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東体大の学生とこのまま今後もかち合うのは得策でないと判断した清瀬は、午後の練習を終えてからバンに乗り込み、帰路に着く前のなまえと二人で周辺探索に出かけた。
その前段、どちらが運転するか決めるじゃんけんの白熱具合はなかなかで、住人たちも固唾を飲んで見守ったものだった。双子に至っては、夕飯のおかずをチップに賭けまではじめる始末である。
結果、いくつか候補地が見つかり、以降で湖畔周辺を用いるのは、基本的に朝晩のジョギングのみの仕切りとなった。
「高地トレーニングだ! 景色も楽しめる」
特に清瀬が気に入ったのは白樺湖から山をふたつ超えた場所に設けられたハイキングコースである。標高が高いエリアの中でもさらに小高い丘の上へ整地されたそこは、彼の宣言通り非常に見晴らしがよかった。
さっそく合宿三日目の午前、バンに詰められて移動した面々は、細かなアップダウンの続く道のりを眺めた。舗装のされていないコースには、刻んだ木片のチップが敷き詰められている。
「優しそうだ。……この地面優しそうじゃないですか、膝に」かがみ込んだ王子が、木片をすくい取りながらニコチャンへ話しかける。
一方、清瀬の立てたメニューはまったく優しくない。
三キロ強のコースを決められたペースで六周するよう告げられた瞬間、走を除く全員が「覚悟はしていたが、ここまでとは……」という表情を浮かべた。
普段練習を行っている場所よりも酸素濃度が低く、同じスピードでも心肺に負荷がかかりやすい。キングは「地獄めぐりだ」と、青空広がる爽やかな原っぱに向けて呟く。
住人たちの苦い顔を「作案冥利に尽きる」とにこやかに流した清瀬は、なまえと見つけたコースを高地の平坦、高地のクロカン、ロード、傾斜のきつい山道の四種へ分類し、あらかじめ立てていたメニューを振り分けていった。午前、午後でも練習場所を変え、選手たちが飽きのこないよう、また様々な部位を適切に鍛えられるよう、微調整を繰り返す。
五日ほどそれらのルーティンを繰り返した頃、住人たちはすっかりこのペンション暮らしに慣れつつあった。もともと共同生活をしてきた面々だ。今さら隠すものもない。
日の沈む湖畔を横目にペンションへ戻ると、建物の脇に見覚えのある軽トラックが停車していた。荷台から段ボールを運び出す葉菜子が、「おーい!」と笑顔を弾ませる。
「あ、ハナちゃんだ!」
「肉が見えますよ! あの袋の中にお肉がたくさん!」
住人たちの表情が一斉に華やぐ。
「食材の補充ですー! 今日はご馳走を作りますねー!」
「ちょっと待って!」
「大丈夫だよ、ハナちゃん!」
来客の嬉しさと、彼女に厨房を任せるわけにはいかないという責任感で、双子、ムサ、神童、キングが飛び出した。練習後であるのが嘘のようなダッシュを見せ、葉菜子を取り囲んで歓迎の言葉を述べる。
「おお! 帰ってきたか! お前らも手伝え!」八百勝の店主がペンションの中から顔を出し、荷物運搬を指示する。
いつも通り反応に遅れた走が、はっとして足を速めようとした瞬間、彼の肩を並走するユキが叩いた。
「──風呂! 今日お前の当番だからな。考えろよ!」
「──野郎の搾り汁の後だぞ、ってさ」ユキの斜め後ろで、ニコチャンは含み笑いを浮かべた。
噛み砕かれ、ようやくその意図を察した走は、こくこくと頷く。葉菜子の姿を目視しすぐさま忠告を持ちかけるあたり、ユキが持ち合わせる女心の把握力というか、気配りの細やかさには恐れ入る。これらはクラブでの立ち回りから学んだのだろうか。彼の場合は元の性質が大きい気もするが。
偉大なる先輩への敬意はひとまず置いておき──数時間後、食卓は葉菜子の父が手がけた多様な品々で鮮やかに彩られた。八百勝の名の恥じず各メニューへ新鮮な野菜がふんだんに用いられ、食べ盛りの運動部向けにしっかりとボリュームもある。
中華鍋を腕の延長のように扱いながら、「まだまだあるぞ! 俺の特製シャキシャキレバニラ! 野菜マシマシ!」と、店主は声を張り上げた。住人たちは「いただきまーす!」と声を揃え、テーブルの上をブルドーザーの勢いで攫っていく。
特に竹青荘の中でも最若手である双子の食べっぷりに、「ちゃんと噛めよ」と呆れながら、ニコチャンは同じ一年生──走の漂わせる雰囲気が終始気になっていた。先刻ユキからの忠告へ応えたように、いっときであれば普通に会話はできる。
しかし、常に薄ぼんやりしており、目の前に置いてあるものとは別、どこか遠くにある事柄を考え続けているようだ。二日目に東体大の面々とやり合ってから、ずっとこの調子である。もちろんメニューの設定タイムは律儀に守り、そのペースは誰よりも速い。肝心なのはそれ以外の日常生活である。
皆その場に居合わせたことからおおよその要因を理解している。そのため、彼を刺激しないようにあえて明るく努めてはいるのだが、葉菜子たちが到着して一気に和らいだ空気の中で、その落ち込みは目立っていた。視線の先には彩り豊かな料理があるものの、走がそれとは異なる何かを見ていることは容易に想像できる。
翌日の練習について話し合う際も、彼は上の空であった。これも五日前から見られる余波である。
「──走ってば! 二班に分かれるから、B班の仕切り頼むって!」ジョータが清瀬の指示を復唱し、「最近ぼんやりしすぎ!」とからかう。走は、気まずそうに視線を彷徨わせる。
「頼むぜ」ニコチャンは、双子に続いて後輩の背中を軽く叩いた。
──頼むから、あまり一人で抱え込もうとしてくれるな。
風呂を終えたニコチャンが、ベランダで夜風に当たっていると、キイと古い蝶番が軋む音とともに清瀬が顔を出した。首筋には銭湯タオルがかけられている。彼も先刻風呂から上がったようだ。その後ろには走の姿も続く。様子を見るに、どうやら先輩に引っ張ってこられたらしい。
「冷えるでしょう。牛乳。あっためました」
軽井沢は夏の昼間でも三十度を超えることが滅多になく、太陽が落ちれば十度あたりにまで一気に外気が下がる。半袖でうろつく走に対し、日々住人たちの体調を慮る清瀬が気を使うのは当然のことであった。
手渡されたマグカップに口をつければ、ほんのり蜂蜜の香りがする。こんな部分まで芸が細かい。あとで歯磨きすること、と子どものような注意を受けながら、ニコチャンは彼手製の液体をすする。
同様にマグカップをすする走の表情を盗み見ると、難しさの中に若干呆けた部分があった。心に渦巻く名前のない不安を、真っ白な甘みにじんわり紐解かれているのだろう。
「おお、星が──これを見ないのはもったいないなあ」
清瀬はマグカップをベランダの柵に置き、広がる景色を見渡す。ニコチャンもつられて空を見上げ、今さらながら天然のプラネタリウムに気がつく。走はニコチャン以上に驚いた表情である。後輩らしい。彼が、自分自身でいっぱいいっぱいになってしまった時、周りの出来事へ追いつかないことは今更言及の対象にもならなかった。
そんな後輩の瞳に映された光が、わずかに揺れ動いたことをニコチャンは見逃さない。少々演技の気が強くなってしまったが、「美味えわ、おかわり」とコップを揺らして、一度室内へと足を戻した。
二人きりにした背後。ドアの外から、走と清瀬の会話が聞こえる。
「……どこまで知ってるんですか。俺のこと」
「どこまで?」
「はじめてアオタケに泊まった次の日、朝には知ってましたよね。俺が──仙台城西高の出身だって。それって、つまり……──」
「お前ほどの選手なら、インターネットを辿ればある程度のことはわかるよ」
ドアの隙間から背中を覗く。清瀬はうつくしい星々へ視線をやったまま答えていた。
「二年の時点で全国クラスだったことも。三年の春にぷっつり記録が途切れることも──でも、そこまでだ。それ以上、何も詮索する必要はない」
「……これ以上、皆に迷惑をかけられません。止められないんです。自分の感情を。記者の人が話しかけてきた時、夢から覚めた気がしました。俺はどこまで逃げてもやっぱり俺なんだって。ハイジさん、俺──」
「──走。話すなら皆に話さないか」
それまでずっと一等星に向けられていた清瀬の眼差しが、走の姿を捉える。
「大丈夫──何があっても俺たちは俺たちだ」
「──……皆、に」
走が清瀬の言葉を繰り返した瞬間、
「あ! まだ起きてる」
リビングの奥から、濡れ髪にタオルを巻いた葉菜子が駆け寄ってきた。ニコチャンがベランダに出ようとした瞬間に出会したと思っているようだ。
ニコチャンの後ろから顔を出した少女へ、「多めにつくったんだ。ハナちゃんもどうぞ。コンロに鍋がある」と、マグカップをわずかに上げて清瀬は笑った。
「そうだ。ハナちゃん悪いね、最後にしてしまって。風呂、汚れてなかった?」
「全然! 洗い直してくれたんですよね」
「……まあ」走が目を逸らす。
「へえ。そういう気遣いが」
「できるんだよなあ」会話の隙に葉菜子のミルクを持って戻ってきたニコチャンがニヤニヤ口元を緩める。
「……ユキさんが、考えろって」
清瀬はその返答を受け、「先輩はいろいろ教えてくれるもんだ」とおかしそうに目を細めた。そのままいたずらな表情をつくると、「ところで──」会話を明後日の方向へ誘導する。
「走は彼女いるのか?」
「きゃー! 何それ! 聞きたい! 何それ!」
「そういや聞いたことねえなあ」
葉菜子が頬が紅潮させ、ニコチャンがポリポリと顎をかく。
「い、いるわけないじゃないですか!」思わぬ転換に走がたじろぐ。その顔からは、湿っぽい雰囲気が綺麗に吹き飛ばされている。
「そうか……。じゃあ、恋をしたことは?」
「なんですか急に! 今それ言う必要ありますか⁈」
一方、現役女子高生として得意テーマに走を引き摺り込んだ少女は、口角をきゅっと上げ、
「聞きたいです! 皆さんのそういう話。私、蔵原さんのこと、皆さんのこともっと知りたいんです!」
と続けた。
「皆の、だってさ」ニコチャンは「ちなみに、そういうお前はどうなんだ? ハイジ」と矛先を変える。
「王子が同じ学部だろ。ちょこちょこお前の噂を聞いてたって。最近は?」
「何も。そんな時間はないです。恋人の数倍手がかかる部員がいつも腹を空かせているのに」
清瀬はさらりと話題を押し戻した。こういう手腕で学部の女子を手籠にしていたに違いない。やたらと頑固な部分や万年ジャージ姿を抜きにして顔だけ見れば、同性からしてなかなかの見てくれなのだから。
ニコチャンは「ちぇ」と、肩をすくめてみせる。
「じゃあ、もうこの際だから聞くけどあれは? 合コンで席についた瞬間一目惚れして、会すっぽかして、まんまと付き合ったって。ソースは王子な。同じ学部だろ? 回ってんじゃねえの、噂が」
この手の話題に疎そうな走ですら、表情の中に少し興味の色を宿している。唇がわずかに動き「……異性間交友会?」と漏らした。おそらく合同コンパの言い換えであろう。後輩らしくない、随分とかたい言い回しをするものだ。
「尾鰭どころか背鰭までついている」清瀬は呆れた口調で戻した。
「さすがに俺もアホらしいとは思うけど。ただ、火のないとこには……ってな。その時の相手とか」
「相手も何も──その話、多分なまえ先輩が相手ですよ」
「ハイジさんとなまえさん⁈」
思わぬ場面で飛び出した高火力のエピソードへ、葉菜子は目を輝かせた。
「……言っておくが期待するようなことは何もないぞ。お互いに助っ人で合コンに参加した。一次会の途中で、なまえさんが中学時代の先輩だってわかった。だから、箱根駅伝を目指す計画に『付き合ってくれ』って誘った。それだけだ。以上、終了」
「……それだけ、ねえ」ニコチャンが一拍遅れ、間の抜けた相槌を打つ。
先日、彼女へ抱えている想いを吐露したのは、まさにその口ではなかったか。あの時の清瀬が特別だっただけで、以降はなまえからの言いつけを律儀に守り、過去に交際していたという事実や胃もたれする感情をひた隠しているのだとすれば。それはそれでいじらしいが。
ニコチャンの視線を察した清瀬は、
「……ただ、どんな苦しめられても、戒めても、叶わなくても──そんなこととは関係なく好きになってしまうときがある、というのはわかる」
と、観念したように付け足した。
「ハイジさんは──これまでにそういう経験があるんですか」走がぽつりと呟く。
「きみはないのか」
清瀬が逆に問いかけ、走は眉尻を下げ「……ないです」と絞り出す。
「そうか? たとえば走ることは? どんなに辛くても、いやな思いをしても、きみは走り続けているじゃないか」
「──……残酷だ」
ニコチャンが上空を眺み、ため息混じりに微笑む。
走のように、走るために生まれてきたような男が、その気持ちを恋に置き換えてしまったら。どうやっても逃れることができない感情に、一生をかけた報われなさを感じてしまう。ニコチャンでさえそういう時期を経験したのだから。
「たまには振り回されるのも悪くない。その相手が揺るぎないなにものかであればなおさらだ。あの北極星を見てみろ。いつまでも変わらずそこにあってくれるものは、迷ったときの道しるべになる」
清瀬の眼差しが、夏の大三角形を通り過ぎて、北の空へと向かう。北斗七星を伸ばした先にある、知られた名前のわりには存外ささやかな煌めき。周囲の星々はすべてポラリスの周りを回転し続けている。変わらない距離を、長い時間かけて。それは叶わないとわかっている片思いにも思えてしまう。
「──……なんかロマンチックです」
広がる満天を瞳に、葉菜子がそっと告げた。
*
天体観測から三日後の夜。八百勝の主人と入れ替わる格好で、なまえが大家と追加の食材を持ち、再度ペンションを訪れた。葉菜子の母が対応しているとはいえ、店をそう長期のスパンで空けてもいられない。
タイミング悪く、変わりやすい山の天候は荒れ、彼女らの移動日夕方は激しい雷雨。ぬかるんだ地面と車の相性は最悪で、道中は永遠に左右上下へ揺れたようだ。なまえの運転技術も相まり、大家は「あの世が見えた」とこぼしていた。
無料をいいことに牛乳を毎日二リットル飲み干していた双子が、ダウンを兼ねたジョギング中に腹を下し、公衆トイレにこもったため、この天気の中走が一人探しに出たのもハイライトである。
双子は下痢、迎えに行った走は気疲れで、すっかりテンションがおかしくなっており、走りながらウエアを脱ぎ捨てた。かろうじてパンツ一枚をまとった状態でペンションの玄関に突撃。軒先でびしょ濡れの服を絞って、その足で風呂場へ突撃しようとしたところ、一週間ぶりになまえと遭遇──彼女に膝をつかせた。
一年生三人の情けない姿に、ソファーへ腰掛けるその他住人たちと、やや顔を赤らめた葉菜子は笑い転げ、清瀬だけが静かに眉間を揉んでいたものだ。
通り雨をやり過ごし雲が切れると、周囲の埃がすべて洗い流され、一層澄んだ空気があたりを包む。先刻までが嘘のように静かな山脈。
清瀬は、サポート陣を含めた全員へ、リビングで輪になるよう指示を出した。飲み物やノートを持って集合した一同はフローリングに腰を下ろす。大家だけが少し離れたソファーに座り、若人たちを見守っている。
あたたかい清瀬の手に肩を叩かれ──一呼吸の後、とつとつと走が語り出す。
「──……俺は高校の陸上部が大嫌いでした。監督のやり方や、あの息苦しくてたまらない部内の空気が、反吐が出るほど嫌いだった」
走は、監督を殴るまでの経緯を、彼なりに懸命に噛み砕いて語った。
その中には今だから言える自省も含まれており、一年生のことは溜まりに溜まった鬱憤を晴らすための単なるきっかけにすぎなかったのだと唇を噛んだ。
あれは、自らが満足を得るためだけの行動だった。走も理解しているのだろう。自身の一瞬の行動のせいで、三年間積み上げてきたものを無駄にさせられた元チームメイトを思えば、その軽率さは悔やんでも悔やみきれない。
走の抱えていた過去に、住人たちは節目節目で「なるほどね」、「だからあんなに」とひそやかな相槌を打った。
「……あいつが恨むのも当然です。見えなくなるんです、俺──自分のことしか。それが、すごく怖い。またあんな事件を起こしてしまうんじゃないかって……。現に、また俺は自分を止められなくなるところだった」
怒りのまま榊の胸ぐらを掴んだ件を示し、走は俯く。
「……それを気にして、ずっと誰かと走るのを躊躇ってたわけか」キングが呟く。
彼ほどの選手が、名門校に進学せず、最初は陸上部にも入らずにいた理由がようやくわかり、全員が神妙な面持ちで首を縦に振った。
「……でも、理由があったわけでしょう? そうしなければならなかった。手を出すのはよくないけど。暴力だから」体育座りの姿勢をとる王子が、走のつむじをじいっと見つめる。
「そうです。だから──これ以上、皆に迷惑をかける前に……その、前に──」
「──迷惑ってどういうこと?」そこでふと、それまで唇を引き結んでいたなまえが手を挙げた。その表情は穏やかさのみで満ちており、それを見た葉菜子が安心したように微笑む。
「……なあ、もう走りはじめてんだよ。俺ら」サポート陣の切り込みへ、すぐさま続いたのはユキである。
「今さらさせねえぞ。一抜けなんて」キングが鼻の下を擦りながら、寝巻きがわりに着ていた講演会募集のTシャツへ触れる。
「そうだよ。むしろ知れてよかった。ありがとね。話してくれて」神童がまっすぐに走の顔を覗き込む。
「まあ、口より先に体が動くやつなのは大体わかってたしな」ジョータが首筋に両手をやり、にんまりと笑う。
「むしろそんなことを気にしてたのかって感じ」ジョージは、ここまでの話をそもそも大事だと認識していない。
「走。僕は走のことが大好きです──皆もですよね」ムサが自身の胸に手をやりながら、輪を形成する一同を見回した。
「あんまり面と向かって聞かれると……」
「恥ずかしい、っつーか……」
双子が顔を見合わせる。が、その言葉自体、ムサからの問いかけにイエスとすることの証明に他ならない。
「……走。はじめて会った時──あの時、俺はお前の走りに目を奪われた──感動した。こんなにも純粋な走りができる男がいるなんて。俺の知りたい答えをすでに知っているかもしれない。そう思った。走るとは何か──その答えを」
清瀬はまぶたを閉じたまま告げる。おそらく薄い皮膚の裏に、当時の情景を見ているに違いない。流星のように街並みを駆けていく、うつくしい影。
「──でも、答えはまだ見つかっていない。走れば走るほどその難しさを痛感している。お前もそうだろう?」
走は「はい」と素直にこぼした。清瀬の言う通り、走るとは何か、こうして走り続ける理由は何であるのか、いまだにわかっていなかった。けれど、竹青荘の住人たちと過ごす日々の中で、名前のない輪郭が見えてきたような気もしていた。そして、そんな走の思いは静かに全員へ伝播される。
「俺は一緒に走ってて楽しいよ」
「俺も!」
「いや、俺の方がジョータよりもっと楽しい!」
「なんだよ」
「思ってることを言ったの!」
「お前らは台無しにすんじゃねえよ」
ニコチャンに嗜められた双子は、口を揃えて「だって」と反論をする。しかし、二人のやりとりに吹き出した清瀬が、
「俺もだ。楽しいよ、皆と走るのが──心の底からな」
と、続けたため、押し問答はそのまま虚空に消えた。皆もつられて笑い出し、明るい響きが軽井沢の夜を照らす。
それらが収束するまでしばし間を置き、清瀬が再度走へ問いかける。
「──走。長距離選手に対する一番の褒め言葉、わかるか」
「……速い、ですか?」
「いや──強いだ」
「……強い?」王子が全員を代弁して小首を傾げる。
「速さだけで長い距離を戦い抜くことはできない。天候、コース、レース展開、体調、自分の精神状態。そういういろんな要素を、冷静に分析し、苦しい局面でも粘って身体を前に運び続ける。どんな日も、自分をもう一つ先まで追い込むトレーニングをする。長距離選手に必要なのは本当の意味での強さだ──俺たちは、『強い』と称されることを誉れにして、毎日走るんだ」
清瀬の言葉は、もがき、あがく走の足元へ、いつだって鮮やかな道を生み出してくれる。力強く手を取り、連れ出してくれる。迷いなく、先を照らし出す、彼のためだけになぞられる道筋。
走の思考を読み取ったかのように、清瀬は目を細めてみせる。
「この五カ月、きみの走りを見て、俺はますます確信した。きみには才能と適性がある。走。もっと自分を信じろ。焦らなくていい。強くなるには時間がかかる。終わりはないと言ってもいい。老人になってもジョギングやマラソンをする人がいるように、長距離は一生をかけて取り組むに値する競技なんだ」
「……でもハイジさん。老人に世界記録の更新はできないと思うよ」ジョージが口を挟む。
「お前なあ……今いいところだろうがよ」
ニコチャンが咎めるが、水を刺された本人は何かを考えて、軽やかに笑った。
「いや。ジョージが正しいよ。そうなんだ、俺もそう思っていた……故障するまでは」
清瀬は自身の右膝付近をそっとなぞる。彼が全員の集まる場で古傷に触れたのは、これがはじめてのこと。大家の太い眉がわずかに動く。
「……だが、お年寄りのランナーの方が、きみたちよりも『強い』ということはありうる。長距離の奥深いところはそこなんだよ。過去や評判が走るんじゃない。いまのきみ自身が走るんだ。惑わされるな、振り向くな。ゴールはまだまだ先だ。一緒に行こう──強くなろう、皆で」
清瀬の語りは深い井戸から汲み出した水のように透明で、汚れなく、全員の心を潤していく。それは、それぞれが心のどこかでずっと願っていた言葉でもあった。どうしようもないほどに熱く心臓が痺れ、おもむくまま走は改めて皆に深々と頭を下げた。
「……今まで、すみませんでした」
「何が? 謝る必要はない」清瀬の声色は飄々と変わりない。
「えっと……その、ありがとうございます──信じてくれて」
走の素直な返事へ一瞬驚いた様相を覗かせ、清瀬は含み笑いとともに「……どういたしまして」と戻した。
走は顔を上げ、月の光とあたたかな室内灯が照らす、その場の全員を見つめた。
「──出たいです、箱根駅伝に。皆と」
ニコチャンの脳裏に、清瀬が最初に告げた「この十人で頂点を目指そう。出よう、皆で。箱根駅伝に」との言葉が、色鮮やかに甦る。まさか、同じ台詞を走から聞くことになるなんて思わなかった。
「……本気ですから──これからは本気で目指しますから!」
走が台詞を継ぎ足した瞬間、住人たち、おもに下級生からはブーイングの嵐が巻き起こる。その光景に笑い出した清瀬は完全にツボに入ったようで、呼吸がしゃっくりになってしまう。ニコチャンはひいひいと涙目、対角ではユキも顔を伏せながら肩を震わせた。
「とっくにそうだと思ってたんだけど!」
「じゃあなんだったんだよ、今までは!」
双子に詰め寄られた走は、「あ、いや……だって俺、走る以外に得意なことないから」ついさっきまでの宣言はどこへ行ったのか、しどろもどろに言い訳を述べた。
「その程度のモチベーションなのに、よくあれだけ練習できるね」
「やれやれ」
「お前変態だよ」
「走ってすごいよね。すごすぎておかしい」
言われたい放題である。それでもこの青年は、この言われようですら、決していやではないのだろう。走が自然と笑い出し、ニコチャンはその様相にどうしようもなくむず痒い嬉しさを抱えた。
「さて、ついに走が本気になったところで、いつものやっておくか」
清瀬がおもむろに立ち上がり、住人たちは張り切ってそれに続く。
「メンバー全員、公認記録獲得──予選会出場、当然通過──目指すのは箱根の頂ただ一つ」
「往復して帰ってくるんですけどね。実際は」王子が告げ、室内は再度笑いに満たされた。
「道は途中だ。俺たちはもっともっと強くなれる」
皆の拳を重ねると、突き合わせた第二関節のあたりからじんわりと体温が伝わってくる、
「箱根の山はー?」
清瀬が呼びかけ、声を揃えた十人は「──天下の剣!」と木目の空に向けて人差し指を掲げる。
葉菜子、なまえ、大家の三人は、彼らの輪から一歩だけ足を引き、特等席でその姿を見つめている。今、この世界の中でもっとも尊いであろう光景に、そっと目を細めて。