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焼けた鉄板が、火のつけられたままのコンロ上でぐらぐらと揺れる。次第にバランスを崩し、手前側へ大きく崩れる。
目の前を通り過ぎた影が、それを手掴む。堪えきれないわずかな悲鳴があがる。重力によって台所の床に叩きつけられたフライパンが、ごま油の香りを撒き散らしながら転がる。
──一体何が。今、自分は何を。
目から仕入れた情報が思考と結び付かず、薄ぼんやりと風景だけを追っていた走は、自分に呼びかける緊迫した女性の声で我に返った。
「ねえ! 清瀬君が倒れたところ! 見てた⁈ 頭は? 頭は打ってた⁉︎」
なまえは清瀬の脇にしゃがみこみ、彼の鼻先へ耳を寄せている。呼吸音を確認しているようだ。
「あ、そ……え」
真剣な表情に押され、ろくな言葉を戻せないままに走がもごもごすると、「しゃんとしなさい!」勢いよく叱咤されてしまう。
「た、多分打ってない! です」
事が起きたのは、走が俯きながら清瀬に語りかけていた時だ。記録会の中で、竹青荘の皆の走りを見てわかったこと。そして、わからなかったこと。上手く言語化できない青年のもどかしさを、清瀬はきっと理解していたのだろう。黙って耳をそば立てながら、いつものように無駄のない手際で炒飯を調理していた。
突然、大きな衣擦れの音に反応してとっさにコンロ付近へ目をやった走は、細くも芯のある背中が肩口から壁にもたれ、ゆっくりと崩れていく様子を目の当たりにした。否、走の目にスローモションで映っただけかもしれない。脳がその光景を認められず、混乱したのだ。
なまえとやりとりを交わす数十秒の間に、先刻まで清瀬と走の二人だけであった空間は、駆けつけた人で溢れかえっていた。
双子が「ハイジさん死んじゃやだ!」と叫ぶ声を上書きし、清瀬に寄り添っていたなまえが「注目!」と右手を高く上げる。
「坂口君は布団を敷いて! 誰の部屋でもいいです。一番近いところ。平田さん、岩倉君は清瀬君を運んでください! 呼吸はあります。頭も打ってないみたい。でも連れ出す時はゆっくり、急に上半身を起こさないであげて。ああ! そこ踏まないで! 熱いから! 救急車……じゃないな。わたしは往診の電話入れてきます。杉山君、ムサ君は、田崎さんに報告! 二重で病院へ連絡しないようフォローしておいて!」
王子が「……僕は何を」とおずおず尋ね、なまえから「台所の片付けをお願い。蔵原君も」追加の指示を出される。
清瀬を囲み顔色を伺う双子は、そろってわたわたと落ち着かずにいる。二人を一瞥したなまえは無言で視線を戻した。この状態の彼らに頼み事をするのは現状危険だと判断したらしい。一瞬にも関わらず、的確な決断力である。
駆け足で二階に置きっぱなしの携帯を取りに戻るなまえに続き、彼女の迫力へ呆気に取られていた一同が、慌てて行動をはじめた。
倒れていた清瀬は、ぐったりとした身体を担がれて自室へ運ばれていく。その際、彼の左側を支え「よっこいせ」と立ち上がったニコチャンは、体重の軽さに目を丸くした。
台風が通り過ぎていくような喧騒の中、食堂に取り残された走は、のろのろと屈み転がった家庭用の中華鍋を拾う。ひっくり返ったそれを起こすと、床にごま油の香り漂う米粒が散らばった。
木張りの床には鉄の縁にそって丸い焦げ跡がついている。もうすっかり冷めていそうなものだが、鉄板の中心へ触れる気にはなれなかった。
*
そんな、竹青荘をゆるがす事件より数週間。鶴の湯からの帰り道、王子と走の間で絡んでいた糸が、ほぐれた後のこと。当時の一部始終を改めて聞かされた清瀬は、いよいよ耐えきれずに吹き出した。
「笑い事じゃねえぞ」湯上がりにも関わらず、寒気をもよおしたらしいニコチャンがぼやく。
「心配をかけたことは悪かったが、こうやって聞かされるとどうもなあ……」
清瀬の返しに続き、周囲にいた他の住人たちもそれぞれ感想を述べる。特に双子は「本当に死んじゃったのかと思った」、「事故物件になっちゃう」、「俺たち喪服なんて持ってないよ」と言いたい放題である。
「高校生までは制服でいいからね」
神童が申し訳程度の神妙さでフォローするが、清瀬が亡くなる前提での会話へ指摘を入れるべきなのだろうか。悩む間に、「そうそう。台所からあと一人、あと一人……って深夜に声が」キングが双子に乗っかり、わずかな気遣いは霧散する。
当の清瀬の反応もあり、住人たちは半ば笑い話にしているのかもしれないが、走にとっていまだにこの話題は後ろめたい。連なる住人の気持ち後ろ側について、そっと首を縮こまらせる。
「ハイジさんは元気な時もやるでしょ。あと一人、あと一人って」
「はいはい、ご名答。幽霊の怨念が可愛く見えるわ」清瀬と同級生のユキが、これまでの日々を思い返しながら苦笑いする。
自動販売機の明かりに目を細めながら、ジョージは「それにさ」と続けた。
「本当に怖いのはお化けよりなまえさんっしょ。俺、あの後一週間くらい目見れなかったもん」
「いつもめっちゃニコニコしてんのに。何やっても許してくれるし、教えてくれるし、優しいし。あ、たまに適当だけど。注意する時も、こらこらーって言うくらいで」
「怖えよな。いつも怒んない人が怒ると」
再度清瀬が口元を抑えて笑う。今度は先ほどよりも強めの発作である。
「なんで笑うの?」
「起きてたら、ハイジさんも絶対びっくりしたと思うんだけど」
「……いいよ、こいつはほっとけ」一人なぜか物知り顔のニコチャンが呆れる。そこで、ようやくひきつけを収めた清瀬が、空咳を挟んで告げた。
「……いやあ、すまない。ついおかしくて。一応、先輩の名誉のために言っておくと、締めるべきところはちゃんと締めるぞ、あの人。俺の方針も、昔のなまえ先輩を参考にしているところが大いにある。主将時代の先輩を見たら、きみたちそろって卒倒するかもな」
「なまえさんが鬼軍曹ってこと⁈」
「えー! 嘘だ!」
「鬼とまでは言っていないだろう。それに、俺が嘘をついたことがあるか?」
その言葉自体がすでに怪しい。走が眉を顰めていると、またもや何か思いついたらしい双子が話題を転換させる。
「あ、でも待って! 確かに……。この間ハナちゃんが言ってたあのテスト」
「あー! Mなんとか! たくさん質問に答えるやつ」
「もしかしてMBTIというものではないですか?」
「それそれ! さすがムサさん」
ジョータが手を打つ。
「ハナちゃんのクラスですっごく流行ってるんだって」
「ムサさんもやったことあるの?」
「統計学の授業で、一例として扱ったんです」
いまいち説明が要領を得ない双子に代わり、スマートフォンで単語を検索した神童が、それはマイヤーズ=ブリッグス・タイプ指標──通称『MBTI』と呼ばれていること。個人が持ちうる特性をひもとくツールであること。「エネルギーの方向」、「ものの見方」、「判断の仕方」、「外部との接し方」という四つの指標で、十六タイプに人間の特性を分類するものであること──それらを端的に伝えた。携帯さえあれば、十分ほどで簡単に診断できるらしい。いわゆるちょっと手の込んだ心理テストである。
なされた解説へ「そーそー」と、ジョージがぶんぶん首を振る。
「夕方練の前、ハナちゃんとなまえさんと俺らだけが先に着いちゃった時。サイト教えてもらって、その場にいた全員でやったわけ」
「そこでなまえさんな」
「指揮官って出たんだよな」
顔を見合わせて頷いた後輩へ、ユキが「仰々しい」と頰をかく。
「血液型占いみたいなもんだろ」
「違うんだって! むっちゃ当たるんだって!」
「ええっと……指揮官はENTJ? ……へえ、日本で一番レアだって。生まれつきのリーダー。大胆。意志が強い。負けず嫌い。プライドが高い。せっかち」
「それあってんの?」
画面の文字を読み上げる神童へ、キングが眉唾で尋ねる。葉菜子が話題を持ってくる前に一人その診断を済ませていた彼の質問意図は、診断の信憑性ではなく、なまえが回答ミスをしていないか、にかかっている。
「うん。大学でも流行ってて、実はこれまでも何回かやったことがあるんだって。いつも同じ結果になるって言ってた」ジョータが微笑み、「ということは、少なくとも回答に間違いはなさそうですね」ムサが不思議そうに告げた。
「……あの、それハイジさんも」
ふと走がこぼす。皆の視線が一斉に自身へ向き、やや焦るが、先日葉菜子のスマホで質問責めにあっている清瀬を見かけたとぽつぽつ補足する。
今更その時のことを思い出したらしい清瀬が、「ふうん」と首を捻った。
「確かに……。結果はよく覚えていないが」
「なんでだよ。肝だろ、そこが」ニコチャンが呆れる、
根っこが手抜きをしない性分。逆に関心のないことについてはとことん雑である。
走は当時の記憶を引っ張り出し、奇跡的によみがえったフレーズを述べた。
「えっと……主人公、だったような」
「待ってくださいよ……ああ、これです。ENFJ。へえ、有村さんとは三番目の文字が違うだけですね。似てるってことかな。えーっと、社交的。リーダータイプ。洞察力に優れる。献身的。実は繊細。一目惚れしやすい。他人に理想を押し付ける、とか」
全員が顔を見合わせた。照らし合わせる必要すらなく、おおむね当たっている。
「……なるほど、耳が痛い」視線を察した清瀬が笑う。
最後尾でゆらりゆらりと歩を進めていた王子が「……当たってますよ。見事にどちらも」ぽつりとこぼした。