*
──死ぬかと思った。
バンの助手席より命からがら降り立ったなまえは、そのまま地面に膝をついた。
わざわざ彼女の家まで迎えに訪れた清瀬にお礼を言い、レンタルバンへ乗り込むまでは順調だったのだ。
しかし、走っているうちになぜかセンターラインへ近づいていく。ブレーキがジェットコースター並みに急。路地で曲がるたびに車体を擦りかける。ウィンカーを直前まで出さない。そのくせハザードランプは点けたがる。他諸々。
四月二十九日、寛政大陸上部長距離部員たちの記念すべきデビュー戦。東京体育大学記録会への参加だというのに、監督の姿が見えない時点で気がつくべきであった。
普段の練習はともかく、試合にすら来ない監督なんて聞いたことがない。その旨をなまえが尋ねると、清瀬は眉間を揉みながら、
「碁会所に行った。まあ、いなくても問題はない。監督が走るわけじゃないからな」
と答えたのだが。今思うと、そこには死期を早めるわけにはいかないという大家の意思を感じ取れる。
家から車で五分強の距離を走り終えた頃、なまえは心労と酔いですっかり青ざめていた。
崩れ落ちた彼女を他所に、逆側のドアを開けた清瀬が、竹青荘の玄関前に勢揃いしていた住人へ「待たせたな」と声をかける。非常に快活である。
とはいえ、間髪入れず「殺す気か!」と反応があったため、彼の運転については車が敷地内に入ってからの数メートルで十分理解が進んだようだ。
「いやあ、久しぶりだから緊張したよ。車線変更なんて大会よりドキドキしたかもな──……どうした? 乗れよ」
車の側転をつたいながら、いまだにぐらぐら揺れる世界をなんとか進み、なまえは「酔い止め買ってきていい?」と問いかける。並ぶ皆の顔から血の気が引いていく。
「ハイジ。現地までお前が運転するのか?」
「そのつもりですが」
清瀬がいけしゃあしゃあと答える。
「……もしかしてハイジさん、今日までペーパードライバーだったんですか?」走が独りごちる。
「運転が下手な男ってあっちも下手って言わねえか?」
「あっちってどっちですか?」
ニコチャンの下世話な差し込みへムサが反応する。が、さすがの神童も具体の項目について差し控える。
「誰か! 他に誰かいないのか! 運転できるものは!」ユキが清瀬を除く部員へ悲痛に叫ぶ。皆、ぶるぶると首を横に振った。
「……あの……わたし、持って」
「この状態の有村ちゃんに運転させるわけにはいかねえだろ」
体を折りながら口元を手で覆うなまえへ、ニコチャンが「無理すんな」と慰めの言葉をかけた。その横ではユキが清瀬に背中を押され、車内へ詰め込まれている、
「ほら、乗った乗った!」
「なんだお前ら! なまえさん以外は誰も持っていないのか! 免許!」
「俺が持ってるから」
今からでも遅くはない。車移動を諦め電車で会場へ向かった方が、確実に今日一日のメンタルヘルスは健全に収まるだろう。
なまえは助手席から荷物を回収しようとふらつきながらドアを開け、いつの間にか背後にいた清瀬によって座席へ押し込まれた。シチュエーションが異なれば誘拐である。
東体大に到着するその頃には、全員がもれなく瀕死となっていた。
「思ったより時間かかったな。受付は俺が済ませる。各自、準備を始めていてくれ」
「……あんな運転しといて、よくそんなことが」
キングが口を手で抑えながらうめく。ユキは「トレーニングより先に誰かが運転免許を取る必要がある」とこぼした。駐車スペースの奥ではえずく王子の背を神童がさすっている。
「誰かビニール袋持ってないですか⁈」
「いいよ、王子は。その辺の藪に突っ込んどけ」
「トイレに行きてえんだけど」
「開会式とか閉会式はないの?」
各々が自由に発言するため、いまだ気分の悪そうななまえが「運動会じゃなくて試合だから。自分が出場する種目と時間に合わせて行動すればいいの。皆勝手にどこかへ行かないでね。もし会場内で迷ったらわたしに電話して。迎えに行くから」かろうじてお目付役を担っている。
──と。
「……相変わらず賑やかだな、ジョギング同好会は」
嘲笑混じりの呼びかけに、走は振り返った。
そこには、ロードコーンを抱えた元同級生が立っている。側には同様に機材を抱えたジャージ姿の青年が二人。
「榊、急に止まるなよ」
「いや。ほらあいつ、俺の高校時代のチームメイト」
「は? ああ……──あー、なるほど。あれが」
走を指さし、三人はくすくすと笑った。いやな空気が周囲に流れる。また、彼らは目ざとく王子の姿を見つけ、「早くも一人脱落か」と手を叩いてみせた。
「……ま、走るよりマシか。どうせ恥かくだけだし。弱いやつらと、せいぜい仲良くかけっこしてろよ。なんだ? 文句でもあるのか」
「こーら。きみ、この前も河原で会いましたよね。今、選手たちはレース前の集中を高めて……ええっと、ちょうど今から高めようとしてたんです。だから、選手の意識を削ぐようなことは──」
走と東体大一年生の間に割り込んだなまえが、眉根にわずかしわを寄せ、年配者として場を鎮めるべく声をかける。が、それは予期せぬ方向からの呼びかけで収束した。
「──……清瀬? 清瀬!」
受付を終えて帰ってきたばかりの住人に、何者かが近づいたのだ。名前を呼ばれた当人は、異変を察知して走、なまえのもとへ駆け寄ってくる途中であったため、その勢いで榊らと交わされていた会話が丸ごと押しやられてしまう。
反射的に声の方向を追ったなまえは、思わぬ人物の登場に自身の目を擦った。
「──……藤岡君?」
なまえと同様に榊たちも「おい、六道大だ」と焦る。この状況を理解しきれていない竹青荘の面々だけがきょとんとしている。双子に至っては図々しくも「急に何? ていうかあの人誰?」と囁く始末だ。
一際目立つ、白地に紫のラインが入ったジャージ。背後に十数名の部員を従えながら、その男は清瀬と向かい合う。
「──久しぶりだな、藤岡」相対する人物の貫禄に一歩も引かず、清瀬は対等に微笑んだ。
「ああ、まさか会えるとは。出るのか?」
「もちろん」
「いいのか」
「やっとだ」
「五千だろう?」
「ああ、楽しみだ」
そこで藤岡は「すまない。話の邪魔をして」と、東体大の三人を見やった。本人に威圧しているつもりは一切ないのだろうが、身体から立ち上るオーラに彼らも口をつぐまざるを得ない。「あ、いえ……」と首を振らせるだけで精一杯である。
藤岡が競技場へ方向転換すると、彼の後ろで待機していた同ジャージの集団がそろって清瀬へ頭を下げた。お辞儀の角度まで統率が取れている。軍隊のような凛々しさの中にやらされている感がないのは、本人たちが所属に対して確固たる誇りを持っているからだろう。
「何軍団だよ……」
キングがこぼす横で、ユキは目ざとく「知り合いすか」となまえに声をかける。先刻「藤岡君」と小さく漏らしたことに気がついていたらしい。
「顔見知り……って言うのは図々しいけどね。向こうはわたしのこと全然覚えてないと思う」
藤岡となまえが出会ったきっかけは中学時代、中国地方の合同練習会である。
なまえが島根県の中体連から陸上の強化指定を受けていたのと時を同じくして、彼も広島県の強化選手であった。
人口と比例して競争率も跳ね上がるため、インターハイ予選を顕著に、中国地方は他エリアに比べて選手層が薄くなりがちである。これを危惧した高体連の要請で、中国地方合同での練習会が定期開催される運びとなったのが、なまえの出雲第三中学在学時のこと。
彼女が彼のことを覚えていたのは、一年生で練習会に招集されていた少年がめずらしかったためだ。二、三年生が中心の練習会で、つい先日までランドセルを背負っていたであろうあどけない藤岡は印象的だった。
それにしても、清瀬と彼があんなにも気安い仲だったとは。世間は狭いものである。
感慨深く唸るなまえを端に、清瀬は走のそばへ近寄った。先ほど話していた旧友の背中を視線で示す。
「六道大学四年、藤岡一真──覚えておくといい。きみはいつも自分の走りに集中していて、まわりのことを気にしないからな。それがストイックでいいところでもあるが、いい走りをするやつを観察することも大事だぞ」
続けて、すっかり物思いに耽りはじめたなまえを一瞥した清瀬は、彼女の意識が榊たちからすっかり逸れたことを察する。苦笑し、にこやかに競技場を煽った。
「もういいだろう。悪いが準備がある。きみたちも忙しいんじゃないか? ──雑用で」
顔を歪める榊たちへ、遠くから「一年! 順番で運営係持ち回るっつったろうが!」と怒声がした。こちらへ走ってきた青年が一年生三人を小突き、無理やり頭を下げさせる。
「失礼しました、行くぞ」
「松平さん! だって、こいつ……蔵原は──」
「よそはそよ、うちはうち!」
小生意気な榊を軽々しくいなす姿へニコチャンがほう、と感嘆する。
その男が巻いている腕章によると、今回の記録会の学生代表──要するに東体大の主務である。
後輩たちの首根っこを掴んで連行する背中を見送った後、走が清瀬の横顔に気をやる。先ほど表情を見損ねたが、タイミング的に榊からの挑発を聞いていた可能性があるのだ。
「走。江戸の仇を長崎で、かけっこの侮辱はトラックで、と言ってね」
「……それはどういう」
「──受けた屈辱はいつまでもいつまでも忘れずに、レースでお返ししてやるってことさ」
相変わらず執念深い。ポーカーフェースの裏、内心怒り心頭であろう清瀬にその場の全員が小さく慄いた。
とはいえ、榊が絡んでくるのはどう考えても走がいるからに他ならず、この状況で彼にできることは何もない。数メートル先で「かっけえよな」、「白だぜ、白」と六道大を囃し立てる双子の声で我に帰ったなまえは、手持ち無沙汰な視線を足元で彷徨わせている走が悩ましく思えた。
独特なタータンの匂いが鼻腔を刺激する。真っ青な地面が空と隣接しているため、塩湖のようにどこまでも空間が続いているような気さえする。
はじめてなまえが青いタータンを目にした時、まるで海のようだと思った。特に夏は降り注ぐ日差しの中で、目から入る情報だけが唯一涼しい。止まっていると水の中にぼちゃんと落ちていってしまいそうで、ラストスパートでは必死にもがいたものだった。
ユニフォームに身を包んだ双子が「すげえ! 本当に陸上部みたい!」、「意外とかっこいいな!」と飛び跳ね、写真撮影をはじめる。
水着までとは言わないものの、肩や太ももがむき出しになるランニングウェアは、春には肌寒い。体の大きなニコチャンは相対的に小さく見えるユニフォームが心許ないようで終始そわそわしている。
東体大の記録会は規模が大きく、インカレに向けて冬の疲労を抜いている選手にとっては調子を確かめるよい機会となっているようだった。六道大に限らず、複数校の有名選手が先刻から行ったり来たりしている。大学長距離界でトップクラスの実力を持つ、房総大のマナスともすれ違った。駅伝ファンが見ればよだれを垂らして喜びそうな風景だ。
ただし、選手──特に同じ黒人であるムサにとってはかなりのプレッシャーだったようで、十数分前からしきりに「困ります」を繰り返している。
「困ります──本当に困ります。僕なんてなんの取り柄もないのに。あの人たちはきっと、走ることに人生を賭けて日本に来てるんだ。ハングリーが違う……。僕に勝てるわけがないんだ」
端では、騒がしい住人に我関せずを決め込んだ王子が持ち込んだ漫画を開きはじめる。ムサの考えすぎもよくないが、彼のように平常心すぎるのもいかがなものか。適度な緊張感は集中力の増幅に一役買うというのに。
「……よく漫画なんて読めますね」足首を回しながらぶっきらぼうに告げた走へ、王子は萎縮する様子なく、
「ああ……高めるためにね。高めないと──こういう時は。僕が描くストーリーは完璧さ。脳内のだけどね」
と戻す。漫画に手をつけたのは王子なりの意図あってのことらしい。彼なりに検討したルーティン。ただ、車酔いから復活したばかりのため、その声には依然覇気がなかった。
「ねえ、さっきの藤岡さんってやっぱりすごい人みたいだよ」
王子と走のやや剣呑な空気を無視し、スマートフォンと睨めっこしてきた神童がおもむろに声を上げる。
「去年の箱根二区で区間賞。王者六道大のキャプテン。六道の箱根三連覇の立役者。大学陸上界の頂点だって」
「え、それとハイジが知り合いってこと?」
キングの疑問符を受けた神童は首を捻り、
「そういうことじゃないですか? それにしても、やっぱり沿道の人の数が半端じゃないですね。キングさんはどの区間を走りたいですか?」
と、のん気に話題を転換する。キングは「どこでもいいわ、そんなん」と頭をかいた。
その後ろでは双子がニコチャンに「先輩も写真撮りましょうよ!」両脇から絡み、「いいよもう! パッとやって、パッと終わらせようぜ!」と、突き放されている。
さらに、座り込んだムサを「大丈夫だって、全然勝てるよ」軽い口調でユキが励ます。
走は何か言いたげな様子でそんな住人たちを見つめていた。
しかし、彼が適切な言葉を思いつく前に、全員分のゼッケンを携えた清瀬が戻ってきてしまう。
「前と後ろにつけるんだぞー。安全ピンが足りない者は申し出るように」
エントリー一覧が記載された用紙と、ゼッケン番号を照らし合わせながら、二枚一セットで配給を行う。
「裏にチップみたいなもんがついてるんだけど、これ何?」
「それでタイムを計測するの。ゴールを通過した時に、自動で記録される仕組みだね」
「ストップウォッチで計るんじゃないんだ!」
互いにピンで番号を固定し合う双子が、なまえに競技上のルールを確認する。
「足に番号つけてる人いるけど、あれは何?」
「あれは腰番って言うの──腰番号。ゴールを横から見た時、何レーンを走ってた選手かわかるように管理するため。最終招集でもらえるから、忘れないようにつけてね。走り終わったらすぐに回収もあるから、そっちも忘れずに戻すこと。五千はオープンスタートだから、三十番台まであるんじゃないかな」
「オープンスタート?」
「百メートルのレースとかテレビで見たことあるでしょう? 短距離は接触の危険もあるから一つのレーンに一選手だけど、長距離の場合はラインに沿ってずらっと並んで一斉にスタートするの。時間短縮の意図もあって。完全セパレートは四〇〇まで。八〇〇も第二コーナーから内側に入っていいし、一五〇〇以降は完全オープン」
「なまえさん、詳しいね」
「やってたからね、昔」
「えー! それ早く言ってよ!」
「むしろなんで気付かねえんだよ」
盛り上がる双子に、ユキが呆れたように告げる。
「ハイジの一目惚れ、大当たりっつってな」
アキレス腱のストレッチをする清瀬へ生ぬるい視線を送ったなまえは、「……まーた、きみは」とこめかみに手をやった。
「何を言ったの」
「別に何も」
清瀬が真面目な顔ですっとぼけた瞬間、場内にアナウンスが流れた。五千メートルの出場選手は一番ゲートの前に集合だという。先刻、なまえが説明した招集である。
一気に緊張感が走る一同へ円陣を組ませ、清瀬は「皆。確かに記録は必要だ。だがまずはレースというものを感じてくれ」と檄を飛ばす。
「さあデビュー戦だ! 全員楽しんで帰ってこよう! ああ、そうだ。箱根の山は──」
残念ながら思惑は届かず、住人たちは突然のコールアンドレスポンスに揃って「は?」という顔を浮かべた。なまえだけが秒数を置いて、申し訳程度に「あー……天下の剣」と呟く。ニコチャンが「……汲み取ってやれよ、誰か」と頭をかいた。
「ほら、行った行った!」動じない清瀬が、住人たちを追い立てる。
気を取り直したなまえも「人生で一度きりの初戦、頑張って!」と手を振り、
「わたしは皆のラップをとるからゴールにいるね。清瀬君と蔵原君は手元で取るんだよね?」
レース中の役割について最終確認を投げかける。
「ああ、悪いですね……。皆同じ組だとは」
「記録なしだとどうしてもね。こればっかりは仕方ないよ」
──と。
「……ハイジさんは甘いんじゃないですか」
会場についてからほとんど口を開かずにいた走が、絞り出すようにして声をあげた。
「あの人たちに楽しめなんて……。悪いけど、今日は俺の方が見させてもらいます──皆がどこまで走れるのか」
走は、清瀬の回答を待たずに、大股でトラックの方へ向かっていってしまう。
とっさに、「何かあったの?」と、同じくその場に残った清瀬に声をかけようとしたなまえは──直前で、踏みこみすぎないように文言を組み替えた。
「……よかったの? そのまま行かせちゃって」
「いい──が、言われたな」清瀬がため息を落とした。
皆を送り出したなまえは、一人第一コーナー付近でスマートフォンを構えた。複数人の通過タイムを逐一記録していくとなると、流れる時間を個別筆記で対応する方が早い。
預かった皆の貴重品類を肩から下げたまま、その他荷物を積んだプラスチック製のカゴを足元へ下ろす。生地の薄いスポーツ用ジャージとはいえ、十人分ともなれば旅行並みの物量である。
「──あの、すみませんが」
そこへ、一人の男が訪れた。
東体大のジャージを着ている。運営係の一人のようだ。何か手続きに不備があったのだろうかと不安に駆られたなまえは、軽い会釈をして青年を見上げる。
「……あれ? 確かさっきの」
その男は、なんと先ほど榊たちを一喝した主務であった。確か、後輩たちからは松平と呼ばれていたはずだ。
「寛政大の方ですよね」
「はい、そうです。……あの、何か不手際が?」
正式には所属が違うのだが、この場であえて説明する理由はない。なまえは頷いた。
「いえ、先ほどは失礼しました。改めてお詫びをしておきたくて。うちの一年がご迷惑を」
「え! もしかしてそれを言うためにわざわざ? そんな……逆に申し訳ないです。こちらこそ収めてくださってありがとうございました」
まさかの差し込みになまえが慌てて頭を下げると、松平は「マネージャーさんにそんな」逆に恐縮しているようだった。
「実は、別で聞きたいこともあって。さっき一緒にいた方についてなんですが。なにしろ三年ぶりだし、髪型変わってて、なんとなく雰囲気も違ったので」
「はい?」
「あの人、清瀬──清瀬灰二さんじゃないですか?」
姿勢を正したなまえは数回瞬きをした後に首を傾げた。
松平は情報が不足していると捉えたのか、「出雲一高で主将だった」と続ける。強豪大学に数多くの選手を輩出する長距離の名門。
「確かに彼は清瀬灰二と言いますが……出身もおっしゃる通り」
「やっぱり本物だ……」
「えーっと、お知り合いでしょうか?」
「ああ、いえ! 俺のことなんか清瀬さんが知るはずないですよ。ただ、同郷で──当時、島根で長距離やってたやつらにとってあの人はヒーローでしたから。まさか、またこうして走っているなんて思わなくて……」
松平は感慨深げにバックストレートで流す選手たちを見つめた。その先には、紛れもない清瀬の姿がある。
中学以降、レースに出走する彼を直接見るのはなまえもはじめてだった。身に纏っているのが見知ったユニフォームでないことが、改めて時の流れを実感させる。
湿度のない風が胸の真ん中をなぜた。
「──仕上がり早すぎるんじゃないの? 少しは手加減しないと」
「これからですよ」
マナスを最後のホームストレートで突き放し、トップでゴールした藤岡が月刊陸上マガジンの記者と話している。
インターネットが普及した現代、選手が自身の環境を整えるためにははまず報道を味方につけなければと囁かれる。その点藤岡には隙がない。リップサービスこそないが、常に真摯さと敬意を持って向き合う姿勢は、インタビュアーからも好まれているようだった。
「次はどうするの?」
「インカレに絞って、この先の記録会は回避します」
「余裕だなあ、楽しみにしているよ」
「はい、ありがとうございます」
優等生なやりとりを背中越しに聞きつつ、なまえはレースを終えてからずっとだんまりを続けている走を見やった。レース後、熱を冷ますために水道で濡らした彼の髪の毛からは水滴が垂れ、足元に小さな水たまりを作っている。
「蔵原君、柏崎君のことゴールで迎えようよ」
なまえが声をかけても返事がない。一体どうしたものか。
確かに、先刻のレースの内容は彼にとってあまりよくなかったのかもしれない。
けれど、久方ぶりのレースでいきなり勝負勘を取り戻すことは誰にだって難しい。それを考慮すれば、藤岡とマナスの競り合いにこぼれたとはいえ、ラスト一周までついていった力は大したものだ。
なまえは走を刺激しないように言葉をつぐみ、竹青荘の住人を労う清瀬を見つめる。
「ラストラストー! 踏ん張れー!」残り一周までこぎつけた王子へ、清瀬が声をかけている。
「──お久しぶりです」
ふと、なまえの視線を遮って影が差した。
「さっきは挨拶できずに失礼しました。出雲三中のみょうじさん、ですよね? 中学の時に練習会で何度か。覚えていないでしょうか」
そこには、ついさっきまで記者に囲まれていた藤岡の姿があった。まさか彼から声をかけられるなんて想像だにせず、なまえは「ええ⁈」と素っ頓狂な返事をする。
「あ……ああ、いえ。こちらこそさっきは挨拶できず。その──藤岡選手が、わたしのことを記憶していると思わなくて」
「なぜ? 印象的でしたが」
「……何かやらかしましたっけ」
「そういう意図では。ただ、四〇〇メートルを一緒に走りました」
藤岡の一切冗談の色がない瞳に気圧され、なまえは笑顔とも戸惑いとも捉え難い表情を宿す。彼はそんな彼女の挙動を静かに見守り、走の方向へ向き直った。
「あいつには、少し気を付けてやれ」
突如矛先を変えられた走が「え」と小さく声を漏らす。藤岡は何事もなかったかのように「清瀬だ」と続ける。
「あいつがベストの状態なら、あんなもんじゃない。一緒にチームを導いてやれ──目指すんだろう? 箱根」
走は、多くがひれ伏す六道大主将から投げかけられた言葉へ「……はあ」とだけ答え、そのまま黙ってしまった。シンプル極まりない相槌に藤岡が苦笑する。
「確か──蔵原と言ったか。名前に覚えがあった。仙台の高校に速いやつがいる、と。……清瀬らしい面白いチームだ」
藤岡は、崩れる後輩を迎えた旧友の姿を見つめ、殊更穏やかに微笑んだ。
*
日の暮れかけた競技場の外。バンへ向かいながら清瀬は努めて明るい口調で告げた。
「皆お疲れ! よくやったぞ。ムサ、ジョージ、ジョータが十七分前半。神童とユキも一八分台だ。レースに慣れればじきに十六分台は出る。ニコチャン先輩もキングも十分狙える位置にいた。何も悲観することはないぞ」
正反対に、住人たちの雰囲気は真っ暗である。
「……ならこいつはどうなんだよ。三十分台のやつなんて一人もいねえじゃねえか。あと少しで強制終了されるところだったんだぞ」
「っていうか、走とハイジさん以外誰も公認記録出せなかったわけだし……。歯が立たないっていうか」
「言われましたよ、東体大の人に。どんくせえって。どこにあるんだ、スポーツマンシップは……」
「まあ、これが現実だな」ニコチャンだけは物知り顔である。元陸上部として、どの程度が妥当なタイムであるかわかっているのだ。そのうえで清瀬を止めなかったことから、この空気をつくるにおいて自身も同罪だと思っているに違いない。
「大丈夫ですよ。はじめてとか久しぶりのレースでぽんとタイムを出す人の方がめずらしいですし。慣れていたってオープンスタートは位置取りが難し──」
暗くなる一同へ、なまえが無理やりにフォローを入れるが、その言葉は走によって苛立たしく遮られた。
「わかってたことでしょう──全部、わかってたことじゃないですか」
双子があからさまにムッとしながら、「いいじゃん、自分はクリアできたんだから」と返す。
「だから! 俺がどんなタイムを出しても意味がないんだって、何度言えばわかるんだよ!」
「──走」清瀬が嗜める。
しかし、走はなお気持ちの整理がつかないらしい。数秒ほどアップシューズの先端をじっと見つめ、耐えかねたように駆け出した。
「あ、ちょっと! 蔵原君!」
なまえが反射的に後を追う。ムサが何か叫んでいるのが聞こえたが、地面を蹴る足は止まらなかった。
比較的すぐそばに点滅する横断歩道があったのは幸いであった。走のペースに、現役を退いて数年経つどころか、そもそも女性のなまえが追いつくのは難しい。今だって到底一キロにも及ばない距離に関わらず、二人の差はずるずると開く一方だった。
この青年が、走ることに貪欲な側面とは別に、交通ルールはしっかり守る質であったのも幸運だ。幼少期に口酸っぱく教育されたのかもしれない。根本的な善性を剥がしきれずにいる。
大通り、待ち時間の長い信号前で足踏みする走を見つけ、息も絶え絶えに駆け寄ったなまえは、青年のジャージの裾をむんずと掴んだ。
走は顔を顰めて振り返り、相手がなまえであることに気がついて「……は?」と気の抜けた声をあげる。辛抱強く自分を追ってきそう、かつ追いついてきそうであるのは清瀬くらいのものだと思っていたのだろう。
全力疾走からの静止により、肩で息をするなまえに返事の余裕はない。ただ、目の前の彼を逃さないよう、振り絞った握力で服を引く。
戸惑う走は、しばしの沈黙の後「──わ、わかりましたから」と、渋々足踏みを中断した。
「……陸上、やっていたんですか」
交差点から十メートルほど離れた自動販売機の前、なまえの呼吸が整ってきたタイミングで走がおずおずと尋ねる。
「さては蔵原君、あんまり人の話聞いてないな?」
「え、あ……すみません」
「あ、ごめん。別に責めてるわけじゃないの。変な冗談言っちゃった。気にしないで。出会ったばかりの他人の昔話なんてつまらないよ」
「その……」
走は何と返せばいいのかわからないようだ。肯定とも否定ともとれる微妙な回答になまえは吹き出す。
素直なのだ、彼は。オブラートというものを使わず、所構わずまっすぐにぶつかってしまう。本来であれば回り道をしながら間接的に聞き取る事項を、正面衝突させてしまう。自身の制御が覚束ない、まるで免許を取り立てのドライバーだ。
「……なんで、付き合うんですか。あの人──ハイジさんに」
──たとえば、こんな風に。
なまえが言葉なく続きを促すと、走は無意識に眉根を寄せた。
「俺たちは同じ場所に住んでいて。他の人たちは、色々と借りがあったりもするみたいで……。有村さんも、ハイジさんに何か返さなきゃいけないことがあるんですか? ……その、中学からの知り合いだって」
清瀬が仕掛けたであろう、幾多にも張り巡らされた工作を想像し、なまえは口元を緩めた。
「確かに、あの人に返したいと思ってることはあるよ。でもそれは──借り、なのかな。興味……んー、義理……約束? なんだろう。難しい」
なまえは足元の小石を軽く蹴飛ばした。
「──そうだ。ちなみに、わたしはどこで清瀬君に再会したと思う?」
「え? え、えーっと……競技場、とか」
「ブー」
「はあ? じゃあ、え、駅」
「ブッブー。残念。焦らすのもあれだから言っちゃうと、答えは合コン」
「──合コン」
綺麗なおうむ返しである。
「そう、異性間交友会」
なまえの言い直しに、走は目を白黒させた。「いせい?」とひらがな発音で繰り返す。脳内で漢字変換に手こずったようだ。その様子がやたらと可愛らしく、なまえは状況も忘れてくすくす笑ってしまった。
「要するに飲み会だね。清瀬君もわたしも当日欠員で誘われて──そこで偶然」
「俺も──偶然、道で。あの人と」
「そっか。蔵原君も偶然か……──ねえ、わたしも聞かせてほしいな。蔵原君にはどんな理由があるの? 蔵原君が、ここまで清瀬君に付き合う理由」
「別に付き合ってなんか」
「朝のジョグは同じ場所をゴールにするし、なんだかんだ本練習は皆勤賞だし、一緒に記録会にも出たのに?」
指折り数えるなまえに、走はバツの悪そうな顔を浮かべた。
「ごめんね。意地悪な言い方しちゃった。でも、意外とそんなものじゃない? 何事も。絶対の理由って案外難しいよ。なんのために生きてるのって言われて、すぐには答えられないみたいに。一言で言い切れないとか、そもそも言葉にできないとか、そういうものって山ほどあるよ」
走は瞬きを繰り返し、「いえ」と俯いた。
「……それでも、ハイジさんの中にはあるはずです。俺たちを選んだ絶対の理由が。そうじゃないと……」尻すぼみに声が小さくなる。なまえは返事に事欠いて、細いわりに体幹のしっかりした背中を軽く叩いた。
この青年は、清瀬の根本的なこだわりに引っかかりを感じているようだ。確かに走と清瀬はそれなりに速いが、正直なところ他の面々よりも走れる人は多くいるだろう。ちょうど十人いたからだろうか。手近なところにいたからだろうか。
先日の本練習中、清瀬が二つに分けたグループの、もう片方へ設定ペースを指示しに行った際。王子が大の字になりながら「……どうして箱根駅伝なんでしょう。僕なんかをわざわざ巻き込まないでほしい」とぼやいていた。走の問いも、王子の疑問と同じ意図である。
その時は、後輩の不満を聞いたニコチャンが少しだけ笑って「……一人じゃ襷はつなげねえからなあ」と返し、その地点での会話をまとめた。
なまえは、改めて清瀬の思惑に胸を馳せる。
清瀬が自身を慕う理由には、ひとつ思い当たる節がある。彼に寄せられた期待を裏切りたくないとも感じている。
同時に、自分の本質が、清瀬の想像する姿と異なることを知っている。彼女が清瀬の計画へ付き合う一番の理由は、もしかすればその「後ろめたさ」かもしれなかった。
なまえは、あの男の前では、完璧な自分でいたいと思うのだ。彼が思う理想を体現し、いつだって気高い価値観をともにしたい。弱みなんて見せられない。
種明かしをするには、少々大人になり過ぎてしまっていた。
先刻、なまえの胸をなぞった寂しさ。それはまさに「不可逆変化」だったのであろう。逆が成立しない一方通行の変化。元には戻らないもの。
たとえば、熱が高温の物体から低温の物体に移動する現象。煙突から寝た煙が空に広がること。水にインクを落とした際の撹拌。ゴールの横で刻まれる電光掲示板。
たとえば、とある青年が怪我を負ったという事実。彼が藤岡のチームメイトであったこと。ヒーローだった時間。
たとえば、もう直接見ることの叶わない、清瀬の高校時代。
ああ──だからこうして、とっさにこの青年を追いかけてきてしまったのか。
きっとなまえは、走の純粋な感情に触れたかったのだ。過去ではなく、現在進行形で走り出す彼に。走が大人になる前に。彼女が駆け出せば、まだ手が届くうちに。
透明で、何ものにも染まらない。建前にあふれたこの世界の中にあって、恐ろしいほどうつくしいこの青年に、ただ。