Prayer 4章② 城次郎

「──嘘⁈ あいつそんなこと言ったの?」
「まじかよ、あいつ!」
王子から端的になされた報告について、双子が口腔に白米を含んだままコメントを残す。清瀬が「行儀が悪いぞ」と指摘を入れるが、前段の衝撃で注意は耳に入っていない。
現在、食堂の席についているのは双子、王子。彼らの世話を焼く清瀬の四人のみ。
一時間目からコマを入れているという神童とムサ、キャリアセンターへ自己PRを添削してもらいに向かったキングはさっさとキャンパスに向かってしまったし、ニコチャンとユキはもう一眠りすると食堂を出て行った。走に至っては食事に手もつけずどこかへ行ってしまった。朝のジョグまでは、渋々ながらも一応参加していたのだが。
「……あの発言に効力はない。そう言っただろう。確かに発言が行き過ぎてしまったところはあるが──あいつが真剣に箱根に向かい合っているからこその発言でもある。王子は気にすることはないし、二人は妙な先入観を持たないように。他言も無用だ」
清瀬はご飯粒の飛んだ卓上をやれやれと拭きながら、改めて注意する。「行きすぎた発言」の部分で、ジョータが「足が速いだけにな」と小さく冗談を飛ばす。
「まあ、悪いやつじゃないのはわかってるつもりだけど。あんまカリカリされるとな」
「王子さんはこの期間でものすごくタイムを縮めたんだよ。この調子でいけば、予選会の頃には五千メートルを一瞬で駆け抜けられる計算なんだから」
「そうはならないと思いますが……」
突拍子のないジョージの茶々に、王子が俯く。
「……動揺して、つい朝まで読書に耽ってしまいましたよ」
「漫画でしょう?」
「漫画ですよ」
「読書に漫画は含まれますか」は「おやつにバナナは含まれますか」と双璧をなす難題である。義務教育の朝読書時間に革命を起こしかねない。おそらく専門家の間でも意見が分かれることは明白で、双子はそれ以上突っ込むことを避けた。
どちらにせよ、王子が落ち込んでいることに変わりはない。
「……実際にどうなんでしょう。出せるんでしょうか、僕に。その……公認記録」
「タイムは着々と縮んでいる」清瀬は下手に慰める素振りなく、ただ事実を告げた。
「俺は王子と一緒に走るのが楽しい──本当に楽しい。きみの横を走っていると、走ることの意味を問い直すことができる気がするんだ。右足を出し、左足を出す。少しずつ速度を上げる。歩いていたはずのきみが、いつしか走っているように見える──人が走る感動を追体験できる」
「……僕には難しい話ですね」
王子がほんのり微笑む。双子にとっても清瀬の話は難しかったが、彼の語りはいつだってあたたかい気持ちをくれる。今はそれだけで満たされている心持ちがした。
「……でも、一緒にって言うのはわからなくもないかな。同じ時間に同じ漫画を一緒に読むんです。あえて同じ漫画をせーので。すると、いつしかお互いの波動がシンクロする瞬間が生まれる。一ページ一ページ、めくるタイミングすら一緒になってきて、部屋の温度が一度、いや二度は確実に上がる──そんな時は感想など言い合わなくても、十分に話し合った気分でいられるんです」
「そうか。……俺には難しい話だな」
今度は清瀬が王子に、やりかえされる番だった。
淡々と「でしょうね」呟いた王子は、壁越しに玄関の方角を見やる。下駄箱には、朝練後にしまわれた皆のランニングシューズが収まっているはずだった。こんなにも違う十人であるのに、そこだけは平等に。
ジョージはしんとしてしまった食堂の空気の余白を埋めるべく、ぴゅう口笛を吹く。清瀬から再度、「行儀が悪いぞ」との指摘が飛んだ。

正午の学食にて──例に漏れず、走と王子の騒動は双子から竹青荘の面々へ伝達された。
「ええ! それ、本当に言ったの?」
食器類をトレーに置き、神童が口をあんぐりと開く。
日替わりランチの油淋鶏は目の前で刻一刻と冷めていくが、生活には優先順位というものがある。神童にとって竹青荘の人間模様は、好みの昼食メニューより上位の項目に他ならなかった。
「言ったんだよな、王子さんにな」
「うん。メンバーから外れてくれって。言ってたもんな、王子さんがな」
双子がしきりに頷く。
「外れてくれって……」
「いきなり出るわけねえだろ、公認記録なんか」
「それ確定じゃん。やっぱ最初の脱落者は王子か」
キング、ニコチャン、ユキがげんなりとした表情で肩を落とす。
「いやいや、確定してませんから。大体ハイジさんが承諾しないでしょう」ムサが慌ててフォローを入れるも、暗鬱に揺蕩う空気を変えることは厳しい。
「それで、ハイジさんはそのことについてなんて?」
「ええーっと……。気にするな、二人は妙な先入観を持つな──他言は無用だ」そこまで一息に告げた双子は、途端に顔を見合わせた。「お前が先に言い出したんだろ!」と、情けない罪のなすりつけあいをはじめる。
「どっちでもいいっつーか、どっちでも変わんねえだろ今この状況は」
ここに来て後輩たちのいざこざ。第三者として感情論を抜きにすれば、どちらの言い分もわからなくはない。困ったことになった。
ユキは眉間に手を添え、深く唸った。

東体大記録会から一ヶ月弱。当初はメニュー量に押しつぶされるだけであった住人たちも、少しずつ適応の兆しを見せていた。
わかりやすく成果のあった方が練習に取り組みやすいだろう、という清瀬の方針で、週に二回ほどは五千メートルのタイムトライアル、またはレペテーションが組み込まれている。
ここに来て皆がタイムを大きく縮めてきており、本練習の雰囲気は和やかであった。学校終わりに葉菜子が参加してくれたことで、単純に声援が増えたこともある。
少女から皆のラップ、ゴールタイムの一覧を受け取った清瀬は、頷きながら表を眺め「順調だ」と呼びかける。
「たかが三週間、されど三週間。皆が堅実にメニューをこなしてきたおかげで、ここに確実に結果が現れはじめている。明日の記録会はきっといいリベンジの機会になるだろう。俺たちは今、箱根駅伝に出場するために頑張っている。一人でも欠けたら叶わない。代わりの者もいない──全員で出場するために、全員で明日の記録会に挑もう」
清瀬を中心に、芝生で円を組んで座る住人たちがそれぞれ相槌を打つ。が、続く清瀬の宣言で、燃え上がる闘志が風に吹かれるがごとく揺らされる。
「よし──では、明日の記録会に出場する選手を発表する」
「ええ⁈ 全員じゃないの?」
ジョージが皆の気持ちを代弁した。仁王立ちする清瀬は至って平然としている。
「全員だよ。全員で挑む。走ることが全てじゃない。なまえさん、オーダー発表頼みます」
翌日の記録会について事務処理一式を引き受けたらしいなまえが、「では」と立ち上がり、バインダーへあらかじめ挟んでいた用紙を引っ張り出す。
「明日の喜久井大記録会に出場するのは、ムサ君、杉山君、ジョータ君、ジョージ君、岩倉君の五名です」
「だが、残りの者も全員で会場へ向かう」清瀬が補足する。
自身が出場者側であったことに安堵しつつ、「でも、どういうこと?」と清瀬に投げかけようとしたジョージは、横で立ち上がる影に勢いを削がれる形となった。
「──出ます! 俺は出ます」
それは走だった。
輪の端で終始小さく丸まっていた青年が、鋭い目つきで清瀬を睨んでいた。
「事前登録は終了している」が、清瀬もその程度で動じることはない。
「でも、じゃあ、何のためのトレーニングだったんですか」
「箱根に出るためだ。お前はもう公認記録を出している」
「そういう問題じゃない! あんたが一番わかるでしょう! 走りたくても走れない選手の気持ちは!」
「確かにわかる。お前が何より走りを欲していることも──走りが見えていないことも」
「はあ?」
「止まれ。そして景色を見ろ。それからゆっくり走り出せばいい──王子やニコチャン先輩がそうであるように」
二人が応酬する中、ジョージの斜め前にしゃがみこんでいる葉菜子が、直近の練習データを運良く開いている。背後から、目を皿のようにしてそれを覗き込んだジョージは、ここ一ヶ月間の走の記録推移をなぞる。
彼の五千メートルのタイムは、十五分を切るところで止まっていた。むしろ、東体大記録会を終えてからはじりじりと記録が悪くなっている。
──なるほど。
ジョージは、走の焦る気持ちがさわりではあるものの理解できるような気がした。
精力的にサッカーへ取り組んでいた頃、ボールが全く足に馴染まない時期というものを経験したことがある。どれだけ練習しても目指した方向へ放物線が描けない。日々の積み重ねがまったく身にならないような気がする──いわゆるスランプだ。
当時は、そんなジョージをジョータが止めてくれたためにオーバーワークを避けられた。しかし、周囲にそういう人間が一人もいなければ、取り返しがつかない怪我をしていた可能性もある。
こんな時だからとことん走りたいと願う走に、寄り添ってやりたいと考える自分。一方、清瀬の言うことをもっともだと感じる自分。ジョージは相反する感情に悩みながら、いつもより細く見える同級生の背中が心配で仕方なかった。

ミーティング後、銭湯へ行こうと風呂桶を担いだ双子は、竹青荘の一階奥から複数人の声が響いてくることに気がついた。出所はニコチャンの部屋である。
「風呂行かないんすかー?」
中を覗けば、部屋主のニコチャンに加え、ユキ、ムサ、神童、そしてなまえがパソコン画面と睨めっこしている。
「ああ、ごめん。これが終わったらすぐに」
「先行ってていいぞ」
先輩たちからのコメントを受けたジョージは、とはいえ彼らが何に夢中になっているのか気になり、室内へ足を踏み入れる。
「……よっ、と。こんなもんか?」
「そうですね。……あ、ここはもう少し見やすくできますか?」
「ページの一番下にインデックスも欲しくて」
ニコチャンが表示したプレビュー画面を、なまえと神童がリングノートに描かれた構成要素と見比べている。
「サイト作り?」
ジョータの呟きへ、ユキが「そ」と相槌を打った。
「遠くの方にも後援会に登録してもらえるようにアピールするんだそうです」
ムサが詳細を告げ、くるりと振り向いた神童が「ハナちゃんと有村さんの発案なんだよ」と補足する。
ここ最近、練習メニューの強化を受けて、夜ジョグを兼ねた後援会の声掛けをなまえと葉菜子に代わってもらっている。その中で飛び出した意見らしい。
「商店街での後援会募集はおおよそ頭打ちになっている気がして、もう少し外向けの施策を、って思ったんです。まずはSNSとサイトを紐づけて、ゆくゆくはクラウドファンディングまでつなげられれば。部の運営費用はもちろん、本戦の時にロゴ入りのダウンコートがあったらいいなーって」
「いいすね、それ! 同じ色のジャージ着たやつが固まってると、それだけでめっちゃ強そうに見えるもん」
「六道の真っ白なやつとかな! いかにも強豪ですよ、って感じ」
はしゃぐジョータとジョージを嬉しそうに眺めたなまえは、改めてニコチャンを覗き込んだ。
「それにしても、Javasvriptで書ける方がこんな身近にいるなんて思いませんでした。独学なんですよね?」
「長いこと学生やってりゃ、その分余計な知識が身につく。これもその一つ」
照れる風でもなくなまえの言葉を受けたニコチャンは、「むしろ持ってきた仕様書がしっかりしてて驚いたわ」と、改めて手元の用紙を一瞥した。数枚のフォーマットに落とし込まれたそれは、専門用語のわからない面々からしても見るからにきちんとしている。
「アイデア出しまでは僕も一緒にやりましたけど、その後依頼書に落とし込んだのは有村さん。すごいですよ。研究室で対応したことがあるんですか?」
「ううん、昔家にあったのをちょっと思い出しただけで──」
「──家?」
ふと、ジョージは気になる単語をとらえた。
「なまえさんの実家、ネット関係の会社とかなんすか?」
「そういうのまとめてIT系って言うんじゃねえの?」
「いいよ、小難しいことは……あ、わかった! なんかのお店やってて、通販サイトをつくった!」
「それだ!」
「なんかのお店ってなんだよ」
盛り上がる双子、軽く諌めるユキをよそに、なまえの顔にはどこの感情にも所属し難い表情が浮かんだ。数秒の間をあけて彼女が口を開く。
「……わたしが中学生の時に、外出しでインバウンド向けのサイトをつくったんです。その、うち──神社で」
「神社⁈」
思わぬ発言に、その場にいた全員同時にどよめく。
「え、あ、有村さんってハイジと同郷でしたよね? ってことは出雲……まさか大社⁈」
「そんな国造さんと一緒にされるとギャップが大きすぎて恥ずかしい……。もっと小さくて、参拝の人数も平均くらい」
「タイシャとはなんですか? それと……コクゾウさん? どんな歴史があるのでしょう」
申し訳なさそうに首をすくめるなまえへ、ムサが手をあげて尋ねる。
「大きな社と書いて『大社』。出雲にある大社は有名で、前半を省略して『大社』とだけ呼ばれることも多いの。今回もそのケースだね。ただ、正式な名称は『たいしゃ』じゃなくて『おおやしろ』。出雲大社は日本最古の神社の一つで、大国主大神──縁結びの神様を祀っている」
彼女は顎に手をやりながら、投げかけられた質問へよどみなく回答を進める。
「歴史は、ややこしくなっちゃうかもしれないけど、古事記と日本書紀の話をなぞらせてもらうね。特に日本書紀は正史だから、切り離すと逆に難しくって。ここからはダイジェスト。さっき登場した大国主大神は国づくりの大業を完成された後、せっかくつくった国を丸ごと天照大御神……って言ってもあれか。つまり、伊勢神宮の主祭神でもある日本で一番偉い神様へ譲ったの。で、それにいたく感激した天照大御神が、大国主神のために建てられたのが天日隅宮──今の出雲大社。そして、御子である天穂日命──出雲国造さんがその時から祭祀を執り行ってる。確か……今は八十四代目だったかなあ。とにかく、新たに国造を世襲するには、天皇陛下へ特別な祝詞を奏上するだとか重大なお役目が目白押し。なにかの間違いでもうちが代わるなんて無理無理。奈良時代から続く国家の大事なんだから」
形の良い唇からつっかえずに溢れる言葉たちに、一同は目をぱちくりさせる。
「なまえさんやば……。もう専門家じゃん。テレビで解説してそう」
「高校の時に神社の息子とクラスメイトだったけど、さすがにここまで詳しくはなかったって」
彼女はむず痒そうに頬をかく。
「小さい時、神職に就くのが夢だった名残。今はしがない理系学生だからこれ以上は期待しないで」
ジョージが「それでもすげえけどなあ」口を尖らせると、なまえは「ありがと」と眉尻を下げて優しく微笑んだ。
「どう? ムサ、わかった?」会話の横、神童が真剣な顔をしている友人の肩を叩く。
「出雲大社は神の家、国造さんはそのお手伝いをしている人、と理解しました。日本の文化はとても興味深いです。島根には、神を祀る場所が他にもたくさんあるのですか?」
「あるんじゃねえの? よく知らねえけど」
「うん。知らねえけど」
なまえによって噛み砕かれたとはいえ、結局「なんかすごそうなことを言っている」という情景の理解にとどまった双子が、まったく同じタイミング、角度で首を捻る。
「そういえば、島根県って出雲大社以外に何があるのか聞いたことねえよな」
「お前らは……。石見銀山、松江城、熊谷家住宅とか、他にも観光地あんだろが」
仮にも島根をルーツに持つ人物の前で、双子の失礼な発言をニコチャンが嗜める。
「そんで、有村ちゃんの実家はなんてとこ?」
「──……此花神社です」
「んー……悪い」
「先輩も知らないんじゃないすか」
「いいんだよ! 実家がなんだろうと、俺らにとっての有村ちゃんは有村ちゃんなんだから。そこは変わんねえだろ」
それは当然そうなのだが。論点をすり替えられた気がしなくもない竹青荘の面々は顔を見合わせる。と、壁際の時計に目をやったなまえが柏手のように手のひら同士を打った。
「ごめんなさい! わたしがつい喋りすぎました。脱線は一旦ここまでにしましょ。皆さん明日は記録会なんだから、早くお風呂に行ってもらわないと」
「出た」
「走にゼッケン取られないようにしなきゃだな。めっちゃ走りたそうだったもん、あいつ」
ジョージはあえて茶化すように告げた。
「でも、もしジョージのゼッケンで走が出場したら、記録上は走じゃなくて、ジョージのタイムになんだろ? いいじゃん。祝、公認記録突破」ユキが眼鏡をあげながらぼやく。
「そりゃそうですけど、予選会では自分で走らなきゃいけないわけだし」
ニコチャンは「変なところで真面目になるな」とボリボリ頭をかいた。
「あーあ、走が影分身を覚えるのと、王子が公認記録を切るの、一体どっちが早いのか……」
「それこそ神頼み」ユキがニヤリと茶化す。
「影分身できますように、ってか? どの神様に祈りゃいいんだよ……。いんのかよ、忍法の専門」
「つーか、頼むならタイムの方でしょ」
「……その前にまずは走と王子の喧嘩だろ。それこそ縁結び。出雲大社」
「確か、箱根神社も縁結びの御利益でしたよ。他にも開運、金運、交通安全ですって」
「……ますます行くしかねえなあ、箱根」
直近の悩みの種である、住人二人のいざこざを想像した面々は、一周まわった結論へそろって苦笑いを浮かべる羽目になった。