*
重力に従い、こぼれ落ちる破片の隙間。
映された世界は、まさしくファーストライトであったと──後に、彼女はそう語った。
*
ファミコンで宇宙へ飛び立つ。
我らがリーダー、石神千空の語った突拍子のない理想は、いつかの石油探索を思い起こさせた。この世界では、彼が語ったという事実そのものが「実現しうる未来」として皆を説得する材料になる。確か以前は、その希望が通貨の価値を担保した。
再石化後の現在にあって、成長した少年の瞳は決して褪せない。この瞬間も彼の夢は、各地をつなぐ道しるべだ。
つい先ほど、Dr.ゼノの機転により、各地でFAX製作がはじまった。目を見張るスピードで技術革新が進んでいる。試行中の通信が上手くいけば、パラメトロン計算回路の大量生産をコーンシティへ委託できる。回路図の設計を七海SAIが引き受けてくれることにもなった。インドでの目的はおおかた果たされたと言えるだろう。
龍水等が復活者を増やしていることから、出立の日も近い。この場所で望む景観や、土地に残った生活の匂い。それらとしばらくはお別れになる。
思いついてしまえば、いやはや名残惜しい。
木組の隙間から覗く美しい星空に、ついセンチな気分を持たされたゲンは寝床を抜け出した。出入り口付近でいびきをかくクロムを起こさないよう、そっと外気へ足を滑り出させる。日が陰るとやや肌寒い。赤道寄りのエリアであるとはいえ、季節でいえば十月なのだから当然だろうか。
行くあてもなく、のんびり周辺を歩き回る。ログハウスの壁を挟んでわずかな寝息の気配。どうやら皆夢の中を揺蕩っているらしい。
人間は眠っている間、必ず夢を見るという。覚えている、いないに関わらず。習性というより、むしろそれは確約されたシステムに近い何かだ。もしこの場所が、たとえば火星であったとしても、限界まで脳を酷使すれば人間は眠りを欲する。環境に左右されず、そういう存在としてこの宇宙に生を受けている。
前触れなく、マクロ思考で世界を見ている自身が、やたら愉悦だった。
銀河の姿というものは、自我をちっぽけに思わせては第三者的な視点を付与させるのだ。幼いころに聞いた神話の中、バルスの塔建設を阻止した天罰を回想し、ゲンは口元を緩めた。
人間が忘れてしまうのをよいことに、神とやらは毎晩「世界の人々が言葉を散り散りにされた日の記憶」とやらを見せているのかもしれない。夢を見せることで、夢を見ることを諦めさせるだなんてなかなかの悪趣味だ。そのせいか、旧現代で国家間の争いはついぞ終わりを迎えることがなかった。
なんて、不都合なことを全て神のせいにするつもりは毛頭ないが、もし本当にそんな夢を見たとして、世界の──宇宙の共通言語たる数学の天才は、どんな答えを導くのだろうか。そんな「たられば」を空想をしてしまうほどには美事な天だった。
ぐるりと広場を一周し、高台への小道を抜ける。まばらに生えた木々の奥、障害物のない満天が望めそうだと足を速め──そこで、はた、歩みを止めた。
一人、先客があった。
視線は真上へ向けられており、こちらに気がつく様子はない。月明かりに照らされた横顔は彫刻のように整っている。
陰から青年を盗み見たゲンは、しばし悩んだ後そっと声をかけた。
「──SAIちゃん」
ぴぎゃ、小さな悲鳴。
恐る恐る、という描写がしっくりくる素振りでこちらを振り向いたプログラマーは、メンタリストの姿を確認するなり、安堵の表情を浮かべた。
「びっくりした……龍水かと思ったよっ」
「驚かせちゃってメンゴ。俺が言えることじゃないけど、こんな時間にどしたの? 眠れない?」
「あ、いやっ、特に深い意味はないんだ」
言葉とは裏腹に、情感のこもった目線が再度空へ向けられる。
「……ただっ、すごく綺麗に、星が見えるな、って」
「文明がなくなってよかったことのひとつよね」
SAIと同じく自然に魅せられここまでやって来たゲンは、脚色なしの感想を述べた。
含みなく、この時代の夜空は美しい。千空に言わせると、超新星爆発で消えてしまった星により、宇宙を地図に見立てた時どうしても毛色が変わったように感じるそうだが。プラネタリウムを余暇に楽しむ程度の人間にとっては全く違和感がない。
旧現代でこういった光景を堪能しようと思えば、山奥や、砂漠や、塩湖。人工物の少ない場所へ足を運ぶしかなかった。一定のお金と時間が必要な、ある種の贅沢。それが今は、当然のようにそこにある。否、ずっとそこにあったのだ。勝手に変わったのはこちらの都合だろう。
「SAIちゃんは、天体観測が趣味なの?」
まだ出会って日の浅い彼については付随する情報量が膨大で、咀嚼と嚥下が追いつかない。あの七海龍水の兄であるとか、世界一の欲しがりが単純な才能目的に手を伸ばすほどの数学センスを持つだとか。ゲンの問いかけはそれら背景の延長線から、彼のパーソナルへ少しだけ踏み込ませてはくれまいか、という意思表示に他ならなかった。
「SFと宇宙は、切っても切り離せないからっ。いろんなゲームのシナリオ読んでたら自然と。それに、プログラム的にも……数学的宇宙仮説、なんてあるくらいで」
「あ、知ってる。宇宙はたったひとつの数式で表せちゃうってやつでしょ」
「そうだよっ。よく知ってるね」
「俺はちょこっと雑学で覚えてただけ。SAIちゃんこそ教授としてさ、学生にそういう話してたんじゃないの?」
「いや……僕も受け売りなんだ。こういうの好きな人がいたから」
プログラマーは若干考え込む仕草を見せながら、おずおずと答えた。
「その知り合いって龍水ちゃん、なわけないか」
「違うよっ! その人は、その……なんて言えばいいんだろう」
「なーんか複雑な感じ?」
「えっと……」
声が途切れる。
数十秒程度の、会話半ばにしては長い沈黙が訪れた。SAIは適切な言葉を必死に探しながら、星と星をつなぐように端々へ視線を彷徨わせている。その時間をゲンが苦に感じなかったのは、満天が空白を埋めてくれたからに違いない。
「──……僕は、友達、って、言いたいんだけど……最後、喧嘩別れみたいになって」
あー、そういうね。
ゲンの返しに、SAIは気まずさを露わにした。
「今ってこんな世界だし? 人間関係のトラブルは命取りってことで、その手の相談結構のってたのよ。どっちが原因で、とか、そもそも喧嘩してたのか、とか、石化前のいざこざは詳細を忘れちゃってるケースばっかりだったけど。三七〇〇年も経ってれば意外とそんなもんじゃない?」
「それは……でもっ……だって、僕は龍水のことっ、覚えてた」
「あ、そういう比べ方しちゃう? まあ、そこは兄弟だしねえ。忘れるも何もっていうか……」
ゲンが不意を突かれたのは、彼が家族と同じ土俵にその知人をのせたという事実だった。「七海SAIがその相手を怒らせた」ことは、「七海龍水と七海SAIが兄弟である」という血縁関係と同列に扱われるらしい。彼の弟と長い期間付き合ってきた仲間としては、少なくともSAIの意識内で、龍水と存在感を争う友人が俄然気になった。
「SAIちゃんの友達、どんな人だったの? 星が好きだった、っていうのはさっき聞いたけど」
「みょうじさんは……なんだろう。一言だと上手く言えないけど」
「へえ。みょうじちゃん、ね。苗字? てことは日本人?」
「そうだよっ、日本人。あと、僕と同い年」
「SAIちゃんがインドに来る前からの知り合い?」
「いや、石化の二年前くらいかな。偶然こっちで出会って。それから、ずっと──」
──だったんだ。
ぽつり、彼が単語を落とした。が、肝心な部分は聞き取れず水平線に落ちた流れ星のように姿を消す。長く重そうなまつ毛を伏せたプログラマーを見やり、メンタリストはあえて頷くだけの相槌を打った。
*
翌日。深夜徘徊のため普段よりも遅めの起床となったゲンは、目をこすりながら騒がしい甲板に向かった。特に人の集まる箇所を覗き込めば、千空とSAIが顔を突き合わせ、何やら熱心に話し込んでいる。
「空港……かな。チャトラパティ・シヴァジー。たまに、バンガロールを使ってたけど、多分今回……じゃなくて、三七〇〇年前はそこからタイに戻ろうとしてたっ、はず」
「タイの人間っつーことか?」
「JAXAの、バンコク駐在事務所の人なんだ。こっちの有人ロケットプロジェクトにも提言してたみたいでっ。それで、よくインドに滞在してて」
「まあ、ロケット関連の工学者が多いに越したことはねえ。有人なら尚更な」
「うん、それに」
「それに?」
「……いや、なんでもない」
その場にいたチェルシーへゲンが説明を求めれば、返事はあっさり返ってきた。「なんかね! SAIがどうしても起こしたい人がいるんだって!」と。
「どうしても! じゃないっ!」
彼女のよく通る声に、SAIからニュアンス齟齬の指摘が飛んでくる。
「昨日も言ったろっ。どうせ僕はここに残るからっ。そうすれば……許してもらえるかなって」
「……フゥン?」
インド洋を背負う龍水の表情が明らかに訝しむ。千空へ直談判を求めるほどには会いたい相手。しかし、その人物を起こす理由に付け足された「許してもらう」には、どこか距離を感じざるを得ない。相反する感情で揺れ動く兄の姿に、何か思うところがあったのだろう。殊更、言い切った直後のどこか寂しげな雰囲気は、弟が疑問を抱くに十分すぎていた。
空港跡地がムンバイ付近であったことが幸いし、ゴール地点の算出は容易く行われた。もちろんこの「容易い」は、千空とチェルシー、二人の科学使いがタッグを組んだ結果だ。
広大な敷地内でどこにいたのか、という点については、SAIが「滑走路側の一番見晴らしがよいラウンジ」と断言した。お目当ての人物が好んでいたスポットなのだという。
そこまで割り出してしまえば、後は作業。加えて、SAIに限らずチェルシーも該当の空港を利用した経験があるとのこと。直感的にも予測が可能だ。複数掘り出した石像の中、その人物はあっさり見つかった。
身長は平均よりも数センチ高い。意志の強い、世界へ挑みかける大きな瞳。きりりとした眉。台に手をついたまま石化したと思われる、中腰かつ前のめりの姿勢。
三七〇〇年前、襲いくる異質な光を見て、逃げるでもなく、隠れるでもなく、最後まで観察を試みた証。
移動の最中、これから探す人物は、昨晩SAIが語った知人と同一であると収集していたゲンは、想定とだいぶ異なる姿に度肝を抜かれた。
──女性だった。
SAIの友人という先入観、JAXAの技術者という枕詞から勝手に性別を解釈していた。振り返ってみれば、彼は一言も「男」だなんて口にしていない。
「……なんだ、貴様の恋人か?」
腕を組んだ龍水がぶしつけに問いかけ、兄は「バカ言うなっ!」と喚く。
「知り合いだよっ、ただの……やめろ、その顔」
「俺の顔がどうかしたのか」
「だからっ! 何だよ、その表情はっ!」
「いつも通りだが」
「じゃあ、いっつもうるさいんだなっ、お前は!」
じゃれ合う、とするには主に兄側がかたい喧嘩を横目に、いつか記者の解説を待たずに船長を復活させた科学者は、今回も早々に瓶の栓を抜いていた。きゅぽん。空気の漏れる音が響き、兄弟が意識を石像に向けた瞬間、感慨なくナイタール液が浴びせられる。SAIは眼を白黒させ、「えっ⁈ まっ」と叫びながら、勢いよく後ずさった。
そりゃあ俺達はそこそこ見慣れた光景だけど、もう少し情緒ってもんが……。
千空に指摘すべきか迷い、ゲンは肩を落とした。無駄だろう。これこそが彼のよさであり、アイデンティティでもある。
思考をしている間にも、石像表面のヒビ割れは進み、右の瞳から破片がこぼれ落ちる。新しい世界を見据えるそれは、天の川を思わせる無数のハイライトを浮かべていた。
続いて、健康的に白い肌が露出。日本人にしては色素の薄い、とはいえ個性の範疇に収まる栗色の髪がふわりと広がり、あわせて、石化によって成り立っていた体勢のバランスが崩れる。「わわわわわっ」と、情けない声を漏らしながら盛大に前方へ突進した彼女は、その勢いで様子を窺っていた龍水に頭突きを食らわせた。見事に鳩尾だ。さすがの彼も突然の衝撃に一瞬うめく。
「やだっ、申し訳ない! ごめんね、大丈夫⁈」
自分が何をしでかしたのか察し、俊敏に飛び退いたその人物は光の速さで頭を下げた。対面する龍水が、片手をあげつつ無事を申請する。
「……案ずるな。羽のように軽かったぞ」
「もー、リチウムじゃないんだから」
女性は等しく美女だとする人物からのフォローを、金属元素にたとえ受け流す。改めて「ごめんね」と手を合わせた彼女は、背筋を正しぐるりと周囲を見渡した。
「……もしかして、君たちが助けてくれたの?」
「ま、そんなとこだ」
顎を引く千空に、「本当にありが……」続けてお礼を述べようとし、最中。
ぴたり、動きが止まった。
「……あ。あー⁈」
まっすぐな眼差しがチェルシーの後ろで身を屈める、ある男へ注がれている。
「──七海君っ……⁈」
この場にその苗字を関する人物は二人。石化前から接点があったと思われるのはうち一人。
彼女が目覚めた瞬間は、奇しくもその彼とよく似ていた。
*
「──このたびは、大変お世話になりまして」
みょうじなまえと名乗った女性は、改めて深々と頭を下げた。
キャンプ地へと戻り、束の間の休憩時間。復活したての者は、しばらくコミュニティの中心になることが常であり、彼女もその流れに則って大勢の復活者から囲まれている。石化した瞬間に何をしていたか、という鉄板の話題を皮切りに質問がはじまり、以降は思いついた順で飛び交う矢文を捌く作業だ。
相当胆力がなければこの状況に面食らうはずだが、当の本人はフランソワ手製のカレーに舌鼓を打ちご満悦。いざという時に備え、やんわり皆を静止できるよう近くで観察していたゲンは、問いかけを打ち返すあっけらかんとした口調や、くるくると変わりゆく豊かな表情に、彼女が持つ竹を割ったような性質を思い知らされた。
目覚めた直後「三七〇〇年もの歳月が経過している」と突きつけられた際は、例に漏れず浦島太郎を回想させる絶句っぷりであったのだが。とはいえ、その際絞り出すようにして、一九七七年に打ち上げられたとある探査機の名前を告げた点はさすが元JAXA職員とせざるを得まい。人類が石化するおよそ半年前に、太陽圏を脱出した人工物。ボイジャーの安否である。
「……まあ、宇宙ダストだろうな」
予想されていたであろう科学者の現実的な回答に、なまえは心底残念そうな表情を携え、澄んだ空を仰いでいた。
目の前の皿をすっかり空にしたところで、彼女は木製のスプーンを置き、再度上空を見やった。橙を侵食する夜の気配。わずかながら、奥には瞬きも覗いている。
「あの、さっきは聞きそびれちゃったんですけど、ISS……飛行士はどうなったかわかります? 石神飛行士って知ってるかな。滞在していた中で唯一の日本人」
一拍置き、コハクが「おお」と声をあげる。
「千空のお父上じゃないか」
千空。
なまえの唇が小さく動き、焦茶色の瞳に驚きの色が広がった。石像の中から覗いた瞬間と同じ、彼女の内から光が発されているかのようにきらめく眼である。
「も、もしかして君、石神さんの息子⁈」
「理解が早くておありがてえ」
「そりゃ、石神さんは現場で大人気だったんだから! 下っ端の私はそんなに話せる機会なかったけど、よく訓練補助してた先輩が言ってたの。優しくて、気取ったところなんてなくて、すっごく面白い方だって! わ、そっか……君が噂の──」
なまえと百夜が職場で具体どんな接点を持っていたのか知る術はない。けれど、その反応から非常にポジティブな印象であることは明白だった。ゲンは、千空の口元が緩んだのを見逃さず、なぜか自身まで浮ついた気分させられた。
「ったく、何を言ってやがったんだか」
漏らした声は、照れを隠しているかのようにやたらと他人行儀だ。
「ハ! 創始者さまにそんな口を聞くのは千空くらいだな!」
コハクが呆れた口調で告げた。「創始者?」首を捻ったなまえへ、スイカが飛び跳ねながらフォローを入れる。
「スイカたちは、その飛行士? の子孫らしいんだよ!」
「子孫って……じゃあ、飛行士たちは地球に帰還したの⁈ 管制塔の誘導なしで⁈ 石化とか以上に、そっちの方が驚きなんだけど!」
「そうそう。ジーマーでびっくりしちゃうよねえ。ちなみに、この人はSAIちゃんの弟」
千空の父らが現在はもういないという事実が言葉にならないよう、ゲンは強引に会話の流れを変えた。察しのよさそうなこの工学者であれば、自ら文脈を理解して結論を導くだろう。わざわざこの場で、改めて周知する事柄でもない。
わずかな目配せでメンタリストの意図を汲んだ船のリーダーは、豪快に笑いながら帽子を取った。
「七海龍水だ! 龍水でいい。SAIが随分と世話になったようだな」
「頭突きの君⁈ えっと、じゃあ君もプログラマーなの?」
「いや、俺の専門は船だ」
「操縦ってこと? ……なるほど、七海君とは別なんだ。あ、君も七海君になるのか」
彼女は一瞬考え込む素振りを見せ、「じゃあ、呼び方変えた方がいいかな、下の名前で。龍水君とか……才君とか」目線を動かした。後半微妙に言い淀んだ気配にSAIを見やれば、やや距離をとって座る彼の眉がハの字に歪んでいる。
「ちょっと、その顔はな・あ・に!」
「なんかっ……変だよ、みょうじさんのそれ」
「兄弟で呼び分けのレイヤーが違うの、個人的にはちょっと気持ち悪いんだけどな」
「とにかく、変えなくていいよっ! 僕のは! こう、急にゾワってするから……」
「んー、じゃあ夏は下の名前で呼ぶ? 冷房いらずでエコだね」
「そういうことじゃないっ!」
「冗談だってば」
これまでの龍水との会話を聞くに、 SAIは自分の意図しないことについてははっきり「NO」を突きつけられるタイプだ。
しかしそれは、これまでにそこそこ長い関係を築いてきた人物のみに限られるよう思えた。ゆえに、ここまで躊躇なく切り込める仲というのは相当に気安い、というか遠慮がない。
まさか石化前にあったという仲違いの原因はこれではなかろうか。しかし、SAIに対する工学者の態度は至って変わらず、彼が雑に投げかけた言葉はなまえにとってへでもないようだ。どうやらこれが二人の間に流れる空気感のデフォルトらしい。
ますます気になってしまう。プログラマーは一体どこで、この見るからに晴れやかな女性の地雷を踏んだのだろうか。
「……ところで、なまえちゃんはJAXA職員だったのよね? SAIちゃんとはどうやって知り合ったの?」
あくまで情報の整理ですよ、という体でゲンが口を挟む。続いて、後方から「っていうか、どういう関係?」とチェルシーの追撃が入り、心配りが無に帰す。
「知り合ったのは……プロジェクトで顧問に入ってもらう教授へ挨拶しに行った時、かな。大学内で道に迷っちゃって、案内を頼んだのが七海君。若いから学生さんだと思って」
それで、私たちの関係は──。
束の間、静寂。
「──……友達、だよね?」
なまえがちらりと SAIを覗き込む。一拍遅れ、船長の兄はこくこくと頷いた。
*
新たな復活者へ詳細な状況説明を任されたゲンが、千空の目覚めにはじまり、石神村、司帝国、宝島、北米、そして南米の出来事をかいつまんで語り終えるころ。周囲はすっかり紺色の闇に包まれていた。
なかなかの長丁場を、それこそ冒険譚に聴き入る幼子のような顔つきで消化した女性は、前のめりのまま「それでそれで?」と続きを急く。
「ひー、ちょっとは休憩しようよ、なまえちゃん」
「だって! 気になっちゃって。もー、色々すごすぎて! いつか絶対映画になるよ。なんなら私が撮りたいくらい」
彼女の好奇心には、すっかりたじたじである。旧現代の叡智に興味津々な石神村の面々の対応で慣れているといえばそうだが、今日は対象が自分達の経験談である分気恥ずかしかった。
「と言っても、この後はシンプルなのよ。もうインドですることはしばらくないとかで。オーストラリアでロケットの材料探し。そのままロケットづくり」
「それでロケットの機体に関する工学者が必要だったと。なーんか聞けば聞くほど私でいいのかって感じ……」
「そう? JAXAの職員なんて、理系の中でも超エリートってイメージだけど」
「先輩は優秀な人ばっかりだよ。でもねえ、私まだ入局して四年目だったし、技術者としてはひよっこもいいとこなの。こっちに来てたのだって、実績が認められたとかそんな大層な話じゃなくて、若手職員のインターン。ほら、医者でいう研修医的な? 今のうちにたくさん勉強してね、ってあれ」
「そういうもの?」
そういうもの。
なまえは両手を胸の前に掲げて、軽い降伏姿勢をとった。
「日本は飛び級制度もほとんどないでしょ? 年齢と経験がトントンになっちゃう。特に技術職は、勉強量よりも実地経験が大事だったりするし。まあ……NASAレベルになると、経験値を無視したとんでもない天才がいたりするんだけど。Dr.ウィリアムとか、Dr.ゼノとか。かっこいいんだ」
あ、知ってる人。離れた地でロケットエンジンのレベルアップに従事している科学者が、ゲンの頭をよぎる。彼女のように元々業界にいた人間にとって、ゼノは羨望の的なのだ。つい最近まで当たり前に接していたどころか、命のやりとりをした相手が「普通」に尊敬されている。その「普通」さがなんだかおかしかった。
ゲンの思考を横に、なまえの言葉は続く。
「だからね。そういう本物の天才とか、さっき聞かせてもらったみたいな大冒険してきた皆とかを想像すると、なんで次が私なんだろ、ってちょっと不思議で」
「なまえちゃん的にさ、今起こされたのはわりとダメージだったりする……?」
千年単位を正確に刻む科学者、伝えられなかった想いを胸に意識を保った高校生、命令を忠実に守る軍人、その他エトセトラ。
コミュニティに精神力の化け物が多すぎるため忘れてしまいそうになるが、「誰かを起こす」という行為は、あくまでこちらの都合である。「なぜ自分を起こしたんだ」と、責められる覚悟は常にしておかなければならない。先日のSAIがまさにそれだった。コンピューター製作を志す前のことではあるが、彼の叫びは、痛みを伴って耳にこびりついている。今までも、これからも、自分たちが唯一の英雄だなんて、傲慢な思い込みをするわけにはいかないのだ。
「……違う違う! そういう意味じゃなくて。ただ、せっかく起こしてもらったんだし、何か理由があるなら応えたいなって思っただけ。きっとシンプルに一技術者として、ってことなんだよね」
なまえは、自身の頬を両手で挟むように叩いた。よし、と小さく勇む。「自分だけにできること」だなんて、この状況でそれを求めて駄々をこねるほど子どもではない。「自分にもできること」それだけで十分なマンパワーである。
「OK! 大丈夫! あと聞きたいことは……あ、ここを発つのはいつになりそうなんだっけ?」
「スケジュールで言うと、早くて二、三日後には。バタバタしちゃってメンゴね」
「問題ないよ。強いて言うなら七海君が心配。ほら、あの人結構な船酔いしそうじゃない? 酔い止めとか」
「あー、SAIちゃんは、その、ね。ここに残るんだって。コンピューターの回路図ができ次第送ってくれるから、工程に支障はないのよ、一応」
その勘違いはごもっともだ。なにせSAIは彼女を目覚めさせた張本人である。これから行動をともにするものだと思っても仕方ない。重ねた言葉で、極力やんわりと諭す。
謎の間を挟み、「へ?」間抜けな声をあげたなまえは、ゲンが瞬きをする間に椅子から立ち上がっていた。おそらく脊髄思考による反応だろう。そう思わせられるほどには素早い動作だった。
彼女へ向けた冒険譚紹介の直前、コーンシティからFAXを受信したと知っている。送られてきた集合写真を見て、龍水とSAIが訝しげな表情を浮かべていたことも。
気軽にいじっていい話題とも思えず、後ほどタイミングを見計らってゲンから声をかけようとしていたのだ。話の展開は、SAIの乗船、はたまた七海兄弟が抱えるわだかまりに直結する。
だからこそ、今この瞬間に彼のガードをかためるわけにはいかない、のだけど。
「あー! 待って! なまえちゃん待って!」
メンタリストは、船長の兄が居座るログハウスへ、猛然と駆けていく背を追った。
「七海君は行かないってどういうこと⁈」
なまえは、マシン語で何やら書き溜めていたにSAIの肩をむんずと掴み、遠慮なく揺さぶった。その勢いに顔色を青ざめさせたり、赤らめたりしたプログラマーは、溺れるようにうめく。
「……それはっ、だって、僕は、乗れないよっ」
「なんで⁈ 七海君が私を起こすように言ったんでしょ? 自分は乗りたくないから私だけ行ってこいだなんて、そんなのってないよ!」
「みょうじさんだってっ、僕なんかいない方がいいだろっ⁈」
「何それ! なんで私の気持ち、七海君が勝手に見積もるの⁈」
「だからっ、許してくれたんじゃないの⁈」
「はあ⁈」
「僕がっ、一緒に行かないから! だからっ、友達って」
「バカバカバカ! めっちゃバカ! カバ! 意気地なし!」
「バカ⁈ え、カバ⁈」
ゲンが室内に飛び込んだ段階で、二人の会話はかなりヒートアップしているようだった。
石神村と司帝国を数往復し、そこそこ体力のついたゲンをもってしても追いつけなかった。なまえの足は、コハク同列とは言わずとも相当速い。
息を整えつつ、なんとか静止を試みる。が、二人の言い争いは一向に止まらない。
「お、落ち着いて二人とも! ジーマーで!」
「あとでちゃんと落ち着く! 任せて!」
「それは落ち着いたって言わないの!」
支離滅裂ななまえの反撃を、なんとか正論でいなす。どうにも自分だけでは埒があかない。
片や数日前に目覚めたばかりの、知人の家族。片や数時間前に出会ったばかりの女性。加えてこの二人は旧知の仲ときた。メンタリストといえど、適切な対応をとるにはもう少し情報を集めたいところだ。
多くは望まない。解決とは言わずとも、この流れをせき止めるきっかけがあれば。たとえば、予期せぬ落雷。鮮烈な夜食の匂い。第三者のぶっこみ。
──と。
「ヤバなに喧嘩⁈」
台風を思わせる存在感。小柄な影が転がるようにして室内へ乱入してきた。
全員がぎょっと口をつぐむ。ゲンはもちろん、言い争っていた二者も完全に急ブレーキをかけられた形である。
「なかよしじゃないの⁈ なかよくしろし!」
その姿。パワフルな物言い。見間違いようがない。幾度となく窮地を救ってくれた、我らが地理学者だ。
現れた援軍により、その場の空気は見事振り出しへ戻された。
経緯を聞いたところ、チェルシーがSAIの部屋を訪ねたのは、ゲンと同じく「集合写真」の件を深掘りしたかったためらしい。もっとも、そのルートが直線最短距離か、遠回りかの違いはあるようだったが。
雰囲気を和らげようと、気を利かせて準備したハーブティーを囲み、テーブルの四辺へそれぞれ腰掛ける。
ほどなくして、ぽつり、ぽつりと、SAIが語りはじめた。
「……僕と龍水は二人だけ、七海家の、母さんの子じゃないんだ」
いつだって家族写真の輪に二人が入れなかったこと。SAIが幼少期から、徹底的に数学だけを仕込まれたこと。その中、龍水の手綱を誰も握れなかったこと。そして、龍水の度重なる「欲しい!」から、SAIが逃げ出したこと。
本来子どもを守り、小さな心を癒すべき家庭の役割はない。でもなければ、自身のことを「造反しない便利な兵士」だなんて比喩しないだろう。彼にとって、家にまつわるすべては重石以外の何物でもなかった。
幼少期の記憶は、大人になっても体の内を蝕み続けると聞く。それこそ思い出せない夢の中で何度も当時を反芻し、怯えながら朝を迎えるのだ。覚えていない悪夢ほどいやなものはない。気づかないところで、荒いやすりに触れられた心は、ざりざり摩耗していく。
一通り語りが終わったころ、あたりは静寂に包まれていた。
彼を物理的に揺さぶっていたなまえも、先ほどの剣幕はどこへやらすっかり黙り込んでいる。彼女が龍水の名前を知らなかったことから薄々察していたが、おそらく兄弟間の詳細は今はじめて耳にしたのだろう。工学者が目覚めた時、どこまでも深い宇宙を想像させた瞳が、今は何も語りかけず、全てを包み込みながら、じいっと青年を捉えている。
沈黙を破り、チェルシーが音を立てて鼻を啜った。
「ごめん私お行儀悪すぎ……でも、なんか二人が、健気で……」
「健気? そんなんじゃないよっ、龍水は。身勝手でワガママで、人のこと……」
机の上に大粒の涙をこぼす地理学者を、わたわたと慰めるSAIへ、たまらずゲンは声をかけた。
「……龍水ちゃんは、ただSAIちゃんと『一緒に』やろうとしてた。そうしたかっただけなんじゃないかな」
ゲンは知っている。彼の弟は、自称「世界一の欲しがり」で、我慢をしなければ自重もしない。
しかし、人並み以上の努力を重ねてきたのだろう、経験に裏打ちされた度量がある。彼の全てを受けいれる懐の深さに、仲間が何度助けられてきたことか。
高圧的な側面はあれど、本質的な部分で身勝手でもなければ、ワガママでもない。ただ純粋に、言葉通りの意味で「欲しがり」なだけだ。
なにより、彼のおかげで千空は一人きりにならずに済んだ。宝島でイバラと決戦した時も、航路を巡って争った時も。皆に背中を見せて歩んでいた科学者の隣に立ち、まれに科学者より早足で、舵を切り続けたもう一人のリーダー。七海龍水という男に感謝する点は多々あれど、ゲンにとって一番大きかったのは、彼の存在そのものだった。
「なんっでも欲しいのよ、龍水ちゃんは」
──きっと、本当の意味での兄弟だって。
誰も、何も口にしなかった。
SAIの唇がわずかに動き、けれどその奥から言葉が溢れることはない。音にすることで、今生まれた何かが消化されてしまうのではと怖かったのだ。テーブルの上で冷めつつあるカップが、時間を刻む唯一の指標である。
「龍水ちゃんはいつも、SAIちゃんに何かを『やれ』って言ってた……?」
ゲンの問いかけだけが、木組の隙間から、外へ外へとほどけていった。
*
昨晩、SAIがぼんやりと星を眺めていた場所で、なまえは同じく空を見ていた。工学者の勘により夜空が最も美しく望める場所を嗅ぎつけたのかもしれない。
高台から真下の広場を眺むも、数刻前まで賑わっていたそこに人気はほとんどなかった。おそらく皆眠りの淵だ。
少し冷えた空気に、風のうなり、虫の羽音、草同士の擦れが混ざり合う。
「……みょうじさん」
おずおず、SAIが声をかける。突然呼びかけられたことに驚いたなまえは、肩を震わせ、ゆっくりと振り返った。彼を捉えた表情が、ややバツの悪いものへと変化する。
「なんだ、誰かと思っちゃった」
「天体観測?」
「そう。もしかしたらISSが見つかるかもだし」
「ISSって、肉眼でも見えるの?」
「モジュールに太陽光が当たって、空が暗い時に真上を通過してくれれば」
「それってインドでも?」
「もちろん! これだけ空が綺麗なら!」
彼女は両手を広げくるりとターンをした。月がその姿をスポットライトのように照らし出す。薄い影までもが軽やかに地面を跳ね、夜にも関わらず眩しかった。
「で、七海君こそどうしたの? こんな時間に」
「さっきまで、チェス、してて……龍水と。せっかくだから、寝る前に星でも、って」
「そうなんだ。そっか……よかった」
その「よかった」が何に向けてであるのか、あえて聞くのは避けた。
SAIは彼女へ、具体の名前をあげ兄弟の話をしたことはない。それでも、たとえ家系を知らなくとも、なまえが自身に根を張る性質を理解していると彼は知っていた。多少言葉が足らずとも、他の誰かと接する以上に口が悪くなったとしても、彼女なら行間を読んでくれるだろう、と。幼少期から付き合いのある龍水やフランソワは別として、ありのままを曝け出すことがこんなにも気楽な相手は、彼女を除くとなかなか思いつかない。失うにはあまりにも惜しい。
だからこそ、今。伝えなければならないことがあった。
「あのっ……みょうじさん、あの日のこと……なんだけど」
「待って!」
切り出した瞬間、なまえがSAIの声を遮る。
「お願い。私から言わせて──……あの日は、ごめんなさい」
手持ち無沙汰に地面へ向けていた視線を彼女に合わせれば、対面する瞳はまっすぐに青年を射抜いていた。
「……タイミング探してたら、結局七海君から言わせる形になっちゃった。ずっと謝りたかったの」
「なんでっ⁈ 謝るのは僕の方でっ……だって、あれはっ……僕が」
「確かにすっごく腹は立ったけど、私も言いすぎたでしょ」
「か、軽くない⁈ いいのっ⁈」
「せっかく七海君とまた会えたのに気まずいのもいやだし。……まあ、どっかの誰かさんは、しれっとフェードアウトするつもりだったみたいだけど?」
ぐう。痛いところを突かれ、思わずSAIはうめいた。彼の顔を覗き込んだなまえはいたずら気味に肩をすくめる。
「冗談だよ。こっちも謝るのは私の方。……兄弟の話、何も知らないくせに割り込んでごめんね。完全に部外者なのに。ただ、七海君と船に乗りたかったのは本心」
「……そんなのいいよっ……ずっと、もう、許してもらえないんじゃないかって思ってた、から。僕は、それだけでっ」
「許すも何も──」
なまえは自身の足元を窺った。美しい脚線の右側には、SAIの両腕と同じ石化痕が色濃く残っている。
「──友達でしょ、私たち」
躊躇いがちに、言葉は続く。
「……起きて、七海君を見つけた時ね、すごくびっくりして、でも、すっごく嬉しかった。もう謝ることもできないんだろうなって、あの光を見た時に後悔したから」
「僕もっ、みょうじさんを見つけた時、すごく嬉しかった。本当に、本当だ」
彼の言葉を受け、強気な眼差しが優しい熱に浮かされる。それは、数千年ぶりに到来した彗星のような、記憶に尾を引く笑顔だった。
「そうだ、ひとつ質問させて」
なまえは、ふいに自身の顎をなぞった。「これは責めるとかじゃなくて。シンプルな疑問ね」そう前置き、夜の隙間へ声が滑り込む。
「機体の工学者が一人でも多くいた方が後々都合がいいっていうのは理解したんだけど……やっぱり、もっとすっごい知見を持ってる職員はたくさんいたのになって。顔とスキルが一致しなかったの? だとしても、わざわざ空港で一人を探すより、それこそISROの施設とか、大学とかをしらみつぶしする方が楽だったよね? 近いうちに船だって出ちゃうらしいし。この後起こして合流なんだとしても、資源は限られるわけだし。こういう状況だからこそ、最低限の優先順位はあるんじゃないのかなって。友達だからって言うんなら、それはそれで納得なんだけど」
「……答えなきゃ、ダメかな」
「そりゃあ、聞きたいよ。もし何か意図があるなら、私だって極力期待に応えたいし」
SAIはとっさに口をつぐんだ。理由を告げること自体は容易いが、いざ伝えるとなれば気恥ずかしい。とはいえ、隠し通すだけの語彙も、巧みな話術も、オブラートも、生憎持ち合わせていなかった。
「君が……みょうじさんが言ったんだろ」
「うん?」
「いつか、この場所で星が見たいって」
「えーっと……」
声だけでも、なまえが戸惑っている様子が伝わってくる。
三七〇〇年前、インドで一日呼吸をすれば、煙草二〇本分のダメージを受けるとされていた。
特に秋以降は上昇気流が生じにくく、空気が地表近くで停滞する。郊外で行われた焚き火の煙、車の排気ガス。ライトグレーのスプレーを撒き散らしたように、遠景にはいつも靄がかかっていたものだ。
それでも、インドで過ごしたとある夜。ぼやけた空を見上げて。街の明かりをスクリーンのように反射する、天然の瞬きひとつない曇り空を見て。他でもないなまえが言ったのだ。
「今起こせばっ、みょうじさんに見せてあげられるって、そう思った、から……」
「それだけ?」
「……怒った?」
「そんな、怒ったりはしないよ……ただあれって、星に願いを、的な。ピノキオ的な? シンプルな祈りのつもりで。だから、その時近くにいたからって、七海君が責任を感じる必要はなかったというか」
口元に手をやり、緩む唇を隠すようにして、なまえは視線を逸らした。
彼女の顔は耳まで薄い紅に染まっていた。が、幸運なことに、星の美しい帷。それに気がつく人間は一人もいない。
自分勝手な男である。
世界はまだ復興しておらず、旧現代に慣れた人類にとっては不便の多い生活が続いている。月からの脅威だって、次いつやって来るかわからない。
なまえは、ごく普通の技術職員で、何かの分野で世界を大きく動かすような天賦の才があるわけでもない、人より少し宇宙に関心を持つ、ただそれだけの一般人だ。彼女の有無で、ロケット完成までの道のりが年単位で変化する、なんてことはあり得ない。
勝手だ。勝手すぎる。にも関わらず、こういう形で彼に振り回されること、叶えられた約束とも呼べない何か、それに喜びを感じてしまっている。この気持ちだけで、数年早い目覚めをまかなえてしまうくらいには。
彼が彼女の頬に手でもやれば、その思考のさわりを指から伝わる熱で理解したのだろう。けれど、先ほど友人であることを確認しあった彼らに、そんな「もしも」は必要なかった。
「……覚えててくれて、ありがと」
「覚えてるよ、みょうじさんのことなら」
返す言葉をどんな顔で告げたのか。満天だけがその答えを埋めていた。
*
波に反射する日の光が眩しい。離れゆく陸地を眺める工学者の横で、船長の兄は甲板の柵に背を預けた。
抜けるような空には雲ひとつない。頭上を見つめる青年へ彼女は告げる。
他の強い光にかき消されても、その場所がわからなくとも、空の上にはいつだって星があるのだと。見ようとしないだけで、そこには常に。
──ファーストライト。
元来の意味は、天体望遠鏡が当初予定していた性能に達しているかを確かめる試験観測のこと。はじめて、宇宙の光をレンズに通すこと。
なまえはこうも言い換える。それまで見えなかったものが、見えるようになること。
たとえば、人類を失い、あり方を変えた世界のように。
たとえば、気づけなかった弟の本心のように。
たとえば、インドで望む星空のように。
旅立ちを迎えた朝は、どこか愛おしい匂いがした。