰り道。夕方が近づくにつれ、主婦で混み始めた商店街を避けた裏通り──診療所の前に清瀬の姿があった。
午後診療を終えた入り口の前で、なまえのかかりつけ医と何やら話している。
「わざわざよかったのに」
「いえ、どうもありがとうございました」
会話を盗み聞くに、昨晩のお礼へやって来たようだ。
「──……おお、有村さん。清瀬君はできる男だな」
見晴らしのいい通りには電柱やポスト程度しか体を隠せる場所はない。清瀬の匂いを察知したニラが元気に吠えたことであっさり見つかってしまったなまえと王子は、「いやいや、そんな」と謙遜する青年が、どのようにあの包囲を脱出したのかで頭がいっぱいである。
朝のジョギング後、そうっと清瀬の部屋をのぞいた住人たちは、まだ彼が深い眠りに落ちていることを確認し、改めて扉の内側へ「絶対安静」の貼り紙を配置した。
腹を空かせているであろう清瀬のため、窓際のローテーブルへお粥、ふりかけ、マヨネーズを準備したのは誰だっただろうか。おそらくキングである。神童の提案で寄せ書きした色紙、ムサが持ってきた魔除けのお面もあわせて鎮座させられている。
その後、双子が脱出対策は万全に整えたと胸を張っていたはずだった。清瀬の部屋の前には皆が持ち寄った物品が段ボールに入れて重ねられ、鍵の代わりにされていたのだ。ちょっとやそっとの衝撃で、あの扉を開けることはできない。
「……もしかして窓?」なまえが二分間ミステリーをあっさり解決する。
王子が「一階というのが大きな盲点でしたね」と返す横で、医者と清瀬はにこやかにやりとりを継続している。
「そうそう。昨日、有村さんからいきなり電話があった時は驚いたもんだよ。そりゃもうすごい剣幕で」
「へえ。それはそれは」
「四十度超えの高熱出しても、体のどこがどう痛くて、どういう状態かってすごく具体的に説明するのに。昨日はもうしっちゃかめっちゃかで。有村さんでも取り乱すことあるんだねえ。清瀬君が自分の身体をここまでいじめ抜いたってところを除くと、一番驚いたのはそこ」
「わたしの話はいいですって。誰得ですか!」
清瀬の瞳が悪戯な色を帯びたのを見逃さず、なまえが割り入る。
「残念。じゃあ、別の機会にまた」
「日を改めなくていいってば!」
清瀬はすっかり通常運転である。この調子であれば今晩にも復帰してきそうな勢いだ。
伸びはじめた清瀬となまえの影へ視線を落とした王子は、「……痴話喧嘩はいいですよ」とぼやいた。

その晩、夕食を終えた後、王子の部屋を意外な人物が訪ねてきた。
「……だから、おすすめの漫画貸してもらえないかと──ちがっ! 何もないから……俺の部屋。たまには、その……」
──走である。
朝ぶりに正面からその顔を見つめる。なんて表情をしているのだろう。思えば、こうして走と陸上の関わらないところで向き合うのははじめてである。
清瀬の号令で走る時、王子はいつも遥か彼方にある走の背中を見ていた。いつこちらを振り返るのか。そんな期待を片隅に薄らと抱えて。
しかし、もしかしたらそれは、彼にとっても同様であったのかもしれない。
「……恋愛ものでいい?」
答えると、走はどこかほっとした面持ちになった。
あいうえお順に積み上がる漫画から、なまえにも紹介した少女漫画を抜き出す。文庫サイズで二巻完結のため、初心者にもとっつきやすいだろう。
「読み終わったらまた返しにきなさい」
本を手渡し、走がノックするまで乗っていたルームランナー上へ戻る。足を前へ送りながら、両手を前に突き出し、まっすぐ正面の漫画を読む王子へ、「すげえ器用ですね」と走が声をかけた。
「そう? でもブレないようにするのが大変で。この間有村さんが音読を試してくれたけれど、やはり作者の魂が込められた原稿を直接見られないというのは致命的な──」
「王子さん──それですよ!」
──瞬間。
走の瞳が、夜空を滑り落ちる流星のように瞬いた。

走の告げた「それ」の具体策がわかったのは、翌日朝。走は大真面目な顔で、開いた漫画を王子の前に掲げた。さすがの王子も「バカにしてるでしょう」と冷ややかに告げる。しかし、走からは「いいえ」とさらに大真面目なトーンの声が返ってくる。
「え、そのまま走る気?」
「危ないですよ」
神童、ムサが後ろ向きの体勢で進むことになる走を案じた。走は、「大丈夫です。ちょっと試すだけなんで」と、庭内で軽くシミュレーションをする。
「なら、俺が先導しよう」
「じゃあわたしが後ろにつくね」
朝のジョギングに復帰した清瀬、本日も葉菜子に代わるなまえがサポートを申し出る。
三人に囲まれながら訳もわからぬまま出発させられた王子は、走がやたらと上擦った響きで、
「そう、そうですよ。王子さん! 王子さんって漫画読む時、基本下向きっぱなしじゃないですか。でも、ルームランナーに乗っている時は、漫画が前にあるから自然と視線が前に行くんですよ。だからただ走っている時よりも背筋が伸びて、重心が前に向かうんです!」
と嬉しそうにしているのを見て、彼の行動意図を察した。どこまで行っても言葉の足りない後輩である。
「ハイジさん。いいですよね? このペース」
「かもな」
前方確認に努める清瀬の表情は王子にわからないが、明らかに声が笑っている。
「じゃあ、ちゃんとページもめくってくれる? ……それと、有村さんにお願いが──」
彼女が手首に巻いている予備のヘアゴムを譲り受けた王子は、長い前髪を縛って額を出した。後ろ髪は、気を利かせたなまえがねじってまとめてくれる。首筋にすうっと風が通る。
「すごいですよ! 王子さん。全然違う──全然違います!」
「こうすると……見えるものだね、前が──」
「はい!」
王子は、これまでのおよそ二ヶ月、目にかかる髪のフィルターを通し、ぼんやりと走や竹青荘の住人たちが走る世界を見ていた。こうして改めると、今まで何を目にしていたのだろうという気分に襲われる。
ふと気がつけば、走の持つ濡烏色のうつくしい瞳が、今この瞬間は王子だけを見つめていた。
最後尾の四人が河川敷に到着した後も、王子に対する走のフォーム指導は続行される。
「目の前に漫画があることだけイメージして走ってみてください。王子さんの腕は走る時も漫画を読む位置で固定されてしまっているんです。俺たちは短距離選手じゃないので無理に大きく腕を振る必要はありません──ただ、固定したままは改善したい」
シドニーオリンピックのマラソンで金メダルを獲得した高橋尚子選手も腕をほとんど振らないことで有名であった。長距離において重要とされるのは、肩が下半身と連動していることである。
それを理解している走は、王子の両手に漫画を一冊ずつ持たせて重しとした。
「お、なんかそれっぽくなってきたんじゃねえ?」再度走り出した王子を見ながら、キングが歓声をあげる。
「早く部屋に帰って読みたいなあ。そういう気持ちで」
「……早く部屋に帰って読みたいなあ」
「そう、いいですよ。その調子──ああ、早く帰って読みたいなあ──はい」
「ああ、早く帰って読みたいなあ!」双子が、投げやり調子に叫ぶ王子と一緒にレスポンスを返す。ミュージックフェスを思わせる光景であるが、いかんせん台詞が実用的すぎる。
下級生たちが真面目に取り組む様子に、なぜか込み上げてくるおかしさ。色でたとえれば、優しく愛おしいパステルカラーになるだろう。唇を引き結んでそれに堪えるニコチャンを、なまえが覗き込む。
「平田さん、血色戻りましたね」
「ああ? あー、食ってるよ。ハイジに余計な手間かけさせたくねえし。有村ちゃんにも気を遣わせたくねえし?」
「ありがとうございます」
はにかむなまえの隣。走と王子を見守っていた清瀬が、続けて「どうも」と笑う。
ニコチャンは「本当、いちいち見てやがんなあ」芝生を往復する王子に視線をやりながらぼやいた。
「ハイジよう。あいつらは? いつでも手出せただろうに。こうなることを見越して野放しにしてたのか?」
「まさか。いざとなったら直すつもりでいましたよ──ただ、そうやって覚えた走りが本当に王子のものになるとは思えなくて……。まさに怪我の功名です」
「なるほどなあ」
ニコチャンは多摩川の方向から吹く風に目を細めた。
「怪我といえば有村ちゃんは?」
「わたしですか?」
「気づいてねえとでも思ったのかよ。手のこと」
「あ、いや──」
なまえは、とっさに左腕を後ろへ隠そうとする。が、それよりも早く清瀬が手首を捕まえた。指先の付け根あたりまで伸ばされている薄手のカーディガンを、肘まで下ろす。
朝の光にさらされた彼女の手のひら。ギリギリ水膨れにはなっていないものの、いたるところがまだらに赤くなり、熱を持って腫れている。逆側の手のひらと比べれば、その症状は一目瞭然だ。
「どうしたんですか、これ」清瀬がわずかに声色をかたくする。
なまえはすがるようにニコチャンを見た後、助け舟が出ないことを理解した。仕方なく「……鍋が」と告げる。それだけで清瀬は全てを察したらしい。
深いため息をつき、「……すみません」そっとなまえの傷を指先でなぞる。
「でも、せめて包帯くらいちゃんと巻いてくださいよ。自転車のハンドルで擦れませんでしたか。あれもだいぶ年季が入っているので」
「……それはそうなんだけど、包帯なんてしたら誰か気がついちゃうかもしれないし。ただでさえ旗持ちが大変な時に」
清瀬は眉根を寄せ、口をつぐむ。言いたいことがあるようだが、やはり倒れた時にフォローされたことが躊躇いを生んでいるのか、いまいちはっきりとしない。
「ごめんな。不便だろ」清瀬の無言を見計らい、ニコチャンも頭を下げる。
「皆さんに謝らなきゃいけないのはわたしの方。あの時、全員がハイジ君のこと心配してただろうに、焦って周りが見えてませんでした。この火傷はきっと、それの天罰的なやつですから」
「罰って、んな物騒な……つーか、もしかして有村ちゃん、ずっとそんなこと気にしてたのか」
ニコチャンが目を丸くし、「俺たちが毎日どんだけ迷惑かけてると思ってんだ。キリねえぞ」続ける。
あの場で彼女の迅速な指示がなければ、清瀬の診断結果は翌日朝に持ち越されていたかもしれない。すれば、夜を通して住人たちの気が休まることはなかっただろう。なまえの判断と行動が、住人たちへの影響を最小限にしてくれたのだ。
「逆に頼むぜ。謝ってなんかくれるなよ。恩人の有村ちゃんにそんな顔されちゃあ、俺たちどうすればいいのかわからねえし」
ニコチャンの気遣いを受けてなお、なまえの表情は憂いを拭いきれずにいる。
「──……『きみがいないと俺は無茶をするぞ』って言ってたくせに。わたしがいたって無茶するじゃない。……驚いたし、心配したし、悔しいし、ムカつくし、凹む。約束してたのに──見てるのに。ハイジ君のこと」
清瀬はバツの悪い表情を浮かべたまま押し黙った。
二人を交互に見つめたニコチャンは、そこでようやく、清瀬が倒れてからずっと、なまえが拗ねていたのだと気がついた。いやはや不器用にも程がある。
先日、青年は「あの人に見ていてほしい」と告げた。こうして彼女はしっかりと彼を見つめている。清瀬の希望は進行形でちゃんと叶っている。
とある漫画家は、登場人物を描くうえで最も大切な要素を目だとした。中国史を扱う人気漫画の中、主人公の黒目をほんの少し大きくしただけで速報順位が変動した話は有名である。目は口ほどに物を言う、とはよくできた慣用句だ。
ニコチャンは、清瀬に向けられたなまえの眼差しに、むず痒い気持ちを覚えた。
「──だから、これからは外部の手段もガンガン使わせてもらいます。見守る眼はいくつあってもいいですから。これからは一ヶ月に一回、必ず貧血検査を受けてくださいね。診療所に話は通してますし、お金は大家さんが出してくれるって。保険適用になるので料金も微々たるものだとか。変に牽制せず、全員しっかり診てもらうこと」
「ああ⁈ あの大家に金出させるとか、有村ちゃんどんな交渉したんだよ」
「交渉ってほどでも……。祖父に仕込まれたのでそこそこ打てますよってお伝えしただけです」
なまえが碁石を人差し指と中指で挟む仕草をする。想像以上に、この女性は抜け目がないようだ。
いまだに続く、王子とそれに続く輪唱を聞きながらニコチャンはおかしそうに肩をすくめた。清瀬が彼女に勝てないのもよくわかる。

真っ青なタータンの上、住人たちの声援が響き渡る。
記録会にて、トップを独走する走はラスト一周へと入った。この時点ですでに十三分半。彼のスピードがあれば、十四分半切りも十分狙えるペースだ。
すでに先頭から何周も遅れている王子は、鳴り響く鐘聞きながら必死に足を前に運ぶ。辛い。苦しい。巣食う負の感情が重さへ変わり、耐えかねた頭が少しずつ下へ傾いていく。
ぐらぐら揺れる自身の靴紐に酔いかけていると、背後から「王子さーん! 前ー!」聞き慣れた誰かの声がした。
「──前向いてください! 前!」
なんと、それは走であった。王子に追いついた走は、一気にペースを落とし王子と並走をはじめる。四レーンで紙コップを手渡す給水係が、「おい、なんで減速してんだ?」、「せっかくいいタイム出せそうだったのに」と、不可解さに顔を見合わせる。
──まったく、何をしているんだ。この後輩は。
「王子さん!」外野の声など全く気にせず、仲間への注意を続ける走に、王子はカラカラの喉で叫ぶ。
「……向いてる。向いてるだろ。本当……うるさいなあ! ……僕のことは大丈夫だから──行きなよ!」
走が王子の部屋をはじめて訪ねてきてから──今日まで。走は毎日ほぼ同じ時間に扉をノックした。
風呂に入った後の王子のストレッチを手伝い、ルームランナーで走る際は腕振り矯正を兼ねて冊子を掲げ、それを終えたら隣で一緒に漫画を読む。同じペースで。同じ速度で。ページをめくる。部屋の温度がわずかに上がったような、そんな気配とともに。感想など言い合わなくても彼の気持ちが王子にはわかってしまった。
先輩の追い出しを受け、ラスト二〇〇メートルから再度スパートをかけた走は、ゴールするなり電光掲示板には目もくれず後ろを振り返る。
「王子さーん!」
「おい……これいけんだろ」
「ああいける。いけるぞ王子ー!」
「王子さーん!」
走に続き、本日未出走のサポート組がそろって声を上げる。
皆が自分を見ていた。選手として走っている住人たちでさえ、たびたび王子に視線をやる。意地でも止まることなんてできない。
残された数周を懸命に走り抜き、到達したゴールで王子は崩れ落ちる。
「──王子さん! 切った! 切りましたよ!」走が駆け寄り、王子の肩に触れる。
「触らないで! まだまだなんだから!」
「はい。まだまだ! まだまだいけます!」
表示されたタイムは二十九分二十六秒二六──王子史上初の三十分切りである。
「……あれの何がそんなによかったんだ?」周囲の者が呟くが、王子を高々と胴上げはじめた面々にその声は届かなかった。
皆の荷物を預かり、その姿を少し離れた場所から見ているなまえを示し、汗ばんだユニフォーム姿でジョージが笑う。
「この間のハイジさんじゃないけどさ、園子さんすごかったよな。俺つい笑っちゃったよ──無茶をするなー! でも無理はしろー! って」
「……あの人は、紺野夜貴子にはなれませんよ」
ようやく下ろされた王子が、ふらふらとよろめきながら苦笑いを浮かべた。
それは、王子が大会のたびに持参する漫画、「なみだの陸上部」のキャラクターを揶揄した言葉である。陸上部のマネージャーをつとめる少女の名。冷静かつ容姿端麗、そして天性の運動音痴。主人公と時にぶつかりながらも、献身的に彼女を応援し続ける。
が、同じく陸上部のサポートをつとめるなまえと夜貴子は、どこか相容れない。おそらくは根本的な部分が。きっとそれは、なまえを連れてきた清瀬自身が誰よりも知っているに違いない。
栗色の髪を麗らかな風に流している彼女へ、「──……むしろ、あの人こそ小泉るう子です」王子は告げた。