*
七回目の正直。
偵察用人工衛星を格納した無人ロケットが、大気圏を抜けた。
これまでの失敗、そのたびの作業、手法のリファインに取り組んできた一同はお祭り騒ぎである。人類史をリセットされてから、はじめて人工物を宇宙に送った記念すべき日だと、以降の祝日候補に推薦する声もあがった。しかしそれらは全て、千空による「これが一歩目だっつーの」というニヒルな笑いで流される。
そんな中、クロム、スイカ、なまえの三人は頭を突き合わせて悩んでいた。ロケットが無事に飛んだことは喜ばしい。一方、これで有人宇宙船の出立が近づいたことも事実である。
チェルシーにより、人工衛星の写真を用いた新地球儀がつくられ、龍水主導で本格的に人類七十億人の復活スケジュールの検討、実行が進んでいる。
「……こないだSAIにも計算してもらったんだよ? 月まで行って帰れるロケットは今の五倍くらい大きくなっちゃうって言ってたんだよ」
試行錯誤する可能性を考えれば、ロケットは小型の方が望ましい。打ち上げ設備に極力宝島の発射場を使いまわしたいのはもちろん、地球上の資材にも限りがあるためだ。
「明日には宇宙望遠鏡も打ち上げ予定だし……そりゃ絶対ではないけど成功しそうだよね。これまでの知見もあるから」
なまえはペンを片手に、自身の眉間を小突いた。
「サイズ感も難題だけど、カプセル問題もあるし……」
後者は、宇宙空間から地球へ降下する際の、熱に対する懸念である。
飛行士たちが地球へ帰還するためのカプセルには飛行制御装置等がなく、そのまま自転速度、およそ秒速十キロで大気圏へ突入する。生じる空気抵抗は凄まじく、短時間とはいえ、超高温のプラズマがカプセルに襲いかかるのだ。外壁が少しでも溶けてしまえば、カプセルは中身もろとも燃え尽きる。
飛行士たちに一時的な石化をしてもらうとしたって、そもそもそんな高熱に石化状態でさえ耐えられるのかわからない。人道的においそれと実験を行うわけにもいかない。
なおかつ、先ほどのロケットスケール、打ち上げの推進エネルギーを鑑みればカプセルはより軽量な方がよい。ギリギリラインの見極めが必須である。
旧現代で宇宙工学の最先端にいた彼女は、この状況のシビアさが痛いほどわかっていた。計画策定から、打ち上げ場所の再設営、一回分の試行に必要な資源、設備、人手。それらがより具体的な数を伴って頭を埋め尽くす。小型化と安全性の反比例があまりにも痛い。こめかみに手を添え頭痛をやり過ごしても、焦りの種が尽きることはなかった。
ホワイマンの居場所をコハクが見つけたのは、その相談からおよそ一週間後のことだった。
「これで私たちの方からホワイマンに先制攻撃。ソッコーができるというわけだな!」
その眼力で月面に黒幕の姿を捉えた少女は、力強く拳を握る。盛大に湧く広場をログハウスの窓から見守り、スイカは目を擦った。
「……よかった。見つけられたんだよ、ホワイマン」
大きな瞳にはじわりと水滴が溜まっている。嬉しいはずなのに、悔しい。片道前提での作戦がついに取り返しのつかないところまで進行してしまう。力が及ばなかった。間に合わなかった。
なまえはその小さな背を優しくさすった。彼らのせいではない。どちらかといえば、これは二人の指導者役を引き受けた自身の過失だ。
あれだけ旧現代でロケットについて学んでおきながら、大事な時にこれっぽちも役立ちやしない。彼女が出したアイデアは手足の指で足りないほどあれど、いずれも欠陥をカバーできず、思考段階で断念された。うちいくつかの案はなまえだけでは判断できず、膨大な作業を抱えながら、寝る間を惜しんでSAIがシミュレーションを回してくれた。
全員ができることをしたのだ。ここで自分が弱音を吐くのはずるいとわかっている。ただ、静かに嗚咽するスイカを、抱きしめてやることしかできない。
広場では、引き続き図面を囲みながら、明るい声が飛び交っていた。
「ついにワシら、人が乗れるロケットつくっちゃうワケね!」
「新地球儀をもとにした、世界規模での協力体制が必須ですね」
「いや! 文字通り──」
宇宙規模で皆の力をひとつにする!
高らかな叫びは龍水だろう。指を弾く音が合図だった。一人、一心不乱に図面へ向かってきたクロムがはた。手を止めた。
「宇宙規模で、ひとつに……」
彼の目が一等星よりも眩い光をたたえる。それはまさに閃きというに相応しく、少年の脳内に何かが訪れたことをありありと示していた。たとえば、流星群、隕石、彗星。地球上にはまだ存在しない、未知の物質。
インドの魔術師と呼ばれた数学の天才、ラマヌジャンは、神のお告げとして千単位もの新たな定理・公式を発見したという。なまえは会ったこともない奇才が、直感に導かれる瞬間を、クロムと媒介として目の当たりにしたような気がした。
「──織姫と彦星だぜ……!」
振り返った少年は、力強く告げた。
*
科学大会議。
筆文字で銘打たれた広場には、クロムによって強制的に召集された者たちの姿があった。その数はおよそ百人を超え、急遽の集いにしてはかなりの大所帯である。
特に、科学の中心であるゼノ、千空にいたってはクロム、スイカと対面する形で着座。旧現代のディベート大会を彷彿とさせる設営だ。
「な・ん・だ、これ……」
黒目を限りなく点に近づけ周囲を見渡す千空へ、「おう、聞けよ!」クロムが鼻息荒く宣言する。
「俺らがつくんのは、特攻の片道ロケットなんかじゃねえ! 全員揃ってハッピーエンドの往復ロケットだ!」
沈黙。
あ、これまずいやつ。
空気を察したゲンが素早く仲裁に入る。雰囲気こそ柔らかいものの、彼にしてはめずらしい。言葉の中に動揺が色濃く混じっている。
「いっやー。クロムちゃん、スイカちゃん。みーんなね、そうしたいのは山々なんだけども……」
「わかってんだろ、テメーらも。往復じゃロケットがアホほどでかくなる。発射テスト全部やり直しだ」
続きをリレーした千空の調子は、いつもと変わらない。
「リスクも時間も五倍。少なくとも数十年はかかるだろう」
最後にゼノが補足。これまでと同じ、ひとつの黄金パターンである。ゲンが初手で皆を説得する土壌をつくり、千空が事実を突きつけ、ゼノがそれを確固たるものとする。この流れがあるからこそ、小難しいテーマや突飛な議題がスムーズに進むのだが。
しかし、今日ばかりは怯むわけにいかないのだ。スイカはここぞとばかりに声を張り上げた。
「だからクロムはこの一年、SAIとなまえにたくさんたくさん教えてもらって、ずっとずっと一生懸命考えたんだよ! 今のちっちゃいロケットのまんまで、月まで行って戻れるように──」
見やがれ! 俺ら科学ルーキーチームのヤベー裏技をよ!
クロムが、背後に携えていた麻紐を強く引いた。吊るされていた巨大設計図が衆目に晒される。
「月まで往復できるほど、ヤベーほどデカい宇宙船を! 五つに分けて打ち上げて! 宇宙でバシッと合体させんだよ……!」
人類がはじめて宇宙でのドッキングに成功したのは一九九六年三月に発射されたジェミニ八号だった。飛行士の操縦により、目標衛星アジェナ八号と機体を接合させたのだ。
ISSも一九九八年の打ち上げ以降、少しずつ物資を補給して宇宙で建設を行い、およそ十年をかけ完成まで漕ぎ着けた。
その礎のひとつに、「おりひめ」、「ひこぼし」のランデブ・ドッキング実験が存在している。クロムがこの分割ロケットを思いつたのも、自身の先生役を引き受けてくれた宇宙工学者が、雑談として提供した衛星よもやまがあってこそだ。何も無駄になんかならない。無意味なんかにしてたまるものか。少年の眼差しには青々とした火花が宿っている。
呆気に取られるその他大勢をよそに、千空とゼノは目を見合わせた。
「……かつてNASAでも宇宙船の分割打ち上げはアイデアとして存在していたんだ。だが──致命的な難点は設計だ。ただでさえ複雑な往復宇宙船の設計を分割合体形式にしようとすれば、総部品数は数百万点にも及ぶ。Ms.なまえ、君もわかっているだろう?」
ゼノの言葉はもっともだった。当然名指しを受けた彼女も、作業の煩雑さは理解している。
「──フゥン、それは裏を返せばつまり、新世界の人類皆が本気で手を組み、数百万点の部品を設計できれば。手に入れることも可能だということだ。違うか?」
口を挟んだのは龍水だった。その表情はギラつき、確かな欲が滲んでいる。誰かに気を遣っているわけでもなく、自らの意思でそれが欲しいのだ。
なまえは、頼もしい船長に続いて声をあげた。
「難しいことは重々承知しています。でも、ワンチャンスがあるのなら、そこに夢を見たいんです」
その目はまっすぐ、尊敬する科学者を見据えている。宇宙の九十五パーセントは未知の物質だと意気揚々告げていた三七〇〇年前から、彼女の根幹はちっとも変わっていない。先刻までクロムと設計図の草案に取り組んでおり、ここ数日ろくに寝ていないはずだ。にも関わらず、未来へ期待する姿は、疲労を一切感じさせなかった。むしろ、今すぐにでもこの仕事をはじめさせてくれと、少年同様の火花がチリチリと瞳の中に瞬いている。
「クロム君のアイデアは世界を救うだけじゃないんです。世界を救おうとした、全員を救えるんです! やるんです、やれますよ、私たちは! 根拠がないことをまず信じるのは、宇宙工学者の専売特許じゃないですか!」
なまえのロマン溢れる言葉へ発作的に吹き出して、SAIは「いちおうっ打ち上げの計算はできてるよ」と付け足した。
「あ゛ー、理論上はな」
「エレガントなアイデアだが、およそ現実的とは言えないね」
一方、科学者のトップは図面を眺めながら、なかなかかぶりを振らない。
歯痒い。
クロムは手のひらに爪が食い込むほど、かたく拳を握った。
「おう、みんなに聞いてみろよ! どっちで行きてえか!」
細かいことはわからない。絶対に往復は不可能。戻れないことは確定事項というのであれば、これ以上クロムには何も言えない。
けれど、なまえの告げた通り「ワンチャンス」があるのであれば。
「片道派と往復派どっちが多いか、全員で決めようぜ! それが俺ら科学王国、全員で力を合わせてつくるってことじゃねえのかよ……!」
「はっはー! ストーンワールド初の民主主義投票というわけか!」
龍水が指を慣らし、SAIの作成した投票プログラムを指し示した。「ククク」と特徴的な笑いを挟んで、イカサマの有無を確認する千空へ、船長は「無用な心配だ」腕を組む。
「貴様が科学に嘘をつかないのと、俺が『欲しい』に嘘をつかないのと同じく、SAIもプログラムに嘘をつくことはない。違うか?」
──違わねえ。
ニヒルな科学者にしては、はっきりと体温が残る返事であった。
*
「……匿名と言っても、得票数は表示してよかったんじゃない?」
結果の周知からしばらく。集計漏れがないか、念のため全得票数を確認する最中のことだった。様子を見に来たなまえに声をかけられ、SAIは「確かに」と頷いた。
先刻。
──WIN 2WAY
導き出された結果を一瞥して、まずクロムが雄叫びをあげた。
「おう、勝負あったぜ! やっぱひっくり返そうとか言わねえだろうな⁈」
両手を高く掲げ、再度条件を確認する少年に、千空は「言わねえ言わねえ」苦笑する。
「こっからアホほど大変になんぞ」
気だるそうな言い草と裏腹に、告げる顔は晴れやか。スイカが「なんとかお役に立つんだよ……!」彼の周囲を飛び跳ねた。
厚い設計草案の上数ページが風にめくれている。新人科学使い、加えて二人の指南役の、努力の結晶といえる紙束を千空は見やった。おおよそ組み立ていたスケジュール、作業フロー、人員割り振り、それら全てをこれから再検討する必要があり、その多忙の単位が「アホほど」で足りるのかはわからない。
けれど、彼の口元は自然と緩むのだった。
投票から数十分もおかず、往復ロケットの詳細設計へ向けた首脳会議が早々に開始された。千空とゼノが世界中の技術者とコンタクトをとるべく何やら相談をしている。
当然、SAIとなまえも、この後そちらへ合流する心づもりであった。
「せっかくだから、得票数でもダブルチェックしておこうよ」
「うん、ちょっと待って」
投票システムの表示は、SAIが請け負ってる他プログラムと比較すればうたたね寝ながらでも打ち込めるほどには簡単な仕組みだ。「ちょっと」の宣言通り、あっという間に形式が切り替わる。どれどれと画面を覗き込んだ二人は、思わず顔を見合わせた。
──1WAY〝0〟
往復が決まった瞬間、千空、ゼノが見せたなんとも言えない表情が脳裏をよぎる。
ゼノは、千空を思う仲間ために。千空は、百夜の、クロムの、自身を思う世界のために。自ら「2WAY」を選択したのだ。
犠牲的な片道にストップをかけたいという目的の元だったとはいえ、事実、多数決は耳障りよく少数を切り捨てる手段である。そんな中、本質的に全員の意思がまとまっていたことを、今この瞬間、二人だけが知っていた。
「……すごいなあ、映画みたいだね……嬉しい」
「えっ、みょうじさん、もしかして泣いてるっ⁈」
「なっ、泣いてないから!」
なまえが一瞬俯き、目元を横髪で隠したため、SAIはつい先日の彼女の姿を重ねて肝を冷やした。が、どうやらその思いは完全に杞憂のようだった。改めてSAIの方向へ向き直った宇宙工学者の顔は、至って通常運転である。
「だってっ、この間嬉しいって泣いて……」
「あー! 墓穴を掘った! ステイ! ダメそれ!」
数ヶ月前の七夕の夜の出来事を引き合いに出され、なまえは耳まで真っ赤にして、SAIの口を手で覆う。
「嬉し泣きとか、さすがに恥ずかしすぎるから! 内緒! 絶対ね!」
フォローしようにも口を塞がれていては喋りようがない。とりあえず彼はコクコクと首を縦に振り、手動マスクの解除を願った。なまえは口を尖らせながら、そっと腕を定位置へ戻す。
そこで。「あ」彼女は思い出したように声をあげた。
「ねえ。さっき私が話してた時、最後いきなり吹き出したでしょ。あれ何?」
「……そんなことあった?」
「ほら、Ⅾr.ゼノに往復ロケットのプレゼンをしてた時。私が話した直後」
SAIは該当の場面を思い返し、「ああ」と、小さく頷いた。あの言葉が客観的におかしかったわけではない。ただ、SAIにとってあの時の彼女の台詞は懐かしく、当時のシリアスな雰囲気と相まってやたら愉悦だったのだ。
「……だって、昔僕に言ったのと、全く同じだったから」
一度だけ。
SAIが七海財閥に連れ戻されるのでは、という騒動が、彼のインド滞在時に起こった。それは、母親の出身地である他国へ逃亡したのであれば。保険数理士として能力の搾取が難しいのであれば。その姓だけでも利用させてもらう、と言わんばかりの暴挙であった。
中東の有権者を中心に選出された複数の婚約者候補をあてがわれ、「うち誰かと婚姻さえすれば、後は自由だ」というのである。どのツラ下げて、それを自由と呼ぶのだろうか。自身の意図しないところで、道具として戸籍が使われる恐怖は、何物にもたとえ難い。
無論、そんな選択などできるわけもなかった。しかし、答えを出さなければ、次は無理矢理にでも日本へ連れ戻されてしまうだろう。
あれは、確か深夜だった。ぐるぐると回る思考で、とっさに電話帳の一番上にあった人物へ電話をかけた。つながればよかった。おそらく、それが誰であっても。財閥の人間がコンタクトを取ろうとした時、それが一時的な逃げであったとしても、通話中のアナウンスが流れ続けて欲しかった。
三コール後、電話口に出たその人は、言葉を紡げずにいたSAIへ「……もしかして、泣いてる?」と尋ねたのだ。
数時間後、その人は朝一番の飛行機でバンガロールからムンバイまでやって来た。部屋のドアを蹴り飛ばす勢いで掴みかかるように無事を確認されたこと。閉め切った室内へドアから光が差し込む瞬間を、まるで昨日のことのように覚えている。
急遽半休を取得したため、夕方にどうしても出席しなくてはならない打ち合わせがあると、その人は昼前に部屋を立った。わずか数十分の滞在だった。
その間、彼を元気づけるべくつくられた黒焦げのフレンチトーストを眺めながら、その人は何度も「七海君は大丈夫」と繰り返していた。ろくに家族の話なんて、したことなかった。おそらくその人自身、SAIが具体何に悩んでいるのかよくわかっていなかったに違いない。ここまでやって来たのも、「大切な友人を放って置けない」と、ただそれだけだった。
対するSAIは、虚な思考で「根拠なんてないんだろ」と、薄いタオルケットを頭からかぶった。思わせぶりに呼び出しておいて、失礼極まりない。そんな彼に本気で怒るでもなく、「バカ!」と鼻を鳴らしたのは。
「根拠がないことを想像して信じるのは、宇宙工学者の得意分野なんだから!」と、カーテンを開けながら、眩しい日の光を背に意気揚々笑ったのは。他でもない彼女だった。
──ああ、そうか。そうだよな。
*
「たまには夜空の下で、なんてどうだ?」
往復ロケット計画が策定され、すぐの夜。
チェス盤を片手に、SAIは龍水より対戦を持ちかけられた。さして断る理由もなく弟に連れ出され、人気のない作業場へと向かう。居住区の中心にある広場でもよいのだが、やや人通りが多い。指すからには集中したいというのが本音かつ、兄弟水入らずの時間は素直に貴重と思えるようになっていた。
そう考えると龍水とSAIが二人きりになったのは久方ぶり──コンピューターが完成したあの日以来である。日中は、クロムとスイカへの指導、プログラムの進行と多忙を極める兄であったし、物流、船舶、人事の管理を行う弟はさらに多忙であった。とはいえ、龍水はちゃっかり遊びの時間もスケジュールに組み込んでいたが、その時は互いの駐在地がバラバラであったり、諸々の要因によって、機会を設けられなかったのだ。
とすれば、まず兄から言わなければならないことがあった。
「……あの時、ごめん。八つ当たりしたろ、お前に」
「……いや、俺も無粋だった。許せ」
唐突な切り出しにも関わらず、龍水はSAIの発言意図をすぐに理解した。
「今更だけど、お前が聞いたことに答えるよ」
なまえが龍水へ戻した通り、二人は結果的に何にもならなかった。が、何にもならなかったからと言って、何もなかったとは限らない。少なくとも、SAIと彼女の間には。
「──好きって言われたんだ、みょうじさんから」
だから……友達でいたいって返した。
「……それは、随分と残酷だな」
龍水がチェスの駒を配分しながら呟いた。
「泣かれたし、怒られた」
「フゥン、目に浮かぶ」
はた、弟は手を止める。
「ただ、貴様は……なんというか、やたら言語化が下手な瞬間があるだろう」
SAIの場合、本心で告げている分質が悪い。言葉足らずであるのに、感情が大股で先走り、相手へ正面からぶつかってしまう。
「みょうじさんを傷つけるつもりなんか……ずっとなかった、今だって」
「なら、どんなつもりだった?」
責められているわけではない。龍水は兄のことが知りたいだけだった。SAIへ問う龍水の目が、幼いころ自身について回っていた時と酷似していて、プログラマーの青年は子どものようにくしゃり笑った。
周囲に博愛主義だと思われている弟が、その実「愛されたい」人間であることに、兄は気がついていた。もちろん、彼は世界を愛したいと思っているだろうし、その希望通り心から愛しているのだろう。だからこそ、その思いを返してくれる何かを、どこかで待ち望んでいる。そのひとつが家族という形をしている。
なら、SAIは。
彼は、おそらく愛されたい人である。どうしようもない自分をそのまま受け止め、丸ごと認めてくれる何かを求めている。そして同じことをいつか、返したいと願っている。兄が本質的に「愛したい」人間であることへ、龍水も気がついていた。
幼少期から、自身の内にある世界を愛している兄が、外側で誰かを見つけることがあるかもしれないと。兄弟愛という広義の情を伴って、その一人は龍水自身であって欲しいと、淡い期待をしていた。
そんな兄が、みょうじなまえに対してまた違った「情」を向けている。その気持ちに名前をつけようと不器用な試行錯誤をしていることが感慨深い。
「……友達の方が、確かだと思ってたんだ」
幼少期のSAIにとって、家族というコミュニティは記号のひとつでしかなかった。自らを縛る枷、檻のようなもの。親が子どもを都合よく使うための、便宜上の名前。
実際、SAIの父と母の間にあるそれはいわゆる恋とは違う種類の何かであったし、人を好きになることが結婚、出産という家族づくりのフローに過ぎないのであれば、それは彼にとって意味を持たない。
そんなものより、屋根裏に隠れながら束の間楽しんでいたゲーム。うち、冒険で育まれたパーティ仲間との絆の方がよほど強いように思えた。
インドでの日々をRPGに見立てれば、自らの出自を知らず序盤に出会い、助け、助けられ、関係をつくっていった彼女は、かけがけのない仲間だった。偶然に過ぎない出会いだったけれど、正直第一印象はよいとは言い難かったけれど。そのきっかけが絡まり合って、今につながっているのであれば、全部が全部かけがえのない何かだ。ひと時の恋愛トラブル、気の迷いなんかで、失うわけにはいかない。
冒険が終わった後も、めでたしめでたしとエンドロールが流れた後も、友人というくくりならば。これからずっと同じ距離にいられるはずだと、ひとえにそう思っていたのだ。
それが、今はどうだ。彼女と再会して、弟と向き合う機会を得て、兄弟という存在の認識を改めて、世界の見え方が大きく変わって。
ああ、困った。あんな風に告白を無碍にしたくせに。間に三七〇〇年も挟んで、長寿族のエルフも驚くほどの月日が経過してやっと。なんて傲慢なんだ。なんてバカだ。
「七海SAIが恋をしていない」と仮定すれば、命題に矛盾すると。
──今更、証明されてしまった。
「綺麗な部分だけを、友人として見ていたかったんじゃないのか?」
龍水はほんの少しだけ意地悪を言った。弟なりのからかいである。
「……そうだけどっ、そうだったんだけど」
自身のルーツを語る彼女を抱きしめた七夕の日から、折に触れて夢を見るのだ。
それははじめて声をかけられた瞬間だったり、なんてことはないインドの日々であったり、時に大きなトラブルであったり、水面で揺らめく数々の思い出だった。全てが、なまえのいる時間だった。
泡が弾ける起き抜け。夢の余韻のまま、どうしようもなく、彼女の華奢で柔らかな体を包みたくなる。肩に顔を埋めたくなる。頬に触れたくなる。溢れる涙を拭いたくなる。純粋な怒りを正面から浴びて、情けない心根を正したくなる。
綺麗な部分に憧れていた。けれど、綺麗であろうともがく彼女そのものが、さらに愛しいと気がついたから。
「今この瞬間に、鏡がなくて残念だ」
弟は苦笑するように呟いた。
天の川銀河の裏側には、とてつもない密度の巨大引力源が存在する。
しかし、対象との距離、地球との位置関係から観測が難しく、重力源の解明は進んでいない。わかっているのは、複数の銀河を引き寄せる動力、ということのみである。誰も見たことのない、あくまで仮定の上に成り立つ産物だ。
ならば、もしかしたら、その超重力とやらは彼女の形をしているのかもしれない。
そんな空想を半分本気で考えてしまう程度には、真っ逆さまに惹かれている。