Prayer 1章間話 北沢すず

北沢すずがが五十七号館のエントランスを出ると、中庭のベンチに見慣れた姿があった。
一七〇センチ近い身長にすらりとしたスタイル、真っ白な肌は、女性の少ない理工キャンパスで否応なしに目立つ。所属学科の先輩──有村なまえその人である。
すずが高校時代に懇意にしていた榎本茉莉奈の友人でもあり、現在進行形で随分よくしてもらっている。二年春学期の落単を一つで抑えられたのは、ひとえに彼女のおかげに違いない。
それにしてもこの時間帯に一体何をしているのだろう。学部三年の秋学期から研究室配属があるすずたちの学科。この時期の三年生は、着手する研究テーマの前提理解のため、怒涛の忙しさに見舞われているはずなのだが。
声をかけようとすずが手を上げた瞬間。突如、横から「なまえ先輩!」と台詞を奪われる。先輩はスマートフォンに向けられていた視線を声の方向へ移し、青みピンクに彩られた可愛らしい唇を尖らせた。
紙袋を持って、こちらへ小走りで駆けてくる青年には覚えがある。数週間前の合コン、男側面子の一人。先日と同様にジャージ姿の彼は、作業着姿が多いキャンパスの中でやたら馴染んでいる。
名前は、確か清瀬とかいっただろうか。彼のさっぱりとした端正な顔立ちをはじめて見た時、顔の良い同級生を揃えると豪語した幹事の手腕に感心したものだった。まさか清瀬が一次会の終わり、先輩の手を引いて遁走するとは思わなかったが。
すずは当時の情景を改めて回想する。あの時、東京駅前に残された面々は一斉に顔を見合わせ、女性陣は月九を思わせる光景に心の中ではしゃぎ、男性陣はぽかんと口を開けていた。以降は移動先のカラオケで聞いた話だが、そもそも清瀬は当日に無理やり参加を頼み込んだ口だったらしい。今回いの一番に相手を持ち帰るとは想定外だったそうだ。
追ってメッセージアプリでなまえを質問責めにしたところ、清瀬は中学時代の知り合いだった、飛び出したのはお酒の勢いだ、積もる話があっただけで勘繰っているような展開はない、とのこと。申し訳程度に頭を抱えるパンダのスタンプが送られてきた。
しかし、こうして第三者として会話を覗くに、その距離感は単なる後輩とするには近すぎるように感じる。
「──本当にいいの?」
「はい、栄養バランスはばっちりてす」
「そりゃあわたしの健康面はね。清瀬君の負荷が大きすぎない? って話」
なまえが困った様相で頰をかく。対する青年は飄々と微笑むだけだ。
「寮の炊事は俺が担当しているので、一人増えるくらい大した手間じゃない」
「料理して、お弁当箱に詰めて、ここまでわざわざ持ってきて、大した手間でしょうに。材料費だって一人分増えてるわけだし。東京都の最低賃金知ってる? 少なくとも三、四千円は……」
「値段を出すのは反則」
なんと紙袋の中身は彼手製のお弁当らしい。ここ最近は特に、寄せられた学科の事務ごとを含めて非常に多忙ななまえが、キャンパス付近のファーストフード店で適当に毎夕飯を済ませているのをすずは認識していた。まさかそれを知って押しかけたのだろうか。もはや新手の通い妻である。
なお食い下がろうとするなまえを「それに」と清瀬は押し留める。そのまま名前に違わず清々しい口調で
「ただ、俺がなまえ先輩にしたいだけですから」
と、告げた。あわせて手に持った袋を彼女の目の前に突きつける。
某有名映画で見たことがあるシーン。すずの記憶によれば、画面の中の少年が差し出したのはお弁当ではなく傘で、スカした文句ではなくひたすら「ん」の一点張りであった。対して、舌の回る目の前の青年は、すずが思考する間にもすらすら口上を述べる。
「おせっかいな通り魔に遭ったと思って、遠慮なくもらってください。ああ、このまま持ち帰らせたいのであれば、それはそれで仕方ないが」
「うわ! ずるい言い方するなあ」
なまえはしばし悩んだ様子を見せた後、「ありがとう」と袋を受け取り、
「さすがにお弁当箱はわたしが返しに行くから。わざわざ取りに来るとか、そこまで清瀬君が手間かける必要はないからね」
彼の瞳を見つめ返しながら、大事そうにそれを抱えた。
「わかりました。待ってます」
「でも本当にありがとう。今から夜が楽しみ」
「それは何より。多分、先輩が好きなメニューだ」
「あ! 待って、当てたい。……もしかして蓮根の?」
「それそれ」
なまえの顔が綻ぶ瞬間、心の底から嬉しそうな眼差しを向けた清瀬は、「用事も済んだことだし、俺はこれで」と踵を返した。軽い足取りで、振り向きもせずキャンパス直結の地下鉄駅へ向かってしまう。
随分あっさりした別れではないか。一部始終を盗み聞いていたすずは思わず拍子抜けしてしまった。なまえへ弁当を渡すまではあれだけ押しが強かったのに。まるで同一人物とは思えないほど。
静かに訝しむすずの目の前を清瀬が通り過ぎる。その綺麗な横顔。口元、そこにはわずかな笑みを携えられている。
──まさか、この男。
すずの脳裏を一つの仮説が過ぎた。
「……生協?」
数秒の思案を経て、呼びかけに顔を上げると、すぐそばに疑問符を浮かべるなまえの姿がある。いつも通りの先輩に、清瀬に送ったものとは異なる感情で拍子抜けしたすずは、ため息混じりに「……あの人確信犯じゃないですか?」と尋ねた。
「え! 見てたの⁈ どこから⁈」
「あの人が小走りでやって来るところから全部! 絶対、待ってましたよ。なまえさんが自分から返しに行くって言うの」
黙って話を聞いていたことはこの際無視だ。
不躾な結論に数回瞬きを重ねたなまえは、「ふむ」と顎をなぞり、一拍置いて「それでもいいよ」と肩をすくめた。
「わたしもまた会いたいから」
しれっと。
すずは「……はえ」と間抜けな相槌を打ち、言葉を詰まらせる。
待て待て。先日のメッセージ内容と話が違う。なまえにその気があるのであればむしろ、それはつまり、どういう──。
「──なーんてね」
なまえは、唇を開閉させるすずへ、白い歯を見せて笑いかけた。
「ただ、お礼を持って行きたいだけ。もらいっぱなしは性に合わないからね。もし受け取ってくれなくても、アパートまで行けば置き逃げできるでしょ」
見事にからかいがヒットしてご満悦のようだ。いつにも増して楽しそうである。小悪魔というには強烈すぎる、彼女の友人の影響だろうか。
「茉莉奈さんみたいなことしないでくださいよ!」
続けて、すずは「いたいけな後輩にそんな冗談言うなんて! ひどいです!」と悲鳴をあげ、それでもカラカラ笑うなまえへ頬を膨らませてみせた。