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大学中庭のベンチに腰掛け、生協で購入したパックの牛乳をすする。何をしなくても腹は減るものだ。舌に残る乳独特の膜をうざったく感じながらニコチャンはため息をつく。
七十九キロ。昨晩、鶴の湯で乗った体重計の針が示した重量。長距離選手として、トラック種目の選手として、格段に重い体が恨めしくて仕方ない。
「──平田、投擲やらないか?」
監督からそう呼び止められたのは、高校二年の夏のことだった。
中学から陸上をはじめ、四年半。生まれつき太い骨、成長期に伴い日々よくなるガタイは、特にブロック別で集合した時に一際目立つ。
好きだけではどうにもならない問題があると知ったのもちょうどこの頃だ。気持ちの強さだけでタイムが出れば誰も苦労しない。それが叶わないのは、自分が陸上競技を心から好いていないからではないかと、布団の中で悩むこともない。
長距離ブロックでは年に三回、新入生のレベル分けを行う目的で、五千メートルのタイムトライアルが行われていた。本来一年生だけが対象のそれに、二年以降もニコチャンは一人志願して出走し続けた。こんな身体でも、努力次第で可能性が残ると信じたかった。
高校の長距離選手として評価のテーブルに乗るか否かをわける一つの目安。五千メートル十六分三十秒。図らずも箱根駅伝予選会の足切りと同じだ。が、結局ニコチャンは高校生活の中で一度も、このタイムを切ることができなかった。
後輩たちに下手くそな気の遣われ方をすることもままある。部員数こそ多かったが強豪校には入らない程度のチーム。上下含めて人間関係は優しいものだ。場の空気を悪くしないよう、そのたびに「次がある」と笑った。
一度諦めてしまえば、次もきっと諦めてしまうと──これから先の人生、ずっと諦め続けることになるのだろうとわかっていた。
──向いていないなら、向いてないって言ってくれ。
本当は、心の奥底でずっとそう思っていた。
けれど、走るとは本来そういうことなのだ。誰かが走れとか、走るなとか、言ってくれるわけじゃない。走り出すのも、止まるのも、全て自分に委ねられている。
ただ、ニコチャンはどうしても足を止められなかったから、その決断を当時の監督が代わってくれただけだった。
感謝こそすれ、恨むなんてとんでもない。
清瀬が箱根に出ようと宣言した翌日。ニコチャンは押入れから古ぼけたランニングシューズを引っ張り出した。廊下を挟み対面する部屋、ユキが寝息を立てていることを確認する。午後だというのに、将来の弁護士先生は優雅なものだと笑って、そっと外に忍び出る。
少しだけだ──どうせ無理なのだけど、少しだけ。
そんな気持ちで足を速めた。数年ぶりに走るために走った。
竹青荘に入寮する時、未練がましくアップシューズを持参した過去の自分を慰めている心持ち。当然、タバコに冒された心肺はすっかりくたびれていて、たったの二、三キロで息も絶え絶えになってしまった。
公衆トイレから出たところで、偶然に新入りと鉢合わせした時は肝を冷やしたものだ。昨晩持っていた荷物をそのまま背負っている走は迷子の子犬のようで、清瀬の宣言に耐えかねたらしいと一目瞭然である。
口封じのため、「くれぐれも言うなよ、アオタケの連中に。って、戻る気もねえみてえだけど」と声をかければ、その後輩は、
「──走りたいんですか。本当は」
などと、ストレートにのたまう。
「ばっか! 気分転換に決まってんだろ。真っ黒なんだよ、俺の肺は。無理無理。そもそも向いてねえし。詳しいんだろ。こんないかつい長距離選手、いるか?」
走はニコチャンの発言を噛み砕くのに少々時間を要したようで、困ったように「……はあ」と相槌をうつ。思ってもいないお世辞は言えないタイプなのだろう。逆に、思ったことを包み隠さず放流する素養もあるようだ。
その後すぐ、母屋の風呂が壊れたという知らせを受け、新入りとの談合はお開きとなった。
改めて、あの時の走になんて答えてやればよかったのだろうか。
走りたいよ、箱根なんて大層な夢は無理だけど──なんて。走るために生まれてきたようなあいつに向かって? 小っ恥ずかしいったらありゃしない。
朝食後の一服を清瀬に取り上げられて──別に従う必要もないのだが──なんとなく乗っかってしまったのは、やはりニコチャン自身の意思が大きかった。
「……なんなんすか、これ。呪いの人形?」
部屋を訪れたユキが窓際に並べられた針金人形を手に取った時、ニコチャンは先日王子からも同質問があったことから「そんなに気になるかよ」と頭をかいた。
「手が勝手に探しちまうんだ、タバコをよ。その度に気を紛らわせていたら──」
タバコを箱上から針金でぐるぐる巻きにした際、余ったパーツで作ったものだ。単なる手遊びにすぎない。毎回尋ねられるのであれば、お品書きでも作っておいた方がいっそのこと楽かもしれない。
ちなみにその話を聞いた王子は「力石じゃないですか! お好きなんですか? ジョー!」と騒ぎ立てていた。あしたのジョーに登場する、主人公のライバル。減量のために水の一滴を飲むことも許さず、最後はリングの上で立ったまま息絶えた伝説のボクサー。
彼の比喩をそのままイキとすれば、ニコチャンはいずれトラックの上で死ぬことになる。縁起でもないことを嬉々として言わないでほしい。
「……いつから吸っていないんすか。まさか、ハイジが箱根って言い出したあの日から?」
ユキが声をひそめて訝しむ。食堂で炊事に勤しむ清瀬の気配を察したようだった。
「んなわけ。ま、すっぱりやめられるもんじゃねえよ。一週間も経ってない」
「つまり今は止めてるってことじゃないすか!」
「うっせえな。よかったじゃねえか。毎日あんだけ文句言ってたんだから」
「それはつまり走るってことですよね。徹夜仕事の多いあんたが、なんだかんだ言いながら朝のジョグも毎日参加してるのは、実は箱根を目指して──」
「嫌いじゃねえよ、走るのは」
「ちょっと、勘弁してくださいよ! ニコチャン先輩までその気になられたら」
清瀬の圧政をなんとか回避したいらしいユキが喚き立てる。ニコチャンは片耳を塞ぎながら、「でも──」と、背後の言葉を押しやる。
「──好きと才能は別の話だ。安心しろ。間に受ける気はねえよ、ハイジの話を。マジで健康のため! いい機会だからな」
この返答があってもユキのざわつく気持ちは和らがなかった。穴の空いた座布団に座り直し、続けてぶつぶつ文句を言う。
ユキがまるで子どものような態度を取るのは、竹青荘の中でもニコチャンに対してだけ。さらに言うとニコチャンと二人きりの場合に限られる。クールな皮肉屋に見せて、存外可愛らしいやつなのだ。
「……そもそも何がいいんすか。走ることの意義? わかんないですよ、俺。素人なんで。ま、それがわからない限りどうしようもないですけどね、俺の場合──あ、走ればわかるはなしですよ」
「まあ、人それぞれだけど、俺の場合は……そうだな。走ってる時だけは、その時だけは、綺麗になれる気がすんだろ。真っ白っつーか。ダラダラ背負っちまったもん置き去りにしてさ。一瞬でも綺麗さっぱり出来んならさ」
だから、止められるまで──止められてさえも、結局走り出してしまう。
これだから心の片隅にランナーを住まわせているやつはタチが悪い。ニコチャンでさえこの調子なのだから、きっと生まれながらにそういう星のもとで生まれた人間はもっと衝動的な欲求を抱えているに違いなかった。
*
空になった牛乳のパックが音を立てながら凹み、ニコチャンは我に返った。
脳に糖分が行き渡っていないためだろう。ここ最近、ぼんやりする時間が増えた。タバコさえあれば一本ふかしながら頭をリセットするのだが、この状況ではどうしようもない。
知り合いの研究室に顔を出し、最近頭を悩ませているというプログラミング課題の欠陥を冷やかしてから帰ろうか。いや、それも面倒だ。
寛政大学の理系学生は、四年の春から各教授のもとへ配属となる。そのため、留年生かつ学部三年生のニコチャンは、同期で集まるわけにもいかず、研究室という大学内の居場所もなく、肩身が狭い思いをしていた。一年生の時に仲良くしていた連中は、今や立派に社会人をやっているだろう。
決して、羨ましいわけじゃない。学費をすべて自分で工面することも、親元を離れて一人で生きていくことも、自分自身で選んだ道だった。それぞれ努力の方向性が異なるだけだ。後悔はない。ニコチャンだって精一杯生きてきた。がむしゃらにここまで来た自分は誇らしい。
ただ、時折寂しかった。ニコチャンの周りを流れる時間だけがやけにゆっくりで。それまで隣を走っていた者は、後ろから追いついてきたものは、彼のペースに焦れて、次第にスピードを上げ、道なりを行ってしまう。振り向きもせず、水平線へ消えていく。
──腹が減ると、ついセンチな気分になっちまうなあ。
きっと食欲の満たされなさを貧しさと錯覚してしまうのだ。ニコチャンは顎をかく。
ちょうど講堂のベルが鳴った。二限が終わったのだ。昼時に差し掛かり、大学の出入り口にもちらほらと学生の姿が増えはじめる。きっと、日当たりのよいこのベンチを使いたいやつもいるだろう。
よっこいせ、とすっかり口癖になった合図で腰を上げたニコチャンは、
「──ああ、ここにいた」
ジャージの上にエプロンをまとい、ピンクのお弁当の包みを片手に下げ、水筒を斜めがけにした怪しい男──清瀬と目が合った。
「もっとも可能性が低いと思われる場所にいようとは……。見つけるまでに少し冷めちゃいましたよ。さあ、食べてください!」
やたら迫力のある清瀬が恐ろしくなり逃走を試みたが、彼は笑顔を張り付けたまま追ってくる。走力の差は歴然で、永遠に逃げ続けられるわけがないのは百も承知。それでもニコチャンは「ついてくんなって!」と精一杯叫んだ。
なぜバレたのだろう。ここ最近食事を早く下げるニコチャンに「早くないすか? ちゃんと食ってます?」と今朝の食卓でユキが声をかけたが、
「食ってるよ。吸わなくなって飯が美味い美味い」
とタバコを引き合いに出せば、それ以上の深追いはされなかった。
そもそも清瀬は双子に味噌汁をよそってやっており、二人の会話は聞いていなかったはずだ。
「いいって! 大の男が大の男に弁当の差し入れって! 見た目にも問題があんぞ!」
「見た目には問題ありません。盛り付けは完璧です」
「そういうことじゃねえ!」
「おかしいと思ったんですよ。用意したご飯の減りがどう見ても少ないから。確認したらきっちり一人分食べてない者がいる」
とはいえ、清瀬がニコチャンに当たりをつけた理由にはやはりユキの進言があった。先日、鶴の湯のサウナで偶然二人きりになった時。偶然、走とニコチャンが食堂で交わしていたやりとりを聞いたという彼は。「わかってると思うが、ニコチャン先輩無理してるぞ──走がそそのかしてる」と、耳打ちしたのだ。
「陸上やってたからな、先輩。速えやつにできるって言われたらその気にもなるんだろ。俺は危険だと思う」
真剣な眼差しに、清瀬はユキがニコチャンの身体を心から案じていることを察し、同時に天邪鬼な彼のために、ユキが気がついたという経緯は自身の胸だけにしまっておくことにした。
当のニコチャンは、炊飯器からの考察だけで納得させられてしまったようだ。
「……細けえとこ見てんなあ」ついに立ち止まった先輩が、呆れ半分に後ろを振り返る。
「もちろんです。全員分の量と栄養素を考えて、毎回の食事を用意していますから」清瀬は堂々と胸を張った。
「……マジで?」
「マジです」
「いつから?」
「俺が全ての料理当番を引き受けた時からです」
「それ、三年前のことじゃねえか!」
つまり、清瀬が寛政大の学生となって数週間経ったあたり。まだ齢十八歳──その時からこの無茶苦茶な計画を進めていたということになる。恐れを通り越して、敬意すら感じる。
「いやあ、もうそんなになりますか。慌てる必要はないですよ。今無理しなくても先輩はきっとタイムを出せる」
「……絶対出せるとは言わないんだな」
「これを食べれば俺の見方も変わります。ほらせめてこれで、気を紛らわせて」
「……かえって毒だわ」
無理やり芝生に座らされ、蓋をとった弁当を見せられたニコチャンは「げ」と声を出した。見事なデコ弁。しかもその内容は色とりどりの食材で整えられたニコチャンの似顔絵である。タバコまで再現されており、これがなんらかの有名キャラクターであればSNSでそこそこ話題になりそうなレベルの作り込みだ。
急かす清瀬に押し負け、仕方なく自身の顔を食べ進めていく。デコレーションセンスはともかく、繊細な料理スキルにニコチャンは改めて舌鼓を打った。清瀬も箸を動かす先輩を嬉しそうに見つめている。
半分ほど容器を空にしたニコチャンは、ふと
「──昨日、有村ちゃんにも言われたよ」
食間のお茶を準備する清瀬へ、話題を振った。
「……無茶なダイエットしたらダメですよ、だとさ。俺の場合はタバコもやってたからよ、貧血になると心臓に負担がかかって危険だから、ゆっくり絞っていけばいいって。なんでバレたのか聞いたら、見りゃわかる、っていつも通りの顔してさ。気づいたら放っておけないんだと。俺が周りにちゃんとアラート出してたとかなんとか。無意識に? よくわかんねえけど……。もしかしたら、身体は『死にたくねえ!』って騒いでたのかもな。ああ、だせえ……。恥ずかしいよ、俺は」
長距離では体重が軽い方が有利に思えるが、その事実肉を落とすことで体力も減ってしまう。余計なものは削ぎ落とし、心肺機能を高めることは重要だが、その調整は慎重に行わなくてはならない。
以前のミーティングで、清瀬はそれをレーシングカーに例えた。
車体はなるべく軽く、エンジンを強固にする。試走を繰り返して車体のバランスを確かめ、エンジンの性能を高めていくように、ランナーも毎日走ることによって体をつくっていく。
「ダサくも恥ずかしくもないです。ただ、なまえ先輩が一枚上手でしたね」
清瀬がやんわりとした動作で、大きく一度首を振った。
「……有村ちゃんにはやられたよ。まれに自分のアラートを無理やりセーブするやつがいて、そういう痩せ我慢の面倒までは見切れねえとかも言ってたけど……。助けてって言ってくれないやつのことまでは助けられないって。まあ、そりゃそうだ。どちらにしても、よく見てるよなあ。俺からすりゃ、お前も有村ちゃんも細けえ細けえ」
「まあ、俺は一緒に暮らしていますから、その分接点も多い。皆のちょっとした変化に気づきやすいんです」
「そんなもんかよ……──そういや聞いたか? この間、あいつがハナちゃんと有村ちゃんになんか言ったって」
「ああ、走の……。TTの時ですよね」
「ハナちゃんのはそれ。ああ、お前もいたか。んで、有村ちゃんのはその後。俺もムサから聞いたんだけどよ」
ニコチャンは、弁当に改めて箸をつけながら苦笑いを浮かべた。
「今さらいちいちひっくり返したりはしねえよ? あいつもあいつなりに大変みてえだし。むしろ気になるのはハナちゃんと有村ちゃん。ハナちゃんにはその場で謝ったらしいけど、有村ちゃんにはぶつけっぱなし」
「……なるほど」
「ただ有村ちゃんさ、いいんだと。走の言うことはごもっともなんだと──……なんかよう、疲れねえのかなあ、練習だって結局ほぼ毎日来てくれてんだろ。俺もつい頼っちまってさ。なんであそこまでやってくれんのか……。双子なんかはそこまで考えてねえみてえだし、俺の気にしすぎならそれはそれでいいんだけど。けど多分……あの子、そもそも人に甘えるの苦手だろ。こっちで上手いことやらねえと、貰いっぱなしになっちまう」
ニコチャンのぼやきに、清瀬は完全に意表をつかれた表情で、「……先輩の方がよっぽど人を見ている」と呟いた。
「年の功かもな。で、なんか思い当たる節でもあんの?」
「……性質としか。人あたりはいいのに、本当はすごくプライドが高い。自分自身に対して潔癖で、いつだって、誰にだって弱みを見せまいとする。多分、俺が見ようとしていなかっただけで、ずっと昔からああだったんはずなんです」
めずらしく弱気な彼の様子に、ニコチャンは首を傾げる。清瀬灰二という男から、こんな後悔混じりの声色を聞く日が来るとは。ニコチャンの視線に気がついた清瀬は、そのまま誤魔化すようにほんの少しだけ笑うと、同時に自身のこめかみへ指を添えた。これは、彼が困ったときに見せる無意識の癖だ。
「先輩の言う通り、人を頼るのが下手すぎる。借りですら簡単には返させてくれない。想像以上に手強くて……いい加減困りました」
言いながら俯いた青年はやはりどこか寂しそうで、一筋縄ではいかない感情を要所に覗かせる。端的に形容し難い何かを、彼女について抱えているようだ。
「……まだちゃんと聞いてなかったな。ハナちゃんは商店街の付き合いってわかるけどよ、有村ちゃんはいきなり連れてきたろ?」
「……あの人とは同郷なんです。中学時代の部活の先輩で、俺が中二の時の主将でした。一年半前、偶然再会して」
「そういう話じゃねえよ──……まさか、本当にそれだけが理由なのか?」
清瀬は一拍置いて、「まいったな」と視線を逸らす。
「言わなきゃダメですか?」
「そこまで言ったならな」
「……声が好き、とか」
「お前がいいならこれ以上は聞かねえけど、さすがにそれで誤魔化しきるのは無理だろ」
「……ですよね」
しばしの逡巡──のち。
「──……きっかけ、というか」
青年は高くぬける空を、はしばみ色の瞳に映して微笑んだ。
「……俺がアオタケに来たことも、皆に会えたことも、こうして今走っていることも。全部、あの人がいたからじゃないかって。大袈裟かもしれませんが、本気でそう思う時がある。だから、俺は知りたいんです──走るってなんなのか。それと同じくらいに。あの人がどういう人なのか。ちゃんと見つめて、理解して、向き合いたい。今度こそ──向き合わなくてはいけないんです」
ニコチャンは「はあ」と顎をさすった。
「……なんつーか、重っ。いや俺から聞いたんだけど……胃もたれするわ」
「だから前置きしたんですよ。言わなきゃダメですか、って」
清瀬が肩をすくめる。
「ベタ惚れじゃねえか」
「否定はしません」
「いっそのこと付き合っちまえばよかったのに」
「そうですね……俺が今以上に何もわかっていなかったから。せめて、別れる前に気がつければよかった」
「………………え、マジ?」
先輩のやや焦った声へ、「マジです」と清瀬が苦笑する。
「要するに、そういうこと?」
「はい」
「だってお前……ええ? そういうのはねえって」
「中学の時ですし、ほとんど名前だけの関係だったので。ちょっと若気の至り的な経緯もあって、この話を出すとあの人微妙な顔するんです。あと、仮にも箱根を目指すチームの中で、発起人があまりそういうことを言うなと口止めも。ごもっとも。ですからこれは他言無用です」
ニコチャンは義理堅いなまえを脳裏によぎらせ、なるほどなあ、と頷いた。若さゆえの経緯とやらはひとまず置いておくとしても、あの女性はそういう沈黙を美とするマナーにおいて非常に頑固で、非常に律儀な気がする。彼が告ぐ印象に違わない。
「……とりあえず、有村ちゃんがとんだ災難に巻き込まれたってことは理解した」
「つけ込んだ自覚はありますよ、俺だって」
「いいよ、畏まんな。迷惑においちゃ俺も同罪。むしろ俺の方が重罪。情けねえ、あんなに応援してもらってんのになあ……」
ふとニコチャンは葉菜子の「ラストラストー!」という呼びかけを思い返す。皆を最後の最後まで踏ん張らせる、少女の屈託ない響き。
なまえが先日の記録会で声を張り上げすぎて、帰り道にこっそり咳き込んでいたこと。以降、のど飴を持参するようになったくだり。
二人は帰り道いつも一番後ろで、少し離れて、竹青荘の住人たちの会話を邪魔しないように歩いている。その心配りに気づいている者はどれほどいるだろうか。
彼女たちは、ニコチャンにもまっすぐな「頑張れ」を送ってくれる。
ニコチャンは、本当はずっと思っていた。向いていないなら、向いていないって言ってくれ、と。誰か一思いに終わらせてくれと。
その中で、ちっぽけなもう一人の自分がシューズの紐を結び直していた。ほどかれても、雨ざらしにされてもなお。
本当は、一言でいいから、俺にかけて欲しい。頑張ってもいいと教えて欲しい。まだできるのだと。自分を信じたいと願っている弱い俺を、どうか俺よりも信じていて欲しい。
向けられる「頑張れ」は、ニコチャンがずっと、本当は心の奥底で欲していたものに違いなかった。
「──俺が言いたいのは、細かい経緯はどうあれ、有村ちゃんとハナちゃんを連れてきたお前に感謝しかねえってこと」
綺麗に食べ終えた弁当箱を「ごっそさん」と閉じる。
清瀬は柔らかに微笑んで、「お粗末さまでした」と両手を合わせた。