Prayer 1章間話 榎本茉莉奈

「……何だそりゃ」
茉莉奈は頬杖をつきながら、目の前でスパゲッティを咀嚼する友人を見つめた。
場所は西喜久井キャンパス周辺。腰を据えて話がしたい時、必ずと言ってよいほど使用する二人の定番イタリアンである。大学から近く、学生価格にしては店内が洒落ている。少し時間をずらせば昼帯でも入りやすい。
特に、看板メニューのミートソースはなまえと茉莉奈のお気に入りだった。実験で疲れた日なんかは、大盛りもぺろりと平らげてしまう。
しかし──本日。ガーリックオイル増し、マッシュポテトと茹でキャベツ増量トッピングが施されたなまえの皿上には、冷めた料理が半分以上残っている。
「あーあ、ついになまえちゃんのワンナイト話が聞けると思って楽しみにしてたのに」
「なわけないって」
「ガード固いんだからあ」
「茉莉奈があっぴろげすぎるんだよ!」
重そうにフォークを回しながら、なまえは唇を尖らせる。異性間交友に奔放である茉莉奈から、日々の記録や愚痴を聞かされ慣れているためだろう。
それこれも茉莉奈が生まれ持った愛らしいたぬき顔、小柄な身長に似合わぬグラマラスボディが悪いのだ。彼氏を取っ替え引っ替えは序の口。生理的に無理でなければまず体の相性から見極めたい質。際どいどころを申し訳程度に隠した猥談は茉莉奈の得意分野であった。なまえがこの手の話へ意外と関心を持っていることにも気がついている。
「嫌いじゃないくせに」友人にからかいを投げた茉莉奈は、話を本題へと巻き戻す。
「要するに──その……清瀬? って人は、なまえちゃんの幼馴染なんだよね?」
なまえは困り顔でこめかみに手をやり、ゆっくり頷いた。
「……幼馴染じゃなくて、中学校時代の後輩」
「ふーん……。まあ、幼馴染でも後輩でもどっちでもいいよ。それにしてもよくまあ気づかず盛り上がれたよねえ……。そんなに変わってた?」
「声変わりして、最後に会った時より身長も伸びてた」
「七年ぶりの再会なんて少女漫画みたい。また会う約束もしたんでしょ? はじまるかもよ? ロマンス」
「ジャージの男と実験終わりの女だよ。そんな無茶な……」
「意外な場所からストーリーははじまるものなの! なまえちゃんもたまには恋愛もの読みなって。いっつもむさくるしい絵柄のやつばっかり。男性ホルモン過多であご髭ボーボーになっても知らないよ」
「あ、こら! 不朽の名作たちになんてことを」
微妙にズレた回答を戻しつつ、なまえは皿上の麺をフォークに巻きつけた。

絶賛与太話に花を咲かせる二人は、大学で同じ研究室に所属している同級生である。
該当の室は、午前中の登校が義務付けられているものの、帰宅の時間に決まりはない。理工学部内では比較的緩い部類だ。
とはいえ、教授の圧が強いため、所属学生は出たり入ったりを繰り返し、平日の五日間について、昼前から二十一時まではほぼコアタイムのように居座っている。徹夜で分析や面談資料作成に励んでも労働組合など存在しない。行き着くところまで行き着いたフレックス制の様相である。高い授業料を払って、やっていることはブラック企業のそれにも近い。
そういった状況の中、茉莉奈の友人──有村なまえは、日々遅くとも午前十時には自席へ到着し、研究室の事務仕事をほぼ一人で担っている。たとえば、喜久井祭の研究室展示、学会のポスター印刷、来客があった場合のお菓子手配、ゼミ室の予約、面談スケジュールの作成、共同財布の管理、実験器具のリース、研究室合宿の準備、実験室掃除の指揮、備品の発注、出張費のシステム入力──エトセトラ。
終いには、教授陣から新入生オリエンテーション合宿の付き添いや、卒業式後に予定されている謝恩会運営といった、学科の仕事まで任される始末。たまに抜けている部分こそ見られるが、人あたりが柔らかく、プロジェクトマネジメントに長けているなまえは、校内事務からの信頼も厚い。
大学の成績なんて単位さえ落とさなければ十分であろうに、家計の足しに給付型の奨学金を得たいとも言う──理転したのが遅かったため、国立大学の受験に間に合わなかったらしい──全授業において真面目な優等生だ。ノートやレポートに不備があれば、先輩よりも彼女に聞くが早い。学科のほとんどの学生が、大なり小なり何かしらなまえに借りをつくっている。
特に、朝に弱い遅刻常習犯として、プライベートを含むあらゆる面で世話を焼かれている茉莉奈としては、どうにかして恩を返したいと常々思っていた。せめて自身の得意分野から──と、合コン等のイベントにはなまえを積極的に誘うよう根回しをしたのが先日のこと。早々に出た成果へ、茉莉奈がうきうきとほくそ笑むのも仕方がない。
すでに決まっているという次回の逢瀬について詳細を尋ねると、なまえはあっさり「鶴見に行くんだ」と告げた。
「川崎の隣って言えばわかる? 東京都と神奈川の境目」
「わかんないかも……。そこに二人で何しに行くの? 買い物? 映画? 美術館?」
「あ、ごめん語弊。鶴見で何かするんじゃなくて、鶴見まで行くのが目的。着く時間によっては現地解散かも」
「……んん?」
思わず茉莉奈は怪訝な表情を浮かべる。
「それは……どこから?」
「大手町から」
「……つまり、どのくらいの距離なの?」
「二十キロちょっとかな」
二度目の「んん?」は、間髪入れずにこぼされた。
茉莉奈が思う、この友人──なまえの難儀なところ。その例が綺麗に示された形である。
一体何がどうしてそんなデートコースになってしまったのか。
もし声をかけられたのが茉莉奈であれば、道半ばで確実にギブアップを申し出るだろう。否、そもそもはなから同行しない。歩き疲れる経験は、テーマパークとウィンドショッピングで事足りる。
「……修行? それとも願掛け? まさか前世が阿闍梨?」
「おお、比叡山」
「そこ掘り下げなくていいから。騙されてない? 次の約束がそれでいいの?」
「だって、断る理由もないし」
友人にしてはめずらしく、いまいち釈然としない。
訝しむ茉莉奈をよそに、なまえは「ちょうど今怪我のリハビリ期間で、体を動かしたいんだって。毎回同じ人を誘うのも悪いとか色々あるんじゃないのかなあ。ほら、時期的にも涼しくなってきて、こう、いい感じだし」と付け足した。
「だったら公園の散歩でよくない? たとえば、マザー牧場。ペチュニアが見頃だったと思うけど……」
茉莉奈がもっともらしくぼやく。苦笑いしながら目の前の友人がわざとらしくそっぽを向いた。
やはり、なまえはその男に何かしらの後ろめたい思い出があるのかもしれない。
なまえの強靭なバイタリティ、人たらしな懐の深さが、マイノリティ側の人間をも引き寄せることを、茉莉奈は十分知っている。他ならぬ自身がそうであるからだ。
中高時代、早くに成熟しすぎてしまった容姿のせいであることないこと囁かれてきた経験が、胸の奥に刺さり続けている。陰口を叩かれ、懇意にしていたグループから突然外されたこともあった。
いっそのこと本当に遊んでやろうじゃないかと、大学入学後は幅広い交友に精を出したが、経験値と引き換えに、地方の両親へ若干の顔向けしづらさを感じてもいた。「ビッチ」だと同じ学科の一部学生から遠巻きにされていることもわかっている。
けれど、彼女は決して茉莉奈の特定箇所を切りとって評価しない。茉莉奈を構成する全てをひっくるめ、総合し、一人の人間として接してくれる。ただでさえ女性の少ない理工学部で、こんなにも気を許せる友人に出会えたことは、茉莉奈にとって幸せ以外の何ものでもなかった。
だからこそ、茉莉奈自身が彼女を厄介ごとに巻き込んではいないか、時おり心配になってしまう。今回の件だって、もともと清瀬となまえが知人であったとはいえ、茉莉奈の斡旋がなければ成立しなかった再会だ。
ややしつこく質問を繰り返したのも、清瀬という男が自身の同類ではないかと気になったからである。もし杞憂であるならそれはそれで暁光。言いたくないことまで、無理やり吐き出させようとは思っていない。
茉莉奈は、ランチタイムにつきおかわり自由のアイスコーヒーを一口含み、やれやれと肩を落とした。
「……一旦これ以上の深追いはやめとく。けど、もしなにかあったら教えてよ。いいことでも、悪いことでも。もしなまえちゃんが百悪くたって、あたしはなまえちゃんの味方するって決めてるんだから」
一拍置き、茉莉奈は投げかけた言葉が想像以上に熱いものであったことを察した。心の内側に生じたむず痒さ。それを素知らぬ顔で堪えるため、咥えたストローを噛み締める。苦い雫が舌を滑った。

友人から「清瀬君に付き合う」と報告されたのは、三月半ば。桜前線がちょうど東京を通過する時期である。
ビル風へ懸命に耐えるパステルカラーの蕾に手をかざしながら、なまえは「恋人として付き合うことになった」のではなく、「清瀬の何らかの計画に付き合うことになった」のだと補足をした。まったく。ややこしい言い回しをしないでほしい。
清瀬となまえが再会してからおよそ一年半。その間に、二人は逢瀬を重ねていたようだ。
西喜久井キャンパスへ、なまえを訪ねてきた清瀬と遭遇した後輩もいる。誰かの手作りと思わしき弁当、それをなまえが研究室で開いている姿を目撃したことも一度ではない。
散歩だのリハビリだのと称し、細切れにした距離を足し上げ、箱根までの道のりを往復したことも知っている。大手町から西へ進み、芦ノ湖で折り返し、読売新聞社までのおよそ二二〇キロを歩ききったらしい。長い二人旅の中で、いったいどんな話をしたのだろう。
彼と出会った当初の意味ありげな態度から、無理やり付き合わされてない? と穿った目を向けていた茉莉奈も、今や静観の構えだった。
理工学部の授業や実験、プライベートを含めてまるまる四年間も一緒にいれば、だんだんとわかってくるものだ。頼られやすいくせに、人を頼るのがめっぽう苦手な、なんとも不器用で愛おしい友人が、本心で困っているのか否かくらい。本人は上手く隠しているつもりかもしれないが。
そして、友人と、清瀬という男の間に存在する、決して自身には立ち入れない空間。それを想像するたび、茉莉奈はなまえが再会した気の置けない存在が嬉しくて、ほうっと胸を撫で下ろして──最後に少しだけ。ささやかなジェラシーを覚えてしまうのだった。
こんな心持ち、恥ずかしくて神様にすら言えないが。