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その現場にジョータが一人居合わせたのは全くの偶然だった。
「俺でもわかったよ……」
日本語でもなく、おそらく英語でもない言語で何かを熱烈にまくし立てられていた葉菜子を駅前で発見したのがつい先刻。適当にお辞儀をして、竹青荘への道を一緒に進み始めたのが十数秒前。
巻き込まれた張本人である少女は、事態を深く捉えていないようで、可愛らしい顔に疑問符を浮かべている。
「道に迷ってたのかなーって思ったんだけど……」
「いや! あれ絶対ナンパでしょ!」
ほがらかかつのん気な考察に、ジョータはすっかり呆れてしまう。
「よかったよ。通りかかって」
「うん!」
ほんのりと葉菜子が頰を染めたことにジョータは気が付かない。せっかく助けるのであれば、日本語以外の言語で一言物申してやりたかったと思案していたためだ。「その手を離せ」だけでも、いくつかの言語で習得しておいた方がよいかもしれない──別に、葉菜子は腕を掴まれていたわけではなかったのだが。このあたりは些細な問題である。今ジョータの頭の中は、いかに格好よく少女の前に登場するかで占められてる。
さて、そんな与太話はさておき、夏の気配がすっかり残り火となった最近、寛政大学陸上部長距離ブロックの練習は新たな段階に突入していた。
少しずつ八月の疲れを取り、予選会出場を視野に入れて体を休める必要があるからだ。とはいえ、当然楽をするという意味ではない。練習量を減らすことは練習密度が上がることと同義である。クロスカントリーは全員二十キロ以上が当たり前であったし、ビルドアップのペースも格段に上がっている。
しかし、ジョータは日々の練習が楽しくて仕方なかった。ジョータだけではなく、竹青荘に住まう面々は大なり小なりその気持ちを抱えているだろう。
おそらくは地獄の白樺湖を乗り越えたおかげだ。身体が一ヶ月前とは異なる動きをしているのが、自ずとわかる。このまま走っていれば箱根を突っ切り富士山までも行けるんじゃないか、そうジョージが笑っていたが、冗談で置いてもおけないくらいに調子がよかった。
双子に限らず、住人たちはそれぞれの私生活も実に好調である。
たとえば神童とムサは、サポート陣から定期的に報告される後援会の入会希望者数の増加に驚いていた。インターネットを通じた申し込みが三十件を越したのだという。
ジョータは気がつかなかったが、夏合宿の間ほぼ毎日のようになまえがサイトを更新してくれていたらしい。細かなアップデートを重ね、SEO対策にも精を出した。横文字に疎い双子にサイト制作の詳細は理解しがたかったが、第三者の来訪と関係なく、その瞬間にしかない部員たちの表情が詰まったホームページは、濃密な夏の記録になっている。
合宿を経て、ようやくというべきか住人たちとのわだかまりを解かした走は、今や商店街全体の人気者であった。外部に対する彼自身の態度に大きな変化はないのだが、軽井沢での走の走りっぷりが八百勝、左官屋の発信で広まったらしい。
走が清瀬に頼まれて夕飯の買い出しに出かけると、決まって大量のおまけを持ち帰ってくる。現時点で全国クラスのタイムを持つ将来のスターへ、今のうちに恩を売っておくのだとか。あまりにそれが続くものだから、ただでさえ夏合宿の食材を融資されていた清瀬は申し訳なさそうな顔をしていた。が、「期待に応えたい」と竹青荘の面々の鼓舞するパーツとして、心持ちを切り替えたようだ。結果、住人たちがだらしない時のお小言レパートリーが増えた。
また、先日の動地堂大学記録会にてキングとニコチャンが標準記録を突破したことが竹青荘にさらなる活気をもたらしていた。
キングは再開した就活面談が軌道に乗っているようで機嫌がよい。ニコチャンは体重が六十五キロ台に乗ったのだと鼻の下を擦っている。
余談だが、彼が喫煙を紛らわすために手遊びしていた針金人形を、ユキが試しに雑貨屋へ売り込んだことがきっかけとなり、成城学園前の女子高生間でそのグッズが密かなブームになってもいた。しっかり利益まで出ているらしい。ニコニコ人形と名付けられた所以が、ニコチンのニコであることは一旦無視することにした。
最初こそ「出鱈目言いやがって」と眉をひそめていたニコチャンも、SNSに「キモかわいい」のコメントと投稿された写真を見て脱力する。一方、「大人気なんすよ。増産できますか」と、ユキは非常に楽しそうで。めずらしく素直な後輩の姿が面白かったのか、「そりゃ、元が適当だから」と無事に生産者の快諾が得られていた。
ただ、いくら破竹の勢いで好調が続いているとはいえ、やはり人生万事、塞翁が馬。全てが順風満帆とはいかない。
それは確実に縮んではいるものの公認記録には及ばない王子のタイムであったし、今まさに葉菜子が遭遇したプチ事件でもある。
週刊誌の入った袋を片手に、ジョータは少女の横を歩く。
「そうだ。昨日王子さんどうでした? ……落ち込んでた、よね」
比較的涼しく、風もなく、記録の狙える天候であった九月二日──房総大記録会。竹青荘のスタートリストはユキ、神童、王子の三人で、先輩二人が途中まで王子の風除けについてくれた。九月十五日──大和大学記録会も同様である。それでも、あと一歩標準記録には届かなかった。着実に伸びている。伸びてはいるのだが、こればかりは他の者たちがどうしようもない。歯痒い、どうしようもなく。
「いよいよ次が最後のチャンスだもんな……」ジョータが独りごちる。
今週末に予定されている東体大記録会。そこで公認記録が出せなければ、箱根駅伝どころか予選会の参加資格も得られない。
「けどさ、王子さん……最近夜走ってんだ。自主練だって」
「王子さんが自主練⁈」
葉菜子が口をあんぐりと開けて驚いた。
先日、ビルドアップの負荷に耐えきれず、トラック脇の草むらに突っ伏して吐いていたばかり。清瀬が「なるべく我慢して。吐き癖がつくと困る。こらけて走れ」と注意していたことも記憶に新しい。ちょうど少女が夕方練を手伝ってくれた日の出来事だったから、特にギャップがあるのだろう。
「うん。ちょっとそこまで、って。一昨日、走がついていこうとしたけど断られてた」
ジョータのつむいだ続きへ、それまで目を丸くしていた葉菜子は表情を和らげる。
「……そっかあ」名前の通り、花のように可憐な笑顔だ。
「そういえばハナちゃんこれ何? 野菜? 俺持つよ」
ふと彼女の持つトートバッグがやたらと重そうであることに気がついたジョータは、遠慮する彼女からそれを引き受けた。想像以上にきつく肩紐が食い込み、驚く。もっと早く代わってやればよかった。
「ええっと、新聞とか。今朝、このあたりの買い占めたんです。皆さんに渡そうと思って」
少女が立ち止まり、あわせてジョータも足を止める。下げた鞄から巻き取り紙が引っ張り出される。
中紙面には、白樺湖の駐車場で集合する竹青荘十人の姿が掲載されていた。『月間陸上マガジン』の佐貫が、読売新聞の記者に寛政大の話を伝えたのだという。
合宿の終わりごろ訪れた布田は、「予選を通過したわけじゃないからスポーツ面で扱うのは難しいということになりまして。でも挑戦自体が魅力的ですからね。読者の方にもきっと興味を持ってもらえると思うんです。掲載は東京限定になってしまいますが、ぜひ地方版にご登場いただきたい」と丁寧に申し込みをしてきた。畏まった姿勢に、さすがの清瀬も否とは言いにくかったようだ。
すぐに送り込まれてきた地方版記者とカメラマンは、普段の生活ぶり、箱根にかける意気込みを、特に浮き足立っていた双子とキングへと問うた。
「きみたちみたいなチームが、箱根をもっと刺激的なレースにするのかもしれない」その相槌は、竹青荘の面々にとっても印象的であった。
夏合宿中、受験生である葉菜子の面倒を見ていたなまえが、地学基礎の回答を見ながら「第三者に説明すると理解が進む、って本当その通りだよね」とこぼしていた様子を思い出す。インタビューを通して、自覚の有無はともかく竹青荘の面々も心待ちを整え直したのだろう。
葉菜子と連れ立って帰寮すると、そのお土産に住人たちは大きく湧いた。
「すげえ、載ってる載ってる載ってますよ、イエーイ」
ジョージが新聞を片手に小踊りし、「今朝電話きちゃったよ。親から。はしゃいじゃってさあ」とキングが鼻をかく。
「うちもうちも。ピースはやめろって怒られた」
「うちも言われましたよ。もう少し笑ったらどうかって」
「え、王子の親ってどんなの? 想像できねえ」キングが眉を顰める。
「普通ですよ。普通に同じような顔をした」
柏崎家の団欒を想像すると妙に笑えてくる。堪えきれず吹き出したジョータを一瞥し、「なんだと思ってるんですか、うちを……」王子がため息をついた。
「皆さん親孝行ですね。ね?」
「そういうもんかもなあ」
「あ! なまえさん来た」
ムサとキングが会話する後ろ、タイミングよくもう一人のサポーターが顔を出す。
「お久しぶりです! ごめんねハナちゃん、待たせちゃった」
昨晩ようやく所属研究室の卒修論中間発表会を終えたのだという。
彼女は現在修士一年生のため、自らの発表があったわけではないそうだが、その分前後学年のフォローや会の仕切りでおおわらわだったらしい。現役社会人の外部研究員も呼び出し、研究室の年間行事の中でも特に重要なイベント。例に漏れず、当日の司会とタイムキーパーを担当していたなまえは、しばし練習を休んでいた。一週間ぶりの彼女は、会わなかった期間以上に久しい気がする。
廊下に荷物を置いたなまえは、「新聞見てたんだね」と食堂を見渡し、顔を綻ばせた。続けて、入り口付近にいた葉菜子と何やらアイコンタクトをとる。なまえの視線に軽く頷いた少女は、溌剌と手を叩いた。
「注目でーす! 今日は私となまえさんから、皆さんに渡したいものがあります!」
掛け声にあわせ、廊下に置かれた荷物を手繰り寄せたなまえがそこそこ背幅のある冊子を数冊取り出す。もっとも外側にあった一冊には、表紙へ「蔵原君」とレタリングがなされている。
「フォトアルバムです! 全員分あるんですよ」
「手分けしてつくったから、三、四年生はハナちゃん、一、二年生はわたしが担当ね」
卒業証書よろしくそれらを受け取った住人は、さっそくページをめぐりはじめる。
「うわ! マジ?」
「すげー! 夏合宿じゃん!」
全員で映っている写真、それぞれのハイライト。時系列で丁寧に分類された写真が、整然とアルバムに収まっている。それだけでも随分と手間をかけてくれたことがわかる。
「構成を考えていたら時間がかかっちゃったんですけど」
葉菜子が申し訳なさそうに告げ、なまえが「ハナちゃんはテキパキ進めてくれたんだよ。ただ、わたしの作業が遅れちゃって」とやんわり責任を引き取った。
その後、台所では皆のアルバムが行き交い、軽井沢での思い出話が咲き誇る。
「あ、東体大の写真まであるじゃん!」
「隠し撮りです」葉菜子が小さくピースを寄越した。
映るは仁王立ちするオールバックの男。当時の光景を思い返し、ジョータは顎をかく。
「むちゃくちゃ怖かったよな、向こうの監督……」
「ハイジとはまた別の意味で、あれは鬼だよ、鬼」キングが苦虫を噛み潰した顔で続いた。
合宿も終わりが近くなった頃、ハイキングコースで東体大と鉢合わせたことがあった。先方も練習場所に変化をつけるべく四方を回っていたらしい。
竹青荘の面々はすでに練習を終えクールダウンの最中だったが、二日目以来の遭遇だと思うと気は抜けない。が、心構えも虚しく、そもそも上級生は寛政大のことなどライバルとも思っていなかったし、一年生たちは合宿初日の勢いはどこか、小さく丸まって萎縮していた。鬼監督の目が終始光っていたためだ。
「軍隊みたいな練習ぶりでしたね」
「怒鳴り散らしてたでしょ。『暑いのが価値だと思え』とか、『走りとはすなわちサバイバルだ』とか」
「あんなのが監督だったらとっくに逃げてるよ、僕は」
情景を思い出した王子が身震いする。
「どこの大学の陸上部も、ああいう感じなのですか?」
「中学の時の監督は似たようなタイプだったな。オールバックのやつは怖えんだよ」
ムサの質問に相槌をうったニコチャンへ、「どんな統計なんですか、それ」ユキが呆れ顔を浮かべた。
「大概の大学は選手の自主性を重んじていると思うが、東体大みたいなところもあるところにはある」
ハイジの言葉は訥々としており、「よそはよそ、うちはうち」を体現している。彼に思うところや意志はあれど、決して東体大の方針を否定しない。なにせ彼らにはそれが世間的に許されるほどの実績がある。奇しくも昨年は箱根のシードからこぼれたが、今年も予選トップ通過を強く期待されている。否、そうでなくてならない。OBの多い伝統校の厳しさが垣間見えた。
王子は依然苦そうな表情を浮かべたまま「……運動部のそこがいやだ。上下関係にうるさくて、監督の言うことは絶対服従で。奴隷じゃないのにさ」とこぼした。
「そうしないとだらけて統率が取れなくなるって考える人もいるんだよ。高校時代も強い運動部って大概規律が厳しかったよね。甲子園に出るような野球の強豪校なんてまさに。漫画みたいな娯楽はもちろんないし、携帯も一週間に一回家族に連絡する時だけ使えるとか」
「難しいところだなあ、厳しくしないと試合に勝てない。でも楽しくなかったらスポーツをしようなんて思わない。どうすりゃいいわけ」
降参のポーズをとった住人たちへ、走が渋い顔をする。
「……バカげてます。厳しくなきゃ走らないやつも、楽しくなきゃ走れないやつも、走るのなんてやめればいい」
「また極端なこと言って」ジョージが呆れた口調で同輩を小突く。
「ハイジさんはどう思ってるの?」
「厳しい方がいいと思っていたら、もっときみたちの手綱を締めるはずでしょ」
先刻の清瀬の様子からあえての静観を感じ取ったなまえが、間髪入れず横から差し込む。ニコチャンが「そりゃそうだ」眉を下げて笑った。
「お、ハイジの恥ずかしい写真発見」
と。会話の間、黙々とアルバムを読み込んでいたユキがおもむろに声をあげる。
合宿最終日の夜、花火をした時のページだった。ねずみ花火でパニックになったニラは音に怯え、ちょうど線香花火に火をつけようとしゃがみこんだ清瀬へよじ登った。ニラに正面から突撃され、顔にぴったりと貼り付いたニラをはがそうとするも叶わず、後方にひっくり返った彼の様子を、三枚の写真が克明に残す。先刻まで冷静さを保っていた清瀬も、さすがに耳を赤らめた。
「なんでそれが、ユキのアルバムにも入ってるんだ」
「面白いから、みなさんのアルバムにも入れておきました」
葉菜子が悪びれずに舌を出し、ジョージが「ハナちゃん最高ー!」と該当ページを掲げる。一方で、清瀬が「明日から軍隊並みの練習に変える」と呟いたのを聞き逃さなかったジョータは、あげかけていた拳をそっと下ろした。
「でもこんな大作、本当にもらっていいんですか? ちゃんと製本してあるし、高かったんじゃ……」
「いつも学会ポスターを頼んでる会社があってね、納期を長めにすればほぼ原価で案内できる、って教えてくれたの。気にしないで」
竹青荘のお財布を握る神童相手に気を遣わせない配慮だろう。なまえは包み隠さず事情を語る。
「強いて言うなら、値段優先な分表紙裏が凝れなかったのが心残り……。そこは、まあ、寄せ書きとかしてもらえれば」
どうやら表紙、裏表紙それぞれの内側が無地の白であることを気にしているらしい。なまえがこめかみに指を当てて、そこそこ適当な代案を投げかける。
「同じ屋根の下で寄せ書きぃ? 卒業式みたいで小っ恥ずかしいわ」
「えー、いいじゃん。寄せ書き!」
「素晴らしいです。ぜひ」
キングの慄きへジョージが反論する中、ムサは卒業アルバムという文化自体にいたく感激したようだ。彼の故郷で、アルバムはそこまでメジャーな取り組みではないのだという。手渡された冊子をそっと胸に、今にも涙ぐみそうな勢いである。
「本当に……お二人の気持ち、とても嬉しいです。ただ、やはり我々の分だけというのが気になります。なまえさんとハナちゃんには大変お世話になりましたから」
彼の言葉へ微笑んだなまえが「いいことを言ってくれました」と親指を立ててみせた。後ろ手に持ったままであったトートバッグを探り、胸前に掲げる。
「実はさっきからタイミング探してたんだ──わたしからハナちゃんに。どうぞ、プレゼントフォーユー」
紙袋の底から取り出されたのは、先刻住人たちに配られたアルバムそのもの──否、表紙のフィルム加工がベルベット調にあしらえられ、他のものよりもわずかに高級感がある特別仕様。渡す先は言葉の通りである。
「えー!」予期せぬサプライズに少女は目を丸くし、その場で飛び跳ねた。
「なんでなんで⁈ いつの間に⁈」
「そりゃあ可愛いハナちゃんの写真たちもなにか形に残したいなあ、って思ったから」
「なまえさん大好き!」
飛びつく葉菜子へ得意げにウインクを返すなまえは、大仕事が終わった達成感でやや浮かれているらしい。普段に増して応答が軽めである。
「あれだぞ、あれ。参考になるなあ、走」
「なんでいつも俺に言うんですか……」
後輩の裾を引き、清瀬がひそひそ告げた。
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橙色のタータン。秋らしくややくすんだ空の青。各レーンと、頭上のキャンバスを縁取る筆跡。ラストチャンスである東体大記録会の会場は、いつもと何一つ変わらずにそこにある。
寛政大からの出場選手はただ一人。落ちきらない汗と泥で変色した靴紐を結び直す。そんな彼の様子を仲間たちが見つめている。
──今のきみに、なんて言葉をかければ、なんと言えば。
考えていることは全員同じであるのに、答えが出ないところまで同様であったから、逸る思いだけが遥か彼方へ走っていってしまう。
鳴り響く招集。白線へ並ぶ直前、華奢な背中が振り返る。不思議なことに、その表情は強張る緊張の中で、ほんの少し笑っているようにも感じられた。
「──言いたいことがあるならここにどうぞ。……裏表紙ではないですが」
ゼッケン不備を危惧して持ち込まれた油性ペンとともに──王子は、利き腕の内側を差し出した。