Prayer 4章間話 榎本茉里奈

『玄関横に竹青荘って札が下がってるから、それを目印にしてもらえれば大丈夫』

吹けば飛ぶような木造住宅。その前で立ち尽くした榎本茉莉奈は、手元のメッセージと経年劣化の賜物の板を見比べ、静かに放心していた。
まさかこれが「高級志向の世田谷に位置した、風情あふれる古民家風アパート」なのだろうか。至って悪意のない友人の案内を思い返し、茉莉奈は頭を抱える。確かに彼女ならこの建築物へそういう言い回しを当てはめるだろう。嘘や間違いではない。虚飾ではあるが。
乾いた風が吹き、芝生が青々と香る。思わずマスカラが取れない程度の柔さで目を擦る。ただ、恐る恐るまぶたを開けても、現実は依然そびえ立つばかり。
『タケアオソウ、ボロボロすぎるんだけど』
気を取りなおすために送ったチャットへはすぐさま既読がついた。パンダが「こら」と腰に腕を当てているスタンプとあわせて、『チクセイソウだよ』と訂正が戻される。
正直なところ名前はどちらでもいい。問題は足を踏み入れるに躊躇われるかどうかである。
『あたしが幽霊ダメなの知ってるよね⁈』追撃をすれば、今度は『そこは本当にごめん……』とコメントが返ってきた。こういう時にスタンプで誤魔化さないのは好ましい面の一つだが、今日に限っては逆効果だ。なぜならばこの真面目な対応により、「出そう」感が現実味を帯びてくるため。
しかし、日が暮れれば古びた建物は余計恐ろしいこと受け合いで、下手すれば近隣住民に通報だってされかねない。腹を括った茉莉奈はインターホンを探し、三分後にそんなものがこの家屋にはないと察した。恨めしく二階の窓を見つめ、少なくとも上の住人たちがまだ帰っていないことを理解する。
こうなれば突入の一手だ。玄関の引き戸に手をかけ、茉莉奈は全力で踏ん張った。しかし、木の軋む気配こそあるが、ドアがレール上を動く様子はない。息を整え、もう一度力を入れたところで、すりガラスに人影が映る。
「おい、双子か? なーに、モタモタして……──」
記憶に残る人工的な光の下、覚えのある背格好。
茉莉奈の紅色の唇から、自然に驚愕の声がこぼれた。

そもそものきっかけは数時間前、所属する研究室での出来事だった。
平日の十一時から二十時にかけて、実験出張等がない限りほぼ全学生が研究室に居座っている。その日も例に漏れず、学生たちはそれぞれ自身のやるべき作業に励んでいた。夏休みの後には中間発表が控えており、学部四年生、修士二年は今から追い込みが必要だ。
そんな中、間の学年であることから、進捗に比較的余裕を持っていた茉莉奈は、昼に教授が共同研究先から帰った際、いかにも高級そうな紙袋を下げていたことを思い出していた。あれはよいところのお菓子に違いない。
研究室内で不定期に開催されるおやつタイムでは、海外旅行好きの教授が自ら紅茶を淹れてくれたりもする。その味はアフタヌーンティーオタクの茉莉奈も文句のつけようがないクオリティ。隔週の面談で研究進捗に小言を言われても、ぐっと堪えられるのはそういったご褒美ゆえかもしれない。とにもかくにも、壁時計が十五時を少し回ったことを確認した茉莉奈は、そろそろテーブル周りを綺麗にしておかねばと立ち上がり──そこで。
廊下を挟んで対面する湿式分析室から、何かが崩れ落ちる音と悲鳴を聞いたのだ。

「──ぎっくり腰」
茉莉奈を食堂へ招き入れたユキが、経緯を一言にまとめた。無言で頷き、茉莉奈は出された麦茶を啜る。
衝撃を耳にしてすぐ、血相を変えた室員が駆けつけると、分析室にはうずくまるなまえの姿があった。横には慌てふためく四年生。床に散らばる大量のキムワイプと倒れたパイプ椅子。
唖然とあたりを見回す一同に向かって、なまえが放った「……こ、腰が」は、今世紀まれに見る間抜けな声だった。
以降、「一人で帰れる」と言い張るなまえを研究室総出で言い負かし、代表の茉莉奈が自宅へ送り届けたのが先刻のこと。祖父母と三人暮らしのため、家にさえ入れれば後は問題ないと思っていたが、なんと二人は昨日から旅行で不在なのだという。強制送還して正解だった。
そんな前段から、放っておけば痛みを堪えて外出しかねない彼女の用事を引き取る形で、茉莉奈の竹青荘訪問に至ったわけである。
「これ、杉山君って人に届け物なんだって。渡せばわかるって言われたんだけど……今はいないみたいだね?」
「まだ帰ってないっすね。預かりますよ」
「お願い」
定形サイズの封筒を恭しく引き渡す。中には薄い冊子と書類数枚が収められているようで、なまえ曰く事務関連の諸々だという。テーブルの端にそれを寄せたユキは、椅子を引いて茉莉奈の目の前に腰掛けた。
「……にしても、こんなとこで再会するとは」
「うーん、同感」
「偶然っていうか……もはや怖いんすけど」
「それはこっちの台詞だよ」
茉莉奈は青年と改めて目を合わせた。眼鏡の奥の、やや神経質そうな鋭い眼光。異性の扱いに慣れた裏、第三者視点で値踏みをされているように思えるところ。初対面の時の印象と変わらない。
彼と出会ったのは昨年末のこと。場所は新宿のクラブである。歳が近いことから意気投合し、お酒を片手に夜中まで軽口を叩き合ったことが懐かしい。その後も何度か遭遇し、互いに「茉莉奈さん」、「雪彦君」と呼び合う程度には親睦を深めていたのだが、春以降めっきりと姿を見せなくなった。
大学院へ進学したことで茉莉奈の遊ぶ頻度が下がったことが、会えなくなった要因と思っていたが。今日この日まで定点的になまえから聞いていた背景を組み合わせてようやく合点がいく。竹青荘に住む十人が陸上部員ということは、この男も箱根駅伝計画に巻き込まれた一人なのだ。言葉を選ばなければ、御愁傷様な人物。
ただ、その情報の一方で、ユキの顔は健康的に日焼けしており、Tシャツから覗く腕の筋肉もしなやかだった。存外真面目に練習へ励んでいるらしい。すでに取得済みの高難易度資格から将来だって安泰に尽きるだろうに、一体何が彼を駆り立てるのだろう。ここまで来ると、ユキの素質云々以上に、指導者の手腕を考えてしまう。
──この寮の指導者といえば、思いつく人物はたった一人。
茉莉奈はふと、なまえ本人には聞きづらい──しかし、以前から気になっていた問いを投げかけることにした。
「……ねえ、噂のキヨセ君ってどんな人なの?」
「また急な質問すね」
ユキは茉莉奈の一つ下の学年、大学四年生。つまり、なまえを連れ出した例の男と同級生。一つ屋根の下で入学当初から共同生活をしていたとすれば、それなりに色々知っているはずだ。
「だって、こういう機会でもないと聞けないしぃ……。なまえちゃんがどんな人に誑かされてるのか気になるじゃん
「悪いやつじゃないすよ。そこは保証します。ただ、改めてどんなやつかって言われるとなかなか」
「じゃあ、聞き方を変えてみようかなぁ。……たとえば、キヨセ君の向こう脛とか知らない?」
「ああ、弁慶の」
茉莉奈が重ねた言葉にユキは小さく唸った。
単純な鎌掛けだ。彼が清瀬の弱みを知っていたとして、それを易々茉莉奈へ晒すわけがないことはわかっている。その上での探り。ユキの反応の機微から清瀬に具体の弱点があるのかないのか、それを知ること自体に重きを置いている。
「……いや、むしろ俺らこそ知りたいすけどね。ハイジの弱み」
しばし悩んだ末、ユキはお手上げのポーズを寄越した。
「そりゃ人並みにダメなところもあるんじゃないすか。でもハイジはそういうの隠すんで。そんで、誰にも気づかれずに無理して、最後はぶっ倒れる。それでも自分以外の誰かが無茶して潰れるよりいいって、本気で思ってる……みたいな。ただ、自己犠牲とも違うっつーか。あくまであいつにはあいつの目的はあって、っつーか。まあ、変わったやつですよ」
具体の部分はなまえから以前聞いた初夏のエピソードだろう。
茉莉奈はユキが思案する一挙一動を注意深く観察し、彼の言葉に本質的な取り繕いはないと結論づけた。
「ふーん、そういうタイプかぁ……。隙がないね。つかみどころもなさそう」
「頑固とか、人の話を聞かないとか、作る料理がやたら田舎くさいとか、そういう弱みでいいんならいくらでも。ただ、俺があいつのクリティカルな弱点を握ってたら、そもそもこうして走ってすらないんで」
茉莉奈は「なるほどねぇ。確かに」と相槌を打ち、顔周りの触覚を指でいじった。
「逆に質問なんすけど、なまえさんって大学だとどんな感じなんですか」
「なまえちゃん? 多分こっちの様子とほぼ変わらないと思うけど……。明るくて、優しくて、世話焼きで。あたしだけじゃなくて、学科全員へ対してもそんな感じ。なまえちゃんが男だったら絶対彼氏にしたかったのに! って思うくらい」
「大好きじゃん」ユキがおかしそうに告げる。
「茉莉奈さんがなまえさんにベタ惚れするきっかけとか、何か特別なことあったんすか? それとも気がついた時にはすでに意気投合?」
「んー……ちょっと恥ずかしいけど、ある」
茉莉奈はしばし悩んだ末、四年前の出来事について語ることにした。
遡る先は大学一年の夏休み。
なまえと茉莉奈が所属する学科ではオリエンテーション合宿への参加が義務付けられている。百名弱の学生と教授たちで大学所有の施設で数日を過ごすのだ。とはいえ交流を目的とした移動教室であり、決まったカリキュラムは存在しない。自然に囲まれた空間でスポーツを楽しむ者、先輩や先生と熱く議論を交わす者、フィールドワークに出かける者、夜の飲み会に備え昼寝を貪る者、と非常に自由。その場にいさえすれば勝手に単位が来るのだから、こんなに楽な授業も早々ない。学生達が毎年楽しみにしているのも頷ける。
そんな中、事件は起こった。三日目の夜、とある女子学生が同性の一年生を自身の部屋へ招集したのだ。議題不明に首を捻りながらも、およそ二十名が指定時刻に──否、茉莉奈はやや遅刻したが──集まる。
皆を集合させた一人は、開口一番「いじめはよくない」と真っ直ぐ訴えかけた。それはそれは真剣な表情で。もちろん、その場にいた全員の目が点になる。それまで楽しかった非日常が一転し、その落差に各自振り落とされそうになったのだ。
事態を理解しきれず、一旦話を噛み砕くモードに入った周囲へ、彼女は「自身は高校時代からやっかみの対象になりやすいこと」、「自身の悪い噂を学科で流している人物がこの中にいること」をひどく遠回りで説明し、最後に茉莉奈へ視線を向けた。
「──榎本さんだよね」
「…………え、あたし?」
突然の名指し。予想だにしなかった流れを受けて、反応が遅れてしまう。茉莉奈を指名した女性とはその遅延を図星と受け取ったようだった。
「この前の講義で、私のことチラチラ見ながら男子と話してたよね」
言われてみれば、そんなこともあったかもしれない。当時の記憶が蘇る。
ただ、あれは彼女が纏う清楚な雰囲気が好みだ、という男子学生に対して、ならば一度くらい自分から声をかけてみろとけしかけていたのだ。からかい混じりの雑談にすぎない。
そもそも目の前にいる女子学生とは出会って半年も経っておらず、ランチすら一緒に取ったことがない。悪い噂を流せるほど興味もなければ、当然情報もない。
「悪口なんて、そんな……」
茉莉奈が呆れた口調にならないよう注意をして切り返した。大学生にもなってまで、こんな形で学級会が開かれ、証言台に立たされるとは思ってもみなかったためだ。すぐさま「あの時笑ってたじゃない!」と、反撃がくる。学科内でも気安い友人との会話なのだから、そりゃあ途中で笑うこともあるだろう。能面で会話をしろとでも言うのだろうか。
「榎本さんが私の悪口を言ってないって証明できる? 証拠を出してよ」
思わず辟易とする。投げかけられた発言をそっくりそのまま返したいところだが、水掛け論になってしまうことは容易く想像できた。
茉莉奈が返答へ悩むのをよいことに「榎本さんはいつも男の子といるし、話し方もそんな感じだし」と、彼女は指折りに理由を数えていく。
地元を離れて東京まで来てなお、変わらないことはある。その一つがこれだ。他者の一面だけを切り取って、それがさもその人の全てであるように決めつける。レッテルを貼る。茉莉奈という人間に特定のタグをつけて分類する。
悲しいことに、そういうことが悪気なくできてしまう人物は、どこにだって存在する。彼らは本質が見えないのではなく、そもそも見ようとしていない。自分の視点が世界そのものだと信じているから。
──ああ、きつい。
じりじりと痺れる心臓を誤魔化すようにして、茉莉奈は深く息を吐いた。
明らかに彼女の言い分が被害妄想込みであることは明白だが、どちらかを被害者と断定できるほど、この場に集められた学生たちはまだ互いを知らない。一学年の女子は比較的穏やかな人物が多いことも要因だろう。この言い分で、茉莉奈だけが悪者になることは流石にないと思いたいが、事なかれ主義にイニシアチブを取られ、なあなあで終わる可能性も否定できない。
どう回答を戻すべきか、茉莉奈が視線を彷徨わせているうちに。予想通り、一旦はこの場を収める方向へ動こうと、有志による意思疎通が取られたらしい。外野から「一旦落ち着こうよ」、「納得できる解決策を考えよう」と声が飛び交う。そして──。
「──それで、結局わたし達にどうして欲しいの?」
空気が変わった。
茉莉奈を含む全員が、落ち着きはじめた波紋に、再度石を投げ入れた一人を探す。
声の主は、部屋の一番奥にある二段ベットの一階部分に腰掛けていた。まっすぐに伸びた背筋が、ただ座っているだけにも関わらずうつくしい。これまでに何度か話したことはあるが、茉莉奈との距離感でいうと所謂「クラスメイト」程度の女学生。
彼女は、皆から向けられた視線を意にも介さず、この場の招集主だけをじいっと見つめている。
「どうすれば満足かな。榎本さんが悪かった、って嘘の証言をすればいい? ここにいないひとたちも呼んで、今からたった一人を吊し上げる? それともわたしたちも連帯責任で同罪? 謝ってあげようか。それで気が済むのなら」
誰も何も言えなかった。
おそらくあえてその単語を選んであるのであろう。有無を言わせぬ圧力と貫禄に、それまで意気揚々と茉莉奈を責め立てていた人物は「そういうことじゃ……」となぜか語尾を弱めた。
しんと静まり返った空間の中、注目をその身に集め、そのひとはほんのり微笑む。
「──そっか、よかった。偶然見えた側面だけで、榎本さんを決めつけて、勝手に判断したんじゃないかって心配になったの。ごめんね、急に話を止めちゃって」
シルクのように滑らかで優しく、毒気のない、ほんの少し金属質な声色。意味を理解せず、扉の隙間から漏れ出る音だけ聞き取れば、友人を慰めていると勘違いされたかもしれない。けれど、おそらく当事者よりも彼女──有村なまえは怒っていた。
人間とは自身よりも感情を露わにする人物を目の当たりにすると、逆に冷静になってしまうものだ。茉莉奈も例に漏れず、卒のなさそうな彼女が垣間見せた気で我に返った。
慣れた痛みを大丈夫と表現してきたが、傷ついていないわけじゃない。痛くないわけじゃない。その思いが、自分以外の誰かの口から飛び出したこと自体が、多少の濡れ衣がどうでもよくなるほど、茉莉奈にとっては嬉しかった。思わず笑ってしまうくらい。
何よりその台詞は、ずっと茉莉奈が言ってやりたかった全てだった。

「──……そりゃ惚れるわな。めちゃくちゃかっけえじゃん」
「でしょ? だからこそ、なまえちゃんをたぶらかすキヨセって人が気になるの」
ユキが顎をなぞり、一等開き直った茉莉奈はフンと鼻を鳴らした。
被害を訴えた女生徒は夏季休暇があけても学科に帰らなかった。休学し、半年後に一つ下の学年へと戻ったらしい。後輩づてで聞いた事情によると、中高時代に友人間でいやな経験をしていたのは事実のようで、加害者と茉莉奈には無理やり紐づければわからなくない程度の共通点もあった。複雑な家庭環境も重なり、彼女は精神的に不安定な時期だったらしい。とはいえ、アンバランスに巻き込まれた茉莉奈としてはたまったものではないが。
でも、もうよいのだ。そんな不運を引きずるほど暇ではない。なにより、茉莉奈はその一件でなまえと急接近し、かつ彼女との出会いが消化不良を補って余りあるものだったから。その幸せを思えば、むしろきっかけをつくってくれた女学生に感謝したいくらいなのだ。
いまだに世話を焼かれてばかりの茉莉奈が、自分からなまえのことを「親友」だなんて言えないけれど、それでも大切な友人であることに変わりはなくて、茉莉奈なりに彼女を慮っている。力になりたいと願っている。
「……そんな茉莉奈さんに、なまえさんの向こう脛を聞いたって教えてはもらえないか」
先ほど清瀬の弱みを尋ねたことに引っ掛けた、ユキの冗談めかした追撃。茉莉奈は「さあ、どうでしょう」と言葉を濁した。
本当は、彼女の故郷が島根で、高校入学という不思議なタイミングで東京へやってきたこと。実家は地域に根付く神社で、父と姉はずっと地元にいるらしいことを、四年強の付き合いで知っている。至った背景に、苦い過去がありそうなことも。
ただ、その具体を茉莉奈から尋ねたことはない。直感的に、友人の心に巣食う柔らかい部分へ、不躾に手を差し入れるような気がしたのだ。おそらくその脆さは、あの時茉莉奈を責め立てた偏見と、煽られた感情に近い場所へ置かれている。決して興味本位で触れてよいものではないのだろう。
「なまえちゃんにクリティカルな弱点があるなら、本人が見せようと思ってくれるまで待つよ、いつまででも。来世でも。別に見せてもらわなくたっていいし。話したくないことは、誰にも話さなくていいの。雪彦君だって同じ。もし言いたくないことがあるなら、誰にも言わなくていいの。強制なんてどこにもないの。当たり前じゃない」
「……へえ」
一瞬驚いた表情を浮かべたユキが、ほんの少し口元を緩めて呟き、めずらしく綻ぶ。
「なまえさんが茉莉奈さんを大事にする理由、ちょっとわかったかも?」
「……何それ」
射抜くような青年の視線は、いつの間にか和らいでいた。

「──もういい! 平気!」
その後、二人が互いの近況や世間話に花を咲かせて小一時間。窓から差し込む太陽光が橙に近づき、お化け屋敷だと思っていた古民家のあたたかさがほんの少し理解された頃合い。空になったグラスを下げ、そろそろお暇しようと荷物に手をかけた茉莉奈の元へ、玄関の引き戸が滑る音と合わせ、聞き覚えのある声が飛び込んできた。
「またまた。そんな覚束ない足取りで何を言っているんだか。大丈夫、大家さんもたまにやるんで介助は慣れています」
「恥ずかしいんだって、ぁあたっ!」
「ほら、大きな声を出すから……。ちゃんと体重乗せてください。ここ持って。悪化したら困る」
「わたしだって清瀬君が怪我したら困るよ。……実は最近ちょっと太ったの」
「じゃあなおさら。正しい姿勢で介助をさせてください。……それはどういう感情の顔ですか──よし、この後は壁歩きで行けますか? 一〇一号室が俺の部屋ですから、そこでしばらく横になって」
「面目ない……」
「面目だらけのひとが、たったの一面くらいで大袈裟な」
少なくとも女性側の声の主を茉莉奈は知っていた。何なら同じ大学へ通っているし、さらに言うと先ほどこの人物の自宅を訪れたばかりでもある。
「おお、ユキのお客さんか? 邪魔して悪いな。大したものは出せませんがごゆっくり」
食堂前を通り過ぎた影が、茉莉奈に気がついて中を覗き込んだ。爽やかな風貌の青年である。洒落っ気こそないが、短く整えられた髪はいかにも清潔そうで、何も知らず街中ですれ違ったとすれば目で追ってしまうかもしれない。
「……騒々しい」
茉莉奈と同じく会話から状況を察した様子のユキがため息を吐く。すらりとした細身にジャージを纏った青年は、そんな態度を意にも介さず、人好きする笑みを浮かべた。
「いやあ、ニラの散歩帰り、壁伝いのクララを見つけたと思ったら、なんとなまえ先輩でなあ。神童と今日中に話すことがあるとかなんとかで、言伝るって交渉しても聞かないし。だから連れてきた」
清瀬が「すぐそこで」と、軽く顎を上げ方向を示す。二人が遭遇した地点がこのアパート近辺なのだとしたら、この騒ぎの原因はなまえにありそうだ。
「神童に? 書類ならもう預かってんぞ」
ユキがテーブル上に整地されていたファイルを片手で掲げる。すると、清瀬の奥から──おそらく対面する壁を伝っているであろう──なまえの補足が届いた。
「……もう一枚追加になったの渡し忘れて。しかも体裁がややこいの。現物見ながら説明したく……」
「だそうだ」
ほんのりいやな予感がして、茉莉奈はテーブルの下で携帯を操作した。ロック画面の履歴に、なまえからのメッセージと留守電が表示されている。時刻的に、茉莉奈が竹青荘に入って五分後くらいだろう。
前言撤回。これは茉莉奈の責任もかなり大きい。
「なまえちゃーん、むっちゃごめん……。スマホ見てなかった」
廊下の奥に向かって呼びかける。ちょうど清瀬が障害物となり、友人がいることに気がついていなかったなまえが「え⁈ 茉莉奈⁈」と叫んだ。この時間まで長居していたことに相当驚いたらしい。そして、おそらくその動揺で体を捻ったようで、「ぐぅ」とうめく声が続いた。
食堂を覗いていた清瀬の顔が、スイッチを切り替えるが如く焦り一色となり、踵を返す。
──聞くべきは、向こう脛じゃなくて腰だったのかもしれない。
清瀬が振り返ったと同時に椅子から立ち上がった茉莉奈は、崩れ落ちた友人の介助に向かいながら、頭の片隅でそんなことを思うのだった。