*
『先日はお世話になりました。お礼がしたいので、もし来週のどこかでよいタイミングがあれば教えてください。直近忙しければお構いなくです。』
通知を鳴らしたのは、感嘆符ひとつない簡素な文章であった。
他人との接点が必ずしも多いと言えないSAIは、まず宛先ミスを疑った。しかし、宛名には紛れもなく自身の名が記されている。
WhatsAppではなく、メール媒体。少なくとも、インドでの普及率が非常に高いアプリを使わない人間であれば、該当者はかなり絞られるはずである。が、周囲に思い当たる節はない。
数秒後、最後に沿えられている署名を見て、ようやく背景を察する。つい流してしまったが、改めて確認すれば頭から日本語で綴られていた。
それにしても、差出人の性質と内容の素っ気なさが、あまりに一致しなさすぎではなかろうか。
『平日十九時以降であれば空いています。』
要点だけを返す。一瞬悩んだものの、相手の書きっぷりに準じて感嘆符の使用は避けることとした。この記号が地雷、という人間にはまだお目にかかったことがないものの、念には念を、だ。
伸びをして、スマートフォンの画面を消灯する。
──ぷつん。
その瞬間。手元と同期して、糸が切れるように意識が落ちた。
木組の天井がSAIを見下ろしている。窓から差し込む光はごく少量で、時刻は夜明けの少し前といったところだろうか。
やけにリアルな、懐かしい夢を見た。
彼女と、二度目の食事を約束をした時のこと。これまで思い出す機会こそなかったが、脳自体にははっきりと記憶が残っていたらしい。
インドネシアに到着してから、およそ一年が経過した。復活者の数も日に日に増え、ゴムの「街」としても、差し支えないくらいの賑やかさになりつつある。
稲作も順調。クロムとスイカへの指導も進み、先日三角関数までを修了した。若干飛ばした単元もあるが、履修具合で言えば日本の高校二年次程度だ。
数式での理解が必要な構造力学等は先としつつ、なまえもロケット製作の観点から選択した素材について、特別講義を行っている。意欲に満ち溢れた生徒へ、各金属の特徴を丁寧に説明していく彼女はとても楽しそうに見えた。
一番後ろの空いたスペースに腰掛け、溌剌とした、心地よい抑揚の声をぼんやり聞いている時間。SAI自身もやるべきタスクを持っているため、毎度付き合うわけにはいかない。けれど、日常から切り離されたそのひと時が、彼は好きだった。
改めて、プログラマーは目を閉じる。寝返りを打つと、間を置いて自身のシルエットにベッドが沈み込んだ。あわせて、思考も眠りの淵へ腰掛ける。
まぶたを透かし、うっすら感じる朝の気配。眠たい瞳がスクリーンを覗いている。まるで一人称視点の映画だ。頭の片隅で開幕ブザーの真似事をすると、先ほど見た夢の前段を脳が回想しはじめた。
*
「あの、ここの学生さんですか?」
なまえは、偶然通りすがった若い男性に声をかけた。
昼到着の便を用い、先刻彼女ははじめてインドの地を踏んだ。空港のゲートを潜った瞬間、空気に溶け込む独特のスパイス臭に驚いたばかり。生まれ育った日本、駐在地のタイとは、前提とすべき点がそもそも異なるように思える。
案の定、目的地へ向かうのも一苦労だった。英語、スマートフォンの翻訳機能を駆使したヒンディー語を使い分けるところからはじまり、その上で想定時間をかなりオーバーしている。
インド工科大学ムンバイ校へ辿り着いたころにはすっかり汗だくで、元々化粧っけがないとはいえすっぴん同然である。眉毛が残っているのがせめてもの救いだ。なまえは、ジャパンブランドのペンシルに深く感謝をしながら玄関を抜けた。
世界的に優秀な人材の経歴には、共通点が多々見られる。そのひとつの基準が出身大学だ。インド工科大学は、マサチューセッツ工科大学と並び、ことエンジニア界隈においては名門中の名門。「IITブランド」とされることもある。
研究室のレベルも非常に高い。彼女がここを訪れた理由も例外ではなく、先日の学会で興味深い発表を行った流体シミュレーション専攻の教授との面会を目的にしている。
しかし、安心したのも束の間。平面上に広い校舎内で、あれよあれよと迷子になってしまった。スーツケースを引く腕にもじんわりと疲労が溜まっている。アポイントまでの残り時間だってそう長くはないのに。
先ほどすれ違った小柄な青年は、手元の本を読み耽りながら早足で通り過ぎていった。学生、殊更理系というのは忙しいものである。道を行く彼らは例外なく先を急いでおり、なまえは完全に声をかけるタイミングを失っていた。
そんな時に現れた彼。ホリが深い中に、どこか東洋人らしい柔和さを残している。この人は怖くないかも、という一方通行の親近感。加えて、急ぎ足でもないようだ。
えーい、いってしまえ!
半ば反射で判断したなまえは、いきなり本題をぶつけることとした。
「すみません、実は迷ってしまって。アニク教授の研究室へ行きたいのですが、道順を伺っても?」
「あ、えっ⁈ いやっ、僕は別の大学で教鞭を……。今日は、そのっ、所用で」
「そうなんです⁈ 失礼いたしました……! お若く見えたので」
「いえ……」
現在困っているのは明らかになまえ側なのだが、なぜか相手の男性はそれ以上に焦った表情を浮かべている。あまり人慣れしていないのだろうか。そのわりに、インド英語ではなく、彼女へ合わせたニュートラルに近い発音。態度と裏腹に、洗練された気遣いを感じる。
また、改めて正面から向き合うと、彼の顔はギリシャ彫刻のように完璧なバランスでパーツが配置されていた。正直あまりにも整いすぎていて、人形のようにも思える。人間そっくりのロボットを仮定しても、つい納得できてしまうのがこの大学の怖いところだ。
そんな話はともかく。振り出しに戻ったなまえは再度頭を抱えた。
「……あのっ、僕から聞いてみます?」
と。彼女の表情が目まぐるしく変化する様子を見兼ねたのか、彼がおずおず切り出した。
「向こうにっ、さっきまで清掃の人が。ただ、その人、英語がわからないかもしれなくて。僕が話した方が早いかな……って」
「いいんですか⁈ 是非お願いします……!」
渡りに船とはこのことだ。さらに通訳まで申し出てくれるとは、なんともありがたい。
「さっき到着したばかりなんです。母国の大学と建物の雰囲気がけっこう違うので、なかなか道順が難しくて……平屋っぽいというか」
「母国?」
「日本です。いらしたことあります?」
「あっ、えっと、日本……じ、実は僕も半分そうで。あっ、その、母がインドで。こっちに来たばかりは、僕も困ることが多かった……ような」
「えー! 日本で過ごしたことあるんですか? こんなところで同郷の方に会えるなんてびっくり!」
顔立ちに親しみを感じる理由がわかり、こくこくと何度も頷いてしまう。彼に案内され、なまえはテラス状に設置された渡り廊下を進んだ。
廊下の十字路付近、床を履いていた男性職員は、あっさりアニク教授の研究室を教えてくれた。なんと別の棟だったらしい。どうりで見つからないはずである。
なまえがヒンドゥー語に疎いことを察した職員は、差し出したメモ帳に簡易的な地図まで書いてくれた。チップを渡すと、華麗にウインクを決めて清掃へ戻る。陽気な方だ。
腕時計を見やり、定刻まで幾分か余裕があることを確認する。ほっとした彼女は、ややあと、そこまで案内をしてくれたハーフの青年へ頭を下げた。
「本当に助かりました」
「よかった……。女性一人は危ないし」
外務省のデータによると、インドの治安危険度はレベル一。空港やタクシー乗り場など、外国人観光客を相手とした詐欺は少なくない。
一方、金融街でもあるムンバイは、デリーなどと比べてかなり安全とされている。なまえが大学へ向かう途中も、健康的に肌見せを行う人は多く見られた。宗教上の配慮は必要であれ、若い女性は露出を避けなければ、と安易にならないあたり、犯罪への温度感が伺える。街並みを望んで、胸を撫で下ろしたものだ。
だからこそ彼の心配りは「女性」扱いされている、という事実が浮き彫りになり、こそばゆかった。
「えへ……どうも」
返事がやたらと砕けてしまったのも、半分以上照れ隠しである。
「最初に名乗ればよかった。私、みょうじなまえって言います。エンジニア職に就いていて、今日は技術相談に」
「ああ、だから一人で」
「はい。今はバンコクに駐在中なんですけど、常に人手が足りなくて。私みたいな新参でも単身で行ってこいされちゃうんです」
「そうなんだ……あっ、僕はSAI、です。別の大学で数学を教えてて」
そこで、なまえは初手から持っていた疑問を問いかけることにした。
「お年が近そうだと思ったんですが……もしかして、講師じゃなくて教授、だったり?」
「い、一応」
「本当にっ⁈ 私一九九三生まれの代なんですけど」
「あ、僕もっ、同じ年で」
「同学年⁈ それで教授⁈ すっごい! どんな人生⁈」
なまえの食いつきに、SAIは苦笑いを浮かべた。
「そんな大したことじゃ……食べるためにやってるだけで」
彼の謙遜によって、教授の地位を志す、そこそこな数の博士がダメージを食らったことを察する。悪い人ではないが、嫌味なく致命傷を負わせるタイプなのかもしれない。
なまえが返す言葉を探している時だった。
「────!」
左側から、複数の金属をひっくり返したような、けたたましい音が響いた。続いて、重い肉が叩きつけられる衝撃。悲鳴。怒号。鼓膜に痛い叫びに、びくり。肩が反応する。
何だ。
一体何事だ。
慌てて周囲を見渡し、音の出所を探す。目に飛び込んできた光景に、なまえとSAIは息を飲んだ。
学生と思われる若者同士が、廊下の先で掴み合っているのである。その勢いは非常に激しく、羽織っているシャツのボタンが一部飛んでいるように見えた。
顔を真っ赤にして、唾を飛ばしながら互いに何かけしかけている。早口のヒンディー語ゆえ、残念ながらなまえにその意味はわからない。しかし、状況ならば理解できる。
彼らを止めに入る学生がさらに複数人。倒れた椅子。そして、最中に突き飛ばされたと思われる、尻餅をついた青年。床に擦れているのは滴った血痕かもしれない。
──喧嘩だ!
動いたのは脊髄による判断だった。
「ちょっと、やめなさいってば!」
「……えっ? えっ! あのっ! 嘘だろっ⁈」
背後でSAIが叫んでいる。彗星のごとく突っ込んでいた彼女に度肝を抜かれ、一瞬反応が遅れたのが仇になった。そのタイミング、荷物を置き去りになまえは十数メートルを疾走し、学生たちの元へ到着していた。
「絶対痛いでしょ⁈」
まくしたてる言葉は、まさかの日本語である。先ほどまで交わしていたSAIとの会話ですら英語であったのに、だ。なまえ自身にも、現在その自覚はない。
「ファイトがダメとは言わないけど、暴力以外の方法でどうにかならないもの⁈ せめてディベートで蹴りをつけるとかにできない⁈」
知らない女が、知らない言語で何やら言っている。しかも、なぜか当事者である自分たちよりも怒っている。
数秒前まで、成績の茶化しから発展したいざこざにより殴り合っていた学生は、片やまぶたを切りながら、片や頬に青あざをつくりながら、ぽかんとなまえを注視した。
「君たちが宇宙飛行士だったら、全員帰還前に死んでますから! 今ごろ宇宙の塵!」
ぷんすこ、という擬音がしっくりくる動作で、彼らへ説教を続けるエンジニア。喧嘩を仲裁するという行動こそ正であれ、詳細を知るといかんともしがたい。直前まで憤っていた学生たちがかわいそうにすら思えてくる。
一部始終を不本意ながらも見守ることになったSAIは、思わず「何だあの人……」と独りごちた。
同郷かつ同年代の人物との予期せぬ遭遇。SAI自身、この偶然にほんの少しだけ嬉しさを感じていたのだ。しかし、初見の利発そうな印象に騙され、いわゆる「やばい」人に引っかかってしまったのかもしれない。
比較対象に、なぜか島国へ残してきた弟の姿がよぎる。彼に似ている人間がそうそういるとは思えない。が、よくも悪くも周囲を巻き込む「お騒がせ」な性質。その点については近しいものを感じてしまった。わざわざインドまでやってきて、台風に巻き込まれるのはごめんである。
「……ごめんなさい、つい」
踵を返したなまえは、ようやく、彼から送られるなんとも言えない視線に気がついた。耳まで真っ赤にさせながら、手持ち無沙汰に目を泳がせる。
これ以上彼女に関わるのはやめておこう。SAIは心に刻むのだった。
*
あっさり誓いが破られたのは、それから二時間後のことである。
SAIが届け物ならびに諸々の申請を済ませ、校舎を後にしたタイミング。外庭のベンチに腰掛け、スーツケースの中を探っているなまえと遭遇したのだ。リアルタイムアタック並のスピード感に思わずその場で立ち尽くした瞬間、見事に視線がかち合う。彼女の表情はどこか焦っているようにも見える。
良心の呵責から、このまま無視するわけにもいかなかった。
「……帰らないの?」
「……えーっと、その、お恥ずかしい話」
なまえは、口元へ手をやりながら「お財布、なくしちゃって」と告げた。直後、盛大に彼女の腹が鳴る。それはもう盛大に。
「あっ……あはは、なんですかね、変わった虫、鳥? だなー、なんて」
「…………わかったよ。とりあえず移動しよう。奢るから」
日本にルーツを持つよしみである。あまりにも下手くそな誤魔化しに呆れつつ、SAIは肩を落とした。ここまで来ればもうどうにでもなれだ。
「本当に、大変ご迷惑を……」
カレーの芳しい香りが漂っている。テーブルを挟んで対面する彼へ、なまえは深々と頭を下げた。
「地図を書いてもらって、チップを渡した時まではあったのに……落としたのかも」
「……あー、じゃあ、多分あの時だ」
なまえが猛然と喧嘩へ突撃、否、仲裁しに行った最中。本人はもちろん、SAIも、周囲の学生も、彼女の鞄から目を離していた。
経緯を想像してしまうと、責任の一端はSAIにもある気がする。何を隠そう、当時スーツケースの最も近くにいたのは彼なのだ。
不幸中の幸いというべきか。パスポート、最低限の軍資金、緊急用クレジットカードは別ポケットにしていたらしく、宿泊予定のホテルや、明日の帰国に大きな影響はないらしい。
「……無事に、教授へ技術相談はできたの?」
「そこはばっちり! 今後の方針もまとまりました」
チャパティを咀嚼し終えたなまえがピースサインをよこす。
「アグニ教授の知見をお借りできるのは本当にありがたくて。先生は私たちのテイアなんです!」
「テイア……?」
アグニという学者の、ミドルネームか何かだろうか。
「『テイア』は四六億年前、原始地球に衝突した仮想惑星の名前です。ジャイアント・インパクト説ってあるでしょ? テイアがぶつかった衝撃で、今の地球と月ができたって説」
つまり彼の参画は、この国の宇宙開発におけるジャイアント・インパクトなんですよ!
彼女は、それはそれは熱い眼差しで、かたく拳を握りしめた。勢いに押されながら、SAIは辛うじて相槌を打つ。
「へっ、へえ……みょうじさんは、宇宙、好きなんだ」
なまえは、きゅっと目を細めて「大好き!」と宣言した。続けて何かを言いかけ、唇の動きがはた、止まる。
「えーっと……すみません。あの、名前。苗字の方ってお聞きしても? これだけお気遣いいただいて、いきなりファーストネームは申し訳なくて」
そういえばそうだった。
数刻前まで、袖が触れ合う程度のわずかな縁だと思っていたのだ。図太い中へ垣間見える故郷由来の慎みによって、自身のフルネームを明かしていなかったことを今更追求され、SAIは若干の気まずさに視線を外した。
しばしの逡巡。
「……七海だよ。七海才」
ありがとうごさいます。頷いたなまえは、彼の名前を小さく反芻して、微笑む。
「ナナミさん。漢字は『七つの海』で合ってます?」
「うん、合ってる」
「決めつけるのは失礼かもしれないんですけど、もしかして……」
彼女が何かを探るようにSAIの顔を覗き込む。反射的に、心臓を冷たい手でなぞられたような寒々さを覚えた。この苦さを味わうのは久方ぶりだ。
勘のよい人間というのはどこにでもいる。しかも、彼らは大抵こちらを貶めようという悪意を持っていない。「もしかして、『七海財閥』の?」彼女の口から、その単語が飛び出したとしても、責めるわけにはいかないのだ。それが、気安く触れられたくない部分であったとしても。
「──もしかして、海派です?」
「…………は?」
なんだって?
「海派か、宇宙派か。好みって分かれるじゃないですか。『七つの海』なら、さすがに確定で海派かなって」
海か、山か、ではなく?
ラスボスは主人公の父だろうと最後の迷宮に挑んだら、これまでの伏線は何だったんだと言わんばかりの全く関係ない敵が出てきたような。そんな拍子抜け感と、脱力感。
「ごめん……海か、宇宙か、好きな方を選べってことで、いいの?」
「はい! どっちですか?」
「…………いいよ、宇宙派で」
「わ! 本当にっ⁈ 海も捨て難いんですけどね、これについては優劣じゃなくて好みの話なので!」
なまえは、これまたとびきりの笑顔を浮かべ拍手をした。SAIの心情を正しく表現すれば、「どっちがよい」ではなく「どちらでもよい」だ。けれど、わざわざそれを口にするほど無遠慮ではないつもりだった。
「……ひとつ聞かせて。どうして、海と宇宙の二択に?」
「シンプルに似てるから? どっちもブラックボックスなんですよ」
地球上の海の、およそ九十五パーセントは深海である。この空間は、いまだほとんどが謎に包まれている。同様に、宇宙の九十五パーセントは、電磁波でも観測ができないダークマターだ。
未知の物質、生物を探るという点で両者の共通点は多く、実際、宇宙開発に用いる設備を深海探索に流用することすらある。
また、マリアナ海溝のチャレンジャー海淵は、およそ一万千キロもの深さに位置している。一方宇宙のはじまりは、国際航空連盟により高度百キロ。単純な距離で言えば宇宙の方がアクセスしやすい。海よりも宇宙の方が近いだなんて、なんとも不思議な話である。
向かい合って詳細を聞かされると、意外にも関心を持ってしまうものだ。SAIは素直に「そうなんだ」と、頷いた。
「みょうじさんは、どうして宇宙に興味を?」
「小さい時に見た、すばる望遠鏡のファーストライトがきっかけで。真っ暗だと思ってた夜空、本当はこんなに明るかったんだって。すごくびっくりして、それから虜です」
「……本当に好きなんだね、宇宙」
先ほどと同じ相槌。今度は本心からだった。
「七海さんは? 趣味とか、好きなものとか」
「それで言うと、ゲーム、かな」
「私と同い年で教授にまでなっちゃうのに、まさかeスポーツまで強い、とか? 才能のかたまり……?」
「やるのもっ、好きだけど」
……本当に好きなのは、つくる方だ。
SAIはほどけるように微笑んだ。
日本を飛び出して以降、一人プログラムに没頭する時間はあれど、誰かへその熱の片鱗を語ったことはあっただろうか。それこそ最後にプログラムの話をしたのは、異母兄弟相手が最後かもしれなかった。強制される日々、SAIはゲームに救われていた。周囲から「才能」だとされる数学への理解が、プログラミングに必要な技能と一部重なること。その点は、呼吸さえ痛む生活の中で、一筋の喜びだった。
現在、数学をスキルとして利用できているのも、その誇りが胸の奥深くに残っているからだろう。ゲームのおかげで、彼はギフテッドを憎まず済んだ。
いつぶりだろうか。誰かに、自分はゲームをつくりたいのだと、それが何より好きなのだと、ありのまま、素直に思いを吐露したのは。
語りだすと止まらなかった。気がつけば、周囲はすっかりオレンジ色に染まっている。SAIの話を終始興味深く聞いていたなまえは、ふと自身のスマートフォンを取り出した。画面を操作し、見覚えのあるアイコンをタップする。
「私も三年くらい前からずっとハマってるゲームがあって。ご存知です? 『XAI』。七海さんの下の名前と同じ読み方だから、運命かも」
「うん……知ってる」
「そりゃそうか、大人気ですし。私も同期から『絶対やりなよ!』って勧められて」
彼はそのゲームの名前を知っていた。
さらに言えば、プログラミングにかかった時間も、アップロードの瞬間に感じた胸の高鳴りも知っていた。
感慨深く我が子を見つめるSAIの対面で、なまえがふと首を傾げる。その視線は『XAI』のトップ画面に向けられている。
「ひとつだけ不満を言うと、このゲームってフレンド機能がないじゃないですか。ハイスコア出た時とか共有したくてもしづらいのがネックですよね。いちいちスクショするのがちょっとだけ面倒で……。七海さんのスコア気になるから、機能があったらしたかったなーって」
「あのっ、フレンドシステムって、やっぱりあった方が?」
「結局中身の方が大事だとは思いますけど、個人的にボードゲームも好きだから気になって。皆で囲むと楽しいじゃないですか。同じゲームをやってる人と話せたら嬉しいし」
それまで重要視していなかった視点に、SAIはこくこくと頷いた。なまえはその仕草をこれからゲーム制作に取り組む青年の情報収集として捉えたようだ。まさか開発者本人に直接改善希望を申し伝えたとは思いもしない。その距離感は、SAIにとって心地よいものだった。
「いつか七海さんが、自分のゲームを完成させた時は教えてくださいね。ファン一号予約ってことで。フレンド機能があったらそっちの一号も、なんて」
「……わかった。約束する」
駆け出しの宇宙工学者は、小指を差し出しながらまっすぐ眩しい笑顔を見せた。
*
「二、三年はバンコクにいるので。教授ともお話しできたし、ISROにもお邪魔することになりましたし、けっこうな頻度でインドには来るかなって。バンガロールとムンバイが、多分半々くらい」
だから、また会えると嬉しいです。
なまえをホテル付近まで届けたSAIは、何度も振り返っては手を振る姿を見送った。暗い街並みの中で、ゲートの入り口に立つなまえのシルエットはやたら眩しい。
プログラマーの青年は平たんに曇る空を見上げ、息を吐いた。
──何とも目まぐるしい一日だった。
ふと、彼の頭の片隅。彼女の告げた「テイア」という単語が、星のように瞬く。
噂のアグニ教授を知らないSAIにとって、原始の地球にぶつかり、大きな衝撃を与えたテイアなる惑星は、なぜか彼女自身である気がしてならなかった。