1 to 2 ステップ・アンド・ステップ

「で、ヤらせてくれた?」
身も蓋もない言葉選びに、含んでいたお冷を戻しそうになる。口に手を当て、ごくりと飲み下し、恨めしく質問を投げかけてきた張本人を見つめると、何が楽しいのかケラケラと笑ってみせた。
「いや、だってお前二十歳越えて童貞って。なんのためにプロやってんの」
「野球のためですが」
間髪入れずに返すと、冗談だよ、と再度口角を緩められた。
「え、御幸さんって経験なしなんですか」
話を振った先輩に釣られ、今年入団した若手のホープが尋ねてくる。
「ほれ、説明したれよ」
「なし、以上」
「つれねえなあ、噂の彼女と何年付き合ってんのよ」
「……もうすぐ、丸二年ですかね」
「ガード硬えよなあ」
完全に他人事として、俺のことを酒のつまみにしている先輩は「御幸一也を二年もお預けにする女って何?」とおかしそうにぼやいて、枝豆を剥き始める。
「ほんと損だよな。キャンプ地にそれぞれセフレ作ってる奴だっていんのに。お前もそのポテンシャルはあるのにな。ツラはいいし」
半ば同情の目を向けられながらも無言を貫けば、話題は先程飛び込んできた若手が、この間持ち帰った女の話に変わった。

今まで、いけるんじゃねえかってタイミングがなかった訳じゃない。
例えば先日、オフとあいつの冬休みが被ったのを利用して、一泊二日の小旅行を敢行した。熱海の温泉。そもそもお互いのスケジュールがなかなか合わねえし、デートの回数も年に何回って数えた方が早いくらいだ。その分、一回あたりに使える金額はそこそこ高めで見積もり、その時もちょっといい旅館の離れを予約した。ちなみに、一応社会に出て働いている俺が旅費を出そうとしたけど、頑として譲らず結局押し切られる形で折半になった。借りを作るのがいやなんだとか。全くもって「らしい」話だ。
まあ、このエピソードは蛇足でしかない。本題は夜だ。
絢爛豪華な夕食を堪能し、腹ごなしに旅館周りの散歩に出かけ、帰ってくると二組の布団が寝室用の和室に用意されていた。ピッタリと隣同士に。準備は整っていますよというのが、襖の先からありありと伝わってきて、さすがのあいつもおや、といった顔つきをしていた。
顔を見合わせ、なんとなくそれらに気がつかなかったふりをして売店で購入したアイスを食べた。俺がオレンジで、あいつがライチ。つけっぱなしのテレビから聞こえるバラエティの軽快な音楽と、スプーンに残った半固形物を舐めとる口元をよく覚えている。盗み見ていたつもりだけど、バレてたかもしれない。なんか、アイスを溶かす舌ってやけにエロいじゃん。
あいつがお茶を淹れている間、俺は荷物の中に放り込んでいた小箱をそっと開封した。何ってあれだよ。ナニにつけるやつ。セーフティ。
時刻が十一時を過ぎ、そろそろ寝ようぜ、と切り出したのは俺だ。壁の時計を見て「そうだね」ってあいつが答えて、二人して隣室の布団に入った。
これいついこう。いついくのが正解なんだ。
俺が布団の中で心臓を逸らせていると、めちゃくちゃ小さな声で「……キスは?」と囁き。まぶたを開ける。ぼんやり薄暗い中でもあいつの頬が赤く染まっているのが分かった。そんなのさあ、堪んねえじゃん。上半身を起こしてゆっくりと覆い被さり、情けねえことに少し震える唇を重ねた。
ちゅ、ちゅ、と音を立てて、何回か啄んで。熱い耳に触れながら舌を入れた。甘い。果物の香りが鼻腔を抜け、ふ、と漏れる声にめちゃくちゃドキドキした。いつもより濡れた吐息だった。
脳裏の隅で今後の展開を考えて、息子はゆるゆると臨戦体制となりつつあった。ゆるゆるなんて可愛いもんじゃねえな。ビキビキと、そりゃあもう。まだ二十歳なもんで。
外耳に添えていた手をするりと首筋に移動させ、身じろぎでわずかにはだけていた胸元に差し込む、そして。
「ちょ、な、え? 何すんの」
それまで手持ち無沙汰にしていた右腕で、俺の顔をぐいと押しのけ、あいつはそうのたまった。
……いやいやいや。待て。
「何って、見たまま」
「え、そういう雰囲気だった⁈」
お前クソバカなんじゃねえの⁈
「……二人で、夜で、旅行で、期待するだろ。さっきのそういう誘いじゃなかった?」
「誘ったよ、キス。キスだけね。超満足」
「……じゃあ、シねえの?」
「はい、うん」
待て待て、待ってくれ。そんなことある? ねえだろ普通! 他の奴らの事情は知らねえけど、流れ的になしだろ! つーか二回返事すんな。余計に傷つくから。
俺が唖然としている間、あーびっくりした、と着付けをささっと直したあいつは「キスありがと。おやすみ」と、それはそれは良い笑顔で横になり、あろうことか寝息を立て始めた。
……マジ?
東京選抜で乾が言った、落雷の意味がなんとなく分かったような気がした。衝撃だよな。頭の理解が体に追いつかないやつ。
息子だけがやたらと元気なのが恥ずかしい。死にてえ。ムズムズして仕方ないから、そっと手洗いで抜いた。何だよこれ。なんなんだ。ギャグじゃねえんだよ、こっちは。

***

先輩が言っていた「お預け」はかなり的を得ている表現だ。現に俺は、餌を目の前に差し出されているにも関わらず、食事を禁じられた犬そのもので。しんどい。精神的にも、肉体的にも。
なんて言っても伝わらねえんだろうなあ。
俺は門限付きの寮、こいつは実家。時間もなければ、二人きりになれる場所もそうそうない。
日程を合わせてデートに漕ぎ着けようも、人の目線がある箇所では手すら繋いでもらえない。ほぼ芸能人なんだから、という納得できなくもない主張が半分、公衆の面前でイチャつくのはなんかやだ、というワガママな主張が半分。手は良くね? と思いつつ、身体が資本の俺に買い物袋を持たせるのもしたくないとのことで、気遣われているのか、なんなのか。
そのくせ、大学に入学以降、化粧を覚えてどんどん女っぽく、色っぽくなっていくものだから、生殺しもいいところだ。ご自慢の身体のラインを強調するような服も多いしな。
二人きりになると、スイッチを切り替えて甘えてくる時もあるから尚更タチが悪い。腕に擦り寄られたりすると、押し付けられた胸の感触にムラっとしてしまう。筋肉が脂肪に敗北する瞬間。不可抗力だ。
そりゃあ付き合いたては、俺だけに見せる面をなんだかんだ嬉しく感じていた。新鮮だったし、高校生活の三年を男数十人で過ごして、免疫自体なかったからな。
でも、今はちょっとだけ、いやかなりムカつくし、呆れる。俺をどうしたいわけ?
女の方が大変だってことくらい理解してる。それで拒否されるのは、まあ分からなくもない。もしも、怖いって言われたら、押し倒した時に怯えた目をされたら。きっと何も返せねえ。それで進めないのは仕方ない。いくらだって待つよ。ヤりてえじゃないから、お前とシたいって思ってるから。下半身は素直だから反応するけど、それは見逃して。
そう思ってるからこそ、あいつが自分本位に自分のやりたいところだけをかいつまんでいることにイライラしてしまうんだろうか。

沸々とした不満が溢れたのは、交流戦が終わった後のささやかな休日だった。
一ヶ月ぶりの再会で、待ち合わせ場所に現れたあいつはすっかり夏の装いに衣替えしていた。すらっとした足をジーンズに包み、真っ白なノースリーブ。細い二の腕が惜しげもなく晒されている。わりと身長もあるのに、パンプスで底上げしているものだから、遠目で見ると人手の中でも結構目立つ。あいつ的にはおそらく良い意味で。彼氏的には複雑な意味で。
ペペロンチーノが看板メニューだという個人経営のパスタ屋にふらりと入り、店員の押しのまま二人してペペロンチーノを注文した。品が来るのを待ちながら、窓の外を眺めるあいつの横顔を俺もじいっと眺める。
髪の毛が一本、頬にかかっていたのが気になり手を伸ばすと、不意をついてしまったのか「おわ」と、素っ頓狂な声。
「……ここ、外」
なんでだろ。俺の指を見つめる視線と、咎めるような声に、どうしようもなく腹立たしさを感じて。
「なんか、すげえ中途半端だよな」
……あーあ、言ってしまった。

「俺はそこまで都合よくできてねえの。お前の十分じゃこっちは足りねえし、溜まるもん溜まるし」
「……怒ってる?」
「多少な」
「私、何かした? 今」
「今っつーか……」
ポリポリ頭を掻く。ここまで来たら言うしかない。
「……俺は普通にしたいよ、お前と、セックス、って話」
「な」
突然の直接的な単語に、めずらしく耳まで真っ赤にさせて、何かを庇うように自分の身体を抱いたあいつは「えっと」とか「そう」とか、視線を彷徨わせた。
「悪い、いきなりすぎた。でもお前、何考えてるのかわっかんねえから。無理なら無理って言って。痛いからやだって。俺は毎回ちょっと期待してんの。はぐらかされるのって地味にしんどい」
本当にいきなりだよ、と卓上の水を飲み干して「じゃあ言うけど」
顔の火照りが引くまで、ソワソワと手持ち無沙汰にしていたあいつは、ようやく俺の目を見ながら、そんな台詞を吐き出した。
「痛いのは我慢できるし、我慢したいし。そこじゃなくて、いやなのは」
ふうっと、一息。
「……フェアじゃないこと。一方的に女が受け身で恥ずかしいのがやだ。特に初めてだったらされるがままだし、自分がそうなるとか……無理」
めちゃくちゃ、らしい言い分だった。出会った時から、こいつは等価交換の女なのだ。借りを作りたがらず、作らせたままにもしない。そういうやつだ。
「だから、もう少し待って。御幸相手ならフェアじゃなくてもって……思わなくも、なくも、なくも? ないので」と。そのまま目を伏せ、窓に寄りかかる。
「……あとちょっとだけ持ってて。本当にあとちょっとだけ」
あまりにもツボだった。その言葉とか仕草とか。ほんと、なんなのコイツ。思わず柔らかそうな頬にもう一度触れたくなって。けれど、今手を伸ばしたら色々と我慢できない気がする。
だから「ん」って、できる彼氏っぽい返答をしてみた。口元が緩みそうだったから前髪を払うふりして隠す。
からん。氷が溶けて、ガラスのコップが音を立てた。

***

熱気で曇った鏡をぐいと拭えば、なんとも形容し難い表情の自分が映し出されていた。
いよいよである。いや、本当に。ここまでマジで長かった。
あの日、踏み込んだ会話をしたわりに、運ばれてきた料理が予想以上に美味かったこともあって、あいつもすぐ元の調子に戻り、帰りも普段と変わらず最寄り駅まで送って、そんな感じでおしまい。
その後、俺が試合や練習、先輩との付き合いでバタバタしていたこともあり、再会まで二ヶ月程度の期間があった。それもいつも通り。そろそろ日が暮れるな、って名残惜しくなってきた時にあいつが「もう帰る?」と聞いてくるものだから、頷いて。明日早いし、外泊届けも出してねえし。そうしたら「じゃ、次だね」って。察したよ。そういうことは、早く言えよ! って思った。
で、その次。緊張しながら諸々の準備して、ちゃっかり届けも出して。いざ当日になったら、すごい申し訳なさそうな顔で「……生理」と。俺のタイミングが悪かった。持ち越しである。
そんなこんなで、許可をもらったはいいものの半年以上経ってしまったわけで。それでも、やっとこさここまで持ち込んだわけで!
泊まりで出かけよう、と約束し、事前に予約しておいたホテル。価格を見て、ちょっとたじろぐくらいにはいい場所だ。
脱衣所を出る際に鏡の中、自分と目が合い、小さく息を吐く。短い廊下を抜けて、突き当たりの大きな部屋を覗き込むと、広いベッドに浅く腰掛けたあいつの背中が見えた。正面には全面ガラス張りの窓、夜景、オレンジの間接照明がゆらゆら反射を返している。
なるべく音を立てずに近づこうと思ったが、数歩目で床がわずかに鳴り、あいつが振り返る。
先にシャワーを浴びて出てきた時は、余裕がなさすぎて気がつかなかったが、ちゃっかり今にも切れそうなほどに細いチェーンのネックレスが首元に光っていた。
あげたやつ、俺が。一年前「ピンクゴールドでハート……うん、嬉しい、な」とものすごく微妙な、こいつなりに気を使ったのであろう返しが痛かったのを覚えている。いいの、渡したかったんだよ。当たり前に会えないから、当たり前のプレゼントをさ。
つーか、バスローブにアクセサリーだけ忍ばせてるって、なんだろう。ムズムズする。その下って下着か、もしくは裸なわけじゃん。
「どしたの、来ないの?」
あいつが首を傾げると、栗色の、ふわっとした癖毛が肩から滑り落ちた。
「……行く」
着なれないバスローブに、じわじわと高揚、そして緊張。この服、足捌きが絶妙に悪い。隣に腰掛け「いいんだよな?」と最終確認をするとあいつは「何回聞くの」と眉を顰めた。
今ならギリ間に合うよってサインのつもりなんだけど。
以前、手を突っ込んで驚かれた前合わせに指を伸ばして良いものか悩んでいると、所在に悩む腕をぐいと引っ張られ。誘われるまま質量のある胸に手のひらが埋まり、咄嗟に声にならない声が漏れてしまった。
俺の腕をやんわりと支え、あいつは真っ直ぐこちらを覗き込んでいる。

「……キスと、その先をしましょう」

微妙に視線をずらして旅館ではごめん、と続ける。こういうところ。ほんと、俺の負けでいいわ。フェアどころか完敗。
自由な左手で華奢な肩を押せば、あっけなくスプリングに沈む。電気を消しても、東京の夜は明るい。差し込む光で表情がかなりはっきりと窺える。
あいつは目を瞑って「お手柔らかに」と呟いた。少し震えていた。やっぱり強がりじゃん。

***

どろどろな思考で、ぼんやりと時計を確認する。まだチェックアウトまで時間はありそうだ。
だるい上半身をゆっくり起こして、膨らんだ布団を捲ると眠りこけるあいつの姿があった。ほぼ裸、あられもない格好で、寝息を立てている。
気になって布地をさらにずり下げると、細い腰に手形がついていた。鎖骨から胸元、背中にも赤い痕が散っている。形の良い唇を弄ってみるが以前爆睡。呑気なものだ。どこぞの捕手に襲われたらどうすんの。
悶々とした気持ちを堪えつつ、昨晩のことを思い返す。
予想通りというか、見事に初回は大失敗した。せめて笑ってくれ。まず、俺の息子のサイズ感が初めて同士にしてはだいぶ厳しかった。焦ってゴムがなかなかつけられねえわ、無茶な体勢でアイツの足がつるわ、念のため持ち込んだローションを盛大にこぼすわ。災難続き。
一回落ち着こう、とそれまでをなかったことにして再チャレンジ。反省を生かしてじっくりと取り組み、ようやくつながった。そして一往復と持たなかった。
汗ぐっしょりの額をくっつけて「……悪い」と絞り出せば「痛くてそれどころじゃない」とのこと。
もう一回、とボコボコにされたメンタルからその気を絞り出し、ことを進めれば段々と声が漏れるようになってきて。プライドの高いアイツは、自分の喘ぎがみっともないと感じたのか、顔を腕で覆ってしまった。こっち見ないでって言われたから、やんわり手首を縫い止めて「近すぎて見えねえよ」とキスを落とす。ま、ちゃっかり顔は見えてたんだけど。
そんなこんなで試行錯誤しながら、たっぷり時間をかけて五回かな。そのくらい。すげえ優しくしたつもりだけど、回数だけは優しくなかった。俺は現役だし、アイツも昔から体力バカではあったから、おそらく問題はない、はず。
「……寒い」
うーん、と唸っていたら、もぞもぞと横で毛布が動き出し、あいつが寝ぼけ眼で起き上がった。
「おはよ、御幸」
「はよ。どっか痛い?」
「んー、平気」
ラジオ体操のごとく腰を捻って、不調を確認。格好は目に毒すぎるほどなのに、驚くほど動きに色気がない。まあ、それなら何よりだ。
「なんか飲むなら取ってくるけど」
「あ、待って」
ベッドから降りようとする俺を引き留め、何にも纏っていない柔らかな上半身が、同じく上裸の俺へ正面から押し付けられる。隙間でこいつの胸が盛大に形を変えて潰された。その感触をダイレクトに受ける。しっとりと肌同士が吸い付くような感じ。
「お母さんが夢に出てきて、びっくりして夜中に起きた」
息子が頭をもたげないように、会話に集中する。つーか、なんだその報告は。
「家帰って、どんな顔して会えばいいかなって。考えながら寝たから」
腕の中で、ふっと微かな笑いと吐息。
「困るよね。しばらくお母さんとお父さんと、妹と。まともに話せないかも」
「それは後悔してる的な?」
「違う違う。御幸と離れたら、逆に昨日のこと思い出したり、考えたりしちゃいそうってこと。親と話しながら、またシたいなあ、なんて思ってるのちょっとやばいでしょ」
「恥ずかしいのはもういいのかよ」
「言っとくけど、お互い様だから。御幸も相当情けなかったから! だからいいってことにしました」
もっと早く気づけばよかった、そう囁いて。