Prayer 1章① わたし

「秋学期の必修やばいじゃないですか! 遊び溜めしておかないでどうするんですか」
キャンパス中庭で、有村なまえが後輩三人に捕まったのは今日の昼時である。今から喜久井祭に向けて学生委員会の会合があるという彼女らは、研究室帰りであったなまえをいとも簡単に確保した。
「大丈夫だって、二年は春の方が忙しいから。秋は実験も週一だし、だいぶ楽に感じると思うよ」
「わたしたちは再履があるんです! 線形代数!」
「春も同じこと言ってなかった?」
「通年で落単してます。A+のなまえさんにこの気持ちはわからないです!」
「指定校の立場を考えてください!」
やんややんやとかしましく取り囲まれながら、なまえは唇を尖らせる。
二年次の春学期は、必修だけで平日一日あたり五コマ。月曜日から金曜日までみっちり組まれ、テトリスを思わせる緻密さである。唯一異なるのは、同時間帯のコマを揃えても授業が消えない点。上の代からはじめて時間割を聞かされた際、その場にいた同期全員で戦慄したものだった。これでもかとばかりに、学部の基礎実験、学科の化学実験、物理実験が帯引かれ、都度の口頭試問。駄目押しで実験ノート、レポートの提出タスクも積みあがる。
加えて再履修もあったのであれば、課題とテスト勉強で遊ぶ暇はおろかバイトをする時間もなかったに違いない。
「とにかく来てくださいってば。たまには楽しいですよ、合コンも」
「今日はこの後予定ないって言ってましたよね?」
確かに、先程聞かれるがままあっさりスケジュールを漏らしたのはなまえの失態である。春の成績発表を先週に終え、浮かれていたのかもしれない。にしても、この手の提案が来るとは予想外だったが。
「……そもそもわたしに彼氏がいるかどうかは聞かないの?」
「え、いるんですか?」
「一年くらい前に別れて、それからはいないと思ってました」
「男が浮気したって」
「教育学部の人ですよね」
「ほんと、毎回変なやつばかり引っ掛けるんですから。ダメンズホイホイ」
矢継ぎ早な投げかけに「なんで全部知ってるの⁈」となまえは目を剥く。
「なんでって……、茉莉奈さんから聞きましたよ」
飛び出したのは、学科内で最も懇意にする友人の名だった。彼女らの一人が茉莉奈の高校時代からの後輩であり、部活まで同じだったという。
こうしてある意味懐かれているのも、明るく社交的で少々だらしない茉莉奈に代わり、レポートや履修登録の面倒を見ていたことが所以だ。サークル未所属のなまえへ、先輩から受け継がれる過去テスト提供を条件として、茉莉奈から後輩指導を仰せつかったのである。
なぜかその延長で、今では茉莉奈の単位が危うい授業についてモーニングコールを行っている。そこは自分でなんとかしなさい、と突き放すべきなのは承知しつつ、一緒に卒業式で袴が着たいと泣きつかれれば、みすみす放ってもおけない。
「茉莉奈さんからも、なまえさんにはいい人ガンガン紹介してあげて、って頼まれてます」
「心遣いはすっごく嬉しいけど、今のところ彼氏をつくろうとは思ってないの」
「じゃあ今回は候補者探しってことで。いざ恋愛したくなった時に候補すらいなかったら絶望ですよ。種まきは早いうちに。ね?」
「……向こうの参加者も全員二年生なんでしょ? 三年一人で飛び込むのはさすがに肉食すぎるよ」
「えー、年上の包容力を求めている男、けっこう多いのになあ」
「わたしたち『一姫、二女、三婆、四屍』アンチなんで。そういうノリって腹立ちません?」
「浪人とか留年とかいたら、高校までの学年は同じです」
勢いを増した後輩たちの畳み掛けに、なまえは際どいところまで押されていた。言い訳ストックも残りわずか。背を逸らして物理的に距離を取るも、逆に詰め寄られる始末である。
「……一人夏風邪ひいた、って素直に伝えたら? 全員でバックれるわけじゃあるまいし、怒られないよ」
「だってだって! キャンセル料がもったいないじゃないですか! こんなところであっちと揉めたくないですもん! 向こうの幹事、顔のいいやつ揃いだから楽しみにしててー、とか言うし!」
それが本音か。ついに吐き出された清々しい物言いに、なまえは思わず口元を緩めてしまった。まったく、素直に最初からそう伝えればいいものを。
急な誘いといえど後輩三人に混ざって、一学年とはいえ年上かつ見栄っ張りの自分が支払いをしないわけがない。合コンであれば多少男性側が多めに出すかもしれないが、女性都合によるキャンセル料はいささか扱いが難しいだろう。先日旅行から帰ってきたという三人の財布事情を考えれば、必死のヘルプにも納得がいく。
ちなみになまえ個人としてはそのあたり──男がいくらで、女はいくらといった探り合い──を面倒に感じていたため、いっそのこと折半にしてほしいのが正直なところだったが、この場であえて口には出す必要もあるまい。
「絶対、なまえさんを仲間はずれにはしませんから。一人にしない! 約束します! お願いお願い!」
「……もー、わかった! わかったから、ちょっとはフォローしてよ。合コンなんていつぶりか……」
最終的にぼかさず誘いの意図を告げた後輩に免じて、本日はこちらが折れることにする。
「なまえさぁん、大好き! 愛してます! あとで待ち合わせ場所連絡するので!」
普段の三割り増しに甘ったるい声を受け流しながら、なまえは抱きついてくる後輩の背中をぽんぽん叩いた。

──とまあ、受け入れた時点でこうなることは薄々想像されていた。
投げかけられた愛の一節が、水素よりも、リチウムよりも軽かったことをしみじみ回想しながら、なまえは鮮やかな緑の鞘をつまんで、中身を口へ放り込む。くどくない程度に濃厚な燻製の風味が広がっていく。
二十歳を過ぎて気がついたことだが、疎外感の概念は、無心に剥かれる枝豆に近い。手持ち無沙汰に再度ハイボールをすすれば、独特の甘苦い風味が舌を痺れさす。
家系的に──主になまえの母がとてつもなく酒へ強い体質であるため、その性質を見事受け継いだ彼女がちょうどよい塩梅で酔いを回らせようとすれば、これらの液体をハイペースで流し込まなければならない。作業的なアルコール摂取は億劫だ。
本当は熱燗あたりをちびちび舐めていたい。少なくともハイボールよりは少量で酔いが回ってくれるし、生粋のアホ舌ながらも一口に旨みがあるような気がする。出汁割りなんかあれば最高だ。が、仮にも合コンの場で一人しっぽりやりだすのは勝負を投げすぎだろう。たとえ、完全に会話から置いてけぼりを食らっているとしても。
なまえは改めてグラスに口をつけ、数十センチ離れた箇所の様子をちらり見やった。
長机の逆端は、プロ野球の話題で大いに湧いている。男性側に甲子園常連校の出身がいたらしい。ドラフトで上位指名を受けた同級生について、面白おかしく話を展開していた。
後輩三人も身を乗り出して、対面の語りにすっかり夢中だ。そういえば、こちら側の一人は西武ドームでビールの売り子をやっているのだ。会話に花が咲いて当然だろう。
「絶対一人にしない」という前段のやりとりはともかく、なまえとしても後輩たちが楽しそうであれば何より。彼女らが気のよいメンバーであることは十分に知っている。後からしゅんとして「ごめんなさい」と手を合わせる様子も想像がついてしまう。前提お目付役みたいなものだ。最悪なまえが介抱すると安心したうえでのはしゃぎっぷりだとしたら、なんとも可愛らしい、かもしれない。
──と、そんな思考の折。
「何飲みます?」
なまえのグラス内が残り少ないことを察し、正面の青年が飲み放題メニューを寄越した。
「そうだな……えーい、いいや。せっかくだし日本酒貰っちゃおう! この金沢のやつ、いいですか?」
「わかりました。すみません、これを二合──あと、お猪口二つもらえます?」
一連の会話もこれで三度目だ。ちゃっかり自身の分も注文した彼は、飲み干されたグラスを机端に寄せた。そのまま流れるようになまえへチーズの羽がついた揚げ出し豆腐を取り分け、「どうぞ」と差し出す。
随分とマメなタイプである。お礼にいくらと山芋がたっぷり乗せられた厚焼き卵を取り分けようと箸で断面に切り込む。が、予想以上の柔らかさに見るも無惨な姿へと成り果てる。こんなところまで不器用な自分が恨めしい。
自身の皿へ失敗作を移動させたなまえは誤魔化すように微笑み、今度こそ優しく切れ込みを入れて相手方に品を滑らせた。いやな色ひとつ匂わせず、会釈をしながら男はそれを受け取る。
この青年、一人だけ合コン開始より二十分ほど遅れて到着した罪滅しをしているつもりなのか、せっせとテーブル上を整頓し、会話に夢中な他面子へドリンクの世話を焼いている。かつ自身は恐ろしいペースで酒を煽り続ける。その顔色は終始けろりと変わらない。ザルというか、ここまでくるとワクというか。
「……あの、あっちに混ざらなくていいんですか?」
痺れを切らし、なまえは口元を手で隠しながら青年へ声をかけた。現在の状況を客観視すれば、野球の話で盛り上がる六人と、やたら速いペースで酒を摂取する二人の分割図である。もし目の前の彼が、自分にも気を遣ってその立場に甘んじているのであれば心苦しい。
青年は、「ああ」と相槌を打って爽やかに微笑んだ。
「野球は詳しくないんですよ。有村さんこそいいんですか?」
「ならいいんだけど……。あ、わたしも同じく野球はにわかで」
返事をしながら、淡白に整った正面の顔を見据える。どこかのパーツが特別目立つわけではない。しかし、全体的に清潔な雰囲気を漂わせている。彼が席を立った時なんの気無しで見やったが、肉つきのないすらりとした体躯に小さな頭と、スタイルもよかったはずだ。細やかな気配りからして女性受けもいいであろうに。
なまえは、青年の首から下に視線を移し、改めて脳内に疑問符を浮かべた。実は彼が会場に現れた時からずっと気になっていたのだ。質問するタイミングを逃し、ここまでずるずる持ち込んでしまったが。
洒落た和風バルにも関わらず、なぜかこの男の服装は上下ともにジャージであった。芸能人が嗜むおしゃれジャージではない。スポーツ用品店に置いてあるような類。しかも、かなり使い込まれている。
首都の玄関口──東京駅と直結のビル。長い歴史の象徴でもある赤レンガ建築の丸の内駅舎が望める窓際。路線乗り換えの要でもあることから、比較的学生も多い夕方まではともかく、夜にスポーツウェアでうろつく若者はとんと見かけない。このお店というより、街全体からしてそぐわない。
遠慮を忘れたなまえの眼差しに、彼は苦笑いを浮かべてジャージの上着を軽く引いた。これですよね、とでも言いたげに。
「……お恥ずかしいんですが、急いでいたのと、もう少しラフな場だと勘違いもしていて。説明のタイミングを逃しました」
「あ、いえ、そんな。わたしだってこういう場にふさわしいとは言い難い格好ですし。今日ちょうど実験だったんです。さすがに軽すぎ?[#「?」は縦中横] というか」
自身の胸下を覗きこむ形で服装を一瞥したなまえは、頭をかいた。人様へケチをつけられる立場ではない。
シンプルなショート丈のTシャツ、ハイウエストのスキニージーンズ。大学内で作業着を羽織ることを考えた実用第一のファッションである。
安全のため、理工学部では足の甲が隠れるフラットシューズの着用を義務付けられている。当然、本日も例外ではなく、足元は馴染んだスニーカー。それも午後の実験で二時間ほどふるい分け機前に立っていたため、砂埃で汚れている。粉砕機に巻き込まれるとまずいので、アクセサリーの類も何もない。
「そうかな。有村さん、綺麗じゃないですか」
恐縮する姿へ、清瀬は届いたハイボールを一口含み、さらり告げた。その直球さと自然さに、返答用の回路が滞る。
涼しい顔をしたこの男、とんだ合コン猛者の可能性がある。今さら、先刻の「ダメンズホイホイ」との揶揄がじわじわ効いてきた。難しい。このまま流されれば、のらりくらりとした彼のペースに巻き込まれてしまいそうだ。彼が天然か、策略家かは今知る由もないが、都度しどろもどろになる懸念を、この場で唯一の三年生たるプライドが許さない。
当たり障りのないトピックを頭の片隅で探しながら、なまえは先刻取り分けた卵焼きを口へ運んだ。舌へ、繊細な出汁と魚卵の食感が広がる。彼女レベルの味覚音痴でもわかるほどには美味しい。このお店、単なる酒呑屋で終わらせるには惜しいくらいだ。粋な食レポで場をつなぐ構想は、眉を上げながら目をまん丸とするに留まった。
「……美味いことは十分伝わりました」
彼の隠しきれない可笑しさを含んだ返答も、褒めているのか貶しているのかよく分からない。「もう一切れ食べます?」と卵焼きを追加し、青年は目の前の女性が織りなす愉快な百面相を眺めている。咀嚼のペースも握られ、主導権は完全に向こうだ。
「有村さんは東京出身ですか?」
「いえ、生まれは島根です。家庭の都合で、高校入学のタイミングでこっちに。それで、ええっと──」
答えながら、なまえは両の手を胸前で合わせた。
「──……今さらごめんなさい。いらした時に席を外してて、自己紹介が聞けてなくて。なんてお呼びすれば」
「こちらこそ気づかず……。そうだな──じゃあ、佐藤でお願いします」
「佐藤君ね。佐藤君、佐藤君。了解。覚えました」
「さっそく復習ありがとうございます」青年は、彼女の律儀さが面白かったのか、再度笑いを噛み殺しながら告げた。
「話を戻します。俺も大学に入るまでは島根にいたんです。実家が大社の近く──とは言っても五キロ以上離れているんですが。もう少し街寄りの方に」
「ってことは、出雲市駅の付近です? ガーデン通り沿いとか」
「まさに! もしかして有村さんも?」佐藤は至極嬉しそうに相槌を打つ。
優しい眼差しで、自身の語りに体を向き直す佐藤の態度が好ましく、なまえもほんの少しだけテーブルへ身を乗り出した。
その後──故郷の共通点に続き、彼が寛政大学文学部の学生であるというトピックが決め手となって、二人の会話は瞬く間に熱を帯びた。佐藤の在学するキャンパスとなまえの家。二点が目と鼻の先に位置していたゆえ、である。
一度盛り上がれば、大学生活、互いの友人、休日の過ごし方、直近のインプットについてなど、話題の枚挙にいとまがない。彼から「鶴の湯」という地元丸出しのワードが飛び出した時、なまえもついに大きく口を開けながら笑ってしまった。
佐藤は相当聞き上手かつ、人を転がすことに長けているタイプのようだ。相槌を差し込むタイミングがなまえの雑談速度にぴったりはまる。古くから知りあっていたかのような感覚に包まれ、気がつけばかなりの早口で会話が進んでいた。
それが有限の時間に対する名残惜しさから来るものだと察されたのは、幹事よりお開きの合図があったタイミングである。「もう少し」と嘆く感情を押しつぶし、なまえはグラスに三分の一ほど残ったアルコールを一気に煽った。
「……今日はありがとね。結局最後まで佐藤君を独り占めしちゃってよかったのかな、ってそれだけが心配だけど」
「その台詞、そのまま戻します」
同じく残った酒を飲み干した青年は、この場におけるクロージングを行ったなまえへ、改めてまっすぐな眼差しを向ける。
二人で会話のキャッチボールをしているため、その最中に互いへ目を向けるのは当たり前といえばそうなのだが。思えばはじめから、彼はその頻度と熱量が高かったような気がしてならない。これには悔しいことに、彼女の希望的観測も含まれてしまっている。
「……もしかして、わたしの顔に何かついてる?」
あえて冗談っぽく問いかけたなまえへ、佐藤は視線を逸らさないまま、「そういうわけではないんですが……」と頰をかいた。その表情は至って真面目であり、いまだアルコールの気配すらない。
「……実はひとつ聞きたいことが」
「何々? かしこまっちゃって」
佐藤はまぶたを閉じ、瞳で深呼吸をするようにゆっくりと瞬きをする。
若干濡れた目の中には、流星群が滑っている。無垢な少年を思わせる、幾重にも層を描くきらめきが──。

「──今から、口説いてもいいですか」

なまえはたっぷり五秒ほど沈黙し──それでも理解が追いつかないまま、そっと首を傾げた。

バルを後にすると、ビル出入り口に面した大通りは非常に賑わっていた。夜九時頃という時刻も相まって、ちょうど一次会を終えた人々が波を作っている。日本を代表する企業の本社が立ち並ぶことから、仕事を終えたばかりのサラリーマンも多い。
スーツ姿の男性が、「今から五人で行くから」と、電話越しに呼びかけつつ前を通過した。例に漏れず、佐藤となまえが所属するグループ内でも「二次会はカラオケでいい?」と確認が入った折。
「なまえさんも行きましょ。茉莉奈さんからめっちゃ歌上手いって聞いてます」
「だって声がいいですもーん。ずるいですよ」
後輩たちに両腕へ絡みつかれたなまえは、「褒めたって何も出ないからね」と苦笑する。この場に誘われた経緯に加え、やはり年長者であることから、多少会費には色をつけて渡したのだが、こうあからさまにおだてられると調子に乗った結果のようで恥ずかしい。
盛り上がる後輩三人の、ほんのり染まる頰を柔くぺちぺちと叩き、スキンシップに応える。
「……ほら、さっき全員と話せなかったろ」
一メートル先では、男性側の幹事が携帯片手に佐藤の肩を乗せている。ひそひそとした作戦会議は、生ぬるい風にのってなまえの耳にも届いた。
先刻──本気か冗談かわからない宣言を受けてすぐ。店舗のスタッフが「次のお客様がいらっしゃるので」と通路側の佐藤へ耳打ちをした。呆気に取られたままのなまえへ補足をするでもなく、佐藤は友人たちの追い出しを取り掛かり──真意を確認するタイミングを逃してしまったのだ。
聞こえないふりをしつつ、彼の返事が気になってそっと様子を伺う。余計な肉がついていない、すっきりとした青年の横顔は飄々と。一切捉えどころがない。
「二次会は席シャッフルするからさ」
「ああ、そうだな」
幹事が続け、佐藤が微笑む。穏やかに──否、彼の眼差しにコンマ数秒溶け込んだ怪しい光を、訝しんだ瞬間。
「──ただ、今日はすまない」
言うなり、佐藤はなまえの指先をすくった。突然の行動に驚いた後輩たちが、からめていた腕をほどく。そのまま継続した動作で、二人は流れるように夜の帷を駆け出す。
なまえが状況をざっくり認識した時には、すでにたむろしていた地点から数メートル以上離れていた。
後ろで残された一同が「ええ!」と素っ頓狂な声をあげるが、振り返る余裕はない。青年のペースが想像の数倍速かったためだ。
「兄ちゃん、ホテルはあっちだぞ!」酔っ払った第三者の下世話な提言とすれ違い、なまえは時間差で顔を赤らめた。
「後でちゃんと報告してくださいよー!」投げかけたのは後輩三人衆の誰かだろう。パステルイエローに染まった舌ったらずな声は、雑踏にかき消され判別がつかない。
しかし、そんな背景の出来事すべてがどうでもよくなるくらいに、細く、同時に広く、芯の通った彼の背。それが、なまえの目へ殊更印象的に飛び込んだ。
二足歩行の生き物として、限りなく自然な形がそこにある。一切のがむしゃらさがなく、世界に対して潔よい。まるで、走る以外の全てをどこかに置いてきてしまったような。本坪鈴を揺らす目前にも近い、一抹の寂しさと一緒に。
うつくしく彼をなす形が、なまえの手を引くために、ほんの少し腕振りを乱している。もし自分が荷物となることで、この存在をこの場に留めおけるとすれば。それはなんて素敵で、なんて罪深いことだろう。

そんな──時間にすれば数分。距離にして数百メートル。わずかばかりの逃避行に訪れたゴールは、大手町に位置するとある建物の北側であった。
出入り口のシャッターが閉まり、通りにはビル風が吹き荒ぶ。つながれていた手が離れ、残った体温へ不思議な寂しさを感じながら、なまえはからんだ髪をかき上げた。
夏の終わりとはいえ人混みの中。湿気を多く含んだ日本独特の気候を縫い走ってきたのだ。首筋へはしっとり汗が滲んでいる。
「……ね、佐藤君ってもしかして陸上やってた?」
「開口一番にそれですか」彼はおもむろに吹き出し、眩しそうに目を細めて笑った。
「まず、いきなり何をするんだ、って怒られる覚悟でした」
「そりゃあびっくりはしたけど……。このままきみを追いかけようって思ったのはわたしの意思だから。夜の東京駅を駆け抜ける機会なんてそうないし」
「本当、相変わらずですね。先輩は」
ほんのり違和感を残す物言いをした佐藤は、足元へ視線をうつす。
地面に埋め込まれた金属のプレート。それはわずかに差し込む街灯の光を反射している。刻まれた文字はこの明度と距離では読めないが、そこに何が書いてあるのか、なまえはとうに知っていた。否、陸上競技を少しでもかじった経験さえあれば、それは当然のように。
「……あの──」
再度何から問いかけるべきか言い淀む彼女へ、青年は改めて向き直る。躊躇いがちに伸びた指がなまえのそれを握る。華奢な女性でもふりほどける程度の、優しく弱い力。
「──まだ気づいてくれませんか」
端正な佐藤の顔を改めて見つめ、なまえはしばらく思案する。おのずとたどり着いたのは数パーセントの可能性。
声変わりする前のボーイソプラノ。短い前髪。あどけない少年。それらが先刻のスピードよりも速く、なまえの脳裏をよぎった。
まさかそんな。けれど、そうでもなければ……。
「……もしかして──」
ついに青年は辛抱たまらんと吹き出した。体を折り曲げ、肩を震わせる。その様子が十数秒ほど続き、
「……すみません、からかいすぎました。そう、佐藤っていうのは冗談です。でも、最後まで気づいてくれないなんて先輩もひどいですよ。俺はすぐわかったのに」
呆気に取られる彼女へ、呼吸を整えた青年が微笑みかける。

「お久しぶりです──なまえ先輩」

その声は強い風にのり、新年に鳴響く号砲と似た鮮烈さをともなって、彼女の心に落ちていった。
消えることなく、ずっと。