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「ハナちゃん、できたよー」
湯船の中でまぶたを閉じていた葉菜子は、呼びかけに応じて意気揚々と横を見やった。
ウェーブのかかった髪を真っ白な泡で覆ったなまえが、毛先を天井に向けて持ち上げている。自重で支えたかったのだろうが、彼女ほど髪が長いとなかなか難しそうだ。
「今度こそ当てますからね……わかった! ドキンちゃん!」
「ブー、もう一回チャンスをあげましょう。ヒントは、すごーく険しい顔」
「……わかった! マレフィセント!」
「マレフィセントは二本角じゃない? 正解はゴンさんでした」
なまえはケラケラと笑い、シャワーのつまみをひねってシャンプーを洗い流す。三回チャレンジさせてもらったクイズは、葉菜子が無知なのか、なまえの設問難易度が高いのか、ずれているのか、問いかけ側の圧勝で幕を閉じた。
「もー、難しいよー」
「ハナちゃんにも今度漫画貸してあげるから。読みさえすればわたしが出題した意図もわかるよ」
「そうかなあ」
「歴史に残る名作はクイズにしたくなるものなの」
顎が浸かるギリギリまでお湯に沈んだ葉菜子は、身体を洗い始めたなまえへ視線をやる。あまり他人のそういう場面をじろじろ見るものではないとわかっているが、つい興味本位で追ってしまう。
ゴム一本で高く結い上げられたお団子から、ひと束うなじを伝う後れ毛が艶かしい。白い肌は陶器のようにすべやかで、デコルテにはくっきりと細い鎖骨が浮き出ている。
身じろぎのたび決して小さくはない胸が、確かな質量を持って柔く揺れる。両手で掴めそうなほどの──というのは見た目の印象で、おそらくバストとヒップのメリハリから実際よりも華奢に見えているであろうウエスト。
投げ出された足は長く、すらりと眩しい。ふくらはぎの筋肉はランナーの名残。内腿へ女性らしい肉感をわずかに残している。火照った肌が薄ピンクに彩られている分、いつのまにかぶつけたらしい膝小僧の青あざがやたらと目立つ。
「……さすがに恥ずかしいぞ」
葉菜子の真剣な眼差しに気がついていたらしいなまえが全身を泡で覆った後、若干頰を赤らめながら身体を抱きしめた。そんな仕草まで色っぽい。先刻まで少女と行き当たりばったりのクイズに興じてきたとは思えない。
葉菜子は「ごめんなさい!」と慌てて顔ごと背け──数秒のタイムラグを経て視線を戻す。
「……あのね、すっごく綺麗だったから」
「もー、お上手なんだから。ハナちゃんのピチピチ水光具合には誰も敵わないよ」
お湯を弾く瑞々しい葉菜子の肌を促し、なまえは小首を傾げた。おまけとばかりにウインクも。
出会った当初はそれこそ「しっかり者のお姉さん」であった印象が、およそ半年を経て変わりつつある。チームのサポート時など仕事として任されている箇所──要するに締めるべきところはきっちりしているのだが、それ以外の場面では存外お茶目なひとだ。
そんな彼女の側面は、葉菜子にとっていやなものではない。むしろ気を許されているという唯一無二の証拠にも思えてときめいてしまう。同性でさえこの有様なのだから、異性が相手であればギャップに落ちる数はさらに多いのではないだろうか。
「……前から思ってましたけど、なまえさんってモテるでしょ」
ざぷんとお湯に浸かった隣の女性に向けて、少女は問いかけた。無茶振りに「わお、急だね」と、なまえは笑う。
「ハナちゃんがそう思ってくれるのは光栄だけど、まったく」
「本当かなあ……。告白されたりしないの?」
「うん。謙遜じゃなく」
「ふーん……」
葉菜子の考える「モテる」は彼氏が途切れないくらいひっきりなしにお誘いがある、常に複数人に思われている、といったニュアンス。その感覚自体はなまえと大きくズレていないはずなのだが。
思案する少女の横顔を面白そうに眺めていたなまえは、
「そんなハナちゃんは好きな人いないの?」
と、突然話題の矛先をずらした。
「ええっ⁈」
ふわり。ボディーソープでできた泡のような軽やかさで、葉菜子の頭へとある青年たちが浮かぶ。よく似た顔をした、でも明らかに異なる二人。明るくて、楽しくて、頑張り屋で、いざという時は葉菜子を守ってくれる。自身にとっての王子様。
お湯加減とは関係なしに頬を染めた少女は、隠れるように口元ギリギリまでお湯へ浸かった。
「な……内緒」
「ってことは、相手自体はいるんだ」
「ああ、ずるい!」
鎌をかけられたことに気がついた葉菜子は、「なまえさんこそ本当の本当に彼氏いないの⁈」と再度の反撃を試みた。しかし、これはすでに出尽くした弾だ。当たるはずもなく、隣の女性は「ないない」と笑って肩をすくめるばかり。
「最近は研究室と予選会のことで頭がいっぱい。それがないと生きられないわけじゃないなら、今はいいかなって。もちろん、あったらあったで楽しいんだろうけど」
「……なんか大人って感じ」
「そりゃあハナちゃんより五年だけ長く生きてますので」
葉菜子は華奢かつやや骨ばったなまえの肩へ頭を乗せ、深いため息をついた。じんわりと滲んだ汗から甘い匂いがする。頭の奥がゆるやかに解けて、唇から勝手に言葉が転がり出ていく。
「……アオタケの皆も、恋とか、そんなのしてる場合じゃないよね」
「うーん……少なくとも今すぐは難しいかもだね。でも、あえて恋愛ってくくりに当てはめなくても、大切なひとにはなれる──というか、もうなってるよ、ハナちゃんは。わたしも、多分皆も、ハナちゃんのことが大好きで、すごく大事だと思ってる」
なまえの台詞が浴室に反響する。それはいつも以上に優しく乙女心を慰めた。
彼女の透明な声質はまるで軽井沢の夜のようだ。誰へも平等に訪れる静寂と暗闇は、残酷でうつくしい。冷たい夜の帷、人の灯す光と熱が際立つ。
ふと、葉菜子はホットミルク片手に眺む星空を思い返す。バルコニーに集まって、清瀬と走とニコチャンと四人で見上げた情景。
あのとき、少女の隣で天を仰ぐ清瀬の横顔は、知らないことを想像するものではなく、記憶を手繰り寄せる時のそれだった。
そうだ──確か、恋の話をしていたのだ。逃れることができない気持ちのこと。どんなに苦しくても、辛くても、そんなこととは関係なく、好きだと思ってしまうこと。その感情に名前をつけること。
清瀬は、「そういう経験があるんですか」という走の問いかけをうやむやにして、「きみはないのか」と尋ね返した。今さらながら、あの返事は前段に「自分はあるが」という意味を隠していたのかもしれない。
葉菜子が知る限り、清瀬はもっとも強かな人物だ。親元離れて寮暮らしをしながら、自身も学生でありながら、竹青荘のインフラを支えている。ゆるぎない意志で、やる気にムラのある住人たちを飄々と先導する。少なくとも、葉菜子は彼の弱みや、弱音を吐く瞬間を見たことがない。
だからこそ、その清瀬が苦しんで、戒められて、叶わないと視線を落としたことがあったのかもしれないと。完璧に見える清瀬も、ただ一人の大学生だったのだと。葉菜子が気がつけたのは大きな財産だった。
尺度は様々あれど、この世界には普通の大学生とされる人間が山ほどいる。今、葉菜子が目にしている努力の日々さえ、もしかしたらその人混みでは埋もれてしまうのかもしれない。井の中の蛙なのかもしれない。竹顔荘の住人たちのように、何かひとつへ打ち込む人たちは、世界の中でわずかとしか言いようのない関東圏に絞ってでさえ、きっと大勢いるのだから。
知りたくなかった現実。けれど、知らずに前へは進めない。
「……絶対本戦に行ってほしいよ。見てることしかできないって、たまにすごく悔しくなる」
少女の声は笑っているようで、その実どこか泣いているようでもあった。
「わたしも、皆が辛い時、苦しい時、一瞬だけでも代わってあげられたらいいのに、ってそう思っちゃうときがあるよ。ひと呼吸の間だけでもって。そうしたら……──ううん、やっぱり今のなし。これはサポーターとして真摯じゃなかったな」
葉菜子に続いたなまえが、自ら走らせた言葉を取り返す。安易に「代わる」とした一節が気になったに違いない。けれど、溢れたそれは暗に竹青荘の面々の代わりはいないと示したようで、図らずも葉菜子を安堵させた。
この毎日がどこにでもあるはずがないと、少女の不安をそっと拭ってくれたようだった。彼女には、惑い揺れる心がわかってしまうのだろうか。
「なまえさん、『真摯』って言葉たまに使うよね。えーっと……なんとなくの意味はわかるんだけど。誠実とかと同じ意味?」
「そう。どっちもひたむきさとか真面目さのこと。誠実は人柄に使うんだって。真摯は姿勢に使う言葉。生まれつき誠実じゃなかったとしても、真摯には間に合うかもしれないじゃない? 最近改めて考えたんだけど、言霊って本当にあるのかもって、そう思って。だからわたしも、できる範囲で、極力適切な単語を選びたいなって」
なまえが外へつながる小窓を見やり、目を細める。葉菜子は、そんな一人の女性の──満天を透かしとった煌めく眼差しに心を奪われる。
改めて、なんて律儀なひとだろう。このひとは、形容し難い本質的なうつくしさを持って、住人たちを見つめているに違いない。
同時に、うつくしさというものは、非常に不安定なものだと葉菜子は知っている。その境地に辿り着くことも難しいが、同じ地点で維持し続ける困難さたるや。まれに覗くなまえの浮世離れした雰囲気は、その片鱗かもしれない。いきなり羽が生えて、どこかへ飛んでいってしまうのではないかなんて、冗談のような想像させられるくらいに。
熱に浮かされた脳裏に、わずかな焦りが伝った。
まだ葉菜子は、なまえほど竹青荘の面々に対してサポートができない。車の免許を持っていないから物品を運ぶこともできないし、高校生である以上練習を手伝える時間も限られる。陸上競技の知識も、過去に競技をやっていたという清瀬、ニコチャン、なまえには及ばない。怒涛の追い上げを見せるユキにも。記録会の手伝いだって、学校行事との兼ね合いからなかなか日程が合わず、つい先日ようやく初の立ち会いが叶ったばかり。清瀬が過労で倒れた現場にも葉菜子はいなかった。
皆、それでもいいと言う。存在を感じるだけで十分力になるのだと。でも、本当にそうだろうか。葉菜子は最年少だが、決して子どもではない。彼らが本心でそう言ってくれていることもわかったし、その言葉で絆される自身の甘さも悔しかった。
これまで以上に、自身にできることがあるのならば、精一杯務め上げたい。ほんの少しでも、もっと、今よりも力になりたい。たとえば、うっかり地上に落ちてしまった、自覚のない天使のようなこの人の一グラムの重しになるだとか。
「……この後、お風呂上がったら、なまえさん時間あるかな」
「うん、大丈夫。どうしたの? 改まって」
「なまえさん理系だから。ちょっとだけでいいんだけど、数学見てほしくって。もしできれば地学基礎も……」
葉菜子は、まだ父にすら明かしていない気持ちを、祈るようになまえの耳元に寄せた。
「……──私、来年寛政大に行きたいんだ」
せめて今この瞬間だけでも、自身の夢が彼女を繋ぎ止める錘になればいい。
なまえは一瞬驚いた顔をした後、すぐ解けるように微笑んで、葉菜子の濡れた柔らかな髪を優しく撫でさすった。