Prayer 5章⑤ 清瀬灰二

 

一度崩れたものは、簡単にもとへは戻らない──清瀬灰二は知っている。
どんなにもどかしくても、辛くても。焦らず地道に修正していくしかない。ゴールの見えない、果てしない道のり。何度挫けそうになったか、その度に何度歯を食いしばったか。
合宿に発つ数週間前、定期的に足を運ぶ飯村整体院にて「やっぱり庇ってるね、反対側」と指摘を受けた。膝に残る古傷。メスの痕。走に「不安なのか」と尋ねられたのも、ちょうどその晩のこと。間がよいのか、悪いのか、うちで無理やり飲み下そうとしていた痛みを反芻させ、苦笑いしたものだ。
それでも、そんな不安や恐れと同じくらい、竹青荘の住人たちが、少しずつ、少しずつ、走るという行為について自分なりの答えを探そうともがくたび、その思いに触れるたび、清瀬は嬉しかった。彼らに「走りたい」と懇願された時、自然と笑みが溢れるのがわかった。
神童が雨の中を駆け出したグラウンド。王子に寄り添ったアパートの一室。ニコチャンを追いかけた並木道。キングが照れ隠した庭先。ジョータがはしゃいだ商店街。ジョージが飛び跳ねた河川敷。ムサが思い馳せるキャンパス、ユキから天邪鬼な助言を受けた銭湯。走が駆けていくトラック──光る走路。
まぶたの裏に浮かぶそれらは鮮明に、あたたかく清瀬の心をなぜる。彼らにはいつだって気づかされてばかりだった。

「──東京へ戻る前に山の頂まで行ってみないか?」
朝のジョギングを終えた住人たちを、清瀬はぐるりと見渡した。
およそ一ヶ月を過ごしたログハウス内は、ところどころにわずかな生活感を残すのみ。それすら来年の今頃には消え失せているのだろう。
おおかたの荷物はすでに八百勝の軽トラック、なまえが運転するレンタカーに詰め込まれ、すでにペンションを出発している。夏が終わる侘しさに佇むは、竹青荘の面々だけであった。
「まだトレーニングってか?」
キングのぼやきへ「じゃなくて──皆で景色を見よう。合宿の最後に」清瀬は穏やかに戻した。

クロスカントリーに用いるハイキングコースよりもさらに上。人気のない展望台に、新緑爽やかな風が抜ける。
「……景色なんて年取ってから楽しむもんだと思ってた」
「わかる」
「でも、なんかいいっすね」
「うん」
双子が顔を見合わせて、眼下の湖を見つめる。毎朝周回した道も、ここからだと随分小さく映るものだ。さらに高くから望めば、この夏に走った総距離でさえ片手でつまめる程度になるのだろう。
「慣れちゃいましたか、アウトドアに」
王子がすっかり板についてきた自身のスポーツウェアを、改めてまじまじ見直す。裾から覗く腕は、健康的に日焼けしている。
「そういうこと?」
神童が笑うと、澄み渡る空の青に目を細めていた走が、
「……皆で見てるからですよ」
と、告げた。
「──一人で見た景色なら、こんな気持ちにはならないと思います」
走の言葉に、ムサが「ですね」息を吸い込む。桜前線の訪れとともに、竹青荘へやってきた十人目は、この瞬間ひたすらに純粋な眼差しを持っていた。その視線の先には、一ヶ月の思い出にとどまらず、歩んできた道筋全てが映っているに違いない。
「……なんだ? こんな気持ちって。ずいぶん洒落た言い方するようになったな、おい」
「晴れ晴れした顔しやがって。なんかいいことでもあったのかよ」
「そうだ、こいつ。この前皆で酒盛りした時、うまく喋れるようになるって言ってなかったか?」
「あ、言ってた」
「ひとって成長するもんだな」
顔を見合わせ、ニコチャン、キング、双子が茶化しに入る。走が一拍遅れて顔を赤らめる。じゃれ合いを殊更嬉しそうに眺めていた清瀬は、再度山々へ目をやった。
「俺たちは同じ道を走る、れっきとした仲間だ──もう誰も一人じゃない」
「はい」走が答え、皆が「うん」、「おう」と思い思いに続く。
「戻ろう──ここからが本当の勝負だ」
強い風に、凛と声がのった。

後部座席の住人たちがそろって寝息を立てている。
夏合宿中に清瀬の運転技術が劇的に成長したことで、道を行くそれは今やタクシーのような快適さを誇っていた。それもこれも彼の研究熱心で凝り性な性格ゆえである。スムーズな変則は彼らの眠りを一切邪魔せず、バンの中を静寂が包む。助手席であることを意図し、先刻まで律儀に起きていたユキも睡魔には勝てなかったようで、窓側に頭を預けている。
往路で乗せていたニラは、復路で八百勝の主人が運転する軽トラックに詰められた。元気な鳴き声は遥か彼方。帰宅するまでお預けだ。
ナビの声を冷静に捉えながら、清瀬はハンドルを握り直す。
竹青荘へ向かう狭い車内、住民たちは思い思いに夢を見ているのだろう。
同じく清瀬も──否、彼に限って夢というのは語弊がある。頭の片隅によぎるそれは、彼が寛政大の学生となる前の──右脚に傷を抱える前の。二十年ばかりの人生スケールでは、昔々の古い出来事。
たとえるなら、うつくしい水底でこんこんと眠りにつく物語。押し花にするにも躊躇われる、清瀬の心の中で生き続けるひとつめ。
日の光を反射しきらめく湖を横目に、青年は脳裏で幼い時間を手繰り寄せる。

清瀬の実家には、特性上多くの人が出入りしていた。
それは彼にとって、物心の着いた時からの、至極当たり前の環境だった。周囲と異なる点は随所もあったが、それが生まれついた「日常」である清瀬は、誰かと比べるという思考にすらまず至らない。少年の日々は、家を出入りする年上の人間、地域との関わりで構成されていた。
特に、両親が忙しい時、祖父母が面倒を見てくれたことも相まって、近所の老年と清瀬は親しかった。彼らはこの地の伝承を、まだ小さい清瀬が楽しめるように噛み砕き、目の前で起こった奇跡として語り継いだ。
古事記に記された、因幡の白兎をきっかけとするオオクニヌシ神の英雄譚は、意外にもお茶目な彼の性質がとっつきやすく、さながら戦隊ヒーローのように清瀬の幼心をうった。中でも、国土を作った後、オオクニヌシ神が高天原の神々に国土を献上する代償に宮殿をつくらせたという建造エピソードの壮大さは少年の気に入りだった。
語り手の老人が、過去に講談師を務めたこともある口達者で、目を輝かせて話に聞きいる彼へ、いつも熱の入った一人劇を披露したことも大きい。宮殿を支えた柱の跡を「大きなけんけんぱんぱ」と清瀬がたとえたとき、老人は目元のしわを一層深めて面白がったものだ。
過去には杵築大社とも呼ばれ、尊ばれた出雲大社。大鳥居を背にして右手、四脚門を抜けた先の北島國造館。歴史的に由緒正しい「亀の尾の瀧」も、少年にかかれば秘密基地の一つである。
瀧の横にぽつんと浮かぶ背の高い小島。独特な雰囲気を醸し出すそれは、彼の幼心を大いにくすぐった。
能野川の上流から引かれる水は澄んでいる。滝から離れ、水の流れがやや穏やかになった場所には、優雅に旋回する鯉の姿もある。時折参拝客が「恋の恵栄」を購入し、住まう魚とのコミニュケーションに励んでいる。
池の形が「心」の字を形どっていることから、その水辺は「心字池」と呼ばれているらしい。小学二年生で習う漢字だというが、この池の存在から、清瀬は「心」という文字を音訓読みのどちらでも理解することができた。それは彼の小さな自慢の一つであった。
地元の小学校へ進学してから増えた友人。放課後に彼らと都合がつかないとき、一年生の足ではかなり長く感じるであろう距離を走ってやってきて、清瀬は境内という名の迷宮散策に勤しんだ。
──いつに変わらず、その日もそうなるはずだった。

三月下旬、春休みの半ば。めずらしく午前中ぐっすり寝てしまった清瀬が食堂に降りると、すでに父の姿はなかった。早朝から外に出たという。ただ、清瀬家でこれは当たり前のことで、むしろ父の姿が見える方が意外である。
少年はあくびをしながら冷蔵庫の前に足を運び、遅い朝食を取ることにした。栄養士の資格を持つ母手製、バランスのよい献立。少年のプレートにはすでに一人前が取り分けられ、ご丁寧にラップがかけられている。きっと気を遣った兄貴分が準備してくれたに違いない。心の中でお礼を告げながらそれらをもそもそ口へ運ぶ。
腹を満たした少年は、昼過ぎから夕食の仕込みに入る母を背に、軽い足取りで家を飛び出した。向かう先は一つ──秘密基地である。
一年前、彼が小学校へ進学する直前。清瀬と地域の老人たちとの架け橋にもなっていた祖父母は、イザナミのいる世界へ旅立った。一人の時間が増えた清瀬にとって、黄泉の国にも近い出雲大社は、気休めだとしてもどことなく温もりを感じる場所であったのだ。少年一人でも抱えられる程度の箱の中で、今も眠っている家族を思い出しながら、清瀬はいつもの通り四脚門をくぐる。
亀の尾の瀧付近、週末は多くの人で賑わう名所も、平日夕方ともなれば寂しい。中之島の小祠に祀られた少名毘古那神へ、時折ふらり訪れた人々が手を合わせる程度である。
小道をすたこらと駆け抜け、少年も小祠の前でお辞儀をし、手を合わせる。特に願うことなどないのだが、「今日も来たよ」と胸の内で挨拶をするのが習慣であった。答えがないことは百も承知。一方通行の手紙には気負いがない。
ジャンプをするように短い坂を下り、桟橋を模したような木製の足場にしゃがむ。うつくしい水面。鏡のように、半分透き通った自身の顔が映っている。ゆらゆらと揺れるそれは福笑いにも思えて、なんだか愉快だった。
どれくらいそうしていただろうか。ふと──清瀬は、自身の横で水面を眺める影に気がついた。
小さな身体に、黒紋付を纏う男児。おかっぱに切り揃えられた前髪の下、あどけない顔が、おそらく清瀬の真似をしているのだろう、熱心に池の底に視線をやっている。
周囲を見回すも、清瀬と男児以外に付近の人影は見当たらない。渡道の奥に、巫女の後ろ姿がチラついた程度である。
もしかするとこの男児は両親とはぐれ、ふらふらこんなところまで迷い込んだのではないだろうか。ならば極力早く親元へ返してあげなければ──清瀬の良心がチリリと音を鳴らす。
清瀬の心配も梅雨知らず、横の少年は池の中で見つけた鯉に夢中のようだ。のめり込むあまりに、少しずつ下駄を履いた足が縁ギリギリまで近づいていく。
「──きみ」
親切心だった。危ないよ、と一言声をかけ、そっと体勢を改めさせるだけでよかった──が、男児は、清瀬の声に驚いて顔を上げ、その反動で大人よりぐっと頭身の低い身体はバランスを崩した。
しゃがみ込んだ彼の身体が前方へ流れる。その先には、太陽光を反射している水面しかない。
──考える暇などなかった。
目に映るすべての挙動が、コマ送りで進んでいく。
清瀬は隣から無理やり腕を伸ばし、羽織の胸元に手の甲をぶつける形で、男児を背中側へ突き飛ばした。作用反作用の法則で、優しき少年──清瀬の体は心字池へ飲み込まれる。
高く上がる水しぶきとあわせ、おそらくは盛大に尻餅をついたであろう男児の泣き声が響き渡る。
そこまで広い池でもない。そこまで深い地点でもない。
しかし、春の雪解け、山から降りてきた清水は冷え込んでおり、急速に末端から熱を奪っていく。足がつかない。張り付く服が重い。腕をかくのがひどく億劫で、水面が遠い。
もしかすれば、目に見えていた以上にこの空間は遥か下へ広がり、イザナギが大岩で塞いだ黄泉平坂までも続いているのかもしれなかった。そこまで落ちてしまえば、このまま清瀬はもう誰にも会えずに──そんなわずかな、恐ろしい直感が脳裏をよぎる。
全身を這いずる恐怖が浮力を打ち消して、清瀬の足元へ重力だけを残し、すうっと、世界の音が遠くなる──そこで。
目を閉じ、もがく少年の腕を何かがつかんだ。ほんのりとあたたかいそれが、水上へと清瀬を引っ張り上げる。
清瀬が世界から姿を消したのはたったの十数秒に過ぎない。それでも、彼のこれまでの人生の中で最も長い時間に数えられた。
兄貴分たちの、細くも逞しい背が脳裏をよぎる。彼らは自ら進んでこの鍛錬を積んでいる。信じられない。自由に息のできない苦しさが、こんなにも辛いだなんて。
前髪から滴る水滴が、雨のようにまつ毛を濡らし、清瀬はまぶたを閉じたまま咳き込んだ。口腔に含んでしまったものを吐き出す。喉に苦いものが引っかかり、気持ち悪かった。鼻が痛い。肺は空気を求めているのに、つい生理的な発作で身体は喘いでしまう。清瀬はぎゅっと目を瞑り、自身を支えている何かへがむしゃらにしがみついた。

内を支配していた動転がおさまった頃、気がつけば清瀬の身体は陸地にあった。地面が水浸しであることから、先刻まで池の中にいたことに間違いはない。あの感覚は確かな現実だった。
青い空を薄ぼんやりと視認する。寝かされていた上半身をゆっくり起こす──と。
「──……きみ、大丈夫?」
見知らぬ少女が、清瀬の顔を覗き込んでいた。
桜の花びらをからませた栗色の髪は、水を含んでもなおゆるやかにウェーブを描いている。冷えて血の気の薄くなった肌は透けるように白い。ルーツのどこかに西洋を含むのだろうか、とも思わせる目鼻立ち。
「……え、と──」
混乱した清瀬が言葉に詰まる。少女は「あの子のこと、助けてあげたんでしょ?」と、彼の斜め後ろへ視線を促した。そこでは引き換えになった男児が、変わらず尻餅の姿勢で震えている。どうやら腰が抜けているようだ。
「ごめん。いきなりびっくりしたよね──でも、お兄ちゃんもお姉ちゃんもほら、平気だから!」
少女は声を張り、男児へ呼びかけた。彼が無事だったことで心持ちが一気に軽くなる。
池へ落ちる前に見えた唯一の人影は、この少女のものだったのか。なぜかその部分の思考だけは冷静だった。
遠目の後ろ姿だとわからなかったが、うら若い。清瀬よりは幾分か年上に見えるが、正式に大社へ仕えられる年齢とは到底思えない。おそらくは十歳未満のそのひと。
ただし、身に纏っているのは、ぐっしょり重そうな白衣と緋袴。神社と名のつく場所を訪れるたび、当たり前のように目にするオーソドックスな巫女服。間近で見ると腰紐にはしっかりとした芯が入っており、飾り糸が縫い込まれている。ほつれた裾が丁寧な手縫いで直されているあたり、いわゆるお遊戯で仕立てられたものではないらしい。人の手を渡り歩いた古い絵画と同じようなそれ。値段以上に価値のある代物に違いない。
この装束で躊躇いなく飛び込んだのだろうか。他の水辺に比べればいささか浅瀬かもしれないとはいえ、冬の気配を残す池へ──見知らぬ少年を助けるために。
「──助けてくれてありがとう。……でも、きみまでこんな……──すごく……すごく危なかったよ……──だって、誰も僕たちを見ていなかった」
清瀬が言葉を探しながら少女を見やると、彼女は不思議そうな表情を浮かべ──数秒後、青と茜が混じる空を瞳に映し、その境目で解けるように微笑んだ。
「……ここ、神様が住んでる場所なんだって」
おもむろに清瀬へ手を差し伸ばす。そのまっすぐさに押され、反射的に指を重ねる。立ち上がった彼女につられて少年も腰を上げる。
強い風が吹く。目を細める。淡い桜が舞う。
「──だからね、誰も見ていなくても、きっと神様が見てる。もし、神様が留守でも……──」

──わたしがきみを見ていたじゃない。

十五年前──二〇〇三年三月。
少年にとってその感情は、予期せず飛び込んだ冷水のように、激しい動機と甘やかな痺れをともなうものだった。七歳の清瀬灰二が、飛沫をあげながら心へ落ちた記憶。
その瞬間、彼女を形どった薄紅が、今もまぶたの裏で揺れている。