Triangler 別冊 プラネットナイン

淡く色づいたガラス越しに望むアソーク駅の外側は、情けを知らない子どもが、砂場でバケツをひっくり返したような有様だった。
ホームへ降り立ったSAIは、改めて窓の隙間から吹き込む雨粒に身震いする。雨季の終わりだと油断したのがすべての発端だ。
見下ろすスクンビット通りはすっかり浅いプールへ成り果て、自動車やバイクのタイヤが三分の一ほど浸かっている。帰路を急ぐ色とりどりのそれらが、エンジンをかけるたびに水飛沫を通行人へふっかけた。ここまで来ると、もはやテーマパークのアトラクションを思わせる光景だ。
肌に張り付く布地が体の熱を少しずつ奪っていくのに、その重さと反比例する形で気持ちだけがふわふわと落ち着かない。馴染みの薄い土地での出来事に、どうも現実感が持てないと言えば正確に伝わるだろうか。現地で生活している人間にとって、特に居住階層の低い住民にとっては死活問題だと承知しているが。
湿気臭い人混みに紛れ、BTSの改札を潜る。そこで、数メートル先。見覚えのある人物が手を振っていることに気がつく。
「七海君! こっち!」
凛と通る声が響いた。プログラマーに呼びかける彼女はいつも通りのラフな装いである。腰まで隠れるナイロンのパーカー。ヨガレギンスに包まれ、すらりと伸びる脚。
異国の地で目にする友人の通常運転具合に、SAIは思わず安堵のため息を吐いた。ようやく四肢が重力のお世話になり、節々へ倦怠感が襲う。
「……ごめんっ、いきなり押しかけて」
「いいってば。そんなことより大学は平気?」
濡れ鼠のSAIへ、ビニール傘を手渡す女性の表情は、彼を案じる一心に満ちている。
「うん……休講にしてもらおうかなって。さっき電話した。明日の朝一はさすがに間に合わないから」
「そりゃまた災難……。とりあえず連絡が取れたならよかった。あ、タオルは家着いてから渡すね。今拭いてもまた濡れるだろうし。すぐシャワー浴びるでしょ?」
「助かるよ……」
テキパキ告げられたこの後の工程に頷きながら、青年は目の前の救世主──もといみょうじなまえを拝んだ。

サイアムパラゴンで開催されたタイランドゲームショーへ、SAIが足を運んだのは今日の午後のことである。受け持ちの講義、物理的な距離との兼ね合いもあり、なんとか最終日だけ滑り込んだ形だ。
日本派生アイドルグループのステージ、華やかな公式コスプレイヤーのショー、eスポーツ大会、VR機器のデモストレーションなど、ゲーム好きとしてたまらないイベントが目白押し。各ブースを順繰りに回るだけで十分楽しめた。
特に彼が目当てとしていたのは、天才ゲーム開発者と名高いMr.太田と、名グラフィッカーCarrie女史の対談である。あまりの内容の濃さに、安価な入場料でここまで充実した時間を過ごしてよいものかと、申し訳なさを覚えるレベルだった。
しかし、幸福は束の間。帰宅すべくタクシーに乗り込もうとした矢先、数年に一度の規模だという突発的な豪雨に見舞われたのだ。いやな出来事というのは連鎖するもので、同時刻にチャトラパティ・シヴァージー国際空港で久方ぶりのストライキが発生。天候に関わらず、ムンバイ行の全便が欠航となった。
当然、スワンナプーム空港や市街地周辺のホテルは瞬く間に帰宅難民で抑えられた。出遅れ途方に暮れたSAIは、タイに駐在する友人へ藁にも縋る思いで連絡をとったのである。
数コールあけ電話口に出た彼女は、現在彼がタイにいるという事実に驚いた後、見舞われたアンラッキーの連続を笑い飛ばし、二つ返事で希望を承った。
つくづく、持つべきものはフットワークの軽い友人である──なんて、この言葉を心の底からSAIが告げたと知れば、かつての家庭教師や執事達が呆気に取られることは想像に難くない。青年自身ですら、現況で頼れる友人がいる事実に、突如訪れる第三者目線の思考を持ってして不思議極まりないのだった。

通された住居は広々とした1LDKだった。アパート外観自体はこぢんまりとしていたが、各階をそれぞれの住民が専用とできる仕切りらしい。隣人トラブルを気にせずに過ごせる点含め、当初の印象以上に開放的だ。
彼女が駐在しているJAXAバンコク事務所は、スクンビットの中でも特に日本人の多いエリアに構えている。若者に人気のある商業施設、ターミナル21のすぐ近く。各所へのアクセスも容易い好立地である。
もともと駐在職員の住居は機構が手配する想定だったが、せっかく異国で生活するのならば手続きの部分から現地の暮らしに慣れたいと、住居探しもなまえ自ら行ったと聞く。不自由ない現代で、好んで帆船船を乗り回す程度には好奇心猛々しい。
とはいえ、タイの家賃相場は決して高額とはいえず、子どもを持たない単身であれば、日本のワンルーム料金で二、三倍の広さが借りられる。必要最低限のみを備えた格安部屋探しの方が難しいとされるほどだ。インドでも2LDK以下の間取りを探す方が苦労するため、この点については近しい環境である。例に漏れず彼女も、タイのインフラ物価に恩恵を受けているのだろう。

そんなアパートの階段を登りつつ交わした会話を回想し、SAIはリビングのソファー上、改めて足を組み直した。体育座りの要領で膝を抱え、可能な限り小さく丸まる。
部屋に到着するなり脱衣所へ放り込まれ、震える体をシャワーで温めたばかり。簡素な寝巻きに身を包んで一息つくと、改めて現在置かれている己の立場が情けなかった。
いくら気安い友人とはいえ、一人暮らしの女性の部屋にこうして乗り込んでいる。居た堪れない。穴があったら入りたい。なければ極力存在を圧縮したい。こんな時、やたら上背のある自身の体格が憎らしかった。
ちなみに男物の服は、SAIのSOSを受けてすぐ、臨時休業の札を下げる直前に量販店へ滑り込んだ彼女が購入してきた品である。もうこれ以上下げる頭がない。
「お待たせ!」
感謝と陳謝で胸をいっぱいにしたSAIをよそに、おそらく寝室として使われているであろう部屋から、ドアを蹴り出して右足が現れた。追ってタオルケットを抱えたなまえが顔を出し、再度片足で扉を閉める。一連の動作に随分慣れている。両手が空いていても常日頃足で開け閉めをしているに違いない。
「七海君って寒がりだっけ?」
「そうっ、かも」
「体に肉がないからだよー。掛け布団はいっぱいあった方がいいね。来客用とかじゃなくてごめんだけどこれ使って」
「えっ、でも、みょうじさんは?」
「私はちょこっと厚着すれば十分だし。多少寒くても服の上から重しに本でも乗せればいいし」
「……本?」
「お金のなかったマリー・キュリーが、学生時代にそうやって冬を凌いでたらしくて」
ノーベル賞を二度獲得した女性物理学者の名をあげられ、即座にピンと来なかったプログラマーはとりあえず適当な愛想笑いを返した。普段なら突っ込みの一つでも添えて戻す会話だが、さすがに今日の今日、恩人である彼女に粗雑な態度は取れない。
「あとは……あ、寝る場所、ソファーになっちゃうんだけどいい? 今七海君がいるとこ」
「あわや野宿だったから……屋根があるだけありがたいよ」
「そう? 客人にベット使ってもらうべきだとは思うんだけど、向こうの部屋は特に散らかっちゃってて」
「いやっ、そんなこと……まあ……うん」
否定をしようとするも、雑然とした室内から普段の生活を察する。おそらく隣室はベッドルームとして使用されており、さらに直接的な彼女の素が散らばっているのだろう。言葉通りの意味で。
語尾を濁したSAIを特に気にする素振りもなく、なまえは「そうそう! お腹空いてない?」首を傾げた。立て続けの提案に遠慮の暇がない。
「レトルトしかないんだけどよかったらどうぞ。買いだめててラッキー」
軽い足取りでキッチンへ赴いた工学者は、冷凍庫とカウンターを数往復し、その度に袋を取り出して卓上へ並べた。「しかない」とするわりにその種類は豊富である。プライベートブランドのガパオ、ピザやパスタの洋食シリーズ、カレー、餃子、その他エトセトラ。
「みょうじさんって普段料理……いや、なんでもない」
ソファー上からもそもそと這い出したSAIは、ラインナップを凝視しながらとっさに浮かんだ事柄を問いかけ、聞くまでもないと設問自体を取り消した。が、通算二度目のごまかしは失敗に終わり、彼女が「こら」唇を尖らす。
「自分でつくると洗い物含めて三〇分はかかるの! その労力と時間を買うって考えたら安い買い物だと思わない? それに……ここ最近は仕事がバタバタしてたし」
それがなきゃ部屋だってもうちょっと綺麗にしてるんだよー、と示された室内に、青年は「そっかあ」わずかばかりの頷きを返した。
「とりあえず、メニューはみょうじさんのおすすめにするよ」
「お、大抜擢。腕によりをかけて選ぶね」
「つくる時以外でも使うんだ、その台詞」
SAIは、並んだパッケージを吟味し始めた彼女の横顔を密やかに伺う。
溌剌とした口調に圧倒され気がつかなかったが、言われてみれば大きな瞳の下にはくっきりと青クマがある。数日でできたにしては濃く、継続的に睡眠時間を削っていることがわかった。加えて、二ヶ月前にインドで会った時よりも体全体が薄っぺらい。先ほど「肉がない」と揶揄われたが、そのまま同じ言葉を返せるだろう。
「みょうじさん、痩せた……よね? 毎日三食とってる?」
「え⁈ そんな、まさかセ──」
「せっ、セクハラじゃないよっ」
「えへ、やだ冗談」
「……冗談かな」
SAIのじっとりとした眼差しと問いかけを、なまえは笑顔を盾にして無理やり押し戻した。わざとらしく自身の体を抱きしめた腕を解き、ひらりと手を振る。
「食べない日もあるし、食べる日もあるよ。七海君だって、必須で三食は食べてないでしょ?」
「食べられる時にまとめて食べるからいいんだよっ、僕は」
「まさか自分は棚に上げる気? はい、じゃあこれ食べて。私のおすすめ。あとせっかくだからこれも。ついでにこれも」
「多くない⁈」
「食べられる時に食べるんでしょ、ほら行った行った! まとめてブンしちゃうから」
「ブン」
「そう、オーブンで」
「……もしかしてレンジでチンみたいなこと言ってる?」
「うん。レンジはチン、オーブンはブン」
「へえ……っていうか、それくらい僕が」
「いいのいいの。七海君はお客さんなんだから座ってて」
促されるままにガパオ、緑黄色タンメン、ドリアをディナーにされ、胃の中で世界旅行を敢行することになったSAIは、自身の夕食を選ぶなまえをもう一度見つめてかけるべき台詞を探した。しかし、こういう時に限って、適切な語句は一切浮かんでこないのであった。

「何かあったら声かけて。リビングは好きに使ってくれていいから」
夕食後、しばらくして。すっぴんの工学者は、パネルで部屋全体の光度を調節した。そのまま天井に向けて腕を突き出し伸びをする。
普段から化粧っ気は薄いため、シャワー後の今も雰囲気は変わらない。ブローしたての髪は無造作に下ろされており、肩甲骨付近で散らばっていた。
「わかった。ありがとっ」
「ん、よろしくね」
彼女がコーヒー片手に隣の部屋へ足を踏み入れ、やや控えめに扉を閉める。
数分もすれば壁越し、かすかなタイピング音が聞こえるのみとなる。耳をすましてようやくわかる程度の単調なリズムはSAIの眠気を大いに誘った。
振り返れば、朝イチの飛行機搭乗からゲームショーへの参戦、帰宅困難者としての右往左往、なまえ宅への雪崩れ込みと、非常に慌ただしい一日であった。
ソファーの上、寝るために体勢を正すのも面倒で、大きく頭を揺らしては目覚め、その度に微睡みを繰り返す。体は疲れているのに、頭は妙に冴えていて、波打ち際を行ったり来たりするような浅い眠りに留まってしまう。
気がつけば時刻は深夜二時を回っていた。彼女に挨拶をしたのがリビングの時計で日付が変わる前だったはずだ。二時間強はうとうと意識を飛ばしていたことになる。
普段一人の時間ともなればノートパソコンを片手にプログラミングへ勤しむものだが。疲労のせいか、今はパソコンへ手を伸ばす気になれなかった。
そもそも豪雨でSAIが濡れ鼠になったのは、自身よりもパソコンの保護を優先したためだ。防水ケースの上からも厳重にタオルやビニール袋で包んでおり、マトリョーシカの面持ちであるそれを再度開封するには、想像の中だけでも骨が折れた。
ふと、リビング端で乾かしている手荷物へ目をやる。最中テーブル上を視線が通過し──ぽつんと放置された携帯を認識した。SAIの私物ではない。とすれば、なまえの持ち物以外にあり得ない。
彼女がシャワーを浴びる前、一時的に充電機を貸りた。その際、スマートフォンごと卓へ放置していったらしい。今や、相手がたとえ恋人だとしても、携帯はプライベートな存在として特別視されがちである。随分と不用心、否、それだけSAIが信用されているとすれば悪い気持ちはしないのだが。
無造作に腕を伸ばし、上部のステータスバーへ手をかざす。反応、点灯したロック画面には、封筒を模した通知が複数重なっていた。
意外なところで抜けている工学者が、別件に集中して携帯の存在を失念している可能性も捨て切れない。そんな彼女の性質を理解しながら、声をかけず放置というのもどこか居心地が悪かった。もしこの通知が、職場からの緊急連絡だったらどうする。パターンとしては万が一でも、数学をかじるものとしてゼロと言い切るのは避けたかった。
仕方ない。SAIは半分ほど寝ている体を起こし、先ほどなまえがくぐった扉前に足を運んだ。タイルの床がひんやりと足裏へ吸い付き、その刺激で脳を覚醒させていく。
「……みょうじさん」
そっと呼びかける。返事はない。
「みょうじさん?」
ノックをして、もう一度。やはり溌剌とした声は戻ってこない。
「ごめん、開けるよ」
ゆっくり扉を引けば、そこはリビングの半分ほどの広さの書斎だった。
安らぎの寝室、とするにはあまりにも物が散らかっている。加えて肝心のベッド上には読みかけと思われる本や資料、しわくちゃのキャミソール、レースのあしらわれた小面積の布地類が積まれていた。
要するに、ベッドは本来の目的でそこそこ長い期間使われていない。自己申告の通り、彼女が横になる時間も惜しいほど忙しくしていたのは明白である。
部屋の中で最も目を引く造り付けのデスク。その上には二台のモニター。片や複数のPDFファイルが立ち上がり、片や動画ファイルが途中で一時停止されている。持ち歩き用のノートパソコンは傍らで開きっぱなし。なぜかパンダが月面を闊歩するやたら可愛らしいスクリーンセイバーが繰り返し流れていた。
デスク正面には、隙間を縫って数枚のポストカードが貼られている。統一感のあるタッチから、全て同じ画家の作品のようだ。具体の著者こそわからないが、特にその中の一枚、真っ黒な空間にぽつんと丸い光が浮かび上がる絵は幻想的で、芸術方面に特別明るいと言えないSAIの気をもほんのり引いた。
そして、それらの正面。当の家主は、椅子に浅く腰掛けながら、スクラップファイルに埋もれる形で突っ伏している。足音を忍ばせて近づき表情を伺うと、長いまつげに縁取られながらまぶたは閉じていた。
日本人の中でも色白の部類に入るなまえだが、その白さが今は不健康に拍車をかけている。ブルーライトに照らされているためかもしれない。かなりお疲れのようだ。
足元に落ちたカーディガンを拾って、肩にかけてやる。決してやましい気持ちはないものの、一方的に、しかも勝手にプライベート空間へ侵入して寝顔を見ているというのは、どこか後ろめたいものだ。先刻のように、細い二の腕が剥き出しになっていれば尚のことである。
とりあえず、机に携帯を置いてさっさと退散しよう。そもそも本来の目的はこれだけなのだから。
青年は呼吸を止め、懐かしきストレスゲームの要領で腕を伸ばした。乱雑に組まれた書類上へ指が到達する。羽を扱うような柔さで、そっとパステルグリーンの携帯を置き──瞬間。
笑えるほど綺麗に、書類が床に向かって滑った。
SAIの瞳には、予期せぬドミノ倒し全てがスローモーションとして映る。紙の一枚一枚が、各々の動きで宙を舞う。
単体の重量はわずかといえど、そこそこの量が一気に落ちれば、それなりに物音と衝撃が生じるもので。
「──うええ⁈」
音に合わせてあわせて椅子から転げ落ちたなまえは、下半身をしたたか床へ打ちつけた。体を起こそうとラグへ手をつき、そばにいた青年と目があう。
「かっ、勝手に入ってごめんっ」
慌ててSAIが謝ると、寝ぼけた彼女は「なんで七海君?」呟き、フリーズした。どうやら彼が自室にいることのロジック構成に数秒を要したようだ。
「あっ、そっか……あー、ごめん。寝落ちしてた」
「こちらこそ……」
もっと早く友人の忘れ物に気がついていれば、こんな風に驚かせてしまうことはなかった。SAIは自身の間の悪さに歯噛みしつつ、頭をかいた。
「向こうに携帯忘れててっ、メールの通知が見えたから」
「……それでわざわざ持ってきてくれたの?」
SAIが手渡したスマートフォンを、寝ぼけ眼で受け取ったなまえは、理由を聞くなり若干驚きの色を見せた。画面を操作し、届いたメールを確認するや「あ、これは大丈夫なやつ」顔を上げる。
「よかったっ、けど、ごめん、起こしちゃって……」
「むしろ起こしてくれて助かった。ありがとね」
「みょうじさん、仕事大変そうだけどっ、もう少し寝た方が。仮眠もっ、横になった方がいいし」
「おっしゃる通りなんだけど。寝るぞーって体勢になったら、目覚ましでも起きられなさそうな気がして。職場へ遅刻するわけにもいかないし」
涙目であくびを噛み殺したなまえが、ぐうと呻く。
「今の仕事……そんなに忙しい?」
「ちょっとだけ。でも好きでやってることだから」
「……そうなんだ。えっと、新しいプロジェクトに抜擢された、とか?」
「七海君、ISROのニュース覚えてない? 二ヶ月前くらいの」
彼女は腰をさすりながら再度椅子に座り直した。パソコンのスリープを解除し、ネットニュースをモニターに映し出す。
「二〇二二年までに有人ロケット飛ばそうとしてるってやつ」
「見た、かもしれない」
はた。そんな記事目にしただろうかと思い悩むも、一旦彼女に合わせる。とはいえ、それすらなまえの想定内であったようだ。「もー、国内の話! 学生さんと直近の時事話したりしない?」
決まりの悪いSAIは、「だって、僕の受け持ち数学だよ……」と蚊の鳴くような声量で呟いた。
「それに、今更有人ロケットって遅くない?」
「まったく……! 一回ロシアに協力してもらえるって話が出て、それが取り下げになって以降インドの有人飛行の話はずーっと滞ってたの! 早い遅いじゃないんだってば! 歴史が動くんだから!」
数分前までのうだりを一気に吹き飛ばして意気揚々告げたなまえの顔が、次の言葉を探しながらほんの少し曇る。
「ただ……その、ね。計画を発表した後、今更お達しが来ちゃったの。まずは身近な国内整備が先決だろ、って。首相が宇宙開発にかなり乗り気だから期待してはいたんだけど、やっぱり内閣の承認が難しいらしくて……今は、一時的に頓挫……みたいな」
「もしかして、みょうじさんがやってるのって……?」
「そう。要するにおせっかい。元々が別の組織の人間だから、全部情報共有してもらえるわけじゃないしね。でも、悔しがってる職員見たら協力したくなっちゃうでしょ」
SAIは、なんとも「らしい」工学者の言葉に押され、無言で小さく頷いた。
「年内にもう一回だけ承認のチャンスを貰えそうなところまで来てて。今はこれに賭けて提案書を練り直してるの。ちょっとした事例集めとか、私が横からでも手伝えるところはたくさんあるし」
月での協業ミッションをはじめ、JAXAとISROの関係値は日々密になっている。時折彼女が語る様子から、現場の人間同士が良好にやりとりを進めていることもわかる。体育会系な側面を持ちあわせているなまえが、インドの宇宙開発に入れ込むのも妥当だろう。
「だけど……やっぱり、みょうじさんがそこまでやる必要、ある?」
青年の質問に、彼女は一瞬きょとんとした表情を浮かべ、やにわに屈託ない微笑みを見せた。
「うん」
「なんで?」
「ロマンがあるから」
「それってどういう……」
「インドって星が見えないじゃない? 七海君もこの前言ってたけど、スモッグとか、煙が空を覆っちゃって」
「うん」
「なんか、他の国よりも宇宙が遠く感じちゃうんだよね。空の上に星がある、とか知識としては知ってても、実感としては得られにくいっていうか……。だけど、自分の国で打ち上がったロケットから、同じ国に住んでる人が窓の外の景色を教えてくれたら、すとんって納得できるような気がしない? この瞬間にも私たちの上には星があるんだ! って。そうやって世界の広さに気がついた誰かが、今度は新しい技術で、もっと広い世界を伝える側になるんだよ。……私ね、そういう長い開拓フローをつなぐうちの一人になりたいんだ」
「……ロマンチストがすぎるよ」
「夢見がちは、宇宙工学者の職業病だし」
寝不足のくせに、口元には拭い切れていないよだれがついたままのくせに。満足そうな友人がとても綺麗な、一等星を思わせる眩さを持っていたものだから。
つい、青年は瞬きを堪えた。その明るい光を虹彩に記憶しようと、無意識に努めてしまったのだ。

「……七海君も疲れてるのに悪いなあ」
「僕なんか全然っ」
クッションを枕がわりに、SAIへ使わせるべく用意したタオルケットをかぶった工学者が眉をハの字に歪めた。
彼女の話を聞き終え、「そういうことなら尚更仮眠をとった方がいい」と改めて青年が説得した成果である。一度寝たらもう起きられない、と駄々をこねる彼女に、一晩の恩として目覚まし役を買って出たのだった。SAIのいつになく強気な台詞に、寝ぼけた彼女は意外にもすんなり絆された。弱音こそ吐かずにいたが、本当は限界が来ていたのだろう。
とはいえ、散らかったベッドで眠るためには、まず物品を整理する必要がある。今からそれを行う体力気力は残されていない。顔を見合わせた二人は、致し方なしとリビングで休息を取ることにした。
先ほどまで自身が眠りの淵を彷徨っていたソファーの端に腰を落ち着けた青年は、眼下にある彼女のつむじをぼんやりと眺める。
なまえがリビングで休むからといって、逆にSAIが一人寝室で待機する、というわけにはいかず。また、土足文化ではないとはいえ、冷たい床に座らせるのは悪いとなまえが言い張った。加えて、起こしてもらうにも関わらず足を向けるのも忍びないという。
ゆえに、少しでも彼女が身じろぎをすれば青年の膝に頭が乗るのではと思われる距離にこうして居座っている。スツール付きの三人がけのソファーのため決して狭くはないが、ベットの役割を期待するとどうしても採寸が足らない。なまえの小さな頭とSAIの太ももが接触するのも仕方のないことだった。
「誰かの気配って言うの? こういう環境で寝るのは久しぶり」
「へえ」
「研究室で雑魚寝とか、学生時代はよくしたなーって」
「……あ、そういう」
恋人の話かと思ったよ。
青年はその茶々をかろうじて飲み込む。微睡む相手に対してさすがに不躾だ。
「なんか友達との旅行みたいでワクワクしちゃうね」
「旅行って……自分の部屋だろ」
「でも、七海君にとっては遠出でしょ? ね、ちょっとだけ話そうよ。私が寝るまででいいから。夜の雑談って旅の醍醐味だし」
瞳を閉じたままの彼女にいなされる。
SAI自身、この女性への返答だったり、態度であったりそこそこ雑な自覚はあるが、同じくらいなまえの放つ言葉に弱い認識もあった。多少のわがままは全て許してしまう。否、許したいと思っている。
その分、彼も無茶なお願いをすることがままあり、要するに二者間の全てがお互い様の延長だった。
先刻よりボリュームを落として、目を閉じたままの彼女が呼気を吐き出す。
「……じゃあ、テーマは『七海君の夢』」
「え⁈ ゆっ、夢⁈」
「等価交換。さっき私は話したでしょ。聞き逃げはさせないんだから」
「えっと、その……ええ……」
「特になし、でもいいよ」
「そういうわけじゃ……」
「あるの?」
「夢って言えるかはわからないけど」
「ゲーム関連?」
「まあ……うん」
「歴史に残る大作品を作る、みたいな」
「……そこまで壮大じゃないよ」
「えー、何?」
なまえが無邪気に口元を緩めた。つられて、SAIも困り眉のまま笑みを浮かべる。
「一人でいいんだ。たくさんの人が遊んでくれたら嬉しいけど……一人でもいたら、もうそれだけで。それだけで叶ってる」
たとえば、部活動合間の学生だとか。
たとえば、忙しない日々を過ごす社会人だとか。
たとえば、屋根裏に隠れた幼子だとか。
たとえば、世話焼きなロケット工学者だとか。
「……七海君の方が、私よりずっとロマンチスト」
いつになく優しいプログラマーの声色に、クッションに頬を擦りながら、彼女がぽつり呟く。
「そう……かな」
SAIが返す言葉を探しながら視線を落とすと、いつの間にか工学者は穏やかな寝息を立てていた。
青年の太ももへ乗った栗色の房に手をやる。柔らかな毛先を弄り、そうっと数往復、なまえの頭を撫でさする。

先刻、彼女と寝室を後にする際、デスク前に貼られていたポストカードへ触れた。
工学者は表情を華やかせ、それらは旧友の作品なのだと告げた。大学の卒業展示が至極気に入り、特別にプリントしてもらったという。
SAIが目を惹かれたイラストは、作者から「プラネットナイン」と名付けられていた。
まだ見つかってない九番目の太陽系惑星を示す、便宜上の名。本当はそこにあるにも関わらず、現段階では辿り着けずにいるもの。彼女が夢を見る、広い世界の先にある何か。
プログラマーは、秒針のメトロノームに耳を澄ませた。それらに混じって、友人が漏らす微かな呼吸音は、淡い朝へ溶かされていった。