Prayer 5章間話 わたし

──呼吸をするのが億劫だ。
元とはいえ、陸上選手にあるまじき感情だろう。それでも、わずかな違和感すらかき消えるほど、目の前に広がる景色はうつくしく、瞬きさえ惜しく、ゆるやかに心を惚けさせる。
世界を覆い尽くす薄闇へ、密やかに抗う恒星。限られた一時に幕を開けた天体ショーは、山並みを見下ろしながらクライマックスへと駆け抜けていく。

寛政大学陸上競技部、夏合宿二日目。
東体大との接触が災いし、思うように練習を積めなかった一同はすっかり疲弊していた。肉体的にはもちろん、精神的な部分での負荷が大きい。ただ、最たる原因である走が誰よりも憔悴していることから、いつものように冗談で軽く片付けるのも躊躇われている。
そんな前段から、午後の練習から戻ってすぐ、清瀬となまえは小型バンへ乗り込んだ。目的は、翌日以降の練習場所を新たに見繕うこと。個々の基礎力固めを最重視している以上、このまま榊たちと毎度遭遇するのは得策でない。
とはいえ、見つけた場所を実際に練習で用いるのは住人なのだから、候補地探しには当然有志を募った。が、全員ことごとく首を横に振る。なまえは清瀬の残念な運転スキルに思いを馳せ、数秒後に自分も大して変わらないどころか彼よりも劣るレベルであったことに気がつき、そっと案内を取りやめた。疲れた部員をこれ以上苦しめるわけにもいくまい。
代わりとばかりに、留守の間で箱根駅伝の特集番組を見ておくよう促す。先日放映された日本テレビの力作。確か、清瀬が焼き増ししたDVDを持参していたはずだった。近年の名シーンがこれでもかと詰められているため、盛り下がったモチベーションを改めて上げるには最適だろう。
双子は「わざわざ軽井沢まで来て上映会はないでしょ」と文句を垂らしていたが、横から「いいんだぞ、ハイジたちとリアルな風景を楽しんできても」とユキが釘を刺したため、すぐに大人しくなった。それほどまでに同乗したくないらしい。

「──少しだけ寄り道しませんか」
ふと、青年が提案したのは、いくつかの練習候補地を見繕い、帰路に着く最中のこと。
二時間ほど前、拳一つでの仁義なき戦いが行われ、連続したあいこの末に清瀬が勝利を収めた。もちろん争っていたのはハンドル権である。映画の本編前予告を楽しむ様相となった住人たちはやたらとのめり込み、期待の眼差しで決着を見守っていたものだ。あれは完全な余興だった。
大人しく助手席に収まるなまえは、二人きりの車内へドライブソングをかけ流しながら、首を傾げる。
「寄り道って、買い出し?」
即物的は問いかけに、清瀬は「違いますよ」と小さく口を尖らせる。
「こんなに綺麗な夏晴れ、そうそうない。少しだけ景色を見てから戻りましょう」
「それはナイスアイデ……あ」
カーナビと並行し、手元の携帯にてマップを開いたなまえが頰をかく。
「……あちゃー。展望台過ぎちゃったみたい。どこかでUターンできるかな」
すぐ近くにはかの有名な白樺湖展望台がある。眼下の湖、八ヶ岳連峰最北、諏訪富士とも名高い蓼科山を望むため、特に夜景目的で訪れる観光客が多いという。当然彼の希望する寄り道もその地点だと思ったのだが。
「大丈夫です、今から行くのは逆方面なので」
清瀬が前方を見据えながら笑った。
「なんでも、白樺湖展望台は湖との標高差が百メートルと少しらしいんです。もしそっち側に行くなら霧ヶ峰富士見台まで足を伸ばしたいところですね」
「何々? 詳しいね。行ったことあるの?」
「さっき調べた付け焼き刃ですよ」
白樺湖を半周後、リゾートの横を素通りし女神湖に向かってビーナスラインを駆ける。
目的地には五分もかからず到着した。谷へ乗り出す格好のカーブに、半円状の柵が取り付けられている。まさに天然のバルコニー。数台の駐車スペースへ先客はなく、贅沢なことに本日は貸切のようだ。がらんとした展望台には二人分の影だけが降り立つ。葉の擦れる音がサワサワと耳をくすぐるように響いている。
「──『夕陽の丘』だって」
清瀬の示したその場所の名前通り、標高一六〇〇メートルの澄み切った空気の中で、今まさに落陽が始まろうとしていた。正面には白樺湖、車山。遠景にほんのりぼやけて静置された北アルプス。背負った太陽が逆光となり、山々のシルエットを縁取る。
美術の授業で遠くにあるものは青く、薄く見えると習ったはずだが、そんな自然の摂理が今この時この場所だけ、イレギュラー的に世界から切り離されたようだ。色とは呼べない、黒と白の間にある無数の影がグラデーションを生み出し、山並みを埋めていく。
「思ったより寒かったですね」
「ううん、平気」
本当のことを言えば、フレンチスリーブのなまえに二十度を切る外気はやや厳しかった。しかし、それ以上にこの景色から目を逸らしたくないと思えてもいた。半ば上の空で清瀬の気遣いへ回答する。
「……強がりめ」
が、それすら彼にはお見通しだったようだ。苦笑とともに、それまで清瀬が羽織っていた薄手のジャージを肩にかけられる。上着には青年の体温と香りが残っている。むき出しの腕に触れた熱が皮膚を火照らせ、むず痒い。
「もー、こんな格好いいことしなくていいよ。選手が体冷やしてどうするの」
「先輩を凍えさせて知らん顔する後輩がいますか」
「うわ、その言い方ずっるい……。ただでさえ今日は運転してもらったのに、もらいっぱなし」
「そもそも東京からこんなところまで呼び出したのは俺ですよ。なまえ先輩は何でもかんでもあげすぎです。たまには素直に受け取ってください」
有無を言わさぬ清瀬は、そこで無理やり会話を切り替え、「……しかし壮観だなあ」と改めて呟いた。景色への感想に戻った彼へ、再度上着の話を振るのも無粋な気がして、なまえは口をつぐむ。
「まさに夕『焼け』ですね」
隣の女性がジャージに袖を通すのを一瞥し、清瀬は満足そうに微笑んだ。
先刻助手席から見ていた青は遥か上空。大地との境は黄金色から橙に刻々と変わりゆく。太陽の頭が山の向こう側に隠れ、西の空が鮮やかな赤に染まる。煌々と燃えている。
「こういう空を薄明と言うらしいです。朝と夜の間、地平線の下に太陽が沈んで、世界から影が消える時間」
日の入りは太陽の角度で市民薄明、航海薄明、天文薄明と三つに分類されるのだと彼は続けた。その中でも特にうつくしいとされるのが市民薄明。人が、街灯なしに外で活動できる境界。火を知らなかった時代の人々はきっと、瞬きを待たずに移り変わる十分足らずの演目を健やかな心持ちで慈しんでいたに違いない。
思いがけず博識な青年の解説に驚きながら先人たちの営みを想像したなまえは、突然数秒吹いた風に毛先を乱され、軽く頭を振った。
そこで、偶然背後に広がる空をも見やる。
透けるような、まどろんだ夢の中を思わせる藍の上へ桃色が広がる。そのさらに上には変わらぬ青が流れている。ビーナスベルトと呼ばれる地球の影。今彼女の目に映っているのは彼方の夜だ。
「……もしかして、今世界はじまった?」
なまえなりに「すごい」を噛み砕いた感想へ、清瀬が吹き出す。
「こーら、なんで笑う」
「すみません。いや、先輩は詩人だなあ、と思って」
「清瀬君には言われたくないよ!」
「ご冗談を。俺はしがない文学部の学生です」
「へえ……わたしが思うに、きみはだいぶ文豪的な感性の持ち主だけど。蔵原君を見つけた報告、忘れたとは言わせないんだから」
「だとすれば、それは先輩のせいです。さっきの空の話だって、なまえ先輩がやっている研究が物理と地学に関係するって言うから覚えてたんですよ。多分先輩が思っている以上に、俺は先輩から影響を受けてます」
「ええ! そりゃまた……でも、研究の話はともかく、清瀬君とそんなにポエミーな会話したかな。いつの話?」
「会話とは限りませんよ。たとえば中学時代によく読んでいた小説とか現代短歌とか。こっそり同じものを図書室で借りるくらいには憧れていた可能性がある──……さてと、先輩が返事に困ったところでそろそろ行きましょう。今日中に帰るんですよね。すみません、付き合わせて」
突如放られた若き日の思い出に目の前の女性がたじろいだ一瞬を見逃さず、清瀬は車の方向を促した。後輩から体よくからかわれたのだと気がつき、なまえは口をへの字にする。こんなにも露骨に揺さぶられてしまうとは、恥ずかしいにも程がある。
そのまま歩き出す青年の背中を追いかけようとした彼女は、ふと置き去りにしかけた心残りへ足を止めた。
「……先輩?」
足音が続かないことに気がついた彼が、ドアを開ける直前で振り向く。
その場で立ち止まっていたなまえは、「さっきタイミング逃しちゃったから」木々の香りがする風に頰を紅潮させる。羽織った上着の袖口を内側から摘まみ、しばしの逡巡。照れくさい視線が清瀬を射貫く。
「……ありがとね。貸してもらったこれだけじゃなくて、色々。全部」
彼女の背景に広がる太陽の残火。目に飛び込んできた絶景を正面に受けた青年は放心して、焦点を合わせるような素振りでわずかに目を細めた。そして、思わずはっとして、瞬きしないようまぶたに力を込める。
真紅のベルベットが閉じられた後、一人幕前に現れた出演者のように。なまえがそのまま深く頭を下げてどこかへ消えてしまうのではないかと、そんなありえない空想をしてしまったからだ。
そういえば、先日葉菜子も呟いていた。ふとした瞬間なまえの背中に羽が生えて、どこかに飛んでいってしまうのではないかと。あの時、素直な発想を可愛らしく思いながら、彼女を一番最初に神様にしたのは、他でもない清瀬自身だったと思い知らされた。
ただ、そんな清瀬の心持ちを知る由もないなまえは、彼のフリーズならびに、数秒後ようやく絞り出された「どういたしまして」を受け、「……眠いなら帰りの運転変わろうか」と。なぜか嬉しそうに、ずれた相槌を戻した。

──襷と共に繋がれる幾多のドラマ。エース同士のデッドヒート。花の二区で新たな伝説の生まれた瞬間だ。気温上昇の四区でまさかのアクシデント。監督の言葉が選手を救う。箱根の山は今回も険しい道のりとなったが──。

ペンションに戻ると、締め切ったカーテンの中、映画館を思わせる環境で特集番組が流れていた。しかもタイミングよくもっとも感動する締めのシーンである。茶化す声も聞こえない。皆、真剣に画面へ見入っているのだろう。
「……いい編集だろう? 自然と心が踊りだす。来年の一月二日、三日。今度はここに俺たちの姿がある。一人ずつ別のスタートラインに立ち、襷を待つ。受け取り、次に繋ぐ。繋いで繋いで──やがて俺たちはあの大手町で再会する。寛政大学長距離陸上部始まって以来の快挙。いや、近年の箱根駅伝でも類を見ない、初挑戦、初出場の偉業を、俺たちは成し遂げるんだ。……さあ、練習場所も無事に見つかったことだし、明日からまた本格的に練習がスタートできる。この時間で、皆にも少しは近くに感じられたかな、箱根駅伝というものが──」
リビングにあがった清瀬は、そのビデオを真剣に眺めているであろう仲間たちに檄を飛ばした。嬉しそうに言葉を綴りながら、リビング中央のシーリングライトをつけ──そして、全員の安らかな寝顔を目の当たりにする。
すぐさま音量を最大まで上げて、再生ボタンを押し直したのは言うまでもない。
「……んだよ、うるせえな!」ニコチャンが飛び起きる。
「何度でも見るぞ。何度でも見られる特集だからな」
清瀬は笑顔のまま、唯一のリモコンを手元に確保した。あわせてリビングの照明スイッチ前を陣取る。部屋をシアター体制に移さず、終了まで根気強く見守るつもりらしい。
「正月の話なんかすんなよ!」
「夏だ夏、今は夏!」
続々と眠りから引き戻され、腹いせとばかりに野次を飛ばす住人。しかし、当の清瀬はそれらを綺麗に無視し、「来年の一月二日、三日。今度はここに俺たちの姿がある。一人ずつ別のスタートラインに立ち、襷を──」一言一句違わず、先刻のフレーズを澱みなく述べていく。
そんな清瀬の台詞はやはり詩人めいている。邪魔にならないようそっとそれら一幕を覗きながら、無性におかしくなって、なまえは吹き出した。