彼女の所在を尋ねた時の、嫌な、とてつもなく嫌な予感が、じっとりと背筋にこびりついている。
一度に作れる復活薬には限りがあると聞いていたし、この場に乗組員が全員揃うとは思っていない。科学の要である千空、ものづくりのキーマンであるカセキ、危機察知のために欠かせない羽京など、中核メンバーから起こしていくのだろうと。
それにしても、十数人はいる仲間たちの中で、彼女が見当たらない理由に違和感を抱いたのも確かだった。
「……なまえはどこにいる?」
「そういえば見ていないな」
コハクが続き、その視線がぐるりと回って、スイカに向けられる。
「……俺から話す」
唇をわずかに動かしたスイカを、千空が制した。
彼女の石像は、瞼を閉じて穏やかな笑みをたたえていた。ふと、かつて聞いたことのある眠り姫の話を思い出す。表情だけ見れば、今にも起き出しそうなほどに自然で。だからこそ全身を覆う灰褐色が異質に映る。
その細い首をぐるりと囲むように亀裂が入っていた。隙間には細かい砂が入り込み、強い風でゆらゆらと頭がぐらつく。わずかに覗く断面は、すっかり色褪せていた。
「……この状態で石化を解くのはリスクがでけえ」
千空がうめくように呟く。
スイカが見つけた時にはすでにこの状態で、手の打ちようがなかったそうだ。何かしらの自然現象、伴う外部刺激のため。
そう。ただ、運が悪かった。
「……ごめんなんだよ」
スイカが震える声で告げた。
貴様が謝ることではない。どうしようもないのは俺たち全員だ。だから、頼むから涙声よりも痛ましい響きで、そんな台詞を吐いてくれるな。
慰める言葉が脳裏に浮かんでは、舌へ乗る前に消えていった。
「なまえがポケットに入れてたんだよ。スイカにはなんて書いてあるのか分からないけど……千空が龍水に渡せって」
立ち去り際、スイカに持たされた用紙を眺める。茶色くなった紙は、ところどころが破れ、一部に黒いシミが飛び散っていた。彼女が撃たれた時の血痕だろうか。傷つけないよう、そっと八つ折りにされたそれを開く。
見覚えのある筆跡が目に飛び込む。
『これは、私にもしもがあった時用です。
万が一道に落としてしまっていたり、間違えて開いてしまったら、以降は読まず、ここで閉じてください。こっそり返してくれると嬉しいです。
本当に何かあった時は、このまま進んでください。』
そんな前置きから始まった。おそらく、ここに籠城してから書いたのだろう。
以降の文章は遺書らしく、もし両親が起きることがあれば自分は行方不明ということにしてほしい、とされていた。生きているかもしれない、そんなわずかな希望を残していたいと。
また、測量用の持ち物は、クロムに譲渡して欲しいとあった。チェルシーがいれば大丈夫、とした上で、三角測量や導線法について図入りの説明がなされている。
そして、最後に俺の名前を見つけた。
『龍水君に、伝えてください』
その後に短い単語が続き、しかし読むことは叶わない。上から黒で塗りつぶされていたからだ。裏から透かしても、この紙の厚さで筆跡は分からない。
しばし悩んだ末、ゲンの元を訪れる。ゲンは彼女の手紙を一読した後、なるほどね……と再度丁寧に折り畳んだ。
「なまえちゃんは、龍水ちゃんのことずっと好きだったよ。口止めされてたんだけどねえ、つまりはそういうことじゃない?」
隣で倒れた彼女に、もはや痛覚が麻痺した状態で、告げた言葉がある。「答えは目覚めた時に聞かせてくれ」と。投げ出された、細く、白い腕に指を伸ばした時、出血のせいで彼女の指先が冷たかったのを生々しく覚えてもいる。
ゲンは「これはサービス」として、言葉を続けた。
「アメリカに向かう船の中でさ、なまえちゃんと話したわけ。龍水ちゃんのどこが好きなの? って。そしたら『誰のものにもならなそうなところ』なんだって。他の人のものになったら悔しいって。誰のものにもならないから、安心して好きになれるって」
先ほどとは違いくつくつと楽しげに笑う。
七年前、肩越しに聞こえた彼女の声を鮮明に覚えている。響く銃声、誰かが地面を蹴る音。緊迫感の中、その透明な声色は、違和感を伴いながらすとんと落ちていったのだ。
ゲンは手紙を俺の手に握らせ、すうっと息を吸い込んだ。
「さっきの話。なまえちゃんが、手紙の中で龍水ちゃんの名前も塗りつぶしてたら言わなかったんだけどね。メッセージだけ消したのは、なまえちゃんなりに迷いがあったってことでしょ」
「いつもながら、貴様の言葉はやたらと説得力があるな」
「そういう仕事だからね。それに大事な船長が沈んだままだとさすがに困るのよ」
「それは……そうだな」
頬の筋肉を緩ませる。じんわりと痺れに近い感覚が広がった。無意識に強張っていたらしい。
「まずは、改めてスイカを労わねばならんな」
「そーそー。その後はとりあえずさくっと月に行って。いつなまえちゃんが起きてもいいようにしとかなきゃ」
数年ぶりのフィンガースナップはやたらと乾いた音がした。
***
大樹と杠の挙式は盛大に催された。
ペルセウス号の初期造船のメンバーも各地で文明を取り戻すべく尽力している。しかし、人類復興の立役者である二人の晴れ舞台を反故にする人物はおらず、それぞれが思い思いの方法で祝杯をあげた。
例に漏れず、龍水財閥からは船上パーティーを提供する手筈になっている。当然船長は俺自身だ。クルーズ自体は行程に含まれているものの、余興などは参加者が分担していることもあり、しばし披露宴を中座することにしていた。
港へ停めていた客船へ乗り込むと、デッキでは立食パーティーの準備がつつがなく進んでいる。ざっと内装を確認してから、最後に船長室の扉を開ける。ひらけた窓から、沈みゆく橙色と水平線が望んだ。
いつか見た甲板の情景が、脳裏をすり抜け、ふわりと溶ける。記憶の中の彼女はいつまでも歳を取らない。
待つこと自体は造作もない。待つという行為に希望があるのだから。ただ、彼女と最後に会話をして、石化の期間を含め十四年の歳月が流れた。俺にだけ容赦なく流れる時間が、たまにどうしようもなく恨めしくなる。
こんな日に、こんな日だからだろうか。感傷的な気持ちに襲われる。あの時と同じ顔を並べて、幸せそうな姿を見送った。真っ白な世界だからこそ、一雫垂らされた黒はより際立つ。彼女だけその輪にいないことが、俺はきっと耐えられなかったのだ。
「……なまえ」
心の中にだけ留めていた名前。誰もいない空間に、その音は反響した。わずかに本来の自分の声とは違って聞こえるエコー。まるで、誰かの返事のようにも思えてしまう。
「なまえ」
もう一度、声を絞る。
俺を見上げて。小首を傾げて。いたずらに笑い、眉尻を下げて。
俺は彼女に、どうしても、また会いたい。
会場へ戻るため備え付けの階段を降りると、つい数十分前まで隣のテーブルに腰掛けていたはずの羽京と遭遇した。と思いきや、彼以外の招待客まで全員揃い踏みで、何やら遠方の空を見つめている。何かの余興だろうか。
皆が手ぶらの中でやや目立つ、かなり小型化したとはいえ、旧現代のスマートフォンと比べれば幾分か大きな携帯電話を手にしている千空を見つける。
「追加の祝電か?」
「いや、ゼノだ」
そこでふと、ゼノとスタンリーも、ゲンと同じく二日目のみ参加であったことを思い返す。明日対面で会えるにも関わらず、このタイミングでわざわざ連絡とは。余程急ぎの用事だったに違いない。
「速達の結婚祝いを受け取ってほしいんだと」
「フゥン……? それでこの騒ぎか」
「話が早くておありがてえ」
顎で水平線を示される。ぼんやりと滲む日の中に鳥型のシルエットが揺蕩っている。否、あの挙動は小型のジェット機だ。みるみるうちに近づいてくる鉄製の鳥は、高度を下げて水面をなぞった。海上に長い巻雲を引いて、輝くしぶきが重力に引かれる。
エンジンを切り、余力で港付近まで近づいた単発ジェット機の頭が開くと、無骨なヘルメットが操縦席に覗いた。抜き取ると無造作な銀髪が溢れ、気だるげな声がこちらへ飛んでくる。
「Sorry. You are in the middle of a ceremony, right?」
その余裕ありげな表情は、初めて顔を合わせた時から変わらない。
「久しぶりに会えて嬉しいぞー!」
噛み合わない大樹の返答に、日本語を理解したのか、単に主賓の歓迎が嬉しいのか、スタンリーは笑みを浮かべた。
そして、徐に後部座席を振り返る。もう一人。彼に比べれば小柄かつ細身なシルエット。
「……You see?」
元軍人の囁きと同時に、皆の視線が二人目のゲストへ注がれる。それまで沈黙を保っていたその人は、レンズ越しに俺たちを一瞥して自身のヘルメットへ手をやった。
溢れた金色の毛先、頭頂部の焦茶が背後から受けた西日で輝く。首元にはチョーカーのような黒いヒビ痕。しかし、顔に影がかかり、肝心の表情は窺えない。
背筋を優しい羽衣がすっと撫でたような、不思議気配。咄嗟に駆け寄ろうとするものの、生まれた期待が逆に体を縛る。
たとえば、この瞬間にも、俺は夢から覚めてしまうかもしれない。そして、大切な仲間の披露宴へ出かけるため、支度を始めるかもしれないのだ。
心臓が早鐘を鳴らして、一秒が何千倍にも増幅される。太陽に雲がかかり、光のベールが柔らかく影をいなした。
「おはよう……って、さすがに寝すぎだよね」
スタンリーのエスコートで陸地へ足をかけた彼女は、懐かしい姿をしていた。
瞬きをする。瞳が水分を含んで潤む。
「タイムマシン研究の副産物なんだって。私も詳しい説明はまだなんだけ……」
言葉は耳に入らなかった。波打つ感情に従い、もつれかける足を動かし、彼女に触れられる距離まで。
腰に腕を回し抱き上げると、体勢が崩れないよう咄嗟に俺の肩へ手をかけた彼女が「おわっ!」と声をあげた。その後、自分の声に驚いたのか、照れたようにくすくすと笑う。
いつだったか、驚いた際の反応が「カ行」にならないのだとぼやいていた。俺にとってはその反応すら愛おしい。
「……なまえ」
言いたいことは山ほどあったのに。
「なまえ」
回らない口は彼女の名前をただ繰り返す。その間も、目の前の女性が頷く光景を瞳が焼き付けていた。
「ごめんね」
桜色の唇が動き、白く小さな歯が覗く。
「……石化して半年くらい経った時かな。そのあたりから意識がないの。嫌になるよ、皆が大変な時に何もできなかった。ううん、大変なんて言葉じゃ全然足りない」
彼女の謝罪に黙って首を振る。
「……何もしていないはずがない。俺は、そうだ。少なくとも俺は」
普段なら即座に決断を下す口が思うように動かない。気がつけば、頬を水滴が伝っていた。その液体は雨などではなく、俺の目から溢れたものだった。
「なんで龍水君が泣くかな」
「……なまえもだろう」
返答通り、なまえの瞳も溢れ出る涙で決壊し、顎から床へ滑り落ちていた。
「本当おかしいよね……私にとっては半年ぶりのはずなのに。すごく変」
ずっと、何十年も会いたかったような気がするの。
彼女は頬を濡らしたまま微笑んだ。その姿は、今この時世界で一番美しい何かだった。
後にゼノが語った話によると、今回の手法の功労者は自分ではなく千空らしい。タイムマシンに関係なく、単純に彼女を復活させる方法を模索していたのだそうだ。言葉にせずとも分かっている。若き天才科学者は、またしても一人の人間の世界を救ってしまった。
この復活は「アンドロメダ法」という新たなフローだという。秋になれば同じ名前の星座が、夫ペルセウスと並び天の川に見つかるだろう。
***
「なぜ俺へのメッセージを消した」
数時間前に一人で訪れた船長室は変わらずにしんと澄んだ空気が漂っていた。
待ちに待った問いかけを二人きりになったタイミングで切り出す。なまえは静かに背伸びをして、おそらくまだ赤い俺の目元を申し訳なさそうに見上げた。
「そっか。あれ読んだよね……」
いなくなった人からの思いって、なんというかずるいじゃない?
困ったように頭をかく。
「知ってもらうだけでいい、は自分本位かなって。でも、何も伝えないつもりでいた、ってそう思われるのも怖くて。具体的な言葉があると軽くなっちゃう気もしたし……」
「じゃあ、あの黒塗りは」
「何かを消したわけじゃないの。あれが原文」
呆気に取られた。
ここ数年、なまえの最期の言葉を考えながら過ごしてきた。それごと彼女の手のひらの上だったわけだ。
「本当にお騒がせ女というか。ごめん、面倒で……船乗りの勘で龍水君にはバレてた、とか?」
的外れな指摘を受けて、俺は完全に泣き笑いの表情になってしまった。
誰のものでもない。世界一の欲しがりは、ずっとただ一人の彼女のものだった。