Triangler アンチテイル

宝島にて、ロケット発射場の整備を担当していたみょうじなまえに、唐突な帰還依頼が入ったのは──青葉香る、五七五二年五月のことだった。

「──娯楽メディアが欲しい!」

船長は高らかに宣言した。
二ヶ月前、桜前線が本州を駆け上がるよりも少し早く、一行は宝島経由で日本凱旋を果たした。十年ぶりの帰還。それは長い、長い道のりであった。
しかし、彼らの歩みは止まらない。ダム、巨大水力発電所と、大規模な設備が着々と完成しつつある。
当然、マンパワーもこれまで以上に必要。コーンシティではナイタール液の量産体制が確立され、世界中で加速度的に人々の復活が進んでいた。並行して、ゲンを中心に据えながら、新たな復活者へこれまでのあらましを説明する会も都度開催されている。
その最中の発言である。
三七〇〇年の眠りを経て、つい最近起こされたばかりの者たちへ向けた、彼なりの配慮の結果だと。彼の兄に言わせれば、心に楽しみがなければ、人は生きていけないのだからと。誰もがそう考えた。
よって、「メディアを牛耳るものが全てを手に入れる」龍水が地獄にもそうそう見当たらないであろう悪人面を覗かせていたことは、ペルセウス号での日々を共にしたメンバーの胸中にのみ秘められることとなった。

とはいえ、である。
どのような経緯があろうと、結果よければ全てよしであるのも、また事実だ。
カセキにより存外あっさりと生み出されたブラウン管テレビへ、適切な電源、さらに北米から届けられたとあるクラフトがつながる。
──CPU 16bit 60kHz
  512kbit ROM 16kbit SRAM
いくつかのパーツに分解され、専用施設に運び込まれたそれらのスペック。
「……ファミコンとっ、おんなじだ」
クレーンで持ち上げられたそれに片手を添えながら、プログラマーの青年は噛み締めるように呟いた。
石の世界で、コンピューターが電子の産声をあげた。

すでにパンチカードの存在や使用方法を理解していたSAIはさておき。その他の実働チームへ千空が行った説明によると、現段階でのプログラム読み込みにおいて、手間とクオリティの釣り合うラインがちょうどここ、とのことだった。
穴の有無によって二進法の〇・一を判断する。旧現代でも使用されていた、マークシートに近い手法である。
技術発展により、プログラミングコードが簡易化された旧現代。本来であればこのパンチシートでさえ、手足のように使いこなせる人間などそういないはずなのだが。
「超絶お詳しい専門家が待ってからな」
積み上げられたカードを一心不乱に消費するSAIを横目に、千空は口角を上げた。この短時間ですでに数種類のプログラムが完成しており、彼の周囲へ無造作に散らばっている。
龍水は、そんな兄の様子を殊更眩しそうに眺めていた。

しばらくして、熱を持った穴あけ機からSAIは手を離した。単純構造の機械とはいえ、酷使は劣化の要因だ。
散らばるパンチカードを一枚手に取り、感慨深く頷いたプログラマーは、「あっ」と声をあげた。何事かと、皆が彼に注目する。
「……そういえばっ、みょうじさんって、今どこに?」

こうして、前段の緊急呼び出しにつながるわけである。

──アルミニウムの製造過程で、なんらかの大問題が生じた?
よほどの理由がなければ、絶賛作業中の人間の手をわざわざ止めたりしないだろう。考えられるケースをいくつか想定し、なまえは宝島と関東の拠点をつなぐ定期船へ揺られていた。
到着するや否や、深刻な面持ちで状況を尋ねる。一方、出迎えを担当した羽京の表情は気楽なものだ。
「とりあえず、移動しながら話そうか。あ、お腹空いてない?」
痛切具合の温度差に、うっかり風邪をひきそうである。
首をひねりつつ、そこでようやく空きっ腹を実感したなまえは、ありがたく昼食をいただくことにした。二人しておにぎりへかぶりつきながら、やや行儀は悪いものの歩を進める。
「電力源に近い方が何かと便利だって、ダムの近くに設営したんだよ」
どうやらこの先、噂のコンピューターがあるらしい。数日前に待望のそれが到着した旨は、宝島の時点で聞かされていた。
「物理演算プログラムを組みたい、とか?」
力を貸せるに越したことはないが、正直そのあたりは千空の知見でも十分に足りる。処理負荷をかけ続ける全自動シミュレーションは、さすがに現状のマシンスペックでは難しいだろう。旧現代の粒度を求めれば尚更だ。
それこそSAIの超絶技巧で、やりたきことを噛み砕き、マシン語へ再度翻訳し直さなければならない。ロケット工学者の出る幕はないはずだが。
「大丈夫、そういう話じゃないから」
あはは、と人好きする声で笑う彼に続いて、なまえはレンガを模して組まれた建物内へ足を踏み入れた。
「ウェエエイ! 待ちくたびれたぜ!」
「やーっと来てくれたんだよ!」
「お待ちしておりました」
突如、予想だにしない盛大な出迎え。
なまえの頭の中、複数の疑問符が重なる。
「……んんん? 何⁈ どういう状況⁈」
「羽京から聞いてねえのか?」
「話そうと思ったんだけど、やっぱりこういうのは本人の口から言った方が、ね」
最後の文節、ソナーマンの瞳が部屋の中央にいる人物を捉える。
「ごめんっ……呼び出したのはっ、僕、なんだけど」
視線を受け、SAIはおずおず挙手をした。

示された位置まで進み、着席。ブラウン管テレビの正面である。ただでさえ衆目に晒される部屋のど真ん中、かつ自身の挙動ひとつひとつに周囲が注目しているため、やたらと気恥ずかしい。口元を片手で隠しながら、なまえは側にいるプログラマーをせっついた。
「……ね、どういうこと?」
「僕もこんな大事になるとは思ってなくて……ごめん。あ、これを持って」
「…………っ⁈」
手渡されたものを確認し、仰天。
彼女の両手におさまっているのは、いわゆる「コントローラー」であった。
つい先刻まで、宝島の文化へ触れていた。電気を必要としない独自体系の情報伝達手段、食事の保存方法、旧石器時代へタイムスリップしたかのような人古来のあたたかさ。便利さはなくとも細やかな工夫が凝らされた民芸品に、胸が優しい気持ちで満たされたものだ。
その心持ちへ突如降ってきた娯楽品はギャップどころの騒ぎではない。あわせて、画面へ映し出された懐かしいグラフィック。様々な形状のブロックがランダムに上部から落ちてくる、旧現代でポピュラーだったパズルゲームだ。
「他にもあるからっ、好きなのを選んで」
「待って! 今⁈ 私がやるの⁈」
なまえが勢いよく振り返ると、一瞬ポカンとした顔を浮かべたSAIが、こくり頷いた。
「一番最初は、みょうじさんがよかったんだ」
彼女が登場した際、皆が沸いた理由が今更わかった。完成したゲームがいつでも遊べる状態で静置されていたにも関わらず、ずっとお預けを食らっていたのだ。
「……な、なんで私?」
ゲームについては、ライトユーザーもよいところのなまえである。こんな大勢を前にして、適切なモニターが務まるとは思えない。誰であっても楽しめる娯楽なのだ、とアピールするにしても、それであれば前提知識のない石神村出身者の方がはるかに適役だ。
コントローラーを握ったまま固まる彼女へ、SAIは逆に疑問符を浮かべ告げた。
「……なんでって。みょうじさんが予約したんだろ。僕の『ファン一号』だって。まだインターネットがないから、通信機能はつけられなかったけど」
「それは……あ、そっか。あれ、あの時の。……え? でもあれ、まだ七海君の正体を知らなかった時だから……えーっと、いいのかな、有効で」
二人が出会ったその日。まだ互いをよく知らないまま、なまえがSAIと交わした約束である。あの会話から数ヶ月が経った後で彼が『XAI』開発者本人だと気づき、地面に這いつくばる勢いで非礼を詫びた。当時を思い返し、工学者の顔は火星を思わせる赤さに染まる。
言葉尻をしどろもどろに濁らせながら俯く彼女の背を眺めていると、数秒後に「……ありがと」蚊の鳴くような声が戻ってきた、
「インドで見た星もびっくりしたけど。まさかこんなことまで覚えててくれると思わなかったから。あんな失礼すぎる発言、忘れてくれてよかったんだよ」
なまえのわざとらしく茶化すような声色へ、SAIは至って真面目に「どうして?」と瞬きをする。
「忘れるわけないよ。みょうじさんのことなのに」
沈黙。
二人の会話に耳をそばだてていた察しのよい人間は、SAIの告げた内容を咀嚼し、目配せしあった。
単なる友人とするにはほのかに甘く、とはいえ、それ以上の何かにたとえようとすれば、ぴったりの表現が思い当たらない。
強いて名前をつけるのであれば、「特別扱い」なのだった。

「……フゥン、俺の負けだ」
このチェスAI、すでに俺程度の人智など雄に超えているな。
SAIを媒介に、コンピューターとの対戦を終えた龍水は、すっかりぬるくなったマグカップを手に取った。兄弟が二人きりで過ごす時間、あえてフランソワは席を外している。
ブラウン管に映された「LOSE」の文字。それを眺めながら茶を啜る弟に、SAIはふっと微笑んだ。
「……むかしむかし」
幼いころに触れた、お馴染みのフレーズである。龍水は、その文頭に一瞬不思議そうな顔をして、それが兄なりの精一杯の甘やかしであることを理解した。
人類とコンピューター、世紀の一戦。チェス世界チャンピオンのカスバロフと、AIのディープ・ブルーが戦い、AIが勝利した瞬間。世界中の誰もが思い付かなかった勝利の妙手を科学が生み出した、歴史的瞬間。
人智を超えた未知を欲しがる「科学」は、自分と同類の強欲家だ。SAIは龍水の宣言に、穏やかな笑みを浮かべた。
SAIと、こうして話ができる。誰かにけしかけられたわけでも、どちらかが何かを我慢するでもなく、ただ、互いの意思で対面し、時をともにしていること。
インド洋の上で聞いた、宇宙工学者の語りを思い出す。
彼女は羨ましいと言った、SAIと龍水の関係が。友人のような会話はせずとも、向き合おうとする意思を持っていること。SAIが自覚の有無は別としても、彼が龍水の兄であろうとしていること。
夜空の下、彼女の眼差しは全てを射抜くガンマ線だった。
ああ、そうか。南十字星に誓ったいつか。それはきっと。
「……今日、だったか」
龍水はぽつり独りごちた。その響きはやけに幼い。SAIの目に、本家で過ごしていたころ、かつての弟が重なる。
……貴様の友人から、長いこと預かっている問いがあるわけだが。
弟にしては歯切れの悪い、肩書きを一旦置いてきたような、そんな切り出し。兄は、静かに後を促した。

「……インドへ逃げた貴様を、俺は追いかけなかっただろう?」
龍水の言葉に、「あれはっ、さすがにお前もインドまでは……」SAIが声をあげ、途中で黙り込む。今更ながら違和感に気づいたのだ。九歳にして、マネートレードや保険の引き受けで億単位の利益を生み出していた奴が。VR機器の購入を断られ、レース場を建設した奴が。中学生で、自らの帆船を手にした奴が。
どんな時だって『欲しい』を諦めない弟が。
「フゥン、そうだ。追いかけられなかったんじゃない。俺が、追いかけなかった」
あの船上以降、龍水は無意識の言語化を試みていた。そして、ようやく、当時の自分は、ただ「怖かったのだ」と。その答えを導き出した。
兄に、本当の意味で嫌われること、知らず追い詰めてしまうこと。彼をものとして扱う、七海財閥の一員になってしまうこと。
龍水が本当に欲しかったのは、側で自分のために使われる恵まれた「能力」ではなく、遠く離れた地でもつながっている、唯一の「関係」だったのだから。
上手く伝えられず、上手く受け止められず、互いが互いを押し付けて、三七〇〇年もすれ違ってしまった。
「……なんだよそれ」
それじゃあ、そうか。そっか。そうなのか。
SAIは、幼い龍水を拒絶した、過去の日々を思い返した。もしかしたら、あの時本当に傷ついていたのは、SAIではなく龍水だったのかもしれない。あのころの自分は、自分で、自分が一番かわいそうだと思っていたのに。
「俺は、『欲しい』に嘘をつかない」
千空が『科学』に嘘をつかないのと、全く同じ理屈である。
『欲しい』に嘘をつかないから、龍水はSAIを追いかけなかった。手元に置くことが、言葉通りの意味で手に入れたことにはならないとわかっていた。彼のことを唯一の兄だと信じていた。変えようのない過去が、今となっては何よりの証明なのだ。
「多分、わかってたよ、本当は。理解しようとしてなかっただけで……」
続けて、お前、と二人称を用いたSAIが、「違うな」と、改めて文を巻き戻す。
「……龍水は、弟だ。僕の」
SAIの声はどこか震えているようだった。奇しくも、彼がインドで目覚めた時と、よく似た台詞。ただし、その真意は正反対であった。

「というかっ、いつの間にみょうじさんとそんな会話を……」
「かなり前だぞ。まだ、オーストラリアにも到着していなかった」
寝る前にもう一戦しよう、という龍水の提案にのったSAIは、純粋なプレイヤーとして盤面を睨んでいた。しかし、鋭い一手とは対照的に、駒を操る本人は一向に落ち着かない。
「へ、へえ。ちなみに、他にはどんなことを?」
「フゥン。まるで俺に知られたくないことでもあるような口ぶりだな」
茶化すと、SAIは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「そういうのじゃっ、ないけど……ただ、ちょっと気になって」
「他愛のない話だ。たとえば、SAIとは本当にただの友人か? とかな」
「…………性格悪いぞ、お前」
「船員の情報収集は、船長の勤めだぜ」
一筋の好機に、これまで静観させていたルークを動かす。他よりもわずかに守りが薄い場所に攻め込まれ、兄の眉がぴくりと反応する。
「時にSAI、貴様は随分彼女と懇意にしているようだが、いつだって大切な話はせずに、はぐらかし続けている」
──違うか?
駒の動きにあわせ、盤外でも仕掛けてみる。
「違うよ」
即答。ルークの行く手を阻むように、ポーンが滑り込んだ。SAIらしい、攻めと守りを兼ねた巧手である。
「ちゃんと、向き合ってる。だから……友達でいたいって、言ったんだ」
プログラマーの脳裏には、彼女にそれを告げた日、瞬間が、まるでついさっきの出来事であるかのように、鮮明にフラッシュバックした。

「──私、七海君が好き。友達じゃなくて……そういう、そのままの意味で」
ムンバイの玄関口であるチャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅は、艶やかにライトアップされている。美しい光の粒を虹彩に揺蕩えながら。なまえは、目の前の大切な友人へ、抱えてきた想いをぶつけた。
「日本に帰ったら、今までみたいには会えなくなるし。その前に伝えたくて」
彼女の剥き出しの腕は、周囲を包む夜と対照的に、白く明るい。その華奢さに目を奪われながら、SAIは半ば呆然と答えを返した。
「…………いやっ、だ」
「あ、はは……だよねえ」
風に揺れる髪を払い、寂しさと潔さが混じり合った顔で、なまえが微笑む。
彼も自分と同じ気持ちだと、ささやかな期待がなかったわけではない。それでも、確実な勝算はなくとも。想いを伝えたことを、事実として残しておきたかった。彼を好きだったと、思い出を持って、いつか証明できるように。
「うん、いいんだ。ちゃんと振ってくれてありが……」
「違うっ、このいやはそうじゃなくてっ、みょうじさんとはっ、これからもずっと友達がいいっ! 友達でいたいよっ」
慌てふためくSAIと、飛び出した言葉。なまえは、思わず眉をひそめた。
「……だから、今、私振られたんだよね?」
「ふ、振ったりなんかしないっ、ずっとこのままがいいんだ……ただっ、みょうじさんと、友達でいたいから」
しどろもどろになりながら、彼は彼女の腕をとった。実際に触れると、見た目よりもずっと細くて、ずっと熱い。
視線が絡み合う。束の間の無音。
次の瞬間、その手をなまえは強く払った。
カッと吹き出した怒りでどうにかなってしまいそうだった。あまりに腹が立って、目の前が点滅している。俯くと、地面がじわりと滲んで、それすら悔しかった。
「……何? それ。なんでそんなこと言うの⁈ なんでそれを七海君が決めるの⁈ 私、七海君のこと、もう友達とは思えないかもしれないのにっ」
せめて、介錯して欲しかった。「君とは付き合えない」と。装飾なしの一言だけでよかった。
にも関わらず、振ってすらもらえない。じわじわ生殺しされるなんて、そんなのあんまりだ。あの子が好きだ、と恥じらう彼からの相談を、友人として黙って聞いていろとでもいうのか。なぜ受け取った側が、自分だけに都合がよい関係を押し付けるのだ。
「それはっ、でもっ、じゃあ、考えてよっ、どうすれば友達でいてくれるっ⁈」
「最悪! 最っ低!」
SAIを睨む彼女の顔は、大粒の涙ですっかり濡れていた。なまえのそんな表情をはじめて目の当たりにした彼は、脳のリソースのほとんどをそちらに持っていかれ、自分が一体何をしてしまったのか、検討すらできずにいる。
「……あ、みょうじさんに、泣かれるのが……一番困るよ」
──僕に、どうしろっていうんだ。
二〇一九年五月、人類が総じて石化する数日前のことだった。

類まれなる勘のよさを持つ龍水といえど、兄の頭の中を詳細に覗けるわけではない。しかし、ざっくり何を考えているか程度であれば大方の予想がつくものだ。
「質問を変えるぞ。もし、彼女に──みょうじなまえに恋人ができたら、貴様はどうする?」
「それは……」
SAIは言葉を濁した。
彼女が誰かのものになるだなんて、さわりを考えたことすらなかったからだ。
なまえが、顔の見えない誰かに対して笑いかける。その誰かの心ない一言で怒りを露わにし、感情を溢れさせ、涙をこぼす。抱きしめられると、照れながら背に手を回し、目を瞑ってキスを待つ。そして、薄暗いベッドで組み敷かれた時は──。
これ以上はダメだ。SAIは、そこで自身の思考に急ブレーキをかけた。とんでもなく失礼なことをしているような気がする。上手く言葉にできないが、おそらく彼女をそういう、いわば性的な対象として消費したくない。だから、SAIは彼女と友人であることを望んだのだ。綺麗な部分だけを見ていたいと思ったから。
そのくせ、彼女がこれから、特定の誰かを選ぶ可能性を考えると、腹の奥が沸々と疼いて仕方なかった。が、煮だつ感情の理由にありふれた名前をつけるのは、やたら違和感を孕むのだった。
「……この部屋に、鏡がなくてよかったと思うぜ」
龍水は、半ば呆れた口調で続けた。
「俺は七海SAIの弟だが。なまえは貴様の姉でも、妹でも、ましてや母でもないぞ」
「そんなっ、そんなの、当たり前だろ」
当然のことだ。しかし、唯一の兄弟だと自負を持つ龍水でさえ、今日この日に十数年来の誤解を解くに至ったのである。それが、他人であればその難易度はさらに跳ね上がるだろう。
「もし、彼女が特定の相手をつくらず、その中で貴様を唯一特別な友人においている、なんてことを望んでいるなら」
性的な接触は一切拒みながら、家族、または恋人に近い距離感を求めているのだとしたら。ある距離に留まりSAIを理解しようと努める、今の彼女に甘えているのだとしたら。
「……それは強欲というより、傲慢じゃないのか?」
痛い指摘に、兄は何も返さなかった。代わりに、ビショップを動かし、相手のキングを一方的に追い詰める。あっさり数手で詰められ、龍水は片手をあげて投了した。
「……参った、完敗だ」
苦笑いした弟を、SAIはきまりが悪そうな顔で見やった。さすがに今のは大人気ないと思ったのだろう。
──本当は一勝一敗だったな。
余計な台詞は、ひっそりと胸にしまうことにした。

彗星の塵の尾が、太陽に向かって伸びているように見えることを「アンチテイル」と呼ぶ。
本来、彗星の塵の尾は太陽と反対方向にできるものだ。しかし、太陽風の影響を受けて折れ曲がった尾の一部。それは天体の位置関係も重なって、見かけ上はその真反対に感じられてしまう。
自身の感情だと勘違いしていること。その裏で本当に望んでいること。この二つは永遠に平行線で、滅多なことでは自覚できない。
その希望が、逆へ尾を引けば引くほど。
まるで──とある誰かの、とある兄のようだった。