1 to 2 ストライクの数え方

午前十一時、駅前。数日前に交わした待ち合わせの約束である。久方ぶりのデートである。定期的に電話はしていたものの、直接会えると言うのはやはり嬉しく、俺はこの日を楽しみにしていた。携帯でやりとりを読み返して、口元がうっすら緩んでしまう程度には。
だから、本当に楽しみにしていたから。嘘じゃねから、許して欲しい。なんて、これは都合が良すぎるか。
運悪く信号に捕まり、小さく舌打ち。チラリと袖口から覗く腕時計の短針と長針は午後二時前を示しており、この状況が遅刻以外の何者でもないと改めて教えてくれた。
三時間。遅刻の中の遅刻だ。余裕で映画が一本見られる。俺はご機嫌斜めであろうアイツをどうやって宥めようか、必死で思考を巡らせながら青に変わった横断歩道を駆け出した。

こんなことになった理由を話すためには、少々時系列を遡る必要がある。
事の発端はプロ入りして五年目のシーズンを終えた俺に、退寮の話が舞い込んできたことだった。一軍でようやく認められつつあるのか、スタメンを任される頻度も上がってきた。金銭的な問題はなく、身体のメンテナンスについても自分で考えられる。所属球団の寮を出て、一人暮らしを始めても良いだろうと許可が下りたのだ。
高校時代からチームメイトと同じ窯の飯を食う生活だったし、寂しくないと言えば嘘になる。けれど、仕事として野球をしていることから、投手陣の調整には専属のトレーナーがついており、高校時代のように終始目を光らせておく必要はない。俺の捕手としての役割は練習時間のみでも十分達成できた。
そんなこんなで、年末にギリギリ駆け込むような形で新居に引っ越したというわけである。
問題はここから。昨日のことである。自主練を終えて帰宅した俺に、同球団の先輩から連絡が入ったのだ。今から引っ越し祝いをしてやるから住所を教えろ! という命令だった。家の中だったため、思わず「めんどくせえ!」が口から漏れてしまったが、相手は二軍時代からお世話になっている人である。ここで気が付かなったふりをするのは憚られた。
渋々「明日、予定あるんであんまり長居しないでくださいよ」と追記し、マップを送付。数秒後に既読がついた。
ここからはお察しである。先輩を筆頭に同期、先輩の彼女、彼女の後輩が訪れ、それはそれは大量の差し入れ、面倒を持ち込んでくれた。彼女の後輩がついて来たのはさすがの先輩も予想外だったらしく、こっそり謝罪を受けた。会場が自宅である以上、どこかに逃げることもできねえし、申し訳なさそうな声色を咎める気も起きず「今度、なんか奢ってくださいよ」と返しておいた。
初対面の男の家に上がり込むな、って言いたいところだけど、厳密に言えば女子アナでスポーツニュースを担当する彼女らとは面識がある。どちらにしても無下にできない。
結局、飲み会もとい、リビングの防音を盾に取ったどんちゃん騒ぎは明け方近くまで続いた。飲みすぎて吐いた奴に風呂を貸し、全員を家から追い出し、毒を喰らわば皿までとタクシーを呼んでやり、散らかった室内を片し、時計を見て「間に合いそうだな」とつい安堵したのがまずかった。
はっと目を覚ましたのが午後一時四十分。充電の少なくなった携帯には数回の着信、メッセージ。
着替えもそこそこに、ダウンを羽織って飛び出し、エレベーターを待ちながら電話をかける。そして、今に至るわけだ。

「私の一時間には一万の価値があるんだけど」
開口一番の台詞はまさかの時給換算だった。俺はもう平謝り。悪い、すみませんでした、ごめん、申し訳ない、すまん、と考えつく限りの謝罪文を述べつつ、新居まで丁重にエスコートする。
「昨日、急に先輩が遊びに来てさ。朝までいたからなんか色々バタついて」
「先輩って球団の?」
「そ、入団した時から世話になってる人だったから」
「……なるほどね。遅刻は全然仕方なくはないけど、理由は納得しました」
中学時代は運動部でエース、高校時代は強豪のマネージャーを務めていた彼女は、チーム内の上下関係に理解がある。ムッとした要素は残しつつも、最初の怒りは腹に収めてくれたようだった。
「そういや、髪伸びたな」
話題を変えようと、エントランス内に入って外部の視線が気にならなくなったのをいいことに、ゆるやかな癖のついた房をつまんでみる。
「だいぶね。就職したら切ろうかなって思ってるんだけど、御幸は長いのと短いのどっちがいいと思う?」
「んー、長い方。なんかふわふわして」
「可愛い?」
「まあ、そんな感じ」
エロい、と言いかけていたのを間一髪で飲み込む。
「そうなんだよね。長いと可愛い系で、短いと綺麗系なの。悩むなあ」
ずっこけ、という表現はもう古いだろうか。まあいい。俺はずっこけた。そういやこういう奴だったよ。
確かにパステルカラーのロングコートに身を包んで、顔まわりの髪ごとストールでぐるぐる巻いている今日のこいつは綺麗で可愛い。でも、おそらく髪が短かったとしても可愛いはずだし、今日だけじゃなくて昨日も一昨日も綺麗だったはずだ。
後で言ってやろうか。半分本心、半分お詫びのリップサービスってことで。

「ねえ、御幸。なんか香水つけてる?」
暖房の効いた自宅に入り、上着を受け取った時、ふと、彼女が興味深そうにこちらを見やった。は? 俯いて首周りの服の匂いを嗅いでみるが、特に違和感はない。香水をつけた記憶もない。着替えていないから汗臭さが残っていないか心配なくらいだ。
「いや、つけてねえけど」
「そっか。なんかこう、ツンって甘い匂いしたんだけど、御幸の体臭なのかな」
「マジ? めちゃくちゃ恥ずいんだけど」
「うーん。でも御幸は、もっと男って感じの匂いだった気がして。ザ・男の匂い」
「うわ、はっず……」
「いいじゃん、中身が良ければ。くさやだって美味しいよ」
おいおい、俺の体臭をなんだと思ってんだ。
「部員の服とか、マネは汗の匂いで見分けついちゃうからね。あー、その時から御幸の匂いは結構好きだったな。男臭くて。三水の方の漢」
「マジやめて、恥ずか死ぬわ」
「死ぬ前にお手洗いと洗面所の場所教えて」
とんでもない女である。

ローテーブルにインスタントコーヒーを二人分置く。ソファーに沈むと、どっと疲労感。堰き止めていた眠気がじわじわと襲ってくる。
今日出前でいいかな。泊まるって言ってたし、明日の朝に手料理振舞うか。オムレツと適当なスープと。パンがねえなあ……。チャーハンも食わしたい。朝と昼を兼ねた時間帯なら多少重くてもいい気がする。
「御幸」
頭上から声が降ってきた。目を閉じたまま、ぽんぽんと隣を叩く。座れよ、の合図だ。けれど、一向に彼女が動く様子はなく、俺はゆるゆるまぶたを開けた。

「……浮気がダメとは言わないから、せめてバレないようにやって」

随分とひんやりした口調だった。
「洗面所にあったの、口紅。隠しておいてくれたら気づかないふりしたのに、あからさますぎるよ」
はっと振り返ると、片手に脱いだばかりのコートを抱えたアイツが立っていた。微かに震える声色とは裏腹に、泣いてはいなかった。ただ、呆れたような、悲しいような、なんとも言えない表情を浮かべていた。
「ごめん、言い忘れてた。昨日は先輩の彼女もいたから」
「帰る」
言い訳すらさせてもらえない。慌てて立ち上がり、廊下をズンズン進む後ろ姿を追いかけ腕を取ると、力任せに振り払われた。
「勝手に覗いてごめん。お風呂場の排水溝に髪の毛あった。宅飲みで女の人にシャワー貸すかな」
「それは先輩の彼女さんが後輩連れて来てきて、それで」
「香水も。あれやっぱり女性ものだよね」
「だから」
「私、今日は帰る」
ぶつかるようにドアを開けた彼女は、俺に一瞥もくれず走り出て行った。
痛む頭を抱えながら洗面所に隣接された風呂場を確認すると、長い茶髪が引っ掛かっていた。栗色の髪が偶然にもアイツとそっくりで、俺はその場にしゃがみ込み、まずったな、と肩を落とした。

***

「御幸に頭を下げさせろ」
お久しぶりです、と先輩方にお辞儀して座敷に入ると、グラスを握らされるなり、そんな言葉を受けた。発信者は宮内先輩である。
『御幸一也夜のバットも打率良好』との見出しで記事が出たのは数日前。若手女子アナを、マンション前で半ば抱くような格好で支えている写真つきだった。
当の御幸からは、私が部屋を後にしたあの日から、週刊誌の弁明はおろか、そもそも連絡すらない。
そんな中、貴子先輩から「最近大丈夫? うちの代で飲み会するんだけど、もしよかったら来ない?」とメッセージが入り、お言葉に甘えて気分転換にお邪魔することを決めた。先輩方もその目的で呼んでくれたらしい。申し訳ないやら、ありがたいやら。
御幸との特別な関係は卒業式後から始まったため、最初はごくごく身近な友人にしかそのことを伝えていなかった。同じ部活の元キャプテンとマネージャーが実は、というのはたとえ引退後であってもなんとなく気が引ける。せめて由井君、奥村君達の世代が引退してからの周知にしようと話していた。そのため青道野球部にお付き合いの知れ事実が渡ったのは割と最近のことである。

そして当日、少し遅れて個室に入るなり、あれよあれよとテーブルの中心に押し込まれた次第である。
「御幸からはなんか言われた?」
「その、お恥ずかしいんですがもともと喧嘩をしていたので。それで連絡しづらいのかなと」
「つまり音沙汰なしってことだね」
バッサリ、小湊先輩から一刀両断される。
「御幸を庇うわけではないが、事情があったんじゃないか。器用に二股できる奴じゃない」
滝川先輩がフォローを入れ、伊座敷先輩が「そうかあ?」と不満そうな声をあげた。貴子先輩が視界の端で伊座敷先輩を小突く。
こちらとしては家を飛び出した時、何か言いかけていた御幸の静止を振り切ってしまった手前、肩身が狭い。
「とにかく、お前から声かけてやる必要はねえよ!」
「すっぱ抜かれた御幸が悪いだろ」
「だいぶ有ること無いこと書かれてるみたいだしね」
先輩方は、記事の内容しか知らないのだ。御幸のいないところで、あの日見たものを話す気にはならず、そのせいもあって胸の中にはわだかまりが揺蕩い続ける。
「ありがとうございます。先輩方と話してちょっと元気出ました。連絡待ってみることにします。この話は終わりにしましょう!」
曖昧な気持ちを抑え込んで、片手でグラスをあげると「よく言った!」と再度、伊座敷先輩が合いの手を入れた。

お手洗いに、と席を立ち個室席からテーブル席へ抜ける通路で、ロック画面を確認する。いくつか届いていたメッセージの送り主は御幸じゃなかった。壁に背中をつけて、あの日以来更新のない二人のトークをじいっと見つめる。当然いくら見つめど、何か起こることはない。
「……酔ったか?」
おもむろに声。私に話しかけているのか、と数秒遅れて気がつき「あ、いえ、大丈夫です」と顔を上げる。
「そうか、なら少し話そう。何か、まだ言いたいことがあるんじゃないのか」
キャプテンだった。引退後も役職で呼び続け、もう俺は主将ではないと笑われたことを覚えている。けれど、私にとってはずっとキャプテンだ。理想で、憧れで、こうありたかったリーダー像、結城先輩。
昔と変わらない。懐かしいグラウンドで白球を追いかけていたあの時のような、真っ直ぐな瞳だ。
「……さっきは言えなかったんですけど。御幸から連絡来ないかもしれません」
私こんなのですから、と続けるとキャプテンは「どういうことだ?」と促した。
「御幸が一度理由を言いかけてたのに、私感情的になって遮ってしまって。自分でも分かってるんです。自己中で、見栄っ張りで、本当どうしようもない。愛想尽かされても仕方ないって、思うことあったんです」
キャプテンにこんなこと言ってもしょうがないのに。言葉にするとじわじわと感情が波立ち、防波堤を超えた分が目がしらを熱くする。いやだ、絶対に泣きたくない。憧れの先輩の前で、泣き顔を晒すわけにはいかない。俯いて、下唇をぎゅうっと噛む。情けない。気を遣ってくれた先輩達に、これ以上迷惑かけたくないのに。自分の問題は、自分でなんとかしたい、そうするべきだと思うのに、その力がないのが悔しい。歯痒い。
「すみません、先に部屋戻っていてください。楽しい席で本当に申し訳ないです。後から追いかけます」
「いや、そういう訳にも……」
困ったように、豆を潰した痕の残る厚い手の平が肩に置かれた。数回優しく叩かれ、木張りの廊下に堪えきれなかった水滴が落ちる。

「……え」

背後からまたしても聞き覚えのある声した。

***

別球団に所属する沢村から招集がかかったのは、今日の夕方頃である。無視したら、俺が報道陣に一発かましてやりますからね! と火に油どころかガソリンを捲く宣言をされ、指定された個室居酒屋にやってきたわけだ。お待ちしておりました! と予約席へ押し込まれ、かれこれ二時間近く事情聴取を受けている。
「御幸先輩が悪いじゃないですか! 女史が可哀想です!」
「うっせえな! 俺だって俺が悪いと思ってるよ。でも向こうは俺の話なんか耳に入らないくらいめちゃめちゃ怒ってたわけ。どうすりゃいいんだよ」
「そんなの誠意を見せるしかないじゃないですか! 話を聞いてもらえないじゃなくて、話を聞いてもらえるまで頑張ってないだけでしょーが!」
こういう時の沢村は正論だ。正論すぎてぐうの音も出ない。話さなきゃいけないのも、謝らなきゃいけないのも、全部わかっている。それでも難しい。俺は、そういう場で気の利いた言葉が出てこねえんだよ。
それでさらに怒らせたり、挙げ句の果てに泣かせてしまったらと思うと、メッセージを打つ手が止まってしまう。
沢村が店員に追加注文をしている隙、手洗いに行く素振りで抜け出した。歩を進めるたび、沢村に言われたことがぐるぐると頭を巡る。連絡して、会って話したいって頼んで、それから。それから。なんか全部が億劫だ。いっそのこと押しかけた方が早いんじゃないだろうか。
再度ため息。そして。

「……え」

見覚えのある後ろ姿、寄り添う見知った顔に俺はその場でぽかんと口を開けた。
俺ですら数えるほどしか見たことのない、今にも溢れ出しそうな、すでにこぼれてしまったのかもしれない、そんな顔。よりによって、あいつがそんな表情をした時に一番近くにいたのは哲さんで。腹のあたりがずくりと疼くのを感じた。なんだろう、この抱えた気持ちが嫉妬なのか、悔しさなのか、苛立ちなのか、気まずさなのか、自分でも理解できない。
「御幸先輩! いつまでトイレに行ってるつもりですか! 釜飯来たんですけど! え、ええ! リーダー⁈」
おまけにタイミングが良いのか悪いのか、沢村までやってくる始末だ。俺達をぐるりと見回し「まさか修羅場というやつでは」と、とんでもないことを口走る。
「……あれ、もしかしてお邪魔ですか?」
奥まった個室から、小柄な人影が滑り出てきた。続いて開け放された引き戸から、記憶にある顔たちが覗く。泣きっ面に蜂とはこのことだ。
「いやあ、沢村投手に似た声がするなと思って出てきたら、今話題の御幸選手もいるなんて。今日はどうしたんですか? 噂の女子アナとお忍びですか?」
「お、おおおお兄さん⁈ 何を!」
沢村が慌てて亮さんを制すも、ニコニコとした笑みのまま紡がれる言葉は止まらない。
「実は僕たち、元野球部の集まりなんですよ。せっかくですから寄っていってください。プロと飲めるなんてなかなかない機会ですから。お話聞きたいなあ」
「すみません! 先輩方には改めてお詫びとお礼をしますので! 今日は失礼させてください! 本当にありがとうございました! お邪魔しました!」
場の空気に耐えられなくなったのか、個室前の鞄を引ったくるように手に取って、近くにいたクリス先輩に紙幣を押し付け、逃げるようにあいつは出ていった。
その背中に手を伸ばすも、虚しく空を切る。
「あーあ……とりあえず御幸と沢村はこっちの席に来なよ」
ごめん、ちょっとやりすぎたかも、と珍しく亮さんが頭を掻いた。

「いや、やっぱりお前が悪いだろ」
「野球以外本当にダメだね」
「御幸が悪いな」
先輩たちの席へほとんど連行されるように向かい、沢村へ話した内容を繰り返した。皆口を挟まず静かに聞いてくれていたが、終わった途端に集中砲火。ボロクソだ。
藤原先輩が「元々喧嘩してたってそういうこと」何やら納得したように頷き「私も御幸君が悪いと思うな。でも、謝って許されないようなことでもないよね」と追い討ちをかけた。
「これ、返してきてくれないか。元々奢る予定だったからな」
クリス先輩がよれた一万円札を差し出す。先ほど、アイツが押しつけたものだろう。
「師匠……!なんてできる……!」
沢村が感嘆の声をあげ、俺も腹を括って立ち上がった。
「わかりました」
「今日中に渡せなかったら、今日の飲み代お前にツケるからね」
「はよ行け、御幸ィ!」
亮さんの淡々とした台詞、純さんの怒声にケツを叩かれ、俺は一礼してその場を後にした。

***

アイツの家には何度か足を運んだことがある。住所が分からないから最寄駅までタクシーを飛ばして、そこから体が覚えている道を急ぐ。実家は都内だが、研究室に遅くまで残ることも多くなるからと、大学院進学をきっかけに一人暮らしを始めたのだ。
正直、今日ほどアイツが実家暮らしじゃなくて良かったと思うことはない。エレベーターを待てずに非常階段を駆け上がる。いつもはオートロックのねえアパートで一人暮らしすんな! とお約束の会話があるが、今日に限って全部許す。
インターホンを連続で鳴らし、もどかしさに扉を数回叩く。
「……やめて、隣の人いるから」
チェーンがかけられたままドアが開き、隙間からつっけんどんな声音が聞こえた。
「これ外して」
チャリと音を立ててチェーンを揺らす。
「やだ、帰って」
「俺だってやだよ。でも、お前が本当に嫌ならこのまま閉めていい」
わざと自分の右手を隙間に滑り込ませて吐き出す。俺がボールを扱う手に対して、こいつがそんなことできないの知ってる。打算だよ、全部。狡くていい、捕手にとっては褒め言葉だ。

「……二番でいいから」

突然だった。隙間から微妙にアイツの顔が見える。涙が頬をぼろぼろと伝っていた。鼻の頭が少し赤くなっていた。初めて聞く、弱々しい、絞り出すような響きだった。

「二番でいいから、別れるとか言わないで……! 嫌いって言わないで……私が悪かったから! 嫌なところ全部直すから……」

こんなに焦ること人生でそうそうない。
「言わねえから! マジで何でもするからここ開けろバカ!」
意味を察した俺の返事はほぼ怒鳴り声に近かったと思う。隣の人がいるから、とかこんな時間だから、とかそういう気遣いが頭から飛んでいた。
恐る恐るといった要領でチェーンが外れた瞬間、叩きつけるようにドアノブを捻って、目の前にいた彼女を思いっきり抱きしめる。勢いがつきすぎて、玄関のカーペットに尻餅をついた。
だって、こいつめちゃくちゃ自己中で、プライド高くて、見栄っ張りで、性格だけで考えれば根っからのピッチャー資質の持ち主で。痛いほど知ってるんだよ。それが別れるくらいなら二番でもいいって、切実すぎだろ。控えでもいいって、そんなの俺のこと好きすぎだろ!
自分への腹立たしさと、こいつのいじらしさっつーの? そう言うのを丸ごと大事に思う気持ちが全部がごちゃ混ぜで沸騰しそうだった。
腕の中でしゃくりあげる華奢な背中をさする。シャツにすがり付いて布地濡らしながら震えてるところ見たら、なんかもう愛おしすぎて、真面目に死にそうだった。
「何でお前が謝んの……お前に謝られたら俺立場ねえじゃん」
言葉を自分の中で選ぶのが難しい。きっと不器用な弁明しかできねえよ。
「先にこれだけは言わせてほしいんだけど、浮気とか、他の相手とか、そういうのないから」
ぽつぽつと区切った言葉を言い聞かせるように。伝わってるだろうか。
「俺が悪かった。全部俺のせいだから、お前はなんも悪くないから、謝る必要ねえから」
顎を掬うと、こちらに視線を合わせようとはしないが、顔に触れた手を振り払われもしなかった。
「……キャプテンと話して」
「うん」
「悔しくて……私ばっかり好きだ」
「こっちの台詞」
「御幸が別れ話しに来たかもって一瞬思ったの。ごめん、終わらせたくないから話したくなかった」
「あー……、そういう」
「だって全然連絡ないから。愛想尽かされたって思うでしょ⁈」
キッと睨まれる。それも束の間「もうやだ」という言葉とともにしゅるしゅると顔を下げられた。こんな泣き方を人前でしたことなくて、一息ついて俯瞰したら恥ずかしくなったんだろう。
「……全部御幸のせいだから」
だんだんといつもの調子に戻ってきた。あやすように抱きしめ直して「うん、俺のせい」って答えてやる。
すると「……忘れて」と涙目で全く迫力ない中、再度睨みつけるように目を細めて言いやがった。「私、泣いてないから」とぶすくれる。涙目で、涙声なのに。さすがに説得力がねえだろ。でもそういう強がりも、可愛いと思ってしまうから相当やばい。
どうしようもなくなりそのまま担ぎ上げ、姫抱きにして足癖悪く靴を脱ぎ捨てた。ズカズカ部屋に侵入して、足で部屋の扉閉めてベッドに押し倒す。
「玄関開けっぱ! 鍵! シャワー! 待てバカ!」
起きあがろうともがく身体を縫い止めて、唇を重ねると少しずつ反撃が緩まっていく。あの日できなかったから、キス自体が半年ぶりだ。この感触めちゃくちゃ好き。シーツに散らばった髪を梳くと、身じろぎと一緒に汗の匂いがした。
角度を変え、舌を入れると、二人分のアルコールでじんわりと口内が痺れる。応えようとしてくれるけど、今日ばかりは俺の方が優勢だ。数ミリ唇同士に間が開くと、つうっと唾液が蛍光灯に照らされゆらゆら光った。ゆっくりとしたたる様子にごくりと喉が鳴る。
服を脱がす時間も惜しくて、半脱ぎのまま事を進めようとする、が、そこで後ろポケットにゴムがないと気がついた。そりゃそうだ。後輩から尋問されるスケジュールだったのに、そんな準備しているはずがない。
上半身起こし、本日数回目の「……悪い」を溢すと「猛省してください」と冷ややかな眼差しを返された。気まずい。
けれど、ズレたブラを直して、俺の耳元に頬を寄せ「……ねえ、ゴムないと私に触っちゃいけないんですか」なんて囁かれたら。
生唾を飲み込んで、今度は優しく押し倒して触れるキスだけ。まだ目が少し腫れて、いつもより弱々しく見える。目元にもキスを落とすと、真正面からまっすぐ俺の顔を見て「ごめん以外の言葉はないんですか」ってそれはそれは不満気に。
「……好き、とか?」
「そこは愛してる、でしょうが」
ちょっと笑って、今度は向こうから唇を重ねてきた。俺はまんまとのせられてしまう。ほら、こういうところ。自分の機嫌を自分で取るために誘導してくれる的な。敵わない、と思うのは勝つつもりが今後ないからかもしれない。

***

後日談その一
めちゃくちゃ恥ずかしかったけど、俺がなんとなく哲さんに感じている微妙な気持ちを吐露してみた。
ほら、お前が哲さんに憧れてたこと知ってるから。からかってた時はお前にこんな気持ちを持つと思ってなかったから。
だから、哲さんの前で泣きそうな顔されたことが、未だにショックだって話。だから、これは俺のわがままなんだけど、頼むから哲さんの前で泣かないでくれ。いや、それ以外で泣かれても困るんだけど。
俺の小っ恥ずかしい告白を聞いたあいつは「ふうん」と鬼の首でもとったかのように笑い、善処すると答えた。

後日談その二。
俺が盛ったせいで、一万円の存在をすっかり忘れていた。無事にあいつに渡ったのは日付が変わってから。
これはギリアウトなんじゃないか。というか、これだけ迷惑をかけておいて、せめてお金だけでも出させてもらわないと割に合わない。
そう思い、約束通り勘定を払うと申し出れば、純さんに「その金はアイツへのお詫びに使え! 律儀に払おうとしてんじゃねえ! 先輩に奢るなんて十年早えよ」と見事に怒られた。改めて平に謝罪した。
また、その場にいた先輩へ一人ずつ、俺から謝罪のメッセージを送った。「俺らの代の飲み会の邪魔やがって!」とか「酒の肴になった」とか「次会ったら殴る」とか「三振しろ」とか散々言われた。下手なフォローがなくて、逆に救いだった。

後日談その三
玄関の扉は朝まで開いていて、ドア前でのやりとりや泣き声が隣の部屋に全部聞こえていたらしい。後日気まずそうな顔で「……お疲れ様です」と声をかけられたらしく、めずらしくあいつが頭を抱えていた。

***

自信家で、自己中で、プライドの高いあいつは「二番でもいい」なんて、とんでもねえことを言ったけど。残念ながら、二は俺の背中にある譲れない数字だ。
だから、大人しく一を背負って、投手らしく、俺のエースらしく、泣くくらいなら怒って、マウンドから睨んでいてほしい。
惚れた弱みのせいで、どんな言葉が飛んできてもストライクなんだよな。