Triangler ロッシュ限界

夜空に大輪の花が舞う。
西壁五〇〇〇年代初となる花火大会は、大変な賑わいを見せていた。
日本の花火玉は、西洋と異なり球体状につくられ、空で開いた時にどの角度から見ても美しい円を描く。丁寧かつ繊細な国民性を持つからこそなせる技、まさに伝統芸能だ。
各所に設置された屋台で思い思いに憩いつつ、空を眺む。この日のために浴衣をあつらえた復活者も少なくない。あの歌川広重だって、名所江戸百景の一幕としてその様を残していたはずだ。古来より続く夏の風物詩である。
この催しの背景には、先日目を覚ましたガタイのよい男性陣が、軒並み同じ職場の花火職人であったという事実が大きい。てやんでい人工衛星を打ち上げるなら花火も打ち上げさせろい、というなんとも無茶苦茶な理由で千空へ詰め寄り、その心意気を買った龍水がスポンサーへ立候補したのだ。先日設立されたばかりのDRAGON TVがさっそく独占生中継を行なっている。
子どもたちを中心に手持ち花火も配布された。一部では線香花火をいかに長持ちさせるか競っており、広場全体が和やかな雰囲気に包まれている。輪の端でその様を観戦しているなまえへ、そっとSAIが近づいた。
「みょうじさんは、やらないの?」
「やったんだけど見事に惨敗!」
あっけらかんと笑う彼女は、花火に劣らず眩しい。
「あれ? 七海君、浴衣じゃないの? 着ればよかったのに。もったいない」
「いやっ、僕はいいよ……」
「えー、絶対似合うのに」
そう言うなまえは、白地に子どもたちが絵付けした花柄の浴衣を纏っている。髪型もいつもより凝ったアップスタイルだ。表情も仕草も普段と変わらないはずなのに、なんとなく緊張してしまう。覗き込まれたSAIは、頭をかくふりをして目を逸らした。
「今ごろ、織姫と彦星も一緒に花火を見てたりして」
「……あれって、七月七日だろ? もうとっくに過ぎてない?」
「旧七夕が毎年このあたりだったと思うんだけど……んー、違ったかな」
彼女は顎に手をやり、唸りながら空を見上げる。
「この間、クロム君とスイカちゃんと勉強してた時にきく七号の話をしたから、その印象が残ってたのかも」
「きく七号?」
「人工衛星の名前。愛称が『おりひめ』と『ひこぼし』。私たちが四歳の時に打ち上げられたはずだから、だいぶ昔だね。分離させた二機を、宇宙で自動ドッキングさせる実験をしてたんだって」
なまえが簡易的にまとめた話によると、実験の最中「ひこぼし」にエラーが生じ、「おりひめ」から十二キロも距離をとってしまう事態があったそうだ。このトラブルで、二機が再度ランデブーすることはないと思われたが、その後無事に不具合を修正。「ひこぼし」は、遠く離れた「おりひめ」を迎えに行き、三組の手を伸ばした。以降二つの衛星が離れることはなく、この実験結果は国際宇宙ステーションへ貨物を運ぶ「こうのとり」にも応用されたという。
「本当に粋なネーミング」
うっとりとなまえは頰に手を添えた。
「『こうのとり』っていうのも……なんか」
「ね! きっと、『おりひめ』と『ひこぼし』の子どもたちなんだよね」
こくこく頷いたSAIへ、彼女も同調する。

「……『こうのとり』が子どもって、どういう意味なんだよ?」
ふと、あどけない声。振り返れば、二人に線香花火を差し出すスイカが「盗み聞きするつもりはなかったんだよ」と眉尻を下げた。どうやら第二回戦のお誘いに来たらしい。
「こちらこそ気づかなくてごめんね」とスイカの謝罪をさらり流したなまえは、腰を折り、視線を合わせて語りかける。
「私たちの時代はね、コウノトリが赤ちゃんを運んできてくれるって言われてて。すっごく縁起がよい鳥とされてたの。だから、子どもといえばコウノトリのイメージが強いんだ」
日本語で「子どもを授かる」との表現がある。これは夫婦の意思に関係なく、神様が与えてくださった命という意味合いが含まれている。実体を持たない神に代わり、コウノトリがその象徴を引き受けたのだろう。
不妊に悩む家庭は一定数存在する。特に旧日本、昔ながらの思想が根強く残っている地域で、子どもを作れない嫁の立場は非常に低かった。しかし、それらの原因全てが女性にあるはずもなく、実際はパートナー、環境、タイミングといったさまざまな要因が複雑に絡み合っている。
だからこそ、親が子どもを選べないように、子どもが親を選べないように。誰か一人が悪者にならないように。羽を広げたコウノトリが責任を負ってくれるのだ。
もちろん、旧現代では無邪気に尋ねられた「赤ちゃんはどこから来るの?」の答えを、一拍はぐらかす意図もあったのだが。
「……じゃあ、スイカは、コウノトリに届けられたのかもしれないんだよ」
小柄な彼女の口からぽろりと言葉が落ちる。その背景を理解するまでに、少なくともSAIは数秒を要した。
スイカには親がいない。物心ついた時には、すでに一人だった。そういう事実として、とっくの昔に少女の中で決着がついている。村に育てられ、村の子どもとして過ごしてきた。親がいないことが不幸せに直結するわけではない。
けれど、時折考えてしまう。南米で七年もの歳月をたった一人で生き抜いたことが、逆にその思いを強めている。父でも、母でも、せめてどちらかだけでもいてくれたら。自分の話を聞いてくれたら、叱ってくれたら、褒めてくれたら、抱きしめてくれたら、今どんな気持ちになるのだろうかと。
もし、親を持たないその理由が、コウノトリに連れられてきたからだとすれば。いつだって胸の中にあるひと匙の寂しさが、少し和らぐような気がしたのだ。
スイカの台詞になまえは一瞬俯き、わずかに目を細め、愛おしそうに微笑んだ。その横顔は花火に照らされ、SAIの瞳に飛び込む。鮮やかな光の中で、彼女は美しかった。
「……目覚めてからははじめて話すんだけど──実はね、私もお母さんとお父さんに会ったことないんだ。スイカちゃんと同じ」
技術職に就く彼女の、お世辞にも綺麗にケアしているとはいえないささくれた手が、そっと小さな頭へ乗せられた。
「だから、もしかしたら──コウノトリが運ぶ時に離れ離れになっちゃった姉妹かもしれないね、私たち」
少女の髪を撫で、そのまま手のひらを顔の側面へ滑らせる。
「……そうだとしたら、やっと会えたね」
スイカの小さな指で握られていた手持ち花火の芯が、微かに震えた。

「さっきの……僕もはじめて聞いたんだけど」
「そりゃ、言ってないし?」
私たちは後ろで観戦するね、とスイカを皆の輪に戻したなまえを引き留めたSAIは、おずおず切り出した。対する彼女は気楽なものである。
「私が話したら……ほら、七海君って意外と律儀だから、龍水君以外の家族のことも話さなきゃってなっちゃう気がして。そういう等価交換はどうかと思ったの」
「『意外と』は余計だけど、さすが……よく、見てるね」
SAIの言葉に、「七海君が相手だから」となまえが告げた。
その表情を背後から照らすような形で、今度は五連の花が上がる。そろそろクライマックスらしい。続々と打ち上がる炎色で紺地の空が染まっていく。
「わ、さすが龍水君。ここで宣伝挟むんだ」
DRAGON TVのロゴが打ち上がり、一気に沸き起こる歓声と拍手。彼女も手を叩いて、屋号ならぬ社名を呼び、ころころ笑った。
一緒に見上げるふりをしながら、SAIの視線は彼女を追っている。一人の友人ことばかり、慮っている。

家庭内で電化製品がひとつ壊れると、折り重なるようにその他の製品も故障するという。これは保証周期における最小公倍数が関わってくるが、それは一旦置いておくとして。つまるところ、その逆もまた然りである。
五七五二年十月、人工衛星の動力源となるソーラーパネル、宝島のロケット発射台、無人ロケット本体、高性能エンジンが次々完成、到着した。
駆け出しエンジニアとして、一方的に憧れていたゼノとの初対面を果たしたなまえは、興奮のあまり猫の断末魔のような悲鳴とともに崩れ落ちた。コハクが「ファンだったのか?」尋ねると、「ロケット工学を齧っていて、あの人を羨まない人間はいないっ!」と、どうしようもない昂りを胸に、じたばた情けない姿を晒していた。
製作初期、あまりにもフランクに千空が呼びかけるため、同姓同名の別人だと思っていたそうだ。ロケット本体を設計する最中、通話している相手が本物のⅮr.ゼノだと知り、「ドッキリ⁈」と椅子ごとひっくり返ったのは語り草である。
元はと言えば、彼女が目覚めたばかりの説明で、ゼノのことを「スーパー科学者」と呼んだゲンが悪いのかもしれない。だっていきなり大量の個人名を羅列されてもわからないでしょ、というのはもっともな言い分だ。いやはや、とんだ責任転嫁である。
ゼノ自身もそれを面白がっているようで、定期的に「Ms.なまえ」と呼びかけては、綺麗に飛び上がる様を眺め、口元を緩めた。
そんなアイスブレイクを挟みつつ、無人ロケットの発射は三連続で失敗を重ねていた。精緻かつ複雑な設計は、単純な理由でもあっけなく沈む。たとえば、断熱材のガス侵食、配線ミス、エトセトラ。
過去、先進国における宇宙開発は、インフラ設備の運用に必要不可欠であった。機密性の高い人工衛星などを他国へ打ち上げ依頼するわけにもいかず、各国が競うように技術力を高めてきた経緯がある。よくも悪くも自立の道を進んでいたこれらの問題に対して、世界総動員で挑んでいるのいうのは、当時を知る人間からすればとんでもないことだ。かつ、そこまでしても失敗は免れないというのが痛い。
また、それは本体の話に限らず、運用プログラムも同様であった。要するにSAIの領域である。
本人も冗談めかして述べていたが、「ハイフンがひとつ抜けていただけで頓挫」は実際あった事故だ。入念なチェックと改修が日々繰り返されていた。
時間などいくらあっても足りず、季節は目まぐるしく流れていく。

それは、初号機の失敗からおよそ九ヶ月──石世界初の花火大会より数えて一年弱が経過した、七月初旬のことだった。
宝島から、関東の拠点へ帰還したSAIは寝付けずにいた。蒸し暑い日だった、ということもあるが、赤道付近の宝島よりは幾分か気温は下がる。それが筆頭の理由ではない。
まれにある、体は疲れているのに、脳が妙にスッキリ冴え渡ってしまう現象であろう。このままベッドでゴロゴロと睡眠欲を待つもよいが、それはそれでもったいないように思えた。何より星が美しい夜だった。
ログハウスを抜け出したSAIは、行き先に悩んだ末、川沿いに舗装された道をのんびり歩くことを決めた。まっすぐ進めば高台に出る。そこでならば、この眺めをさらに堪能できるだろう。昔は隙あらばプログラミングに勤しむ生活を送っていたのに、まさか自分が余暇時間を天体観測に使う日が来るなんて思わなかった。
それもこれも、全部彼女のせい、否、おかげだろう。

星降る丘には、先客がいた。
夜の下にあっても目立つ、すべやかな白い肌。色素の薄い癖入りの茶髪。こちらに気がつく素振りもない、凛とした横顔。先ほど回想したばかりの懐かしい立ち姿。
「……みょうじさん」
SAIが呼びかけると、その人はぴくりと肩を震わせて、声の主を視認し、とびきりの笑顔を浮かべてみせる。
「わ! 久しぶり! こっちに来てたんだ」
「みょうじさんこそ、最近までチリに行ってなかった?」
「そうなの。合金用の素材集めが滞っちゃって」
結果的になんとかなったんだけどね。
口元に手を持っていき、唇を隠すようにして話す癖は変わっていない。進化し続ける毎日は刺激的だが、疲労も溜まりゆく。今のなまえの仕草が、記憶の中にいる彼女と同じであるだけで、幾分か気持ちが楽になった。青年の顔が無意識のうちに綻ぶ。
会えない期間、彼女へ広げたい話が積み重なっていた。最近思いついたゲームの構想、美味しかった料理、龍水がチェスの腕を上げたこと、なぜか脳裏にこびりついたままの流れ星。
自身が安堵したように、なまえの中にいる己が、いつだって今のSAIと相違なくあって欲しいと願うのはわがままだろうか。
同様に、彼女から聞かせて欲しい話もたくさんあった。自分の知らないところでなまえが一人変わってしまわないように。最近何が楽しかった? 笑ったことは? 面白かったことは? 誰と交流を深めている? これまでの彼女から問題集の二周目を解くような心持ちで、全ての答えにうっすらと想像ついてしまうのが愉悦だった。
──あとは。
「……七海君、本当は私の両親の話気にしてるでしょ。あの時からずっと」
芝に座り込み、互いに思いついたことをひたすらあげていく最中。ふと彼女が微笑んだ。図星である。
一年前、尋ねそびれた詳細。根掘り葉掘りするものではないと理解しているが、興味がないと言えば嘘になる。なまえも、彼の関心理由がゴシップでないことはわかっていた。
「引っ張っておいてなんだけど、めずらしい話じゃないよ」
彼女は風に揺れて顔にかかった横髪を払い、SAIの目をまっすぐ見つめた。

みょうじなまえは、生まれて数ヶ月目にして養子に出されている。
彼女曰く、血のつながりがないことによる家庭内不和は一切なかったらしい。恵まれすぎでしょ、となまえは笑った。
育ての親は、不妊に悩んでいた夫婦で、非常に理知的かつ倫理的な人物だった。大家族を夢見ていた彼らが、なまえ以外に養子を取らなかったのも、兄弟姉妹間で無意識にでも格差がつき、子どもが傷つくことを恐れてだったという。
彼女を思いやり、早い段階で真実告知を行った。真実告知とは、自身が養子であると本人に伝えることである。
思春期に突入した時、大人になった時、事実に気がついた彼女が一人で抱え込まないように。血のつながりはなくてもかけがえのない家族であることを理解するために。これから起こるかもしれない問題を、全員で一緒に乗り越えるために。
「だから私、今のお父さんとお母さんのこと大好き」
顎に手を添え、彼女はぽつりと呟いた。
「……そっか」
「ね。広がらない話でしょ? もっと波乱万丈だったら、漫画とかドラマみたいに語れるかもしれないけど。私のケースは逆に言いづらくて。同じような境遇の人なら自慢って思うかもしれないし。……七海君の方がずっと大変な環境だったと思う。あ、言わなくていいよ。私からは聞かないから」
SAIの脳裏を、ほこりっぽい屋根裏の情景がよぎった。
「あとは、そう、スイカちゃんの方がきっと。……私ね、産んでくれたお母さんの顔、本当は見たことあるんだ。写真だけどね。未婚の母っていうのかな。経済上、どうしても育てられなくて、仕方なく養子に出したんだって。だから、私の名前は、産みのお母さんが、私のためにつけてくれたの。苗字は今の親」
 虐待、ネグレクト、一家心中の生き残り。子どもの心に深いトラウマを植え付けて施設に預けるケースも多い中、彼女の例はかなり穏便だ。不幸な何かと比較して、彼女の境遇をラッキーとするのはおかしい。とはいえ、なまえが幼少期に精神的なショックを受けていない可能性が高いことは、SAIにとっても安堵であった。
「……写真で見た、君のお母さん……どんな人、だった?」
「多分……私に、似てた」
「じゃあ、美人だ」
「……からかってる?」
「かっ、からかうわけないっ」
訝しげなトーンに、若干焦る。
側に置いておくことだけが、必ずしもその人を思っているわけではない。苦しい経験をともにする美談もあれば、相手が苦労をしないようあえて距離を取る選択肢もある。数学と同じだ。幸せであってほしいと願う答えの導き方はひとつと限らない。
これは、SAIも最近気づかされたことだった。幼い龍水が自分を追いかけてこなかった理由をようやく見つけたのだから。そういえば、あれも彼女が弟に問いかけたことがきっかけだった。
「みょうじさんはっ、きっと、本当のお母さんにも愛されて、育ての親にも選ばれてっ……普通の人の、二倍愛されてる……と、思う」
やはり、自身の考えを、持ちうる単語の羅列で表現するのは難しい。いっそ、SAIにとっては日本語以外の方が楽かもしれなかった。
しかし、彼女が最も慣れ親しんでいるであろう言葉が、背景を含めてこの状況にはしっくりくる。なまえのために、今は言葉を選びたい。
どんなに育ての親に恵まれたとしても、もしかするとそうであったからこそ、どこかで期待に応えようとしてしまったのではないか。
ならば、SAI含む他者を分析する力に優れているのは、無意識のうちに自衛として周囲の感情を読み取るクセがついているからだ。
七海家の話へ部外者が介入することに殊更躊躇っていたのは、自分が興味本位で詮索されたくないと思っているからだ。
往復ロケットにこだわっていたのは、自分が持てなかった、血を分け合った家族に別れて欲しくなかったからだ。
SAIが自身の都合がよい関係を押し付けた時に涙をこぼしたのは、置かれている立場が不幸であるだとか、かわいそうだとか、他者からカテゴライズされる自身の姿を望まないからだ。
ルーツを大事にするのも、確かな事実や証拠を欲しがるのも、別れが苦手なのも、たまに幼子のような素顔を覗かせることも、きっと彼女がどこかで一人だったからだ。
そう考えると、彼女のこれまで全てが腑に落ちた。SAIにとってなまえは行動的でたくましく、芯を持った女性で、おそらくこれからもその印象は変わらない。けれど、言葉や行動の裏へ踏み込むことで、視座は変わる。根っこが強い人だから、たまに強がる瞬間があったとしても、そっと取り繕ってしまうのだ。そうやって、肝心な部分にいつも一人で傷ついて、一人で完結させてしまう。
「……すごく、失礼なことを言うかもしれないけど」
彼は小さな声で前置く。
「本当は、君が、辛い思いをしてて、それを隠してるんだとしても。それを含めて今のみょうじさんになったんだとしたら……全部、ひっくるめて……君が、今の君でよかった。みょうじさんによく似た、誰かじゃなくてよかった。……誰でもなくて、君がよかった」
──みょうじさんをみょうじさんって呼べて、僕はよかった。

なまえは、息を呑んでSAIを見つめていた。瞬きを経て、つう。一筋の透明な線が重力に従った。堰が切れたように頬を水滴が滑り落ちる。それはあっという間に顎を伝って、青い芝を濡らしていく。
「……えっ、あっ、みょうじさん⁈」
「ごめん、これは違う! 違くて! あれだから! あのっ、嬉しい方のやつ……だから」
彼女が、彼に泣かされたのはこれで三回目である。居た堪れなさで、穴があったら入りたいくらいだ。こんなの、ただの泣き虫みたいじゃないか。
けれど、他人から与えられた温もりに涙腺を刺激されたのは久方ぶりのことだった。ゆえに、とっさにどうすればよいか判断できなかった。
「あーもう、恥ずかし! 三十手前にもなって……」
茶化すように笑ってみるも、一度流れはじめてしまったものは止まらない。下を向き、目を擦り、ぎゅっと瞬きし。考えつく対処法は全て無意味に終わる。
「……あの、今すっごくブスだから……そんなに見ないで」
なまえは、先刻より挙動不審にそわそわしつつも、自身から目を逸らさない彼へ忠告を入れた。泣き顔を凝視されて喜ぶ女性は少ないだろう。この件に限って完全に多数派であるなまえは、せめて涙が引くまでは背を向けようと膝立ちになる。
そこで。
思いがけず、強く肩を引かれた。
まさか今引き止められるとは考えていない。予想外と物理的な影響で、細身の彼女はいとも簡単に体勢を崩してしまう。
 ぽすり。ぶつかるようにして飛び込んだ先は薄い胸の中だった。
「…………ここでもっ、見えないから」
SAIが小さな声で呟き、なまえに手を回す。あやすように、優しく、不器用に。石化痕の残るざらついた指が、服の上から背をさすった。
「シャツに鼻水つくけど……」
「……いいよ」
離れたところで、一人で泣かれるよりずっとましだ。
ほんの少しだけ、SAIは彼女に添えた腕へ力を込めた。腕の中のなまえは、想像していたよりも軽い。いつから、何をするにしても彼女なら大丈夫だと、きっと許してくれるはずだと、期待してしまっていたのだろう。気づかなかった、よりもタチが悪い。本当はわかっていた。それでいて、傷ついた彼女が強がってくれることを願っていた。
──最低で、最悪だ。
ドッキングモジュール「ひこぼし」が、宇宙にたった一機で取り残された「おりひめ」を迎えに行った時、こんな後悔に苛まれていたのだろうか。
答えなどわかるはずもなかった。回答を知る二機は。二〇一五年、とっくに大気圏へ落ち、流れ星としてその生涯に幕を引いていた。

「……七海君にとっては友達の一人かもしれないけど、一応異性だからね、私。忘れてない?」
数分後、ようやく涙が落ち着き、目だけをウサギのように赤くした彼女が、湿度の高い視線を寄越した。
「……刺されても知らないからね」
「いやっ、それは……ごめん」
「とりあえずこれはノーカンにしとく、けど。今後自覚なしで三股してた、とかになっても助けてあげないんだから」
確かにSAI本人が振り返っても、彼女を抱きしめた瞬間の自分は軽率であったし、行動の意味がわからない。なんだあのキザな台詞。なんだあの思考。
少なくとも、見知らぬ異性にあんなことをすれば、時と場合によっては、いやかなりの確率で訴えられることは必至であろう。相手が友人とされる人物であったとしても、出会い頭の軽いハグとは別種。線引きされた関係の垣根を飛び越える行為だ。
手のひらには柔らかな熱がほんのり残されている。また、忠告通りにシャツは涙と鼻水ですっかり濡れていた。
「あとで貸して。ちゃんと洗って返す……ありがと」
なまえがバツの悪さ半分、照れ隠し半分で俯く。彼女の姿を直視できず、SAIは自身の指先へ目をやった。

三七〇〇年前のいつか、なまえに聞いた話だ。
ロッシュ限界。惑星や衛星が破壊されずにその主星に近づける限界の距離のこと。その内側では主星の潮汐力によって惑星や衛星は破壊されてしまうのだという。
宇宙のどこかで起きているかもしれない。けれど、おそらく人生で目にすることはないと思われた概念。
まさかそれを、自分の中で知るとは考えもしなかった。内側でわだかまり、名付けに困っていた想い。彼女を胸に受け入れた時、外殻がSAIの中で砕ける音が、ふと聞こえたような気がしたのだ。
奇しくも、七夕の夜の出来事だった。