Triangler トライアングラー

こと座のベガ、はくちょう座のデネブ、わし座のアルタイル。夏の大三角形をつくるアルファ星のうち、ベガとアルタイルは七夕伝説の織姫、彦星になぞられる。
ともに図形の頂点を形つくりながら、一四〇〇光年先にいるデネブは、恋人二人にとって一体どういったポジションなのか。考えたことは一度や二度ではない。
インドの地で七海SAIに撃墜し、複雑な心境でバンコク行きの飛行機を待っていた、あの日もそうだった。
なまえが「特等席」とひそかに呼んでいる、ターミナルの先端。窓ガラスに色がついておらず、そのままの空と旅客機が見渡せる。相変わらず霞がかった水平線はその日も健在で──とはいえ、この眺めもしばらく見納めと思えば名残惜しかった。
そこで、ふいに。もやの遥か彼方にあるはずの三つの星たちが、彗星を思わせる勢いで頭をよぎったのだ。
もし、デネブがアルタイルへ、遠い、ちっぽけな人間が想像すらできないほど長い、片思いをしていたら、と。
それは、なんとも気まずい。そして、その気持ちが今の自分には痛いほどわかってしまう。
旧七夕に生まれたことから、産みの母は自身に「なまえ」と名付けたらしい。織姫と彦星が無事に再会できたことを表す、約束の花。一部地域で、織姫星は朝顔星とも呼ばれている。
けれど、どうやら自分はベガになり損ねてしまったようだ。先日の別れ際、彼にぶつけた感情的な言葉を今更悔やみ、工学者はぼんやり遠景を見つめていた。
地球全土をエメラルドの光線が包む──その、わずか数分前の記憶である。

「本っ当にっ……これだけはどうかと思う」
無惨にも黒焦げとなった食材をまじまじ見つめ、SAIは頭を抱えた。殺パン事件の主犯たるなまえの顔はむっとしており、ただし別に機嫌が悪いわけではない。単純に不甲斐なさゆえである。
「……実に無念」
「なんで、武士になるんだよ……」
きっかけは、およそ一時間前に遡る。

管制塔の上にて、ようやく互いの想いを確かめ合った二人は、さっそく難しい状況に置かれていた。「好き」という気持ちこそ共有したものの、うっかりネクストステップの提案を失念していたためだ。
そういえば、とSAIが気がついた時には、なまえの返答から十数分経過しており、話題は「世界のゲテモノ料理」へと移り変わっていた。一世一代の告白の後、そのチョイスはいかがかものかと思うが、そういう自身も流されている。このタイミングで「じゃあ……付き合う?」など、非常に聞きづらく、気恥ずかしい。
一体どのツラ下げて。なにが「じゃあ」だ。
友人期間が長かったこともあり、一度会話がはじまれば話題に事欠かない。ついダラダラと、しょうもない雑談を続けてしまう。それ自体は心地よい時間なのだが、今回に限っては痛手以外の何物でもなかった。
話を差し込む瞬間を、なんとか探さねばならない。いや、つくらねばならない。SAIは、羊の脳みそカレーについて考察を行っているなまえを、前のめりに遮った。
「──みょうじさんっ」
「はい?」
「あのっ、……あ、あのさっ」
うん。相槌を打ってこちらを覗き込む彼女の顔に、胸が甘く痺れる。途端、片隅で様子を窺っていた思慕が決壊した。どうしよう、やっぱり、すごく好きだ。好きで、好きだ。
「あのっ……僕っ、と……──」
きゅう。
溢れた想い。重なる間抜けな響き。
それは、どこかで聞き覚えのある音のような気がした。彼女が腹を抱えて腕を組む。その顔には「やらかした!」と、わかりやすく書いてある。
「あっ……あはは、変わった虫、鳥? だなー、なんて」
「とりあえず……移動して、何か食べようか」
やけに懐かしい会話だった。

千空たちが地球を離れている間、管制塔では二十四時間の監視体制が敷かれていた。当然非番のエンジニアたちが休息を取るスペースも存在する。
フロアにはキッチンが備えつけられ、ロケットが戻るまでフランソワが作業に勤しんでいたものだ。傷んだ食材を腹に入れメイン技術者が寝込んだ、なんてことになれば洒落にならないため、冷蔵庫も複数台運用されている。
それらを一台ずつ確認したなまえは、お目当ての品を発見したようだった。
「やった! 私がつくっていい⁈」
ぱっと花が咲いたように彼女の顔が綻び──時系列は前段へ立ち返る。

「えへ、フレンチトースト、のつもり」
「……フレンチの要素はどこに」
目の前にあるのは、ただかわいそうなトーストだった。
「ほら、生物には火入れないと怖くて。卵、生ダメ、絶対」
「卵かけご飯好きって言ってなかった?」
「……好き」
なまえがもごもごと言い訳を述べ、明らかに部が悪いと判断したらしく、ままよ、半炭を口へ運んだ。せっかくの食材を無碍に捨てるのは忍びない。
「いいよ、手伝う」
目を白黒させている彼女が居た堪れなくなり、静かにSAIも申し出る。逡巡の後、すっと三分の一程度が寄越された。
「こんな産業廃棄物を……」
「まあ、みょうじさんの手づくりだと思えば……なんとか」
少ない可食部を探しつつ咀嚼を進めるSAIを一瞥し、なまえは顔を伏せた。その華奢な背中がしょぼんと縮んでいることを察し、彼の中で黄色信号が光出す。
「あ、みょうじさん、もしかして泣いてる……?」
「なっ、泣いてない!」
目元が横髪で隠れたため、表情がわからなかった。先日に引き続き、SAIの懸念は杞憂で終わる。「前もやった、この会話!」と、なぜかファイティングポーズをとった宇宙工学者の顔は、相も変わらず至って通常運転である。
「私のこと泣き虫だと思ってるでしょ」
「泣き虫、だとは思ってないけどっ……泣かないでほしい、とは……思ってる」
訝しむ視線。SAIの口からとっさに本心が飛び出した。なまえは一瞬毒気を抜かれたように目を丸くし、「……なら、泣かせないでよバカ」唇を尖らせる。予期せず砲撃された照れを隠す際、彼女は責任転嫁気味の言葉を口走る。
「うん、頑張る」
素直に頷けば、なまえはきまりが悪そうにSAIを見やった。「君の涙腺だろ」などの軽口で、流されると思っていたのだろう。これまでの行いから予測されたものとはいえ、少々心外だ。
「もう、調子狂うよ……」
謎の間、のち。
「──ありがと、才君」
普段と異なる呼びかけだった。驚き、一瞬言葉を詰まらせたプログラマーを窺うように覗いて、彼女は悪戯に微笑む。
「仕返し。どう? まだ背筋ゾワってする?」
「ぞわぞわはっ、……しない。けどっ……な、慣れなくて、びっくりした」
加えて、愛しさに胸がぎゅうとなった。
「私も。なんか変な感じ。やっぱり七海君は七海君がいいな」
「僕もっ……名前で、呼んだ方が?」
「ううん。今まで通り『みょうじさん』でいいよ。自分の名前好きだけど、苗字も好きだから」
なまえがはにかむ。
「今って下の名前で呼ばれる機会が多いから。七海君が『みょうじさん』って呼んでくれるの、結構嬉しくて」
七夕の夜、彼女が語った自身のルーツについて回想される。
「七海君が言ってくれたんだよ。私が『みょうじなまえ』でよかったって」
満天の下、しどろもどろになりながら、なんとか絞り出した言葉だった。口下手なSAIの、本当に伝えたかったことの一割も表現できず歯噛みした思いを、こうして彼女は大事にしまってくれている。
「あの夜のこと、今でも思い出してちょっと泣きそうになる」なまえが冗談めかして笑う。先刻、SAIが「泣かないでほしい」と告げたためだ。が、彼女の眩しい表情に、ふと、彼の中の柔い部分へ不安が滲んだ。その疑念は、尋ねるべきかを悩む前に唇から溢れてしまう。
「……じゃあ、いつか、『七海』になるのは、いや……かな?」
一拍。
図らずも、それは「恋人になって欲しい」より一段階上のレイヤーに存在する問いかけだった。彼のやたら神妙なトーンに不意を突かれ吹き出した彼女は、「海のなまえってあったよね、浜昼顔だっけ」目を細める。
──それに。
「……七海君がみょうじになるって手もあるけど?」
続けた言葉は肯定に他ならず、浜昼顔の花言葉である「優しい愛情」に満ちていた。

「……収まるところに収まった、とすべきか」
イシガミ賞授与式と伴うパーティーが無事に終了し、キャンプ地へ戻ったSAIは、龍水へ先日の出来事を報告する羽目になっていた。当然、恥ずかしい箇所は適当に省いているが、不自然に文脈が途切れるため、船乗りの勘とやらでお見通しな気もしている。
それもこれも、「人多くて部屋のやりくり大変なんだから。兄弟は一緒でよろしくね、ジーマーで」と。宿泊地の割り振りを担当したメンタリストの仕業である。
先ほど龍水が壇上で受け取ったメダル。世界でもっとも有名な物理式が刻まれたそれは、室内のテーブルにうやうやしく静置されていた。これを免罪符にされてしまえば何も言えない。
「これからどうするつもりだ? 落ち着き次第、一緒に暮らすのか? ならば──極力希望に近い場所を手配するが」
「どうなるんだろう……どう思う?」
「聞いているのは俺だぞ」
龍水は、眉根を寄せる兄へ、半ば呆れるようにして笑った。
「二人で話せばいい。二人の気が済むまで。今日ばかりはなまえに譲るぜ」
「僕もっ、そう思ってたんだけど……」
彼女に割り振られた部屋を訪ねても、彼女が懇意にしているエンジニアへ聞いても、なぜか姿が見つからなかったのだ。きっと、どこかで星でも見ているんだろうとその友人は頷いていた。
──だったら、自身も誘ってくれればよかったのに。SAIは肩を落とす。
スピーチと言うほど堅苦しいものではなかったが、先刻壇上にて千空より未来の構想が発信された。効率厨の科学者は、地球に帰還して早々に、ホワイマンの構造調査へ着手すべく準備をはじめている。年明けには実分析へ進めそうな勢いだという。
彼曰く「大袈裟」な式典が終わった今、該当プロジェクトに参加可能性があるメンバーへは、すでに声がかかっている状況だった。当然SAIも、本格的な招集は先として、プログラマーの立場から参画が確定している。その準備を兼ね、コンピューターをさらに普及すべく各国を回るスケジュールが敷かれていた。
本来であれば、SAIがわざわざ諸国を訪れる必要はないのだが、その裏には彼のプログラミングしたオープンワールドゲーム「Stone Craft」の完成がある。本人にこそ直接は言わないものの、「SAIのつくったゲームが、皆から愛されていること」を、その目で確認してこい、という意図が隠されているのだ。
一方なまえは、ISSの再打ち上げを目指すのだと宣言した。パーティーの中で、世界宇宙機構の創設メンバーに誘われたらしい。彼らエンジニアは本格的な活動に向けて今後の予定を詰めるため、しばしこの地に残る。
 慌ただしくも明朝にこの地を後にするSAIとは、旅路を分つことが決まっていた。

「お前は……龍水は、さ」
「うん?」
どこからか小麦の焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。そういえば、階下にはレストランが設置されていたはずだ。開け放した窓よりほんのり香るそれを追い、そのまま広がる美しい夜を見上げる。
「──僕が、『七海』じゃなくなったら……どう思う?」
たどたどしい質問。
龍水は、幼い兄が財閥を出たがり、小さな手で涙を拭っていたことを思い出した。しかし今彼が告げた問いは、決して逃げを目的としていない。船からロケットへ乗り継ぎ、欲しいものを取りに向かう。そんなひとつの旅立ちを意味している。
「──貴様が『七海』じゃなくなったとしても、俺の兄であることに変わりはない。違うか?」
「……そう言うと思ったよ」
SAIはおかしそうに告げた。弟の突拍子もない希望へ怒る間もなく、思わず笑ってしまった時のような。それは龍水が向けて欲しいと願い続けていた、屈託のない少年の笑顔だった。
「……お前に言ってなかったけど──そういえば僕、海派じゃなくて宇宙派らしいんだ」

朝の透き通った日差しを浴びて、定期船はゆらゆら波に揺れていた。乗り込む人々は、波止場に集まった見送りと思い思いに言葉を交わす。デッキからも手を振る乗客が顔を出している。
SAIは何度か背を振り返りつつ、賑やかな港を抜けた。
結局、明け方までなまえは見つからなかった。一体どこで何をしているのか。今生の別れというわけではないが、ロードマップによっては一年、二年会えなくなってしまうことも考えられる。その前に、もう一度だけ彼女を抱きしめたかった。
名残惜しさを引きずりながら、プログラマーが船との連絡通路に足をかけた──その時。
「待ってっ……!」
慌ただしい足音とともに、聞き覚えのある声がした。
駆け込んできたのは、まさになまえその人だった。彼の前で急ブレーキをかけて立ち止まる。舗装しきれていない港のため、その反動で足元に土ほこりが舞った。
「あ、みょうじさんっ⁈ 今までどこにっ⁈」
彼女は、大きく肩で息をしている。
昨晩、星を眺めながらうっかりそのまま寝落ちてしまい、起き抜けでここへやって来たとすれば一応行動に説明はつく。何より宇宙工学者らしい一幕だ。
「そんなに急がなくても、出るまではもう少し時間あったのに」
「…………だってっ! 忘れっ、物」
彼女が漏らした単語に、SAIは首を捻った。
残念なことに半導体の希少性からいまだノートパソコンはクラフトされておらず、それら周辺機器の可能性は低い。紙やペンについても最悪移動先で調達できる。ハンカチ、替えの服・下着も、部屋を出る際確認したはずだ。
SAIは、彼女が胸を押さえ、呼吸を整えるのに集中する様を見守りながら、考えうるものを指折り数えた。が、一向に思いあたらない。
「みょうじさん、忘れ物って──」
なまえの頬は紅潮し、なぜか視線がそわそわと行ったり来たりしている。さらに言うともじもじしている。何かを恥ずかしがっている? ただの忘れ物で彼女が躊躇う理由などないはずなのに。
そこで、ふいに。
「……え」
もしかして、そういうことか?
脳裏をひとつの仮説がよぎった。
時折上目遣いにこちらを見やり、心なしか瞳が潤んでいるようにも見える。唇をきゅっとつぐみ。まさに、そういう、それを待っている顔だ。一度そう見えてしまえば、もうそれ以外には見えない。
しかし、こんな公衆の面前で。否、昨晩ともに過ごせなかったことを悔やみ、彼女なりにスキンシップを求めてくれているのかもしれない。推測すれば、九割惚れた弱みで可愛らしい強請りにも感じる。
「あの、七海く──」
「……わ、わかってるよっ」
これ以上彼女の口から言わせるのは、さすがに男が廃るというものである。明確な次の予定がないことも重なり、彼は覚悟を決めて言葉を遮った。許されるのであればいつだって、SAIもしたいと願っているのだ。
大股で彼女との距離を詰める。左手を肩に伸ばし、右手で彼女のおとがいをなぞり、ゆっくりと目を伏せ──そして。

唇を重ねた。

「──な」
柔らかくほのかに甘いそれが離れた途端。まず目に入ったのはなまえの、ベテルギウスよりも真っ赤な顔だった。
「……なんでっ⁈ なんで今⁈ ぷっ、プライバシーとかないの⁈」
「え、ええっ⁈」
──違うの⁈
仰天するのはSAIも同様である。ちなみにプライバシーの点に関しては、震えるSAIへショック療法としてキスを敢行したなまえに詰める権利はなく、一体どの口が、という案件である。
「だ、だってっ、忘れ物って」
「違う! そういう意味じゃない! ドラマの見すぎ!」
「見てないよっ」
「見てないね⁈」
彼女はキャンキャン吠えながら彼と応酬し、おもむろにそれまで後ろ手に隠していた箱を押し付けた。
「私はこれをっ! 渡そうと!」
「……何?」
「…………フレンチトースト」
SAIが呆気に取られていると、彼が出来を怪しんでいると思ったのだろう。顔を赤らめたままのなまえは、「お腹いっぱいだったら私が食べる」と、謎の食い意地を見せた。
「フランソワさんに習ったから美味しいはず。サプライズにしようと思ったら一晩かかっちゃった」
昨日、彼女が見当たらなかった理由がようやくわかり、SAIの肩から力が抜けた。恋人から受け取った、走って持ち運んだせいかやや歪なラッピングを大事に抱える。
「……もー。しゃっくりどころか、心臓止まるかと思った」
なまえは手持ち無沙汰になった両手で自身の頬を挟み、熱を冷ましていた。
「口に合わなかったら、誰かにあげてね」
「あっ、あげないよ……全部、独り占めする」
「なーんでそういうことさらっと言うの! ……嬉しくなっちゃうでしょうが」
朝日に照らされた恋人がくだけた口調で恥じらう様に、胸がぎゅうっと潰される。
伝えたいことはたくさんある。けれど、そのどれも、上手く言葉にできる気がしなかった。いっそのこと、直接頭の中を覗いてほしいくらいだ。どのくらい七海SAIが、目の前の女神に骨抜きにされてしまっているのか。些細な仕草や表情に、どれだけ浮かされているのか。
本当は、君のようになりたいのだ。君になりたい。SAIはなまえになりたかった。ただまっすぐ、晴れやかに、澄んだ空を望む彼女のようになりたかった。
けれど、SAIがSAIであったから。臆病ゆえ彼女に出会えたのだとすれば、それすら愛しい過去だった。なまえというレンズを通して、自身だけならば知りえないはずの光を見た。望遠鏡の中には、SAIが立つこの美しい世界よりも、鮮やかな広い場所があった。
「──……い、行ってきます」
なまえへの挨拶は、結局当たり障りのない言葉に落ち着く。彼女は、「行ってらっしゃい」と戻した。後ろ髪を引かれた瞬間、ささやかな次への約束が続く。
「そろそろ夏の大三角くらいは覚えてよ。あと……日本に帰ってくる時は教えてね」
「わかった、約束する──その時はっ、絶対迎えに行くから」
「『ひこぼし』みたいに?」
工学者の瞳の中にはたくさんのハイライトが、ほうき星のように流れていた。

別れ際の会話ということで多少見て見ぬ振りをしてはくれていたものの、二人の一部始終は、その場にいた百人単位の人々に目撃され、式典からの様子を生中継していたDRAGON TVにより発信され、ラジオを用いてさらに遠くの地域まで届けられた。石化から目覚めた現段階の人類、およそ半数以上がリアルタイムで見聞きした形だ。アポロ十一号の船長もさすがに呆れるのではないだろうか。
つい数日前までただの友人であった二人が、今や世界の公認カップルである。
港を離れてしばらく経った船の上で、これまで話したことのない人からも「よくやったな兄ちゃん」と声をかけられ続け、メンタルゲージが最低まで下降したSAIは、這うようにして自室へ辿り着いた。
旧現代の客船に近いつくりのため、個人の部屋が完備されている。とりあえず寝る場所さえあればよい、という猛者向け五段ベッドの並んだ船より値は張るが、一人の時間を優先したいSAIにとって、たいした問題ではなかった。
床でゴロゴロとひとしきり悶えた後。持ち込んだ荷物へ手を伸ばし、先刻受け取った「忘れ物」のラッピングを紐解く。箱には少しだけ端の焦げたフレンチトーストが収められていた。
──と。
そこで。箱の下にもうひとつ、質量のあるカードサイズの何かが挟まっていることに気がついた。
表を確認する。それは一枚の銀板である。中には、昨日、式典後のパーティーで撮影された、とある風景が切り取られている。裏にはなまえの、特徴的かつ、やや雑な字でメモが添えてあった。この写真はあくまでメディアの記録用。全員へ配布されているわけではないが、「あんまりいい顔をしているから」と、記者がこっそり譲ってくれたそうだ。
写真の中には、椅子に腰掛けるなまえを挟む形で、兄と弟が写っていた。
船室内、小さな机の上に銀板を立てかける。ベッドに腰掛け、改めて写真を眺めると、遠景の中に浮かぶ三人のシルエットがとある図形をつくっているかのように見えた。
これまでの──三七〇〇年前までのSAIであれば、そんなところへ目をやらなかった。思わず過去の自身に呆れ、しかし、いつか工学者が告げていたことを、あわせて思い出す。
他の強い光にかき消されても、その場所がわからなくとも、空の上にはいつだって星があるのだと。見ようとしないだけで、そこには常に。
画の中には、見ようとしなければ見えない三角形があった。
兄と弟の間にも、彼と彼女の間にも、気づこうとしなければ気がつけない想いがあった。

星と星をつないで名前をつけるように──その形を愛と呼びたい。

Fin.