*
足元に画用紙で敷かれた道があるようだ。一歩を踏み出すごとにじわり絵の具が滲み、大きく広がる。しぶきに足を取られ、厄介で仕方ない。
上京してから、この一ヶ月間で出会った人々。そんな彼らの声が取り巻く水滴の中で反響している。
痛いくらいに、眩しく、鮮やかに、はっきりと──。
──ざまあねえあ。ずっと待ってたんだよな、あいつ。十人揃うの。無茶だと思うよ。でも四年間ずっと見てきてるからさ。やると言ったらやる男だよ、あいつは。
清瀬から鶴の湯で勝負を仕掛けられた夜。のぼせた走を部屋へ運んだニコチャンが、枕元でぼやいた言葉。
──蔵原。どんなに一人で走っても、本当は一人じゃないんだ。いつだって誰かと一緒に走ってるんだよ。
夕飯の買い出し中、偶然通りかかった清瀬が語った言葉。
──蔵原さんに怪我がなくてよかったです。大事な選手ですから。言っていましたよ、ハイジさん。やっぱり神様はいるんだって。蔵原さんと出会ったこと。俺たちはただの十人じゃない。運命の十人なんだって。ずーっと言ってましたからね。皆で出たい、走りたいって。わたしには蔵原さんがすんごい足が速いってことしかわからないですけど。
榊と遭遇した日の夕方。ランニング中の走とぶつかり、体重の違いで吹っ飛ばされ膝を擦りむいた葉菜子が、公園の水道で傷口と一緒に洗った言葉。
──本当にそうなのか? 選ばれた者にしか許されないのか。そういうものなのか? 走るって。
複数の寝息が聞こえる深夜一時。ようやく走る楽しさに目覚めつつある住人へ、記録会で現実を見せる必要はあるのか、素人を傷つける必要があるのか、と問いかけた際、清瀬にかけられた言葉。
この時に、走が「競技の話だから」こぼすと、清瀬は少しだけ笑って続けたものだった。
「でも……だからこそ現実も見ないと目指しようがないだろう。箱根は夢じゃない、現実なんだ」
「……確かに走るだけなら誰にでも許されます。好きなだけ走ればいい。でも……ハイジさんの言う『走る』ってそういうことなんですか。箱根は誰でも出られる大会じゃないですよね。……わかりません。あなたの言う『走る』ってなんなんですか。なんでこの人たちじゃなきゃいけなかったんですか」
曖昧に回答の途中式を示すと、投げかけられた相手はなぜか嬉しそうに、
「それだよ走。俺も知りたいんだ──走るってなんなのか。走るってどういうことなのか」
なんて、解答がまっさらであることを明かした。その表情がやけに清々しく、一切のしがらみなくあったものだから、
「……わからないってことですか」
走は続けて問いかけた。
「まだだ。……答えはまだない。ようやく走りはじめたばかりだからな」
「そんなんでよく巻き込めますね、俺たちを。……やっと皆揃ったのに。このまま楽しくトレーニングだけ続けていれば、あの人たちは傷つかずに──」
問いかけた。
「箱根を走るのに無傷というわけにはいかないだろう?」
「現実はそんなに優しくないと思います。記録会でこのチームも最後かもしれません」
「──俺は信じてるよ、皆乗り越えられるって」
やはり走にはわからない。何度考えてもわからないのだ。
コーチも、監督も。苦い事実ばかりを走に押し付けて、走る意味だなんて、そんなこと。誰も教えてはくれなかった。
教授も、友人も、清瀬すら知らない。ならば、誰がこの答えを持っているというのか。真っ暗なトンネルの中、戻るにも先を急ぐにも光が見えない。どこへ──いつまで進めばいい。
火照った脳から落ちてきた感傷が、じりじりと胸を焦がす。眩暈がしていた。
*
東体大記録会の後、清瀬からの着信履歴に気がついたなまえは、慌てて自販機でスポーツドリンクを購入するなり走に押し付けた。自身がバンの鍵を預かっていることを思い出したらしい。「戻れとは言わないけど、せめて補給くらいしてよ」と言い残し、来た道を戻っていく。お礼を告げる間もない。
彼女には走の短絡的な思考などお見通しであるようだ。気まずい心持ちであった走は、間接的に言い当てられた通り交通機関を使わず竹青荘まで帰ることにした。距離にしておよそ二十キロ程度。流しても二時間かからない。今は走りたかった。こんなにもやもやとした感情を持ちながら、じっとなんてしていられない。
案の定、走り終えてから庭で軽くストレッチをこなしても、身体は不完全燃焼に疼いている。
「──おお、おかえり。走の方が先につくかと思った」
玄関扉を開けると、まず出迎えたのは大皿に山盛りの唐揚げを乗せたジョータであった。
「……何やってんの」走が問い掛ければ、即答で「打ち上げ」と返ってくる。
「反省会は?」
「ああ──とも言うな。早く着替えてこいよ!」
走は眉を顰め、軋む階段を駆け上がる同級生を眺めた。
先日、箱根を走るのに無傷ではいられないと言ったのは清瀬ではなかったか。普段の食卓では出さないようなパーティーメニューをつくっている場合ではない。傷を舐め合うような真似はまっぴらごめんであった。
とはいえ、夕食を食いっぱぐれるのも本意ではない。渋々と走は双子の部屋と向かう。
覗いた室内ではすっかり酒盛りが進んでおり、赤い顔をした住人たちが口々にレースの感想を述べていた。
「スポーツマンシップとかなんとか言っておいて、結局汚いんですよ。彼らは」
「わかる、気持ちはわかる」
「スタートしてすぐ、肘で」
「俺、背中押されたよ」
「あれでもう意欲を無くしたんです……」
「皆いい位置を取ろうと必死なんですよ」
「タイムを競うというのなら、一人ずつ順番に走ってタイムだけ計測していけばいいんです」
「そうもいかねえだろ」
「時間短縮のためのスタート形式だって」
初レースを楽しむ境地にまで達した者はいなかったようだ。それも当然か。誰だってはじめての試合は緊張に圧倒される。ペース配分や駆け引きが重視される長距離であればなおさら、その影響は大きい。
走が自身の初戦を回想し、緊張感の中でも上級生を押しのけるタイムを出したことを記憶の片隅から引っ張り出したあたり、ニコチャンが「走にはわかんねえだろ、こういう愚痴。周り誰も走ってねえから」と笑いかけた。
「独走状態」ユキが続けて茶化す。
「同じユニフォーム着てるのが申し訳なかったわ」
キングが肩をすくめ、ムサが「素晴らしいですね。デビュー戦でいきなり三着。レースの後、彼は誰だという声をたくさん聞きましたよ」と微笑む。
「そう! 噂になってたぞ。特に女子」
「いいなあ。女子に注目されて」
双子はちゃぶ台に肘をつき、夢見心地に呟いた。
「走、お疲れ様!」
住民たちは彼の順位で勝手に乾杯すると、さらに酒を煽る。
お祝いの気持ちはもちろんあるのだろうが、きっと手当たり次第に飲酒の理由を探しているだけだ。これでは、本当に普段の飲み会と何も変わらない。端でノンアルコールを舐めながら、走はたとえようのないドロドロとした気持ちが腹の中に溜まっていくのを感じていた。
そうして卓上の皿がほとんど空になったころ、神童が見計らったように清瀬に声をかける。
「──……それで、どうなんですか。今日の結果、実際のところ」
「皆はどう思った?」清瀬は空のグラスをテーブルに置き、ぐるり皆を見渡す。
「……コメントしづれえってさ」わざと明るい調子でキングが回答する。
「思うようにはいかないものですね」
「最初のうちは楽しかったけどな」
「ペース掴めなかった……」
「やっぱり堪えますね、勝ち負けがつくって」
各々、苦笑いしながら頭を下げる。試合後の閑散とした空気が示していた通り、馬鹿騒ぎをしながらも後ろめたさは感じていたらしい。
「つか、目的は箱根予選出場の公認記録を出すことだろ? 誰も出せてねえんだから惨敗だよ」
「え、走とハイジはいけてんじゃねえの?」
「そこは数に入れなくていいだろ」
「入れましょうよ。チームなんですから」
「だって、練習のベストタイムも更新できてないすもん」
諦めムードの住人たちを、ややあと清瀬が立て直す。
「試合と練習じゃ条件が違う。むしろ違いが実感できたことが大きな成果だと思う。このことはこれからの練習で克服していくとして──」
「──こんな感じで」
清瀬を遮り、走が口を挟む。
「間に合うんですか? こんな感じで」
「もちろん。次は二週間後の喜久井大の記録会に出るつもりだ」
「お。有村ちゃんのとこじゃねえか」ニコチャンがぴゅうと口笛を吹いた。
清瀬は「その通り」と一言だけ合いの手を返し、今後の方針について展開する。
「明日からは練習内容をさらに充実させる。新しい練習メニューを組み込んで、距離もスピードも上げていく」
よどみなく発された宣言に、一部住人からブーイングが飛んだ。おもにキングと王子である。双子も休めるならこれ幸いと、ともに野次を投げかける。
「いいんじゃねえの。さすがに明日は」
「賛成。本番の後はクールダウンが必要です」
言葉にこそ出さないが、神童やムサも少し疲れたような表情を浮かべている。
「丸一日休む必要はない。長距離こそ毎日の積み重ねがものを言う競技だ」清瀬は淡々とそれらをあしらう。
消沈したムードに、「俺は今からでもいいですよ」と、急かすような格好で走は立ち上がった。
竹青荘の面々な「げ!」と声をあげる。帰宅後、着替えた後でも走はジャージを身に纏っており、冗談ではなくこのまま夜の街を走り出しそうな雰囲気を持っていた。
「本気かよ」
「今からって!」
「……俺酒飲んじゃったわ」ニコチャンが空のグラスを揺らして見せる。
「それくらい、今日の結果は重く受け止めるべきということです。出るんですよね? 箱根」
走は先輩を一瞥すらせず、真面目な顔で告げた。
「おいおい、どうしたどうした」
「心配しなくても、僕ら皆そのつもりで──」
「ならこの時間はなんですか。反省会? ただの宴会ですよね」
「僕は、反省会のつもりだったんだけど……」
「俺も」便乗したニコチャンを、ユキが「いや飲み過ぎ」と小突く。
「でも必要だと思うぜ。こういう時間も」
「そうそう、チームなんだから」
「明日からも頑張ろう」
「だから明日はいいって! 休もうよ!」
「確か、明日は雨も降るんじゃなかったかな……」
窓の外を見上げる王子を、「お前のデニムはよく水を吸うからな」とユキがからかう。
──もう耐え切れない。
そう思った瞬間、すでに走の手は動いていた。
「──ふざけんなって!」
テーブルに叩きつけられたグラスが、乾いた音を立てる。
響いた怒声が自分のものだと気がついた時、住人たちはそろって目を丸くし、呼吸を忘れた表情で走のことを見つめていた。
「──……まあわからんでもねえよ、お前の気持ち。でもあいつらの気持ちもな。直視するのも勇気がいんだろ」
清瀬に「少し頭を冷やせ」と促された走が、食堂で一人水を飲んでいると、いつの間にか入り口でニコチャンが腕を組んでいた。手洗いか何かのついでに寄ったのだろう。
「そんなのは……はじめた時点で持っているもんだと思います」走はぶっきらぼうに返す。
「そりゃあお前はな。すげえよ、藤岡と勝負できるなんて。とんでもねえやつだったんだな」
走の無礼を気にする素振りなく、ニコチャンの声は純粋に走を讃えている。そんな先輩を無碍に追い返すわけにもいかなくなり、走は俯いた。飲み終えたグラスを卓上に置くと、一つ残った氷がカランと乾いた音を立てる。
「……全然。最後の一周なんてどうすることも」
「俺たちなんて最初の一周からだぞ」
「だからこそ、もっと本気で──」
「なあ、走。俺はどうすりゃいい?」おもむろにニコチャンが手を上げた。
「参ったよ、重くて。肉を削るか、骨を削るか」
「……体格の問題は」
「あるだろ。わかってるだろ、それくらい。今日走ってみて改めて確信した。俺の身体は長距離には向かない。毎日走っても、しばらく休んでたキングといい勝負だぞ」
「陸上やめた理由もそうなんですか」
「ああ──高校の時な。監督に言われたよ。恨んじゃいねえよ? むしろスッキリしたもんだ、その時は」
ニコチャンの言葉に嘘はない。鈍いと揶揄されがちな走にもそれくらいは理解できる。「監督を恨んでいない」というその一点において、彼は偽りなく語っている。
「──でも、悔しかったってことですよね。俺に話してくれたってことは。諦められないってことですよね」
「そう……なのかもな。確かに悔しかった。でも、だからこそ今日は嬉しくもあったんだ。あのスタートする瞬間の感覚。もう味わえねえと思ってたからさ」
「なら続けるべきです。絞りましょう。とことんまで」
走は、先日ニコチャンの部屋を訪れた際のことを脳裏によぎらせた。清瀬がバイトをやめろと住人たちに命令した数日後のことである。
「ハイジに言うなよ、仕事してるって。怒られんだから。まあ、俺の方が先輩なんだけどな、本当は。……で、何だよ」清瀬が夕飯の買い出しに出た時間を窺い、こそこそとプログラミングのバイトをこなしていたニコチャンが背中越しに走へ語りかける。
走は黙って頷き、それまでの数週間抱え続けていた疑問を投げかけた。
「……どういう人なんですか、ハイジさんって」
「ハイジ?」
「一年の時から一緒に住んでるんですよね」
「おお。ええ? どうって、見たまんまだけど」
「──ランナーとしては」
それは走が一番気にしている部分であった。
朝のジョギングでは、王子のペースに清瀬が合わせているため、本気の走りどころかフォームすらろくに確認したことがない。
夕方の練習も、まだはじまって間もないことから、初心者の面々にそもそものメニュー内容から教えなければならない。そのあたりはサポート陣──主に本練習を担当しているなまえが精力的に対応してはいるものの、やはり主導する清瀬自身も強く責任を感じているようだった。清瀬は二つに分けたグループをそれぞれコーチングした後、皆を帰寮させてから自身の練習を行う。大抵王子がまだ走っているため、時間的にもちょうどよい。
練習メニューを見た限り、清瀬がこなしているものの強度はそこまで高いとは言えなかった。しかし、ランナーの気持ちに寄り添い、飽きがこないよう調整しながら、あれだけのメニューを組み立てられることが、相当の実力者である証明ともできる。
どこまで竹青荘の住人たちが知っているのか不明であるため深く突っ込まずにいたが、右脚の手術痕の件も気になっていた。
ニコチャンは走の質問意図を汲み、キーボードを打つ手を止めてこちらを振り向く。
「……ハイジもいいランナーだったと思うぜ。本気で走っているところを見たわけじゃないけど。しばらく走るの止められてたみたいだし。走りたくても走れなかったってことだろ。……一年の時、俺が高校の時陸上部だったって言ったら、目キラキラさせてさ。困ったよ。こっちはすっぱり止めたっつーのに。それから四年、いまだに目キラキラさせんだぜ。驚くよなあ。お前が来てからなおさらだ」
「……ハイジさんの脚については、どこまで知っているんですか?」
「詳しいことは知らねえよ。ただ、脚にメスを入れるなんてよっぽどだろ。二年くらい前から軽くジョッグはしてたよ。そのあたりである程度回復したんじゃねえかな……──ハイジがあそこまでして走るのには、何か理由があるんだろ」
ニコチャンは鬱陶しそうに、そして同じくらい愛おしそうに笑った。彼の言葉にはいつ何時、誰よりも長くこのアパートで過ごした時間が詰まっている。
「……俺がいてもチームは勝てませんから」
「だな。ハイジには悪いけど、俺も箱根に行けるとは思ってねえよ。まあ、記録会に出てみたらはっきりすんじゃねえの」
ニコチャンはそう言い残し、再度内職へと戻った。
走は思う。こうして記録会を終え──あの時、ニコチャンが言った通りの結果になった。言った通りなのに。あの時は皆が早く諦めることを望んでいたのに。なぜ今、こんなにもむしゃくしゃしているのだろう、と。
記録会直前、清瀬へ「浮き彫りになった力の差で皆が傷つくのでは」なんて進言してしまったのはなぜだったのだろう。
走る意義どころか、自分自身のことですら今の走には難しかった。
*
翌日以降も、走は皆と距離を置いたまま──否、一人突っ走る彼に誰もついていけずにいた。
本練習前のストレッチも輪には入らずに一人で行う。離れた場所からは、なまえのバインダーを覗き込んだ双子たちの悲鳴が聞こえてくる。
「ペース走の距離が倍になってんだけど⁉︎」
「ビルドアップの方も!」
「めちゃめちゃ上がってんじゃねえか」つられてメニュー表を確認したらしいキングが重ねて喚き、「個人別に考えてある。いけるものはさらに練習の強度を上げていこう」と快活に清瀬がフォローを入れる。
「ちょっと待って。いいんか、それ。ビルドアップ走ってつまりスピード練習ってことだろ。それって疲労度が高えし、脚に負担がかかるんだよな?」
「おお! ついにユキさんがやる気に!」
「違う、心配してやってるだけ──……体壊したら元も子もないですよ、先輩」
「なんだよ急に」突然ユキから名指しされたニコチャンがバツの悪い顔をする。
「確かにユキの言う通りだ。中にはビルドアップが厳しいものもいるだろう。そこでそれとは別にインターバル走も取り入れることにした」
「ええ! まだ増やすの!」
「聞いてたのか? ユキの話を」
「ねえねえ、なまえさん。インターバル走って何?」
「んー、インターバルっていうのは──」
毎度のごとくなまえが初心者たちに向けて説明をはじめる。しかし、それを無視した走は「やりましょう、時間がもったいない」と先を促した。
なまえが話をまとめ終わるのを数秒待ち、「よし、二組に分かれるぞ」と清瀬が頷く。
当然、単純に距離がこれまでの倍となったその日の練習は、鬼のように辛かった。すっかりくたびれた住人たちを、足踏みしながらまたしても走が追い立てる。
「夜ジョグは? 今日夜ジョグは行きますか」
「……ああ」
「……今日は、練習で目一杯でしたから」
神童とムサの返事は釈然としない。二人とも、もろに疲労が来てしまっているのだ。
「それじゃあ本練習を増やしても、プラスマイナスゼロじゃないですか」
「でも、夜ジョグは別の目的もあるからね」
「後援会でしょう。集まっているんですか?」
「ぼちぼち。でも、こんな疲れた状態じゃ勧誘なんて……」
「先ほど有村さんと相談したのですが、ハナちゃんと一緒にしばらくは夜の後援会募集を引き受けてくれるそうです」
「そっか……。申し訳ないけど、この強度に慣れるまでは甘えさせてもらおうか」
二人は、竹青荘まで戻るまでのジョグですら息を切らしていた。これは走のペースが普段よりかなり早いことも要因である。律儀な神童、ムサはどうしてもついていってしまうのだ。他の者たちは早々に諦め、各自のペースで走っていた。王子に合わせるなまえの自転車は、目を凝らしても影すら見えない。
何をチンタラしているのか。走の内に不愉快さは募るばかりだ。
直近、王子の部屋にルームランナーが届いたことも苛立ちを助長させる理由だった。せめて漫画を読みながら練習したいとルームランナー購入を目論んだ王子に、神童が実家の納屋に仕舞われていたそれを譲ったのである。
走りたいなら外に出ればいい。深夜にルームランナーが起動すると、真下に位置する走の部屋は家鳴りがひどいのだ。廊下へ出てもその音と振動からは逃れられず、そんな環境でのん気に寝ていられる他の住民たちも信じられない。最近の妙な怠さは、騒音被害による寝不足のためだと走は疑っていなかった。
クロスカントリーを行う際、王子が終始タラタラと走っていることも気に食わない。それをやたら前向きに励ます清瀬も。幅の狭い道では、周回遅れを追い越すたびに大回りをしなくてはならず、ラップに誤差が出る。先日は、皆の中継タイムを記録をするなまえへ、「正確に書いてくださいよ!」と食ってかかり、彼女を驚かせてしまった。一周二・五キロのロングコースで、なまえが全員の機微を逐一把握できかねることは頭にない。
メニュー後もトラックを周り続ける走を見かけた双子が「もう上がろう」と声をかけにくるも、彼は耳を貸さない。
「今日の夕飯はトンカツだってさ。揚げたてを食わせてやるって、ハイジさん先に戻ったよ。俺たちも帰ろう」
天真爛漫な二人がここまで気を遣うこともめずらしい。それに、走だけが気づいていなかった。
やるべきことさえこなせば基本的に放任主義の清瀬も、ここ一週間の態度はさすがにいかんと思ったらしい。追加で距離をこなすため、夜に外へ出る走と庭先ですれ違った際、
「──筋肉を休ませるのも重要なメニューだぞ」
と声をかけた。同調するかのごとく、餌に顔を突っ込んでいるニラが走を見やる。
「……大丈夫です。この一ヶ月十分休ませてきましたから」
走は清瀬を一瞥もせず、生垣を抜けていった。
さらに数日後、溜まり続ける走の苛立ちは、ついに葉菜子への態度にも表れた。
短縮授業だったという少女が、なまえと二人体制で夕方練習に付き合ってくれた時のこと。普段はタイム測定や記録まとめ、給水、ストレッチの補助など全てなまえが回しているが、葉菜子がプラスされた際は、計測係を少女に任せていた。それだけで、グンと作業が効率化されるのだそうだ。
その日も葉菜子はよく通る声で「ファイトー!」や「頑張れー!」と叫び、前回参加した夕方練習よりも格段に成長している住人たちを見てはしゃいでいた。なまえも自身の横を皆が通るたび、「きついだろうけど踏ん張って! 意識して腕振ってみて」、「踵から接地! そう、ナイス!」など、それぞれが崩しがちなポイントをポジティブな表現で呼びかける。
五千メートルのレペテーションを行っていたその日。走り終えた走へ、葉菜子が「十四分五十秒〇二! はや!」とタイムを共有した。
「鬼速」別グループのため、ストレッチをしながらゴール脇で待機していたユキが口笛を吹く。
トラックでは、走のゴールに感化されたジョージがロングスパートをかけはじめ、ムサ、ジョータと競っている。清瀬が「諦めるな! 抜けるぞ抜けるぞー!」と張り上げる。
──と。
「……待って。それちゃんと計れてる? 五十秒〇二って、そんなわけないと思うんだけど」荒い呼吸で、走が葉菜子に詰め寄った。
バインダーを持つ体ごと、少女よりも一回り大きな影が覆う。
「え、でも……」
葉菜子は手元の数字を見やり、告げた記録に間違いがないことを確認する。手元のタイマーが狂っているとも思えない。いったいどこで、こんなにも彼の機嫌を損ねるようなミスをしてしまったのだろう。
途方に暮れる少女に向け、走は真正面から苛立たしげに怒鳴った。
「それじゃあ二週間前と全然変わってないんだよ──おかしいだろ!」
理不尽を浴びた葉菜子が、ビクッと華奢な動作で縮こまる。
「ちょっと! 蔵原君」ボトルの準備をしていたなまえが駆け寄ってきて口を挟むも、彼はその女性を押し除け再度スタートラインに踵を返した。
「わかった。もう一回走るから、今度はちゃんと計って」
「──走。メニューは守れ。それに、ハナちゃんはちゃんと計ってる」
清瀬の鶴の一声。そこで、ようやく走は周囲の状況に気がついたようだ。
怯えた様子の葉菜子へ「……ごめん」と掠れ気味に謝罪を送る。少女は眉尻を下げて微笑み、「うん。大丈夫」と答えた。
側から見ても完全に余裕を失っている走は、自らがつくり出した気まずい沈黙を縫って、一人ストレッチに取りかかる。
険悪な雰囲気の中、続いて第二グループがタイム測定をはじめた。引き続きストップウォッチを持つ葉菜子に目をやりながら、皆へドリンクを配り終えたなまえが様子を見つつ、そっと走の元へ足を運ぶ。
「──蔵原君、さっきのTTなんだけど、ラップタイムも個別声掛けした方が走りやすかった? 手元の記録優先で、ってわたしがハナちゃんにお願いしてたの。だから『もっとこうしてほしかった』って希望があったら直接わたしに教えてね」
「……別にいいんで。……放っておいてください」
「そういうわけにも……──あの、これは別件のおせっかいなんだけど、最近の蔵原君、クマが目立つ気がして。顔色悪いし、清瀬君が立てたメニュー以外にも走り込んでない? 貧血気味なんじゃないかって心配で……。常飲はおすすめしないけど、本当に辛い時はサプリに頼るのもありじゃないかな。もしよかったら帰り薬局で──」
「──……なんなんですか、あんたは」走は、低く絞り出した。
滲み出る彩度のない感情。唇から、理性で押し留める寸前の言葉がこぼれ落ちていく。
「……そんなにトレーナーごっこがしたいなら自分の大学でやってくださいよ。あんたは選手じゃない。寛政大の学生でもない。アオタケに住んでるわけでもない。そんな人が、俺個人のことにまで首を突っ込んでこないでください──はっきり言って、迷惑なんです」
なまえは走の鋭い視線を受け、数度瞬きを繰り返した。
「……いやあ、ぐうの音も出ない」
戻された言葉は、普段通り屈託がない笑みとあわせて。頬をかいた彼女は「ごめんね」と追加の謝罪を述べ、静かに引き下がった。
「走! 今のはちょっと──」
彼が大声を出したため、芝生で体を休めていた神童が反応する。ムサも心配そうにこちらを窺っている。双子が葉菜子の付近におり、こちらへ気がついていないのがせめてもの救いだった。
走が改めて自身の告げた言葉を思い返し、視線を彷徨わせた瞬間、
「──なんの騒ぎだ?」
第三コーナーで声掛けをし、たった今帰って来た清瀬が、深刻な顔で集まる面々に声をかけた。その顔は完全な疑問符で埋まっており、内容を聞いていたにも関わらずあえて尋ねている風でもなさそうだ。
「なんでも。一ヶ月走りこんで、皆かなり心肺が育ってきたねーって、それだけ」
走の表情を隠すため、一歩前に出て清瀬に迫ったなまえが適当な誤魔化しを告げる。この男にだけは口外してくれるな、という無言の圧力を感じ、神童とムサは静かに顔を見合わせた。
*
「──……は?」
走にとって、それは突然の宣告だった。
隙間風が肌寒い深夜の食堂。清瀬に呼び出され、渋々と出向いた開口一番。
「お前は次の記録会出なくていい。公認記録の出ていないメンバーだけで出場する」
一刻も早く結果を出さなければと焦っている走にとって、それはあり得ない発言だった。
日々の練習ではどうにも復調しない。手応えもない。であれば、試合の緊張感や空気感で無理やり戻すしかない。気持ちは逸るばかりであるのに。
「どうして⁉︎ タイムが伸びていないことですか。それなら走る方がいいです。走れば調子は戻ります」
「……無駄だろう。お前は今、自分自身が見えていない」清瀬は、皆から提出された練習日誌に目を通しながら、ため息をついた。
「じゃあ、俺はどこで記録を残せばいいんですか」
「記録会ならまだいくつもある。そもそも、俺たちは箱根に照準を絞って──」
「この一年を全部無駄にしろって言うんですか? 無駄になる──今、ちゃんと記録を出しておかないと……」
走はうめくようにして反論した。上手く言葉が出てこない。水の中でもがいているような気分だ。
苦しい。逃げ出したい。でもどこへ? 逃げ出して、逃げ出して、そうして、ここまでやってきたのに。
清瀬は手元の冊子を閉じて、テーブルの脇に寄せた。静かに視線を走へ向け、諭す。
「きみにとっては記録が全てなのか? きみは記録のためだけに走るのか。それじゃあ、選手を管理してひたすらスピードを追求させる指導者と同じだ。お前の望む走りとは、スピードだけを求め、遅れるものを置き去りにするような走りなのか」
「違う! 俺たちがやっているのは競技です。趣味で走るってレベルじゃないでしょう。箱根の予選会に出られるかどうかも確かじゃないのに、あの人たちに合わせてなあなあで走っていたって速くなんか──」
「──なあなあで走っているものはここにはいない!」
瞬間。清瀬が卓上を握りしめた拳で叩いた。鋭い音が鳴り響く。空になった麦茶のグラスが、振動で小刻みに揺れた。
彼の眉間には深いシワが刻まれている。食いしばられた歯から、ギリギリと音が聞こえてきそうだった。
この男がここまでの喜怒哀楽を露わにするのははじめてのことで。その感情をまっすぐ正面にからぶつけられた走は言葉に詰まる。
「俺は趣味や思いつきで箱根を目指しているつもりはない! 皆が精一杯努力していることをなぜ認めようとしない! 彼らの真摯な走りを、なぜ否定する! お前よりタイムが遅いからか? お前の価値基準はスピードだけなのか──だったら走る意味はない。新幹線に乗れ、飛行機に乗れ。その方が速いぞ」
激昂しているはずなのに、その訴えはどこか泣いているようでもあった。
「……気づけよ、走。速さを追い求めるばかりじゃだめなんだ。そんなのは──虚しい」
走は何も返せなかった。清瀬の手術痕が脳裏にチラついたためだ。
重苦しい沈黙が食堂に流れる。
──と。
「……喧嘩?」
タイミング悪く、食堂入り口に王子の姿が覗いた。
とっさに表情を取り繕った清瀬は「……ああ、寝てなかったのか」少しかたさの残る声質で、それでもいくらか穏やかに返す。
「ええ、喉が渇いちゃって」
先刻の会話を一部聞いていたのだろう。場を和らげる意図か、王子はほんの少し口角を上げた。
今晩、ルームランナーの音はしなかったはずだ。こんな時間まで夜更かしをして、漫画を読んでいただけに違いない。
やり場のないもやを、依然抱えたままの走は、わざとらしく大きな足音を立ててその場から立ち去ろうとし──そこで、ふとすれ違い様「……王子さん」と呼びかけた。
「──ん」
白く小さな、余白の少ない華やかな顔が、走へ向き直る。
「……お願いがあります。今度の記録会、もし前と同じような成績しか出せなかったら──」
続く言葉を聞いた王子は長いまつげで縁取られた目を見開き、その場に立ち尽くした。
自分勝手極まりない、同時に誰よりも真剣に目標を見ているからこそ掲示された条件。あの清瀬ですら一瞬言葉を失い、自室へ消える走の背中を逃してしまうほど。
──メンバーから外れてもらえますか、チームのために。
だって──走が急に、そんなことを告げるものだから。