*
宇宙船の数百万点にも及ぶパーツを、世界中のエンジニアで手分けして設計する。
千空、ゼノよりまず提案されたのは拠点を結ぶインターネットであった。電子ペーパーを用い、オンライン上で共有と設計を並行するためだ。
「インターネットをつくる!」と宣言された際は、全員何をどうするのか検討すらついていなかったが、杜仲エラストマーで敷いた海底ケーブルが、物理的に地点同士をつなげた。
ブラウン管にそれまでモールス信号でやりとりしていた相手が映し出され、声を発した瞬間。こうして話すのははじめてであるはずなのに、喋り方のクセ、選ぶ単語が、それまでコミュニケーションをとっていた当人であることをありありと示していた。
そして、ロケット設計ともうひとつ。早急に決めなければならない議題──月行きメンバーの選定である。
フライトの大方を石化してやり過ごす前提から、対ホワイマン、石化光線を受けた経験値が高いものが優先される。よって、メンバーは現在の復活者、こと比較的初期から目覚めていた者に絞られることとなった。
宇宙船に乗り込むのは三人。パイロット、科学者、戦闘員。ひとつめの席は龍水。ゼノが管制塔に出張ることから、二つめの席は千空にてほぼ内定状態である。
また、オンラインでより精緻な情報共有が可能となった今、各地に点在していた仲間が日本へ帰還しつつあった。それぞれの拠点で目覚めた国民が復興を推し進めていく形である。
このことから、三人目、戦闘員の飛行士選抜が帝国跡地にて実施されることとなり、他でもない司の提言で、高い戦闘力と身軽さをあわせ持つコハクが最後の一席を埋めた。
彼女ら三人の中でも、特に龍水の浮かれようは凄まじく──それが仕事に影響を及ぼさないのが船長たる所以だが──いつかJAXAで実施された飛行士選抜を回想し、なまえは微笑ましく感じていた。当時も、内定を受けた皆々がそれぞれの手法で喜びを露わにしたものだ。有人ロケットに携わる、いわゆる送り出しの専門家として、宇宙へ飛び出す本人がその場所に夢を見ていることは何より嬉しい。飛行士が自分たちの分まで大きな夢を持ってくれるがゆえに、技術者は対面する現実と存分に格闘できるのだった。
慌ただしく準備が進む中、日本で久方ぶりに初代ペルセウス号の造船メンバーが集結したことを記念して、単純な期間でいえば十数年ぶり。二回目となるシンデレラパーティーが開催されようとしていた。
第一回は、宝島へ旅立つ前、船の竣工祝い、送別、石油購買のためのドラゴ稼ぎを兼ねたお祭りであった。今回は日々のロケット製作を労う会となる。
なにより、北米から杠が戻ったことで、裁縫関連のスピードが格段に向上した。復活者の数もかなり増えてはいるが、その分手先の器用な者、旧現代で服飾関連の職に就いていた者も目覚めており、新杠手工芸チームが爆誕したのである。
一度目のパーティーは戦力がほぼ杠のみで、ラストスパートこそ龍水、金狼、銀狼が加わったものの、彼女の作業量、伴う疲弊っぷりは皆の記憶に残っていた。余裕を持って取り組めるに越したことはない。
前回に引き続き、貸衣装もあればオートクチュールも準備する。パーティー自体へは飛び入りも可能、衣装については事前申請必須の仕切りだ。各自が空き時間に受付会場を訪れ、見本品を見て回ったり、採寸、希望の相談を行っている。特に女性陣の喜びようは初回のパーティー以上で、連日会場は大盛り上がりであった。
受付最終日、携わっていた作業を片付け、なまえも滑り込みで広場を訪れた。さすがに夕方近いこの時間、テント内の人はまばらである。すでに皆好みの服を注文し終えているのだろう。
男性陣からはスーツ、若者からは学生服が人気を集めているようだ。入り口付近にそれらの多様なバリエーションが展示してあった。その横には旧現代の映画、漫画、アニメのコスプレ衣装も配置してあり、値段は張るものの目を引く。
さて、どうするべきか。工学者は顎に手をやり、静かに唸った。
人並み程度に服装へ関心はあれど、いざこういった場で何を着るかと問われれば即答できない。前回の思い出を語ってくれた杠によれば「服は身分や立場を規定するもの」、その一方で「なりたい自分になれるツール」なのだという。
とすれば。
「……ツナギかな」
「ツナギっ⁈」
呟きに、背後からやまびこ。
「みょうじさん、ツナギ着るの……?」
振り向くと、石化痕の残る指をわきわき動かして焦るSAIの姿があった。
「……ツナギというか作業服?」
「なんでっ⁈」
「一番私っぽいから? 今の仕事的に」
「も、もっと考えた方がいいって」
過去、とりあえずワイシャツにスキニーまたはスラックスを合わせておけばオーケーという顔のよい者にしか許されない所業でオールシーズン対応していたSAIに言われる筋合いはないのだが。確かにパーティーであることを考慮すれば、この思考は短絡的かもしれない。ドレスコードはないと聞きつつ、一人安全ヘルメットというのも空間にそぐわなそうだ。
なまえは「うーむ」と唸り、SAIの提言を受け入れた。
「わかった、もう少し考える。で、そういう七海君は何着る予定なの?」
「えっ、まだ、決めてない、けど」
彼女と同じく、最終日まで決断を保留にし、慌てて駆け込んだ口だろう。プログラマーは目を逸らして頭をかいた。
偶然にも気安い友人と遭遇したのに、じゃあこれでと別れるのも名残惜しく、なまえとSAIは連れ立ってテント内をぐるぐる回っていた。
「七海君、着物にしたら? 花火大会の時に浴衣着てなかったし、もったいないなって思ってたの」
「着物かあ……」
SAIにとって悪くはない提案だ。着付けに難はあるが、龍水が当然のようにフランソワを派遣してきそうな気もする。
「じゃあ、みょうじさんも着物は?」
「ありだなあ。文化を感じる服装っていいよね」
思い巡らす彼女の横顔を盗み見るSAIは、薄ぼんやり、やっぱり綺麗だなあ、など考える。以前から整った顔立ちではあったのだろうが、好きだと意識してしまった途端に、これまで以上に眩しく、ズボラな仕草までいちいち可愛らしいのである。起き抜けのダイナミックな寝癖にまで心臓が早鐘を鳴らす始末だ。
不思議なことに、彼女の瞳には常に数多のハイライトが入り、それこそ天の川のように輝いている。ほっそりした首筋も、華奢な肩も、効率重視でざっくりまとめられた髪も、やたらと速い足も、常に彩度高く色づいた声も、豊かな表情も、SAIへ向けられるくだけた口調も、全部が全部魅力的だった。
とはいえ、もし彼女が全く別の見目をしていたとしても、きっと好意的に感じるのだろう。なまえへの想いが外側まで輝かせていることに、おぼろげながらも確信があった。
これまでどうやって話していただろうか。手足の使い方を不意に見失うような、機械仕掛けの気持ちに襲われ、自身の現金さがいたたまれない。何か気のきいた一言でもあれば。少ない引き出しをあさっていると、突如脇腹を小突かれる。斜め下、なまえが彼を覗き込んでいた。
「……七海君って、自分の世界に入ると本当に話を聞かない」
じっとり、視線の湿度が異様に高い。
「うそっ! 何か言ってた⁈」
「何回も! 呼んでました!」
ええ……。なぜかSAI側が困りきった顔を浮かべたため、彼女は「次やったらショック療法」と冷ややかに告げた。突然うなじを殴打でもされるのであろうか。返事をする前に意識ごと持っていかれそうだ。
SAIが目覚めてすぐ、パソコンのない時代で自身が何をすべきか自問自答し、結果、ドラゴンクエストのプログラムを無心で記録し続けたことがあった。あの時も気づけばすっかり暗くなっており、扉の外に置かれたカレーは冷めていた。後者はフランソワ手製の品で、その芳醇な匂いに抗うことは相当難しいはずだ。加えて当時の彼は腹ペコ。カレーに至っては大好物なのだった。自らの世界に没入すると周囲を一切シャットダウンする癖は、そう容易く改善とはいかなさそうである。
懐かしい余談はさておき。
「それでっ、何の話っ?」
いつか訪れるかもしれない実力行使に恐れ慄きつつ、SAIが話題をずらすと、なまえは元気に頷いた。
「そう! 故郷の服なら、七海君は向こうのクルタ? もいいんじゃない? って思って」
クルタ・パジャマ。日本のパジャマの語源ともなった、ゆったりしたインドの男性用民族衣装。着丈が長く、体のラインをあまり拾わない。一方で、細めの立襟のおかげで、カジュアルすぎもしない。
「艶々のコートもいいなあ、似合いそう。シャなんとか」
「ああ、シャルワニだろ」
こちらは地域の伝統的なロングコートのことである。生地が厚めかつ豪華な紋様、刺繍の入ったものが多く、結婚式など格式ある場で着用される。
さすがに細かな指定まで行うのは気が引けるものの、つくり自体は単純なため手工芸チームの負担を考えればありだ。デザインについてはお任せとしてしまえば、SAI個人としては無地でも問題ない。
「……じゃあっ、みょうじさんもヘレンガにしてよ」
「私も⁈」
「だって、僕だけが一人でそれっていうのも……」
なまえは先ほどよりも険しい顔で、唇を尖らし思案した。
「確かにあれ可愛いよね。着るのも楽そうだし、石化期間含めると私も三千年以上インドにいたわけだし……」
数秒後、ぽんと手を打つ。それは了承の合図であった。
*
パーティー会場は、思い思いの服装に身を包んだ人々で賑わっていた。前回に比べてフォーマルな衣装の割合が多いのは、旧現代人が増えたためかもしれない。
前回のタンクトップとジーンズの組み合わせが気に入っていたらしいコハクは、今回も同様の出立ちであった。金髪碧目がシンプルなスタイリングを引き立てている。
ニッキーも、以前に引き続きリリアンのライブを彷彿させる青いドレスを見に纏っている。美しく鍛えられたラインに沿い膝下から広がる繊細なプリーツは、高身長な彼女でなければ着こなせないだろう。
「……機体チームの皆さんは、まだご到着されていないのでしょうか?」
クリーム色のAラインワンピース姿のルリが、ふと入り口を見やる。開始から小一時間経つが、いまだエンジニアの一部は未参加であった。
「千空君から、急ぎの作業が長引いてるって連絡あったよ。なんか素材に不備? があったみたいで、急ぎで調整しないとみたい」
答えるのは杠だ。前回広末高校の制服であった彼女は、今回なんと袴スタイルである。卒業式を思い起こさせる服装に、女性陣からは私もそれにすればよかったとの声が複数あがった。「いつでもつくるよ」と返答するところがなんとも彼女らしい。
現在到着していないのはゼノ、千空、カセキ、クロム、なまえ、その他現場エンジニア数名。龍水およびゲンの音頭と見事な仕切りで会は非常に盛り上がっているが、やはり物足りなさは否めない。
──と。
「やっべー!」
チャコールグレーのスーツに身を包んだ少年が、広場へ駆け込んできた。
「クロム! 作業はもういいのか⁈」
「おうよ、さっきかたがついたぜ!」
コハクの問いかけに腕を組み、真っ白な歯を見せて笑う。その溌剌とした表情はいつもと変わらないが、整えられた身なりとのギャップで二度見必至である。
「ほら、どうなのルリ。感想は?」
南が巫女の元へ移動し、ひそひそ声でからかった。湯気が出る勢いで顔を赤らめたルリは、背を縮めて「……とても素敵だと、思います」消え入りそうな声で呟く。
しかし、そういう時に限って当然のように聞いていないのがクロムたる所以である。案の定この褒め言葉も届いておらず、記者は「もー」と、頬を膨らませる。
「ククク。全員きっちりめかしこんでんじゃねえか」
「おお、実にエレガントだ」
重役出勤の千空、ゼノも少年に続いて登場した。二人ともスーツ姿。千空は片手に白衣、ゼノはモーニングコートを携えている。科学のリーダーたちの参加へ一気に場が湧き、ある者は指笛を、ある者は手を叩いてもてなす。
「俺らはほぼほぼノータッチだからな。メンタリストのマジックでも見てテキトーに楽しみやがれ」
挨拶はこの上なくあっさりしていたが。
「ドイヒー、確かにこの後予定はしてるけど」
奥から現れたゲンが千空の言い草に両手を上げ、形だけの抗議をする。
「あと来てないのは?」
「カセキは俺と一緒だったぜ。サクラとヤマトもさっき見かけたからよ」
「じゃあ、なまえちゃんだけかな? 女の子だから着替えに時間が……」
「ごめんなさい! 遅くなって……!」
絶妙なタイミングが相まって、入退場のゲートへその場の視線が一斉に集中した。
そこには、インドの女性用民族衣装ヘレンガに身を包んだなまえの姿があった。
布を巻き付けるサリーと比べてフォーマルなそれは、より西洋のドレスに近いつくりである。トップスとボトムスがそれぞれ用意され、スカートには動くたび軽やかに揺れるドレープ。ピーコックグリーンに染め上げられた生地は、彼女の白い肌を一層引き立てていた。細い腰はあえて見せるデザインだ。
様式美が見直され、旧現代のファッションショーを席巻したこともあるドレスの華やかさは筆舌しがたい。一部には刺繍まで施されており、衣装チームの力作であることが窺える。
服装に合わせて柔らかそうな茶髪は下ろされ、至るところに小さな飾りが揺れている。よく見ると薄ら化粧もしているようだ。
ルリがほうっとため息を漏らすほどには美しい。私生活のガサツさを補ってお釣りが来る。
フランソワが少し遅れてゲートを抜けた。姿が見えないと思っていたら、どうやら彼女のスタイリングを行なっていたらしい。どうりで、あの完成度である。
ゲンは、機体チームへ労いの言葉をかけにやってきた船長へ近寄った。
「フランソワちゃんを派遣したのは龍水ちゃん? ゴイスー綺麗になっちゃって、さすが」
「フゥン、一種の檄といったところか。元を辿れば、貴様の仕立てた素晴らしい装いがあってこそだ」
「あは、はじめてつくる服だったから皆張り切っちゃって! なまえさん美人だし、スタイルもいいし。シミラールックにもしたかったから、ついつい」
龍水の返事を受け、杠が微笑む。
「シミラールックとは一体なんなのだ?」
はた、コハクが首を捻った。旧現代の常識かと思えば、大樹や千空も「なんじゃそりゃ」と言いたげな顔つきである。コホンと咳払いをした元手芸部の少女は「色とか、系統とか、柄とかを揃えて、雰囲気を合わせるコーディネートのことなんだ。同じアイテムを二人がそれぞれ持つペアルックとはまた違って」と、丁寧に説明を試みた。
「つまりなまえちゃんだけじゃなくて……?」
「うん! SAIさんもです!」
改めて、一斉に視線が移動。
到着したての工学者に寄り添う形で、ウェルカムドリンクを手渡すプログラマーの姿があった。
華やかなシャルワニは白を基調としたオーソドックスなデザイン。なまえと同じく各所に刺繍が施されており、シンプルながら地味な印象はない。裾から伸びるパンツは彼女の服と同じ濃いグリーン。
ゲンは、前段で龍水のこぼした「一種の檄」が、誰へ向けての言葉だったのか察した。なるほどね、とわずかに口元を緩める。
はじめて彼を視認したクロムの第一声が「ヤベーほどイケメン」であったように、顔立ちの端正さだけで言えば、SAIは会場内でもトップクラスである。対するなまえも本日の仕上がりは相当であるため、横に並んでいても引けを取らず、むしろ相乗効果で目立つ。
耳まで赤くした彼が何やら話しかけ、おそらく褒めたのだろう。照れるように首を傾げて微笑んだ彼女とグラスを合わせた。入り口付近に他の人影がないこともあり、笑い合う様は完全に二人の世界である。周囲のライトがスポットのように影を浮き立たせ、異国映画のロマンスを思い起こさせる情景だ。
やや距離があるためか、千空たちの注目にも一切気がついていないようだった。
「……まだよくわかってないんだけどさ」
あれは付き合ってるってことでいいのかい?
ニッキーが南へ問いかけた。
「私が七海君と⁈ 違う違う、友達」
数十分後、答えはなまえ本人から返ってきた。
「ほらね⁈ この一点張りなの! 怪しいったら」
南が腰に手を当てて、肩を怒らせた。
石の世界において、他人の恋愛はエンタメである。月九など定期的に補充されていたドラマがない現在。その手の話題に飢えている一部は、いつだって甘酸っぱい気配を見逃さない。記者としてプライバシー守護を課している南も、それはそれ、これはこれとしてSAI、なまえの関係に興味があるのだった。
「石化前からの知り合いが七海君しかいないから、どうしても気安くなっちゃって。それに、七海君は私のことそういう目で見てないし」
「そんなのわからないじゃない。何か断言できる根拠があるの?」
「まあ……そう、うーん、困ったな」
女性陣で彼女を取り囲み、やんややんやと酒を勧めた成果だろうか。ほんの少しだけ頬を染めたなまえは「三七〇〇年も経てば時効かな」目を細めた。
「──私が一方的に七海君を好きで、一回告白もしてるんだ。そこでシンプルに振られたの。友達でいたいって」
正確に言えば彼の答えはグレーゾーンなのだが、四捨五入でどちらかに当てはめるとすればあれは振られたうちに入るだろう。
なまえの頭を冷やすに、石化期間は十分すぎる長さだった。
前々から思いを溜め込んでいた自身と異なり、いきなり告白の言葉を受けてその場で決断をするというのは誰であっても難しい。もちろん、彼女の怒りの矛先は「あとで返事をする」との先延ばしですらなく、「友達でいたい」とはぐらかした振る舞いにあったのだが、それについても改めて思ったのだ。あの時、SAIがそういう返答をするかもしれないと、心のどこかでわかっていたのではないか。よくよく考えてみれば、あれは非常に彼らしい発言である気がした。
なにしろ、そんな部分含め、七海SAIという人間にうっかり惚れ込んでしまったのは他ならぬ自分自身なのだ。彼だけを責めるのは狭量というものである。
だからこそ、なまえから謝りたかった。何も言えないまま、彼をインドへ置いて船に乗り込むなんてできなかった。若い恋に振り回された反省には、自身でピリオドを打つべきだ。
兎にも角にも、突如放たれた彼女の爆弾発言に、取り囲んでいた全員が声にならない悲鳴をあげた。
「そ、その話、ちょっと詳しく!」
南に至っては、追い続けてきた二人の話にメモを取り出す始末である。筆記具を握りしめ、興奮のままグラスをマイクに見立て、すっかりインタビューの体裁だ。
「続きはないんだけどなあ……」
実は付き合っていました、ならまだしも、友人として振られ、何もないままに今へ至るだけである。深掘りしようにも話題に事欠く。
なまえは手元のワインを一口含み、首を捻った。
「あの兄弟、たまに距離感バグるじゃない? だから、たとえ何かあったとしてもそれは私だけの特別じゃないと思って」
記者は、宝島から帰還した龍水が自身のおとがいに手を添えた瞬間を回想した。言われてみればその気はある。あのプログラマーも大人しそうな顔をして、女性全員を美女扱いする船長の親族だ。
あわせて、先日目覚めたとある女性が、SAIに微笑みかけられ卒倒しかけた件を思い出す。もっともその理由は、彼女の記述したプログラムの美しさに感動したためらしいが。
「じゃあ、そもそもなんでSAIに告白したの? どうして好きになったの? きっかけ、何かあるでしょ?」
「……なんでだろう、実は私もよくわかってなくて」
なまえは懐かしそうに笑った。
頭の中に、一人訪れたインドで途方に暮れていた時、風邪を引いた時、参加していたプロジェクトが予算縮小により頓挫しかけた時。そんな思い出たちが流星群となって、感情が揺蕩う麓の湖へ落ちていった。
ヘタレで、臆病で、優しくて、自分の趣味について語る時は少し早口で、そのくせ変なところで頑固で、自己中心的で、たまに驚くような行動力を見せて。なまえが悩んでいる時に限って、これ以上ない正解をくれるのだ。それは、決して世間一般で正しいとされる模範解答ではなく、なまえが自分でも気づかぬうちに『欲しい』と願っていたものだった。彼女が丸つけをした時にだけ、満点となる証明だった。
そんなことが繰り返されるたび、なまえは単純に彼のことを知りたいと思った。何を見て、何を聞いて、何を思って答えを出すのか。最初こそ、自身が知らないことを得たがる性質や、共にする時間の心地よさも大きかった。それがいつしか、グラデーションのように、この人を好きになりたい、へ変わってしまっていたのだ。
唯一の理由なんてない。むしろ、あってくれたらどんなによいか。彼のここが好きなのだと一言で言い切ってしまえたのなら。そうすれば、彼以外の誰か、その要素に当てはまる人物を探せたかもしれない。少なくとも、いまだみっともなく引きずったりなんかしていなかった。
けれど、いないのだ。彼しかいなかった。悔しいくらいに、やはり彼が好きだった。解答用紙に油性ペンで刻まれた答えは、消しゴムなんかじゃ消せなかった。
自分でもわからないけれど、どうしようもなく七海SAIでなければダメなのだった。
「……前提になっちゃうけど、やっぱり意外なのよねえ」
ひとしきり話を聞き終えた南は、形のよい唇を尖らせる。
「私、てっきりSAIがなまえのことを好きなんだと思ってたわよ」
「まさかあ」
なまえは、ないないと手を横に振った。
もう期待はしないと決めた。彼が望むのであれば、依然残ったままの甘苦い未練を奥深くへ閉じ込めて、このまま友人でよいと思えている。諦めはつかないが、整理はできた。これからSAIに恋人ができて、その相手が自分を疎ましく感じた時、そっと距離をとる心構えもできた。
だから、せめてそれまでは、彼の友人でいさせてほしい。ファーストネームで呼びかけられなくてもいい。必要とされたい。気兼ねなく話せる一人として支えになりたい。随分とずるい大人になってしまった。それでも、それだけが彼女の願いだった。
*
SAIによってプログラミングされた宇宙船の操縦シミュレーターは、娯楽ゲームとしても復活者たちの注目を集めていた。
「なんか、いつもに増して手慣れてるね。七海君」
茶々を入れるなまえへ「昔から、ボトルシップの時もっ。龍水にやらされたんだ、設計の計算」SAIは背を向け、システムの更新を進める。
兄の頭の中には「模型のまま終わらせはしない。俺は必ず飛び出すぞ!」と、手に収まるサイズの帆船を抱く弟の姿があった。実際にその願いは実現し、今度は宇宙船のボトルシップである。彼が幼いころと同様の希望を持っていることは容易く想像された。
やらされた、なんて言葉を使うわりに表情は穏やかで。いつか彼の弟と話した「兄と他愛のない話をする」という願いが現在進行で叶っているのだと、彼女は胸の中心が温かくなるのを感じた。同時に、さざ波を思わせる感傷が同じ場所をなぜる。
リザレクション・ウォッチ。ネットガングレネード。対石化装置のアイテム開発も着々進んでいる。出立の日は目前まで迫っていた。
ゆえに、その決断は突然で。彼の性質を知っていればいるほどに衝撃的で。全員の度肝を抜く宣言であった。
それは他でもない龍水本人の口から語られた。
──南米決戦にて一度は千空たちに王手をかけた、アメリカ科学王国の武力象徴。スタンリー・スナイダーを起こし、自身の代わりにパイロットにする。
彼の言葉に全員が声帯の震わせ方を忘れ、場はしばらく沈黙に支配された。
誰よりも宇宙行きの席を欲しがっていた。にも関わらず、強すぎて、まっすぐすぎて、どうしても目を背けられなかった。
存外あっさりした態度の龍水へ、耐えきれずにチェルシーが尋ねる。
「……いーの、それで?」
「はっはー、操縦では負けんがな。銃の腕では……」
「じゃなくて、自分で、行きたかったんじゃないの?」
「……フゥン、最高の腕を持つ者が最高の仕事をする。そのことがそれこそが欲しい!」
──俺は世界一の欲しがり屋だからな……!
回答に少しだけ間を開けて。龍水はこれまで以上に力強く、皆へ語りかけた。
「……七海君の弟がすごいなんて、ずっと知ってたつもりだったのに、改めて思い知らされちゃった」
SAIが作業する様子を後ろから眺め、なまえは昼間行われた告知を振り返った。
自分の『欲しい』より、世界の『欲しい』を優先する姿。一復活者として、大きく胸を震わせられた。意地でも計画を成功させねばと、彼の宣言で何人の技術者が腹を括り直しただろう。それだけでも、あの瞬間には十分に価値がある。
「どうだろうな、あいつは……」
兄は、キーボードに向かう手をはたと止めた。椅子ごと振り返り、少し離れた場所にあるテーブル。その上に静置された宇宙船の模型を見つめる。その温かい眼差しは、弟を思いやる家族そのものだ。
「カッコつけなんだ。皆の前ではあんなこと言って意外と……今ごろ、一人で泣いてるもしれない」
SAIは、あれから自身がどんな顔をすればよいのかわからずにいた。弟が希望を叶えられなかったことを悔めばよいのか。よく決断したと褒めてやればよいのか。成長を喜べばよいのか。何も言わず見守っていればよいのか。それとも。
「みょうじさん、俺は……」
SAIのすがるような瞳に、なまえはふと微笑んだ。あの日、花火大会の日にスイカへ贈ったような、全てを肯定する優しい表情。彼女は、彼の肩へそっと指を添える。
「バーカ。そんな思い詰めた顔しないで。いいんだよ、七海君だけは安心してもいいの」
柔らかい声だった。
「どんなに龍水君が行きたがってても、やっぱり弟を、危険な場所には行かせたくなかったって。だって……七海君は龍水君のお兄さんなんだから」
──私が、絶対に責めさせたりしないから。
往復ロケットを切り出した時も、彼女は「私は怒ったり、軽蔑したりしない」とSAIに本音を促そうとした。そして今度は、責めさせたりしないときた。本当に、一体どこまでこの女性は。
地球から飛び出すために必要な速度を第一宇宙速度という。人工衛星の速度である。
地球の引力を振り切るために必要な速度を第二宇宙速度という。月行きロケットの速度である。
そして、太陽の引力を振り切るために必要な速度を第三宇宙速度という。ボイジャーの速度である。
なまえは、SAIへ語りかける。
まだ私たちは第一宇宙速度で止まっているのだと。ようやく、月行きを経て第二宇宙速度へ到達するのだと。この間、たったの一年だ。
とすれば、SAIの弟──七海龍水は、さらに速く、太陽どころか銀河系の引力さえ振り切るスピードで、次元すら超えるような冒険をこれからするのかもしれない。今回の月行きを『使命』とするならば、彼が旅立つその時こそを『夢』としよう。
誰よりも先を見据える、強く賢い人。世界に祝福されるべき人。そんな彼を失わせないために技術者がいる。旅立つ者の家族を、恋人を、友人を、不安にさせないために私たちがいる。
SAIは、自身に触れるなまえの指先を逆の腕でそっと掴んだ。じんわりと熱が沁みて、なぜか泣きたい気持ちになった。