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目を開けると、木目の天井が飛び込んできた。
とりあえず上半身を起こすべし。すっかり習慣になった仕草で布団から這い出る。
ペンションの二階。竹青荘の住人たち、八百勝の主人、左官屋がすし詰めになって眠りを貪っている。カーテンで仕切られた向こうは女性陣の寝床。状況を理解しながら、だんだんと頭が冴えてきた。
時計を確認すると四時三十五分。普段から、朝食の仕込みで五時過ぎに起きることもままある清瀬にとってもやや早い時刻だが、二度寝をするほどでもない。
何より、夏合宿が今日で終わりだと思うと妙に名残惜しかった。
階段を降りたところで、窓の隙間から吹き込む風の涼しさに気がついた清瀬は、スウェットの上から一枚ジャージを羽織る。
電気をつけずとも日が差し込むリビングを一瞥し、浄水器の蛇口から水を注いで、渇いた喉を潤す。湧き水を利用したそれは、夏の真ん中にあってひんやりと冷たい。
室内を見渡すとカウンターテーブルの上には皆の練習日誌が置いてある。コップを片手に移動した清瀬は、それら冊子へ手を伸ばす。
──と、そこで。
画角が変わったことにより、清瀬の目はソファー上の人影を捉えた。その人物が限りなく背もたれへ体を寄せて横たわっていたため、一階に降りてきた時点では死角となり、気が付けなかったのだ。
耳を澄ますと小さな寝息も聞こえてくる。足音を忍ばせて近づき、上からそうっと覗き込む。そこには一人、膝を抱え込む格好で丸まっている。薄手のトレーナーに膝が半分見える丈のズボン。その人が寝巻きがわりにしている装いだった。長いまつ毛が穏やかな心音に合わせて微かに震える。
花火を終えた後、鍵を閉め忘れていたことによる不審者の侵入でなかったことにまず安堵である。フローリングへ敷かれたラグにあぐらをかいて、清瀬は再度その顔を覗き込んだ。きめ細かい肌にはシミひとつない。ふと、無意識に指先が彼女の頬に触れ、柔らかな弾力に押し返される。
多少の接触ならば起きる気配がないことを確認した清瀬は、その人の指先をすくった。手のひらに残る二ヶ月前の火傷痕をなぞり、ため息を吐く。あからさまに目立ちこそしないが、綺麗さっぱり元通りとはいかなかったようだ。皮膚がほんの少しだけ厚くなり、ザラついている。
長くて細い指。女性にしては骨ばっており、関節がやや太い。ネイルにも無頓着。健康的な色をした爪が、短く切り揃えられている。爪横が少しささくれているのは、研究室で行っている実験のためだろうか。最近の試料は砕いたガラスだと言っていた。扱ううちに、皮膚へ細かな傷もつくだろう。
左の薬指と小指それぞれの真下──丘の部分に経年のマメ。このひとはペットボトルやら瓶やらどんなに固く閉められた蓋でも、必ず自分の力だけで開けようとするのだ。蓋を固定する箇所が毎度擦れて、小さく皮剥けする。誰かに頼ることをしないから、いつまで経っても治らずだ。
中指には刃物と思わしき真新しい傷もある。これは昨夜の食事準備でできたものに違いない。
そういえば、過去に自身へ差し伸べられた小さな手のひら。あれも、どこかの指に絆創膏が巻かれていたような気がする。加えて、中学のあの時も。さらにあの時も。彼女の手はいつだって小さな怪我を携えている。それに気がついた人間は、一体どれほどいただろうか。清瀬だってきっと全ては知らないだろうに。
ひとつ鮮明になった記憶をたぐり寄せながら、青年はほんの少し頭を下げた。
あれは、なんてことのないただの放課後だった。
まだ清瀬が中学一年生だった秋。定期テスト直前、職員会議により部活が不可の木曜日。晴れとするにはやや雲が多い天候。足早に帰らされる生徒が多い中、顧問との話が長引いているなまえを、清瀬は手持ち無沙汰に校門前で待っていた。
この時間を利用し、来週に控える試験の対策を進めれば効率的だとはわかっている。それでも、心がそわそわと落ち着かず、ノートを開いたところで頭に入るわけないと容易に想像できた。
「何してんの」と、意味深に通り過ぎる同級生を適当にいなし、帰路に着く出雲第三中の学生の姿がほぼいなくなった頃合い。
「……ごめん!」
弾丸を思わせる勢いで、なまえが校舎から飛び出てくる。が、鍛えた心肺で息を切らせていないことが、本人的に不服だったらしい。
「ちゃんと走ってきたんだよ」駆け足で乱れたワンレンの髪にざっくり手櫛を通し、唇を尖らせた。
おかしなところで律儀な彼女の様へ笑い、連れ立って歩き出す。
学校を中心とした時、なまえは空港側、清瀬は大社側に住んでいるため、こうして並んで帰る機会などほとんどない。それこそ、今日のように部活の買い出しでもない限り。
「強化練習会の話ですよね。来週でしたっけ」
顧問と彼女が話し込んでいたであろう内容について、ふと少年が尋ねる。
「そう。例年通りに広島でやるって」
「遠いですね……」
「ね。電車だと五時間もかかるんだって。だから、先生の車で連れて行ってもらうことになったの」
その相談してたら時間が押しちゃって、と続けたなまえは、流れる仕草でスクールバッグを逆の肩へと背負い直した。
「髪の毛、挟んでます」
鞄の持ち手に、彼女の柔らかな栗色が挟まっているのに気がついた清瀬は告げる。立ち止まった彼女が思いの外引き抜くのに四苦八苦しているため、代わりに肩紐を持ち上げて払ってやる。カンガルーのキーホルダーがゆらゆらと揺れた。
「ありがと」
「どういたしまして」
なまえがバックを持ち替えたのは、清瀬が歩いている側面で荷物を抱えないためだ。あえて言葉にするほどでもない、些細な気遣いが嬉しかった。リュックを背負った少年は、先ほどよりも少しだけ彼女との距離を詰める。
毎日太陽の下を走っているにも関わらず、隣を行くなまえの横顔は健康的に白い。日に焼けても、赤くなって皮が剥け、すぐ戻ってしまう体質らしかった。鼻のてっぺんや頰を赤くして、ひりつきを訴えていた彼女を思い出す。綺麗な小麦色になる清瀬とはえらい違いである。
もしかしたら、休日は日傘を差しているのかもしれない。たとえば、彼女が気に入っているアップシューズと同じ、淡い紫のワンピースに、白いサンダルの装いで。なまえのためだけにつくられた優しい陰の中、こちらへ手を振ったり──。
彼女がむず痒そうに頰をかく。清瀬の熱烈な視線に気がついたようだ。少年は「すみません、つい」ととっさに顎を引いた。
清瀬がなまえを追いかけてきたことを、彼女自身は知らない。少年のことは、おそらく数いる後輩の中の一人としか思っていないだろう。脈絡なしにいきなり「覚えていますか」だなんて言い出せるはずもなかった。それこそ、あの池で改めて腰を落ち着けられでもしない限り。
「──あれ」
とはいえ、憧れの先輩と二人きりというまたとない時間。適当な話題を探して視線を彷徨わせた清瀬は、左手の人差し指に巻かれた絆創膏に気がつく。真新しいそれ。朝練の時にはなかったはずだ。
「どうしたんですか。痛くないですか?」
「あ、これ?」
よく見てるね、と驚いたなまえが、一拍置いて「これは調理実習」と告げる。
「お恥ずかしながら、猫の手に失敗しました」
少年の脳裏に、包丁に四苦八苦する先輩がよぎる。魚を捌くのが難しい、などであればわかるが、「猫の手に失敗」というのはそもそもどういうことか。あれに失敗という概念があるのだろうか。
「確か調理実習って班ごとですよね。包丁が苦手だったら別の係になればよかったのに。お米を炊くとか、タイムキーパーとか」
「んー、うちの班、先端恐怖症気味の子が三人いたの。多少の流血で済むなら、わたしがやった方がいいかなーって」
一班に恐怖症持ちが三人は、さすがに多すぎやしないか。極力楽なポジションを獲得したい理由づくりでは、と訝しんでしまう。もし本当ならば、それはそれで家庭科の先生の采配に文句を言った方がよい。
清瀬は息を吐いて、「血が出る前提はやめてください」と続けた。一人の体じゃないんですから、とも補足する。
彼女の専門は八〇〇メートルだが、二年の春から四×一〇〇メートルリレーのレギュラーでもある。手に大きな怪我をして、公式戦でバトンを落としたりしたら大惨事だ。
清瀬の大仰な言い回しになまえが吹き出したため、さらに「せっかく綺麗な……」と続けようとして、口ごもる。先刻の二の舞になりかねない。こちらから距離を詰めすぎて困らせるわけにはいかないのだ。
そんな清瀬の思惑を知る由もないなまえは、あいも変わらずくすくす笑っている。
「皆に迷惑をかけるのは避けなきゃだね。気をつけるよ。でも、これくらいなら全然。わたしの手、昔からゴツゴツしてるし関節も大きいんだ──多少の怪我ならウェルカムって感じ。可愛さよりも勲章的なね」
そんなことない、と清瀬は思う。
単なる造形であれば、なんらかの基準で美醜の判断がつくのかもしれないが、主観の「可愛い」に絞れば、少なくとも清瀬にとって、彼女に可愛くない部分などない。
栗色の髪も、天然パーマも。入学式でハーフの先輩がいると噂になった顔立ちも。清水のように澄んだ声も。部内で見せるリーダーシップも。世話焼きな部分も、神様のような優しさも。
今日だって、本来であれば一年生が引き受けるべき雑務を、「部のお財布を預かるのならば会計の自分が」と申し出てくれた。まだ受験の遠い一年にとって、テスト休みは部活のない貴重な自由時間。すんなり引き受けた清瀬を除き、下級生間で押し付け合いになっている事態を察したらしい。最後の三者面談の時期が近づき、三年である主将と副主将がピリピリしていることもわかっていた。彼らが一年を叱りつける前に助け舟を出してくれたのだ。
気の利いた言葉が出てこないのが歯痒い。ただ、そのどうしようもなさこそ、彼なりの答えに違いなかった。
*
そんな薄ぼんやりとした回想も束の間。
ふと、身じろぎしたなまえが、寝ぼけた様子で枕元に何かを探した。当然のように捕まったのは彼女の手のひらを弄んでいた清瀬の腕である。普段ならまだしも、完全に気を抜かしてきた青年は綺麗に上半身のバランスを崩す。
そのまま真横にいた清瀬の肩口に偶然乗せられた白い二の腕が、弱い力で彼を引く。突然の行動に流された清瀬は、なまえに覆い被さる格好となっていた。耳元で安らかな浅い寝息。「んー」と、やや間延びした覚醒の声が甘く響く。清瀬は一拍置いていたたまれない気持ちになったが、同じくらい寝起き特有の高い体温と柔らかな匂いが心地よかった。
もう少しだけ、ほんの少しだけ、こうしていたいと思うくらいに。
「あ……れ」
彼女の指が清瀬の後頭部にサワサワと触れる。刈り上げた部分をなぞり、そこで半覚醒のなまえは奇妙な違和感を覚えたらしい。
「パン……」
どんな夢を見ていたのだろうか。清瀬は気まずさとともに、
「すみません。パンじゃなくて」
と極力真面目に戻した。
「……ううん、パンじゃなくて……パンダが……」
眠たげな声で告げながら清瀬の首筋に頰が擦り付けられる。そこで──。
「──……は?」
突如、それまで湯気のように軽く揺蕩っていた声色が一変。温もりが遠ざかる。その温度差と初速に苦笑しながら、清瀬は「おはようございます」と告げた。
「おはよう……? じゃなくて! ごめん! これセクハラだよね? うわ……本当にごめん……。ええ、嘘ぉ……ちょっと待って、今自分に引いてる……ドン引き」
すっかり青ざめさたなまえが、目覚めもそこそこにソファーの上で正座の態勢をとる。彼女の寝顔を好き勝手見つめ、手のひらを弄んでいた清瀬は、逆に申し訳ない気持ちを抱える他ない。いつも通りを心がけて「気にしないでください」と返す。
なまえは自身の額に手を添え「ごめん」と再度謝罪した。鐘の音を思わせる、ほんのり金属質な優しい声。
「……それにしても、清瀬君早いね。おわ! まだ五時前! もしかして眠れなかったの? ダメだよ、今日は長時間運転もあるんだから」
「なまえ先輩こそ、なんでこんなところで……」
「電話」
彼女はあくびをしながら告げ、うーんと伸びをした。
「話しながら寝落ちしちゃったぽいの。出発までに携帯充電しておかないとなあ」
「へえ……。誰と?」声色が尖らないよう気をつけながら、清瀬は問いかける。隠しごとは昔から得意だ。
「誰って──後輩」
「男ですか?」
これはやや直球だったが、寝起きも影響し、なまえは清瀬の機微に気がつかないでいる。
「そう、研究室のね。うちの研究室、わたし入れて女学生は二人しかいないって前に話したじゃない? ひとつ下の代は全員男なの。徹夜で分析してたら機械に変なエラーが出ちゃったんだって。学科総出で買った高いやつだからかなり焦ってて、途中まで説明からもう何が何だか……まあ、結局シンプルな設定ミスだったからよかったよ。わりかしすぐ直って。最近は研究室ですれ違ってたからついでに進捗も聞いて、そのままつい」
両の手を合わせて頬に添えた。おやすみ、の意図らしい。
「なるほど。事情はわかりました。でも、やっぱりそんなところで寝てたら風邪引きますよ。今先輩に倒れられたら非常に困る」
「申し訳ない……。もうすぐ記録会ラッシュだし、サポートの人手はあればあるほどだもんね」
「そうじゃなくて。先輩のことが心配で、練習に身が入らなくなるってことです」
一拍置き、目の前の女性がやれやれと、その中にほん少しおかしみを潜め、肩を落とす。
「……そういうとこだぞ、きみは」
まるで、清瀬が走に告げるような言い草である。否、もしかしたら過去のなまえの言い回しが、いつの間にか清瀬自身へ写しとられていたのかもしれない。彼女の台詞はそれくらい自然で、不思議なくらいに懐かしかった。
先刻までの回想が、改めて青年の頭に流れ出す。
あの時は彼女の手の方が大きかった。今は清瀬の方が一回り大きい。比較すると、その薄さや華奢さ、細さで性差が一目瞭然である。
あの時はなまえの方が身長も高かった。彼女の目線あたりに少年の頭があった。今は清瀬の方がほんの少しだけ高い。
あの時、なまえはパステルの紫が好きだった。今はティファニーブルーが好きらしい。あのとき、なまえはカンガルーが好きだった。今はパンダが好きらしい。
あの時、エースであった彼女は、翌春主将になったその人は。もう二度とスパイクを履くことはないのだろう。
それでも、確かに変わらないものがあると、清瀬はわかっていた。当然、祈るまでもなく。