*
食堂に、八人分の「はあ⁈」がこだました。
「だから今日の夕方五時、玄関前に集合だ」
その叫びを引き出した張本人は、実に清々しい居住まいである。
「今まさに走って来ただろうが」
「朝のジョグは肩慣らしだ。今日から夕方の本練習もはじめる。本格始動だ」
ユキの抗議を押し戻し、清瀬は味噌汁をすする。
「その時間、授業終わってんだっけ」
「ああ、まあ大丈夫じゃね? バックれれば」
「神童さん、あとで靴のことを教えてください」
「もちろん」
「……おかしい。おかしいぞ、お前ら」
ユキは周囲を見渡し、恐ろしいものでも見たかのように眉を顰める。昨日の王子の件で、竹青荘の面々が盛り上がりつつあるのは共通認識であった。しかし、これではまるで──。
「──……陸上部みたいじゃないか!」
「だってそうでしょう」
双子、神童、ムサが声を揃える。ユキはげんなりしつつともに戦う仲間を探すが、奥のちゃぶ台で副菜を口に運ぶ走は端から無言。正面の清瀬は言い出しっぺだ。
孤立無援となり、言うに事欠いたユキは「先輩からも何か言ってやってくださいよ!」と隣のニコチャンへバトンを繋げた。しかし、頼られた先輩も先輩で生返事。釈然としない。ユキは目を瞑り「どうしちまったんだ、アオタケは……」と天井を仰ぐ。
──と。それまで走同様に無言を貫いていたキングが、ガチャンと音を立てて食器を置いた。隣のムサが驚いてキングを覗き込む。
「……俺はパス。今日セミナーがあるんだ」
「それはずらせないのか?」清瀬がいつもの調子で尋ねる。
「ずらすって……。その場合、俺の人生全体の予定もずらすことになるけど。責任取れんの?」
強張ったキングの言葉を、「俺なんかズレまくりだぞ」とニコチャンが茶化し、双子がゲラゲラ笑った。何ら変わりのない朝の風景である。が、一瞬だけ。その場におかしな空気が流れたことを、神童は敏感に感じ取った。
「ああ──あと、今後バイトは禁止とする」
神童がキングの表情を気にしていると、その間に清瀬がさらり爆弾発言をかました。
一瞬の沈黙後、二度目の「はあ⁈」が食卓を覆う。
「え、それは……全員?」
「もちろんだ。それから皆、ランニングウェアを用意すること。王子のデニムスタイルだか、あれはもっての外だ」
「……これまでの人生、ジャージの類を必要としたことがなかったもので」
「ジャージもダメだ。タオルと着替えも必ず用意するように。こまめな着替えは重要な体調管理の一つだ。毎日練習していたら、余計な時間は一切なくなる。仕送りだけでも十分貯金はできるさ。それから──」
「──あのさあ!」
清瀬の小言を遮り、大きな音を立てて食卓の椅子が引かれた。誰かが無理やりに立ち上がったのだ。
床が椅子の角で引っ掻かれた音に、竹青荘の保持役も兼ねている清瀬の意識が逸れる。皆の視線を受けるその男は思い詰めたような、苛立ったような表情で、テーブルの一点を見つめていた。
「……練習だけの毎日なんてありえねえわ。悪いけど、俺には俺の人生があるからよ」
そのまま食器類を放り投げるように流しへ押し込み、キングは食堂を後にしてしまう。
「……どうした? 生理か?」
「そうやってからかうからじゃないすか」
皆が呆気に取られる中、神童は先刻の直感が当たったことに、やり場のない不安を感じてならなかった。
ゼミが長引き、走って竹青荘に戻ってきた神童は、準備を終えた時点でまだ全員が揃っていないことに安堵した。もし皆が自分の到着を待っていたらと思うと、どうにも忍びない。竹青荘での暮らしも丸二年を越え、残りの学生生活が半分以下となっても、ニコチャンやユキのような先輩の風格が出ないのはこういう部分が所以だろうか。
急ぎ練習着に着替えて玄関に向かう。ちょうど自室から出てきた走と落ちあった。
靴紐を結んで玄関を抜け、庭の隅でニラに話しかける王子も見つける。神童が部屋にいる間に出てきたようだ。
「……きみと僕、どちらが本物の自由を手にしていると思うかい?」
「オレたちは生まれた時から皆特別で自由だ、ってエレンも言ってるよ」
「……数ある不自由と戦わずして自由は手にできねえ、と米崎も言っていますよ」
「んー……、それは何?」
「『クローズ』です。お読みなさいな」
手伝いに訪れたなまえが、しゃがんだ王子の上からニラを覗き込んでいる。
朝食後に清瀬へ尋ねたところ、これからは主に葉菜子が朝のジョギングを担当し、なまえが本練習のサポートについてくれるとのことだった。記録会などの外部対応についてはその都度決めるという。なんともありがたい話である。
「お話中すみません。有村さん、今日もお世話になります。大学の方はいいんですか?」
「あ、杉山君お疲れ様。ゼミ発表が再来週だから、今週はけっこう余裕あるんだ。実験出張もしばらくないし。お気遣いありがとうね」
「それならよかった。実験出張ってかっこいいなあ。僕が白衣を着たの、確か高校の理科が最後ですよ」
「ありがと。とは言っても、わたしの持ってるテーマが工学に寄ってるから、化学室で試験管振って、みたいなことはめったにないんだよねえ。工場とか想像してもらった方が近いかも。白衣じゃなくて、ほぼ毎日ツナギだし」
なまえが片手でスマホを操作し、所属研究室のサイトを掲示する。
「これこれ。無地だとホコリと砂がとにかく目立つからせめてものデザインで。作業着の背中に研究室のロゴ入れてるの。ただ、教授の筆文字をそのまま拡大したからかなーり渋い」
中心で腕を組んでいるのは教授だろう。その想像以上の強面具合に神童は声をあげて笑う。デザインが研究室名ではなく、「武羅悪区江無屁羅悪」や「寿辺苦絶悪」といったコテコテの刺繍だったとしても、きっとそこまで違和感はない。一体どこの暴走族だ。
そうこうしているうちに、ニコチャン、ユキの背中を押しながら清瀬が出てきた。なまえの姿を見つけ、竹青荘の共有資産であるママチャリを引き渡す。
徒歩圏内に生活必需店が揃っているため、彼女は自転車を持っていないらしい。
「もう少しサドル上げられる?」
自転車にまたがったなまえが、窮屈そうに足を折り曲げる。ユキが「最後に使ったやつは誰だ」と声を張り上げた。
「なまえさんより脚が短いことが確定したぞ」
「キングさんだよ! 一昨日、成城学園前の本屋に行ってた」
双子の証言により、すぐさま被告が確定する。が、ここぞとばかりにからかおうと見渡しても当の本人はどこにもいない。
「キングさんはやっぱり欠席っぽいね」
「あの人、最近やべえやべえばっか言ってんだよな。絶対高望みしすぎだよ」
「いや、してえだろ。どうせなら」
「でも最近、就職率って上がってんじゃねえの?」
呑気な双子の発言に、「全体で見りゃそうかもしれねえけど、できねえやつは歴然とできねえよ」とユキが現実を突きつける。双子も易々と引き下がりはせず、「怖」、「正論お化け」と、遠慮のない感想をぶつけた。
雑然としたやりとりを聞いていた清瀬は、肩をすくめ、ひとまず気を取り直し皆へ声をかける。
「記念すべき第一回目の本練習だ! 心して取り組むように──ああ、ニラも行くか? 王子も」
「……せめて、こいつと同列に扱うのは止めてもらえますか」
王子が恨めしげにぼやいた。
その後、清瀬に先導されながら一同は一斉に走り出した。しんがりにはなまえがつき、水筒やら着替えやらをまとめて運んでくれている。
「柏崎君! ゴーゴー! レッツゴー!」王子への励ましも忘れていないようだ。陽気なかけ声から昭和の匂いがする点は一旦置いておく。
自転車を貸しだした時点でおやと思ってはいたものの、やはり向かう先は寛政大学ではないらしい。二キロほど道なりに進み、たどり着いた場所は寂れた区営グラウンドだった。
かろうじてタータンこそ貼られているが、実に年季が入っている。周囲を取り囲む金網も錆びており、風でキイキイ侘しい音を鳴らす。
「陸上部なのに、グラウンドを使う権利もなしか……」
「一応公認なんすよね? 大学の」
「大学の方がいろんな運動部やサークルが使っているからな。俺たちの番が回ってくるまでに百万年くらい必要だろう。何事も序列だよ」
すでに交渉をしたのだろう。めずらしく、清瀬の顔には諦めの色があった。
後方のムサが「ハイジさん」と挙手をする。
「はい、ムサ」
「流して走るということでしたが、それはつまりゆっくり走るということですか?」
「そうだ。いきなり走ると故障の原因になる。練習の前にまずは一時間」
「一時間⁈」走となまえを覗く全員が、ほとんど絶叫に近いトーンで復唱する。
「ハイジさん」
「はい、王子」
「それは……もはや、練習なのでは──」
「──じゃあ行くぞ」
皆まで聞かず、清瀬はトラックに向かって歩いていってしまう。自転車カゴからバインダーを取り出したなまえの横、「なあ、今のを無視と言うんだぞ。きみだけだ、話が通じるのは」と虚無の目で王子がニラに語りかけた。
むしろ、自ら同列になろうとしているのではないだろうか。そう神童は思ったが、野暮な差し込みなので口をつぐむ。一年生時の王子を知っている身からすれば、文句を言いながらもここまで同行していることがすでに偉い。
一時間弱のウォーミングアップを終えると、すでに日は落ちかけ、芝生が橙に染まっていた。窓からこの風景を見たのであれば、そろそろ早めのお風呂でももらおうだとか、夕飯の献立だとか、一日の締めに思いを馳せるであろう。
が、今日に限ってはこれからが本番であるらしい。
「では、ペース走を始める」
「ペース走って?」
双子の問いかけに、清瀬はこほんと咳払いを挟み回答する。
「設定されたペース通りに走ること──主に持久力をつけるために行う練習だ。まずあまり無理をせず、着実に距離を走り切ることを意識しよう。苦しくなるほどのペースで走る必要はないぞ。とにかく長く走り続けられるようにペースを意識して」
「毎日このメニューをやるんですか?」
神童が首を捻る。清瀬は「いや。追って詳しく説明するが、例えばもう慣れてきたらビルドアップ走も組み込む予定だ」と続けた。
「ビルドアップ走?」
「徐々にペースを上げて、ダッシュをかける走り方だ」
「その練習の目的は何ですか?」
なまえに運んでもらったトートバックからメモを取り出し、神童は清瀬の発言を書き留める。
「心肺機能に負担をかけること。苦しくなければ意味がない」
「なるほど」
「ちょっとだけ清瀬君に補足するね。十キロをある程度のスピードで走れるっていうことは、それ以上の距離にも対応できるってことなの。速度と持久力のバランスをうまく取っていくにも、心肺機能を高めることは必須。そのために、今からスピード強化用メニューをやるよー、って」
なまえがバインダーに挟んだメニュー表をなぞりながら、より詳細な説明を行う。清瀬は「その通り」と頷いた。
真面目に情報収集へ努める神童の裏、双子と王子はビルドアップの説明を行った時の清瀬について、ひそひそと囃し立てている。
「さっき、最後笑ってなかった? ハイジさん」
「……鬼だからさ。鬼に人の気持ちなどわかるものか」
下級生の嘆きを無視し、清瀬が「よし、第一グループ!」と声を張り上げた。
呼ばれた双子、ムサ、神童が待ってましたとスタートし、指定の秒数を刻んでいく。運動場にやってくるまでのジョギングおよびアップで、すでに疲労困憊の王子は「……これじゃあまるで本気のチームじゃないか。冗談じゃないよ──なあ、ニラ」と相棒を見やった。が、先刻まで尻尾を振っていたニラの姿はない。慌てて周囲を見回すと、トラックの上まで走る面々を楽しそうに追いかけている。
言葉を失う王子を不憫に思ったなまえが「……ニラはあっち側だったのかもね」と告げる。
「まったくフォローになってませんよ……」
王子はプリント紙のように真っ白な顔でうなだれた。
本練習から竹青荘に戻り、連れ立って向かった鶴の湯で汗を流す。ようやく訪れた休息時間、神童はそのまま玄関で夜のジョギングを提案した。
「記録会まで時間もないし。それにちょっとやってみたいことがあるんだ。さっき思いついたばかりなんだけど──もう少し走ってきてもいいですか? ハイジさん」
「もちろんだ、車に気をつけろ」
清瀬は神童の発言にやや驚いた様子であったが、すぐ嬉しそうに檄を飛ばした。
「じゃあ、俺も!」
「ジョージが行くなら俺も!」
「私も行きます」
双子、ムサが顔を見合わせ、すぐさま提案に乗る。三人は着替えてくるからと、神童を残し早足で自室に向かった。玄関の真上、双子の部屋からドタバタと足音が聞こえる。
ユキ、ニコチャンは「パス、オーバーワーク」、「悪いな、俺ものんびりやらせてもらうわ」と潔く辞退を宣言した。これに関して強制の意図はまったくないため、それはそれで個々の判断である。
「自主性が芽生えた、いい傾向だ」エプロンをつけながら清瀬が頷く。
「ハイジさん、王子見てませんか?」
参加メンバーを指折り数えていた神童が、ふとここ数十分姿を見ていない住人を思い出す。鶴の湯へ向かう時にはいただろうか。いや、華奢な背中は一団の中になかったようにも思う。
途端、清瀬が「まずい! 庭に置き忘れた!」と顔色を変え、外へ走っていった。健康サンダルのパタパタという安い響きがアパートの壁を伝って聞こえる。王子は、何かと不憫な役回りになりやすい。
後輩が風邪を引かないか、神童が引き戸の隙間を覗きつつ心配していると、携帯片手に階段を降りてくるキングと目があった。片手で王子を引きずりながら戻ってきた清瀬が、「おお、帰ってたのか」呼びかける。
わずかにキングの表情が曇る。神童は清瀬の発言に嫌味たらしさを感じなかったが、彼自身はモヤモヤと思う節があるようだった。自分だけ練習に参加しなかったことを後ろめたく感じているのだろう。
「……どんだけ練習してんだよ、もの好きだねえ。どいつもこいつも。……腹減った。飯は?」
「今すぐ。走、用意を手伝ってくれ。王子をしまってからでいい」
清瀬は寮母の顔で回答し、ぐったりしたままの青年を託して食堂へ引っ込んだ。取り残された走は、預けられた王子を階段上の自室に上げるべく肩を貸す。
「よかったじゃん。走りてえ奴がいて。まあ時間はいっぱいあるんだろうし? 好きなだけやってくれや」
すれ違いざま。完全な他人事であるかのように、キングが走へ声をかけた。
*
「せっかくですから、宣伝を兼ねようと思いまして」
翌日。本練習に向けて玄関前に集合した際、神童が持ち寄ったTシャツを一目見て、ユキは「……マジかよ、それ」と後ずさった。
表だけ見ればなんの変哲もない無地の白。ただ、背中に回れば「箱根駅伝目指してます 寛政大学陸上部 後援者募集中!」の文言。律儀にレタリングまでされている。
「グラウンドへの移動の時と、あと朝と夜のジョグの時にこれを着てアピールをするんです!」
「皆さんの分も用意しましたからぜひ!」
「しゃあ! 宣伝宣伝!」
双子とムサは昨晩の夜ジョギングにて、一足早くこのTシャツを着用していたらしい。躊躇うことなく、すでに袖を通している。
左官屋をはじめ、ムサのバイト先の女将さん、その他商店街の方に呼び止められ、後援会はさっそく形をなしてきた。八百勝の娘として顔が知られている葉菜子が、昨晩のジョギングに途中から付き合ってくれたことも、非常に強い引きである。彼女がともにいるだけで、行列の説得力が増すのだ。双子は「幸運の女神だよ」と盛り上がり、少女を大いに照れさせていた。
また、商店街の碁会所常連である大家が、「アオタケの連中が最近張り切って走っている」と吹聴していたことも、ある種裏付けになっているらしい。やめると気軽に言い出せないよう 地域住民を巻き込んで外堀を埋めているような気がしなくもなかったが、それに唯一気がついたユキは、あえて言葉にするのはよしておいた。方向性が違うとはいえ、後輩の頑張りに水を刺してしまうのは本意ではない。
勢いに負けたニコチャンが「溶けて流れねえだろうな、汗で」と呟きながら、渋々その布地を被る。
「早く後援会を作って、皆が練習に専念できる環境を作りたいと思っているんで。協力お願いします! ハイジさん、いいですよね?」
「もちろん! なんの問題もない!」
清瀬もしっかり着用済みである。
ひたすら「だせえ!」と騒ぎ立てたユキも、双子に取り押さえられ、無理やり着せ替えられてしまう。
また、元々服装に無頓着な王子は、私服と変わらないレベルで着こなしていたため、誰より早く宣伝グッズを身につけていたにも関わらず、誰からも指摘されずであった。
神童から余部を受け取ったなまえも、一切の躊躇なくそれを羽織る。袖から若草色のブラウスがのぞいているため、王子とは真逆に、面々の中で最も似合っていない。しかし、本人がその装いを気に入っているようなので、誰も口には出さなかった。
「ハナちゃんにも昨日渡したんですよ」ムサが微笑む。
「めっちゃ喜んでたよな。お揃いだねって」
「な! センスいいって褒めてたもん」
「お世辞じゃねえのか?」
ニコチャンが訝しんだ瞬間、タイミングよく。面接帰りと思わしきリクルートスーツ姿のキングが生垣をくぐった。玄関前に屯するおかしな集団を見て、一瞬バツの悪そうな顔を浮かべた後、「なんだお前ら、学祭か?」とからかう。
清瀬が「意外と悪くないぞ、ほら」と背中を見せ、皆がそれに続いて横一列に並んだ。一人Tシャツを持ったままぼんやり突っ立っていた走は、一拍遅れて状況に気がついたようで、なんとか宣伝グッズを羽織り最端につく。走が足以外大体遅いことは、竹青荘の中ではもはや周知の事実となっていた。
背中の文字を九人分見せられたキングは、「はあ」と気の抜けたため息を吐き出す。
「……いいじゃん、頑張ってくれや」
住人の背に視線を滑らせひらりと手を振る。そのまま双子の間を抜けて玄関の引き戸に手をかける。
「え、本練習ですよ、今から」
「行きましょう、キングさん」
神童とムサが引き留めたことで、キングは大きく肩を落としながらその場に立ち止まった。
「……俺には俺でやることがあるんだって。大変なんだよ、今」
「忘れろ、そんなもんは」突然、清瀬が歩み出た。
「走って忘れろ」
「おいおい、現実逃避ってか?」
「やめとけって。こればっかりは本人の問題だろ」
上級生が茶化すが、清瀬の表情は真剣そのものである。
「明日も明後日もその先も、やるべきことに変わりはないだろう。いつだって目の前にあるのは現実だ。なら、逃げるんじゃなくて、一緒に走ってみればいいんだ。現実と」
「走って就職できんのか」キングが呆れたように告げる。
清瀬はやや口元を緩め「わからん」まっすぐキングの顔を見た。普段通りの、穏やかな春の海や、清々しい夏の山脈を思わせる眼差しだった。
「ただ、止まっていると不安になる。俺にはあったよ──そういう時が」
「──……本当夢見がちだな、お前は。……なあハイジ、俺はなんのためにいるんだ」
「俺たちのためだ」
「お前らのため?」
「そうだ。それの何が悪い」
「俺の人生だぞ!」
噛み付くような勢いでキングが吠える。ユキが頭をかきながら、二人の間に割って入った。
「まあ、こいつの言うこともめちゃくちゃだが、お前もお前で焦んじゃねえよ。まだ四月だぞ。勝負ははじまったばかりだって」
「ってユキさんに言われてもな」
「嫌味」
「ああ? 一般的に言っても就職なんて今から──」
「──いいよもう。とりあえずこれだけは着ろ。罰ゲームは全員でだ。あとは自分で決めろ」
ニコチャンが一人分余っていたTシャツを差し出す。神童が「罰ゲームって! どこが罰ゲームなんですか!」と声をあげたが、その点については誰もフォローをしなかった。
そして、「とっととやっちまおうぜ。日が暮れちまう」と、いつもなら走が先導していく道を、今日ばかりはニコチャンが先頭に立って駆け出していく。双子と走が習性のように後を追った。お目付役とばかりにユキ、やや躊躇しながらもムサも四人に着いていく。
人気の少なくなった庭で、清瀬はもう一度キングに向き直った。
「勘違いするな。お前だけじゃない──俺もお前たちのためにいる」
「……綺麗ごとだ」
無理やり持たされたTシャツを、キングは地面に投げ捨てた。風に乗り、薄い布地は土の上に着地する。
キングは振り返らず、ぴしゃりと玄関戸を閉めた。それは遮断の意思だった。
清瀬は無言のまま閉じられた扉を見つめ、落とされたTシャツを拾いあげると砂を払う。
「僕が預かりますよ」
神童が、清瀬から手製の宣伝グッズを回収する。とはいえ。今から自室にこれを置きに行くのも気まずい。神童とキングは部屋が近いのだ。衣擦れ、床の軋み、気配で他の部屋の人間が何をしているのかなんとなく察せてしまう。
見かねたなまえが「カゴにどうぞ」と、自転車を示した。
「……すみません。荷物増やしてしまって」
「一枚じゃ五〇〇グラムもないでしょ。誤差だよ、誤差。四捨五入したら〇キロ」
彼女は至って普段通りに微笑む。先刻のやりとりを受けてもなおの動じなさが、この場で殊更にありがたい。神童は軽くお辞儀をしながら、荷台の中へ先輩のシャツをそっと畳んだ。
「──仕方ないさ。俺たちも行こう。ニコチャン先輩の言う通りすぐ日が暮れるぞ」
キングの足音を追って二階の窓へ視線を向けていた清瀬が、名残惜しさを置いたまま生垣につま先を向ける。そして、思い出したようにふと、自転車のハンドルを握り直すなまえへ尋ねた。ひそやかに。
「──……先輩だったら、なんて声をかけたと思います?」
突然立った白羽の矢に、神童は驚いて二人を見つめる。
なまえを見据える清瀬の表情は、揺るぎない何かで満ちていた。
彼女がこれから何を答えたとしても、その全てをさらおうと画策しているような。静かで張り詰めた水面を思わせる、それでいて純粋なあどけなさがそこにある。先刻のキングへの眼差しと似ているようで、やや異なる、不思議な面持ち。
相対する女性は「急だね、きみは……」と少々困った様子で数秒思案し、同じく声をひそめた。
「……何にも言わないよ。というか、言えない。坂口君と出会って、まだ二週間も経ってないからね。さっきのは何を言うかじゃなくて、誰が言うかが大事だったと思うの。今の彼にとって、わたしの声かけは綺麗ごとにしかならないんじゃないかって……なにより──」
一呼吸おいて「──なんのためにいるんだ、なんて……そんなの、わたしが知りたいくらい」空を仰ぎながら呟いた。
彼女の背には先ほどのキングと同じように、どことなく寂しい気配があった。
夕食後、清瀬から今後のメニューの詳細が説明された。ホワイトボードに個々の練習が日単位で組まれており、各々それを見ながら気になった点を都度質問していく。
「ハイジさん、このC.Cって言うのは何?」
「クロカンのことだ。クロスカントリーの略」
「自然の中を走るやつですか」
「そう。明日からクロカンを取り入れる。二キロ先にちょうどいい場所があるんだ。足に負担がかからないし、気分転換にもなるだろう? いいぞ、自然は」
「じゃあ、C.C二・五×六っていうのは?」
「一周二・五キロを六周ということだ」
「それって……十五キロ?」
双子が二人分の両手を使って計算しながら首を捻る。
「何しろ気分転換だからな」
「でも走なんて八周ですよ」
「なんか……すみません」
ムサの苦しいフォローを受け、なぜか走が頭を下げる。
「加えて、今日から練習日誌を導入することにした」
清瀬が用意していたノートを全員に配布し、表紙に名前を書くように指示を出す。
「大切なのは、不満や体の不調を書くってことだ。口で俺に言いにくいようなことがあったら、遠慮なく練習日誌にぶつけてほしい」
「……すでに不満をいっぱい言っているつもりなのに。全然聞き入れてくれないじゃないですか」
王子が肩の高さに手を上げてぼやくと、清瀬は「限界が来たと感じた時はちゃんと受け止めるさ」あっさり戻した。
「まだ限界じゃないって」と、双子に背中を叩かれた王子がその場に崩れ落ち、一同は笑った。目標を共有し、その中でこうやって愚痴や冗談を重ねていく。それは、とても贅沢な時間であると、神童は思っていた──それが十人であればなおよいのに、とも。
「……キングさん、録画見ます?」
会合を終えた神童は、電気の消えた二〇二号室の扉をそっと叩いた。まだ眠っていないだろう、という予想はこのアパートで二年間をともにした経験値に他ならない。
「クイズ番組。録画してあるんですけど。この間、夜ジョグがあって途中までしか見られなかったでしょう」
神童は真っ暗な部屋を覗いた。窓から差し込む月明かりとスマートフォンの光に照らされたキングが、困ったように告げる。
「いいや、今日は。……気ぃ使うなよ、かえって気まずいわ」
神童は「すみません……」と頭を下げた。しかし、キングとしても自身を気にかける後輩をぶっきらぼうに追い返すのはいかがなものかと葛藤があったらしい。少し間を置いて、
「……なんでそんなに本気になれるんだ? 駅伝なんてやったこともねえのに」
と、唐突に投げかけた。
「……さあ、なんででしょう」
「わかってもねえのに」
「わからないからこそ、やらされるんじゃなくて、自分でやってやろうと思ったっていうのはあります」
「そこにやらないって選択肢は?」
「なかった……ですね」
清瀬に迫られたおよそ二週間前を思い出し、神童は苦笑いを浮かべた。
「やらなきゃいいだろ。わかんねえなら」
「やってみたらわかるような気がしたんです。僕はまだ就活やってないからわからないですけど、仕事も同じようなものなんじゃないんですか」
「ああ?」布団に寝転がり、声だけでやりとりをしていたキングは、ややあと体を起こした。
「先輩はなんで就活に本気になっているんですか。仕事が好きで好きでしょうがないから?」
「なわけねえだろ。ねえよ、好きな仕事なんか。働きたくねえの。本当は。やんなきゃいけねえからやってるだけ」
「ですよね。僕も走りはじめるまでは同じだったんですよ。別で好きでもないのにハイジさんに無理やり。でも実際走ってみて思ったんです。強制されて走るより、自分から走った方が俄然楽しいかもなって。だから少しだけ本気でやってみようって。そしたら走るのも好きになるかもしれない──好きだから本気になるんじゃなくて、本気になってみたらもしかしたら……」
神童は、背中側に隠していた一着のTシャツをそっと握りしめた。夕方、キングが玄関前に落としていったものだ。捨てたわけじゃない。うっかり忘れていってしまっただけ。心の中に留まるキングの横顔は、きっとそういう顔をしていた。
「……なんで後輩にアドバイスされなきゃいけないんだよ」小さくキングがこぼす。
「すみません! 別にそんなつもりは──」
不快な気持ちにさせてしまっただろうか。慌てた神童が再度説明を試みると、起き上がってきたキングが入り口まで這ってきた。「わかったような口聞きやがって。何が神童だこいつ!」とヘッドロックを仕掛けてくる。
その仕草は、数日前までのキングと同じく、少し適当で、少し臆病で、少し見栄っ張りで、少し吹っ切れているようにも感じて。無理やり技をかけられながら、神童は自然と口元が緩むのがわかった。
本当は優しい先輩なのだ。二階に住まう四年生は自分だけにも関わらず、後輩から気を遣われることを恐れて、眠気が来なくても消灯し、息をひそめてしまうくらいに。
「痛い痛いですって!」
「とか言って、笑ってんじゃねえか!」
「これは違くて!」
「ああ⁈」
そう言うキングも、眉尻を下げて笑っていた。
早朝、あくびを堪えながら九人の面々が竹青荘前に並ぶと、十人目の足音がアパート内に響いた。
はっとした神童が「キングさん!」と、いの一番に声をかける。玄関には、照れ臭そうに視線を彷徨わせる青年が立っていた。その身に纏っているのは何の変哲もない無地のTシャツ──ではなく、神童とムサお手製の宣伝グッズである。
「……罰ゲームは全員で、でしょ」
なんともキングらしい下手くそな言い訳に、皆は顔を見合わせ、同時に吹き出した。
「遅えわ、今日誰も着てねえぞ」
「ああ⁈ なんだよ俺だけ⁈」
「これぞまさに罰ゲーム」
「クッソ! 脱いでくる!」
顔を真っ赤にしたキングがくるりと振り返った瞬間、「待ってください!」神童が手を挙げた。あらかじめ持ってきていたらしいTシャツを、ジャージの上から被っている。
「大丈夫! 僕も着てますから──走るんですよね、キングさん」
「おはようございます! あ、それ! 私も着てきましたよ!」
自転車で乗りつけた葉菜子が、タイミングよく生垣から顔を覗かせる。
「ハナちゃんだ!」と双子が手を振る横。清瀬は数日ぶりに揃ったメンバーを見渡して、眩しそうに目を細めている。
「走ろう──走れば忘れる。自分が何を着ているかなんて」
「そう、ウェアなんて関係ないんです」王子がここぞとばかりに拳を握った。しかし、清瀬から「デニムはダメだぞ」と戻され、よろよろとその場に膝をつく。ニコチャンが声を出して笑った。
キングは殊更恥ずかしそうに、
「いや、その……忘れてただけだからな。就活を有利にするために参加してるってことを。途中でやめましたじゃ、むしろ不利に働くから」
と、もごもご呟く。住人たちは顔にからかいの色を浮かべ、その様子を眺めている。
また神童は、庭の隅でいつも仏頂面をしている走が、ほんの少しだけ笑みを浮かべていることにも気がついた。本人も無意識であろうその表情。胸の内が柔らかな陽気で満たされていく。
「さあ──行こう」
キングが顔を上げたのを見計い、清瀬は号令をかけた。