赤い糸の語源は中国にあるのだという。
元は邪気を祓うという意味合いであったとか、小指ではなく足首に巻かれていたとか、糸ではなく縄だったとか。
異なる点はいくつかあるものの、誰も見たことはないのに、誰もがそれは赤い紐状の何かだと認知している状況は同様で。祖父からその話を聞いた時は、幼心に奇妙な違和感を覚えたものだった。
だってもしかしたらその運命様は、金属製のボールチェーンのような形状をしているのかもしれないし、綿菓子のようなべたつく何かかもしれない。案外あっさり解ける代物かもしれない。
そもそも本当にそんなものがあるのかすら誰にも分かりゃしない。
勘違いされるかもしれないが、別に俺は信仰深い古人、ましてや神様に楯突きたい訳ではなく、端にある事実を報告したいだけなのだ。
その「赤い糸」とやら、現代の科学では目に見えて触れられる形になっていますよ、ってさ。
少子化対策基本法。国が国民の遺伝子情報を一括で管理し、双方が十六歳を迎えるとプログラムが弾き出した最良の相手と引き合わされる。要するに、国が主催の、とんでもなく高度かつ大規模なお見合いである。
申し込みのあった希望者向けに始まった取り組みが、政策として正式なスタートを切ったのは二〇世紀の終わりごろ。
キューピットといえば聞こえはいいが、政府通知と呼ばれる伴侶が記載された書類を持ってやってくるのは厚生労働省の職員で、俺の時は強面のおじさんだった。
多感な思春期に自由な恋愛を禁じられ、この法自体が憲法で定められた権利を侵しているのではないかと、施行後しばらくは非難の声も少なくなかったと聞く。
しかし、義務教育期間に繰り返される内面調査、知能試験。家庭環境、思想の確認。両者の全てが噛み合うように調整された伴侶候補と上手くいかないはずがない。離婚率の減少や出生率の改善傾向がそれらを物語っていた。
遺伝子の組み合わせを行う時点で、生まれてくる子どもの優秀さにある種の保険がかかっていることも後押しとなり、今や親世代の八割が政府通知の相手を生涯のパートナーに選んでいる。
新たな当たり前は、今やすっかり社会に溶け込んだ。
もちろん、通知を拒否して恋愛結婚する自由は認められている。けれど、最終的に拒否権を行使するカップルはかなり少数だ。
安定した未来、国の意向に背いた行いは両親との関係に遺恨を残すかもしれない。同様に、迷信は承知の上で拒否権の使用は内申書や就職活動に影響を及ぼすのでは、と囁かれていた。
そして、これが最も大きな理由だが、幸か不幸か、おそらく前者で、上手くいってしまうのである。膨大な量の個人情報と演算処理で選ばれた、ただ一人の相手に惹かれ、好いてしまうのだ。
人は外見では恋をしない、とはよく言ったもので、結果の算出にあたり、個々の見た目は考慮しないという。存外、ロマンのある話なのかもしれない。
神様。赤い糸と呼ばれる何かは、赤くもなければ糸でもない、事務的で、真っ白な書類だったよ。
*
まあ、社会のあり方が多少変わったとはいえ、男子高校生の本質はそう易々と変わらない。
可愛い女子と席が近くなればそれなりに嬉しいし、うっかり気持ちを持っていかれてしまうことだってある。中には、お互いへ通知が来るまでの期限付きで付き合う奴らもいる。
教室に入ってくるなり、うめくような声で「……来たわ」と絞り出したクラスメイトに群がって、茶化したりする程度には俗っぽくもあった。
通知が来た段階では相手の名前しか分からないものだから、インターネットで検索をかけつつ顔写真を探し、ああだこうだと適当なことを言い合う。当の本人が机に沈みながら「よくある名前だからどれか分からねえ」とぼやくため、外見はルーレットだからあんまり期待するなと、かわるがわるにぽこぽこ頭を叩いてやった。
どうせすぐに顔合わせだぞ、と笑う。ともすれば「手嶋は誕生日に来たんだろ」といきなり槍玉に挙げられ、頰をかいた。
「そ、〇時ちょうどにメールでな。前日に厚労省の人も来たし」
部活終わったら親から鬼電入っててビビったよ、と付け加える。
「……なあ、初めて会った時ってどんな感じだった? あー、どうしよ。今から手汗やべえんだけど」
会話に加わる数人の中で政府通知を受け取っているのは俺と、もう一人。二人で顔を見合わせ、なし崩し的に話題の矛先を委ねられる形となる。
「顔合わせの日にちと場所は勝手に決められて、平日なら学校休むよ。なんと公欠。良かったな、合法的にサボれるぞ」
「休めるのは嬉しいんだけどなあ」
「俺もめちゃくちゃビビってたから。相手年下だろ? 絶対お前より緊張してるって」
双方が十六歳以上になった時に通知が送られてくるというルールから、相手の誕生日がここ最近で、二学年下であることを推測する。俺も二者間では年下の側だから、相手の落ち着かない気持ちはよく分かるのだ。
そういや手嶋の相手って何個上だっけ? と尋ねられ、指を三本立てるとなぜか起こる、おおっといったどよめき。いや、冷やかしといった方が正確か。
「意外と自分から話してくれないもんなあ、手嶋君は」
「取り立てて面白い事件がねえからだよ。順調なんで」
ものは言いようだな。肩に軽いチョップを食らう。そういうお前こそ相手にベタ惚れもいいとこだろ。知ってるんだからな。
「どこ出身の人?」
「生まれも育ちも、通ってる大学も東京だって。なんつーか御令嬢? フリフリの日傘とか似合うかも」
本当にお前で大丈夫なのかよ、とヤジが飛ぶ。俺だって自分の行儀が良くないことは承知の上だ。
「じゃあインターハイにもいたんか? 栃木なら行きやすいだろ」
「ああ。テスト期間と被ったらしくて、三日目だけな」
「マジかよ、見たかったなー。ゴールにいた?」
「いや、途中の沿道。山に入る前」
うだるような日差しと、仲間の背中と、萌える緑、荒い呼吸。それらに交じって、額に張り付いた前髪を払った時覗いた、空色のワンピースを思い出す。
どちらかといえばインドア派だと俯いていた、透けるように白い肌が真っ直ぐ目に飛び込んできた。暑さと疲労で参っていた頭は、なぜか彼女のやたらに細い首筋を鮮明に記憶している。
後日、ゴールで応援できなくてごめんね、と謝られ、そもそも途中リタイアで最後まで辿り着けなかった俺は返答に困ってしまった。
そういや、人が多いところだと声が届かない、なんて地図を片手に悩んでいた。どうやら需要のない場所で応援をしてしまったと、勝手に思い込んで落ち込んでいるようだった。
互いに言い淀んだ後、俺の戸惑いを察したのか、嫌味じゃなくて、と柄でもなく大きな手振りつきで立ち上がった彼女の姿に思わず吹き出したっけな。
いいんだよ。俺からすれば、六人で走ってる瞬間を切り取ってもらえて。
「……すげえ嬉しかったよ」
手持ち無沙汰になっていた右手で、机の上に転がっていた友人のシャーペンを弄ぶ。振ったら芯が出るタイプのものだ。
微かな重心の揺れが心地よく、アスファルトの上、ボトルを受け取った瞬間に指へ伝わる振動をふと重ねた。
部の顔を引き継ぎ、抱えていた重荷を下ろしたはいいものの、引退試合やら、悩む新主将の相談やら、迫る受験の対策やら。気の休まる時間はなかなか訪れなかった。
地元のそこそこ小規模なヒルクライムに出場して正式に部を退き、放課後つま先を向ける先は部室から図書室へと変わった。習慣とは怖いもので、未だにぼーっとしていると部活棟に向かっていることがあり、その度にこそこそと踵を返す。
そんなちょっと恥ずかしい経験談の数が片手じゃ足りなくなる頃、走りてえな、とじわじわと痺れるように考えることが、以前にも増して多くなっていることに気がついた。
志望校の過去問へ齧り付き、対策集と睨めっこするだけでも削られるものはあるが、どうしてもやり場のない体力を持て余してそわそわしてしまう。
もう走れない、と思うことはこれまでに何度もあった。あの舞台に立ちたいと渇望することも数え切れないほどあった。ペダルを回して回して、登って、登り疲れてまた登って。上に行くほどレースの裾野は狭くなり、才能の差は広がっていく。
けれど、努力は報われないと俯いた時すら、自転車の上にいた。とどのつまりただのバイクバカだ。
だからこそ、純粋に走りたいと願うのは久々で、日常のことある瞬間にロードの面影を感じる、多少危ない奴になりかけている。
来週日曜、午前中なら。スケジュールに赤丸で記載された模試の日程に目をやり、捻出できそうなタイミングを図った。
走ったら気持ち良さそうな場所ある?
誰が、何で、という主語を抜かした問い掛けに、返信があったのは半日後だった。絵文字の少ない彼女らしく「オリンピック公園がいいんじゃなかな」と、非常に簡潔な文で。それでも出会ってから二年の月日が悩み抜いた答えなのだと気づかせてくれる。
挙げられた公園には数回行ったことがあった。正直、本格的な練習に向かない場所だが、今回の目的はあくまで気分転換。親子連れの多い和やかな雰囲気は逆に丁度良いのかもしれないと思い直し、目的地が確定した。
峰が山を走る案は、万が一後輩達に会ったらつい時間を忘れて練習に参加してしまいそうだということで早々に却下となっている。センター試験を控えている身として、これまで以上に時間は有限と思わなければならない。
とはいえ、ロードに乗らないという選択肢がないのだから、もっと受験生らしくしろと言われたらやはり頭を下げるしかないのだ。
まあ、なるようになるだろ。体力作りも受験対策の一環だと思えば、悪くはない。あの手この手でこじつけを行い、脳内議論を無理やり一蹴する。
いつかの小野田に倣い、東京まで流すか。公園には二キロ強のサイクリングコースが設置されていたはずだから、そこを数周して帰ろう。経路をぼんやり思い描き、もはや小旅行の距離となってしまったことに苦笑する。
この時点の俺は、久しぶりに愛車と外出する目処が立ちそこそこ浮かれていた。
一瞬のことでした。突然でした。気がついた時には遅かったんです。
ニュースでよく耳にする、事件のきっかけ。それらはいつだって、思いもよらぬ寸秒のことだ。
例に漏れず、俺に降りかかってきたそれも、ほんの数コンマの出来事だった。
ペダルを踏み込み、心地よい疲労を感じながら。そろそろカロリーを取っておくか、なんて考え始めた時。
背後のポケットへ手を伸ばすと、自転車上での態勢が微妙に変わり、視線が真正面から気持ち斜め下、地面寄りにずれる。とはいえ、基本的に実害があるわけでもなく、マナー違反でもない。ルーティンに含めても構わない程度の些細な動き、のはずだった。
その隙を見事に縫って、前方に人影が飛び出して来なければ。
「ーーどわっ! っぶねえ!」
ギョッとする。目を剥く。
おいおい、アホか! ここ車道だぞ!
近くに横断歩道や歩道橋は見当たらず、確かに急いで対面に渡ろうとするならばここを横切るしかない。
それにしても、なかなかの頻度で自動車が行き交う道だ。よっぽどの無用心か、もしくは無関心か。
咄嗟にブレーキだけでは間に合わないと判断し、片足の踵を地面に擦り付けて減速させる。弓形に沿うよう背中へ重心を寄せたことも功を奏し、なんとか衝突を避けた。
インターハイ優勝校、元主将の過失事故。ショッキングな見出しが脳裏をチラつく。
「あのっ、大丈夫ですか? 怪我は?」
ガチャガチャと忙しなく、ペダルからもう片方のシューズを外し、足がすくんだのかその場に立ち尽くして動かない相手に駆け寄る。駆け寄って、そして、ようやくまんまるに見開かれた相手の目を捉えた。
見覚えのある姿だった。覚えがあるどころか、忘れなくても忘れられない奴だった。
実際に顔を合わせて話したのは数えるほどで。それでも、その印象は夏めいた匂いとともに濃く、強く、鮮やか。
「……ま、なみ?」
箱根学園のエースクライマー、真波山岳がそこにいた。
ぱりっとした制服。第一ボタンは至極当たり前のように開き、それでもきちんと折り目のついたパンツ、皺ひとつない襟が、これは学生の正装だと主張している。
遠目で分からなかったのは、気が動転していたことに加え、真波の格好が意外だったことも要因だろう。
箱根学園の制服は知っているが、飄々とした、黒田や泉田曰くふわふわとした彼は、その性格に準じて、多少だらしない着こなしをしているのでは、と思い込んでいた。例えば、結び目の適当なネクタイとか、掛け違えたボタンとか。
もう一度「真波だよな?」と半分くらい自分に言い聞かせる目的で呟く。すると、目の前の男もぽかんとした顔をしながらゆっくり頷くため脱力してしまった。
知り合いだと分かった瞬間、それまでの焦りが多少落ち着き、いきなり危ねえだろという当て付けがふつふつ湧き上がってくる。
「あのなあ、俺が不注意だったのは謝るけど、お前も大概だぞ。エースが怪我したら洒落にならねえだろ」
近寄って服が汚れていないこと、地面に擦った後がないことを確認し、どこか捻ったりしてないか? と尋ねる。
「……あ」
真波の唇がかすかに動くも、意味のある単語を発するに引き結ばれてしまう。
どうした? と問いかければ大きな瞳がふるりと揺れた。何か訴えたいことがあるのだと直感的に悟り、熱を持った表情にあてられ、反射的にごくり、唾を飲み込む。
「おい、まなーー」
「真波君! 急にどうしたんだ」
質問を遮って、通りに面した建物の中から中肉中背の男が滑り出てきた。
清潔そうなスーツときっちり分けられた髪型が堅い職業を想起させる。真っ直ぐこちらへやってくるその人を一瞥するなり、真波はバツの悪そうな顔を浮かべた。
さっぱり状況が飲み込めない俺は、二人の距離が瞬きする度にみるみる縮まっていくのを、コマ送りのように見つめることしかできない。
「後で、坂道君に電話します」
言うなり、真波は電柱に立てかけていた俺の愛車にひらりと跨った。
あ、と言う暇も待てと言う余裕もなく。人間心から驚くと、本当に何もできないのだなあ、なんて客観的に思いすらして。平坦だと俺とそこまでスピード変わらねえじゃん、革靴だから当然か、と頷いたりもして。
……いや、俺の帰宅手段は。
ようやく現実と向き合い始めた時、かつて十三を背負っていたその背中は点ほどの大きさに遠ざかっていた。
「……真波君のお知り合いですか?」
先程ビルから飛び出してきた初対面の男性が額を抑えながら切り出したので、まあ、それなりに、となんとも要領を得ない返事をする。
「彼は自転車競技部だと伺いましたから。そちらの関係のご友人ではと思いまして」
なるほど。確かに俺の服装は自転車乗り以外の何者でもない。真波がロードを強奪する場面も目にしていたのだから、その結論に至って当然だ。
そこでようやく、大人と話す時に帽子を被りっぱなしというのはいかがなものと思いつく。ヘルメットを外して胸元に持ち直せば、相手方もその間に、鞄から手のひらサイズのケースを取り出していた。
差し出された名刺を受け取る。
「私はこういう者です。不躾なお願いで大変申し訳ありませんが、もし真波君と連絡が取れたら、私まで一報入れるよう伝えて頂けませんか」
ああ、そういうことか。ひっかかっていた違和感が一つの答えに収束し始める。
やけに整ったあいつの制服姿、敷居の高そうなテナントばかりのビル、そして名刺に記載された厚生労働省の文字。
これは俺の予想なんだけど。予想というには核心に近すぎる気もするんだけど。
お前さ、もしかして今日が政府通知の顔合わせだったんじゃないか?
先日、教室で友人と交わした会話が蘇る。顔合わせに公欠が許されると言うことは、つまりそれだけ重要な行事ということだ。
それをすっぽかすということは、逃げ出すということは。
なあ、真波。お前、どうしたんだよ。
練習中だったので携帯見てなくて、としょぼくれた声音の小野田から連絡があったのは、自転車泥棒からきっかり一時間後のことだった。
学校名がプリントされた派手なサイクルジャージではないといえ、体にピタッと張り付いたこの格好で本屋や喫茶店で暇を潰すのは憚られ、さて、どうしたものかと盗難事件があったところから一歩も動かずガードレールに体を預けて悶々していた俺はほうっと安堵の息をつく。
秋か冬か迷う時期、すっかり身体は冷え切ってしまった。
こっちの都合に巻き込んで悪いな、と謝罪し、真波がここから二駅離れた場所で待っていると聞く。
何が起こったのか、訝しんでいるようだったが、今度説明するからと終話した。正直、俺も現状をどう伝えるべきか検討がつかない。
感情の大部分を占める憂慮。さらに少々の苛立ちと、野次馬根性と、一抹の不安、予期せぬ巡り合わせに対する興奮にも似た何か。
「すみませんでした」
と、開口一番に告げた真波が、深々下げた頭をしばらく上げられずにいたのも、この複雑な心境がそのまま顔に出ていたことが大きいのではと思う。
お詫びのつもりなんだろう。ロードとともに献上されたミルクティー缶の熱が、指先にジクジクとむず痒かった。
見目良い男子高校生が、駅前で大仰に謝罪をしている姿は想像以上に注目を集めらしく、先ほどから通りすがる人の視線も痛い。
「もういいから。そんなに畏まられると話づらいだろ」
促されて頭の位置を正した真波は、気に入りのおもちゃを取り上げられた猫のようにしゅんとしていた。
これまで主将として、なかなか個性派な後輩達を相手に奮闘してきたと思うが、こいつはその誰とも違う。他校という壁も影響し、一概に説教といっても距離の線引きが非常に難しい。
「……とりあえず、お前がやったのはただの泥棒だからな。しかも現行犯」
「本当にすみませんでした」
「置き去りにされた俺の身にもなれっつーの。すげえ寒かったんぞ」
「ごめんなさい」
「小野田にも事情説明してやれよ。一から全部とは言わねえけど。心配してたから」
「はい。申し訳なかったです」
謝罪文のビュッフェか。
数ヶ月前、レース中の会話をそれは見事にぶった斬り、前に走る選手を追いかけて行った奴と同一人物だなんて到底思えない。
出来物一つない綺麗な額を、流した前髪から覗かせ項垂れている。ぴょこんと出ているアホ毛は、重力に従って力なく垂れ下がり意気消沈。しっぽのようだった。
時折こちらを伺う目も反省の色に沈んでいる。追撃は必要ないだろう。先刻繰り広げられた一部始終もあり、なんだかこいつは怒りづらい。
芝居がけて肩をすくめ、はい終わりな、と手を打った。
「言いたいのはこれだけ。後はスーツの人からの伝言。連絡くれってさ」
話の切れ目に合わせて一息つこうと、ぬるまった缶のプルタブを開け唇を湿らす。
そういえば元々の目的は久々の運動と気晴らしだった。怒涛の展開に惑わされすっかり忘れていたが、確認するまでもなく予定時間をオーバーしている。
サイクリングの折り返し地点を変更し、早々に帰路へつかなければならない。
「じゃあ俺はそろそろ行くから。お前も気をつけて帰れよ」
「え」
「なんだよ。また道路に飛び出すなよ」
「だから、あの」
困ったのか、焦ったのか、どちらともつかない表情を浮かべた真波は、少し間を置いて言葉を続けた。
「これで終わりですか?」
「……終わりだけど?」
「何も聞かないんですか」
「何か言いたいなら聞くけど」
「ええ……」
これは意地だ。そりゃあ問いただしたいことは山ほどある。
けれど、プライベートな案件の詳細を、真波の罪悪感を引き合いにして無理矢理聞き出すようなことはどうしてもしたくなかった。もし逆の立場なら俺だってされたくない。
「……手嶋さん、気付いてますよね?」
「何に? お前がクライマーってことと、腹立つくらい速いってことしか知らねえよ。お前だって、俺が小野田とか今泉の先輩ってことしか知らねえんじゃねえの?」
なかなかわざとらしいすっとぼけだとは思う。
「俺は自転車を返してもらいに来ただけ」
「……手嶋さんって、とことん手嶋さんなんですね」
強張っていた真波の顔が、少し綻ぶ。
「俺、坂道君と電話繋がるまでどうやって説明しようかずっと考えてたんですよ」
「そりゃ悪いことしたな。耳だけでいいなら貸すよ」
「いえ、いいです。ありがとうございます。あ、あと、もしまたこういうことがあった時のために連絡先教えてください」
改めてぺこりと頭を下げたかと思いきや、とんでもなくふてぶてしい台詞がついてきた。
頼むからもう勘弁しろ、と頭を抱える。それでも年下からの申し出を断れないのは、弟持ちの性だ。
「……もし、例えば、万が一、近くの人に相談できない話があって、適当に遠い、適当な先輩に、適当にぼかしてなら言えるかもって思ったら連絡しろよ」
ぱちくりと数回瞬きを繰り返した後、今度こそ完全に緊張の解けた笑顔で箱根の天才クライマーは頷いた。
*
『会いたいです』
驚くほど簡潔な文章が、待ち受け画面にぴこんと表示されたのは真波との再会から半年ほど経過した、卒業式の翌日だった。
高校の制服を着るとコスプレになってしまう。けれど大学生でもない、宙ぶらりんな数週間の一日目。
無事に前期日程で受験を終わらせた俺は、ある程度余裕を持って新生活の準備に取り掛かっていて。連絡を受けたちょうどその時も卒業旅行の計画を見直している最中だった。
謝恩会の写真がアルバムに追加される通知に混じり、ぽつりと浮かび上がったその一言はやたら目立つ。宛名を確認して、相手を理解した瞬間に今度は着信音が響いた。
躊躇う相手でもないか、とすぐに通話ボタンを押すと「お久しぶりです」と間延びした声。
「坂道君から昨日卒業式だったって聞いたので。卒業おめでとうございます」
「おお、ありがとな」
意外と律儀な奴だ。
「それで、手嶋さんに会いたいんですけど。空いてる日教えてください。あ、大丈夫です。俺がそっちまで行くので」
前言撤回。マイペースな奴だ。
「ライバル高同士、あんまり仲良くできないじゃないですか。俺は三年ですし。手嶋さんは元主将だし。この前偶然会った話をしたら、立場があるだろって怒られちゃって。坂道君みたいにそれはそれ、これはこれって考えてくれるタイプもいますけど、手嶋さんはきっちりしてそうなので」
「何が言いたいんだ?」
「OBになった記念に、一日だけ俺に付き合ってくださいよ」
場所は任せます、とのんびりした口調で言われたが、さすがに千葉まで呼び出すのは気が引けたため、お互いの県の間をとって東京で待ち合わせることにした。
ふと思いつき、あの時到着が叶わなかった駒沢オリンピック公園を指定する。山じゃないんですか、と言われるかもしれないな。一瞬躊躇うが、そもそも自転車で集合なんて取り決めはなかったと気がついた。
まあ、多分あいつはロードでやってくるだろうし、俺も前回のリベンジだ。真波の用件について詳細は不明だが、余った時間にぐるりと園内を回れる程度の配慮さえしておけば十分だろう。
予想通り、トレードマークの白いLOOKに跨って、当日の時間ぴったりにやってきた真波は「ここ、坂はないんですね」と舗装されたコースに不満を漏らした。
「手嶋さんなら山一択だと思ってたのに」
「明日から旅行なんだよ。俺だけ身体バキバキで行くわけにもいかねえだろ」
「生きてる感じしていいじゃないですか」
「死んでる感じの間違いだろ」
つかみどころのない真波の発言に合いの手を入れながら自転車を押してずんずん進む。
サイクリングコースの脇にある芝生広場に出ると、数組の子ども連れが等間隔で弁当を広げていた。
ここでいいか、と俺たちもスペースを見繕い、隣接された売店で飲み物を二本購入する。
真波は、緑が濃くなってきた芝にご満悦のようだった。リンゴジュースを放ると、座り込みながら、ご馳走様です、と眉を下げる。
俺も横に腰を下ろして、ペットボトルのキャップを緩めた。
さて、そろそろ本題に入りたい。
「で、話したいことって?」
「え? なんですか、それ」
隣の男は天然のカーペットにゴロゴロ寝転び、ふにゃんと微笑んでいる。
「えーっと……話したいことがあるから呼び出したんじゃねえの? そのつもりで来たんだけど」
「言ったじゃないですか。手嶋さんに会いたいですって。ただ、会いたかっただけ」
なんだそれは。ストレートな物言いに拍子抜けしてしまう。
「あれ、もしかして怒ってます?」
「怒らねえよ。ただ、いいのかなって思っただけ。他校の、ほぼ接点のない俺に時間使うくらいなら、泉田とか、シキバとか、黒田とか、祝ってやりゃよかったのに」
「言いましたよ。おめでとうも、ありがとうも、ちゃんと伝えました」
強めの風が二人の間を通り抜け、わっと目を瞑ると、手嶋さん変な顔、おもむろに真波が吹き出した。このイケメンめ。
「お前に凡人の気持ちは分からねえよ」
「あはは、すみません。手嶋さんの気持ちは難しいなあ。分からないので教えて欲しいです」
冗談っぽい語り口のわりに、その眼差しは至って真剣だ。
そういえば、いつかのつづら折りでも言ってたよな。興味出てきましたって。
まだ一年も経っていない青い季節を想像し、ふっと笑む。俺のことなんか知ってどうするんだ? どちらかといえば俺の方が、ご自慢の羽の出し方をご教授願いたいくらいなんだけど。
「例えば、俺的に今日はデートなんですけど、手嶋さんはどうですか?」
意味を理解するまで、少々時間がかかった。
「……寝不足か?」
「昨日は十二時間睡眠です」
間髪入れずに答えが返ってくる。それはそれで寝過ぎだろ。
「……俺のデート基準は、女の子と二人で出かけたら」
真波のつまらない冗談にいちいち突っ込むわけにもいかず、なんとなくの自論を告げる。すると「ありゃ」なんて、腑抜けた相槌。
「二人きりですよ、今。これってデートじゃないんですか?」
「男二人な」
うーん、またしても曖昧な返答をして、真波は寝返りを打った。柔らかい地面に頬を擦り付け、俺と視線を合わせ直す。体重で潰れた草からほのかに土の香りがした。
「ねえ、手嶋さん」
「なんだよ」
「やっぱり、話したいことありました」
「そうか、良かったな」
「耳、貸してくれますか」
くだらない話だろうが、ドラマばりの重い話だろうが、乗りかかった船だ。
いいよ、付き合うよ。自由に使え。
倣って、俺も芝へ横になる。首を傾げると、想像以上に真波の顔が近くにあった。吸い込まれそうに大きな瞳で、じっとこちらを見つめている。
「手嶋さん」
吐息。
「何?」
「もう一つだけ、貸して欲しいです」
「耳以外?」
真波は頷いた。
そして、仰向けの俺が「どうぞ」と苦笑するのを確認して、逡巡して、目を細めて、身体を少し起こして、そして、そうして。
唇を重ねた。
俺と、真波の。
薄い皮膚同士が掠めるようにくっついて、離れた。
目は開けたままだった。あまりにも近すぎて、ぼやけて何も見えなかった。
離れた場所から、はしゃいだ、幼い声がした。
「キスは初めてですか?」
何事もなかったかのように、姿勢を戻した真波は、それはそれは優しい声色で囁いた。
「いや、そんなわけないか。ごめんなさい。手嶋さんは通知来てるんですもんね」
葦木場さんがそんなことを言ってた気がします、と続ける。
「俺は初めてです」
呆気に取られるしかなかった。いや、何すんだバカ、と小突いてやって良かった。
もしかしたら、呼び出しからここまでの全てがタチの悪い冗談で、俺に止められるのを今か今かと待っているのかもしれない。
そうだ。こいつなりの度をこしたスキンシップなのかもしれないのだ。
ただ、触れた部分の冷たさと、中心部の熱さ、かすかに感じた震えを思い返して、そんな気がするする消えていってしまうのも確かだった。
だって、もしこいつが本気だったら、大真面目だったら。俺の何の気ない一言で、大事に抱えていた何かがプツンと切れてしまうのではと。
そう案じてしまうほどには拙くて、情けない口付けだったから。
ぽつぽつと紡がれた前日譚によると、半年前のあの日、真波は政府通知の相手と会っていたわけではなかったという。
義務教育期間に受けてきた数々のテスト、調査から、同性に恋愛的な好意を持つ傾向があると診断された。そのため、現在政府通知の演算リストから外されている、と宣告を受けていたのだ。
そういった場合、まずは本人と担当者の二者で話し合い、今後の選択をしていくらしい。自分の性的嗜好を家族に知られたくない層が一定数いるための措置だと聞いた。そうやって方針が固まり次第、担当者が家まで出向き、内容を説明する。
候補に挙がる選択肢は様々で、世間体のために同じ境遇の女性と形だけでも結婚するだとか。同じ傾向が見られた同性の中からパートナーを探すだとか。
中には、ショックを受けて政府通知やその手の斡旋を全て拒否してしまう人もいるのだという。
当の真波は至極淡々と、それらの事実をどこか他人事のよう語っていた。
「女の子は普通に好きですよ。ふわふわで柔らかそうで。抱きしめたらいい匂いするし、キスするのもえっちもするのも気持ちいいだろうなって思うんですけど。なんか呼び出されて、話を聞かされて、まず浮かんだのが手嶋さんで。俺、何も言えなくて。そういうことかって、納得させられちゃったんです。自覚なしに同性を好きって本当にあるみたいなんですよ」
それで、頭の中がぐるぐるして、つい飛び出したら手嶋さんがいて。びっくりしました。運命だって思いました。
コロコロと転がっていくボールを追いかける、年少くらいの子ども。温かく見守る両親。
それらを見渡して、いいですね、と真波は口元を緩めた。ありふれたこんな光景でさえ眩しくてたまらないと、表情がそのままを告げていた。
「……あのさ、真波」
「はい」
「何で、俺?」
「手嶋さんだから」
ふうっと一息。
「後出しになっちゃいますけど、本当は、言うつもりなんてなかったんです。好きなだけだから、普通に。手嶋さんを好きになっちゃっただけ。片想いでいいんですよ」
真波は「普通」の三文字を、殊更ゆっくりと告げた。ひどく掠れた弱弱しい声で、勝手にキスしてごめんなさい、とも付け足した。
手持ち無沙汰な時間がぼんやりと過ぎ去っていく。流れた風に木漏れ日ごと揺れる。まだ太陽は高い位置にあった。
帰るか。帰りましょうか。どちらからともなく切り出す。
先に立ち上がった真波は伸びをして、青く抜ける空を背景に振り向いた。
いろはになぞられた坂で見た光、背を押すその瞬き。不思議と名残惜しさがよく似ていた。
*
猫が見たいの、と彼女は言った。
履修とバイトが決まり、新たな生活に慣れつつある四月下旬のことだった。
入学式前の嵐のような「告白」は、胸中を観測史上最大の暴風雨でかき乱してくれた。
俺はというもの、環境の変化にともなう目まぐるしい日々を利用し、それらを頭の隅に追いやろうと必死で。
だって、無理にでも自制しなければ永遠に思考が堂々巡りになることは明白だったから。
スケジュールを新歓や、学科仲間との飯やら、カラオケやら。あえての予定で埋めるたび、後ろめたい気持ちがもやもやと渦巻く。
蓄積する灰色の感情は、彼女へのメッセージをも躊躇いがちにさせた。
そもそも就職活動真っ只中らしく、三月以降しばらくは音信不通になる、と事前通告を受けていたのだ。幸い、俺が気を遣っていると都合よく解釈してくれたようだった。
定期の近況報告では面接に次ぐ面接の日々、と聞いていた。実家に頼らず、自分の力で進路を決めたいのだと。だから、今はその時間を優先したいと。
しかし、どうやらゴールデンウィークの間は余裕ができるらしい。羽を伸ばすため、以前から気になっていた美術館に行きたいと言い出した。
出会ってから、およそ二ヶ月も顔を合わせない期間があったのは初めてのことだ。埋め合わせの意味も含め、すぐ了承の旨を送付した。
お目当ての絵は外国の美術館から借り受けているもので、展示されるのは限られた期間なのだという。ホームページには解像度の低い写真と、聞いたことのない芸術家の名前が記載されていた。
バスケットの中から、閲覧者を見つめ返す子猫の絵だ。瞳孔に描かれているのは作者自身の姿なのだろうか。魚眼のように歪む中、白髪とその下に穏やかな顔。
実際に肉眼で見ると、画面越しだと気が付かないことが分かるんだよ、と俺の感想を噛み砕く彼女は嬉しそうだった。
猫といえば。
「純太君はシュレーディンガーの猫って知ってる?」
「シュレ……ごめん、何? 品種?」
「品種じゃないよ。シュレーディンガーは人の名前なの」
館内のソファーで足を休めながら、隣で買ったばかりのキーケースを早速取り出す。合皮には件の猫がプリントされている。
まるで本物の猫へ触れるように表面をそっと撫で、これありがとう、と彼女は白い歯をちらつかせた。
バイトの初任給を使いプレゼントしたのだ。そこまで高価な代物ではなかったが、こうして喜ぶ顔を見ると、その反応自体にお金では買えない価値を感じる。
「……シュレーディンガーは物理学者。その人が唱えた思考実験をシュレーディンガーの猫って呼ぶんだよ」
「思考実験って哲学みたいな?」
「そうそう。哲学みたいなあれです」
こほんと咳払い。
「箱の中に猫を入れて密封したら、その中で猫が生きてるのか、死んでるのか誰にも分からなくなるでしょう。この時、箱を開けるまで、猫が生きている、猫が死んでいるの可能性が五十パーセントずつ同時に存在するよねって考え方。この間、講義で聞いたの」
彼女は、弄んでいた新品のキーケースをハンカチに包み、するりと鞄に滑り込ませた。一連の様子を見ていた俺へ、傷がついたら大変、とはにかむ。
薄桃色に縁どられた爪を膝の上で重ねると、ふんわり甘い匂いがした。紅茶の香り。一つ一つの仕草から、育ちの良さがにじんでいる。
「要するに、答えを確かめるまでどんな仮説も否定できないってこと。サンタクロースはいるし、魔法もあるってこと」
「いいな、その例え」
「政府通知もシュレーディンガーの猫だって言われてるよね。十六歳になる前なら、例えば、初恋の人と結ばれる可能性もゼロじゃないから。限りなくゼロでも、否定はできない。通知が来るまではなんでもありなの」
今日の彼女はやけに饒舌だった。念願の作品を鑑賞できたことが相当嬉しかったんだろう。古い建物で、エアコンの効きが悪いことも影響し、柔らかそうな頬は一日中熱りっぱなしだ。
それにしても、
「……猫、好きだったんだな」
改めて、初めて知った一面に唸る。
美術への造詣が深いことは知っていたし、動物好きなことも聞いていた。
だが、絵から始まり、猫をテーマにしてここまで話せるとは。今日の俺は聞き役に徹している時間の方が長い。口が回る方なのは自覚しているし、おおよその要素が平凡な中で、数少ない売りの一つだと思っている。普段の彼女も言葉少ななタイプだったから、余計に。
「うん、好き。でも、どちらかといえば猫を好きなのは純太君の方でしょう?」
「俺?」
「そうだよ。ふらっと気ままで、自由で、こっちが振り回されちゃうのがいいんだって。私は猫も好きだけど、強いて言うなら犬派」
そんなこと言ったか? と考え込めば、女の記憶力を舐めないの、と脇腹をツンツン突かれた。
「純太君、私って猫に似てる?」
「……猫、ではないかな。ちゃんとしてるから」
「ちゃんとしてる猫もいるよ」
む、唇を尖らす。
「ねえ、犬と猫で喧嘩しちゃったらどうしよっか」
「どっちを飼うか、って?」
将来ね、と彼女は目を伏せた。
「決めなきゃいけないこと、たくさんあるよ。済ませなきゃいけないことも」
だから、と続ける。
「……そろそろしたいなって」
うん、とすぐ言えれば良かった。
おそらく、二ヶ月前だったら。お前から言わせてごめんな、こういうのって男から言うべきだよな、とかちょっと格好つけたりなんかして、華奢な肩に手をやれたのだろう。
気を抜けば、反射の「ごめん」が溢れてしまいそうだった。頷くのが難しくて、咄嗟に肯定できなかったことを誤魔化すように無理やり、なあ、を絞り出す。
「今日ってデートだよな」
「急にどうしたの」
彼女は何もかもを見透かしたように笑ってみせた。
「好きな人と二人でいられれば、それだけでデートでしょう」
そうだよな。お前の言う通りだよ。
*
小田原駅前は夏の終わる匂いがした。
新緑が落ち、一部の葉は暖かな色合いに衣替えしようとしている。行き交う人々の影すら緋色に染まって見えるのは、日が傾きつつあるからだろうか。
「インターハイ以来ですね」
真波の髪は八月頭よりも伸びていて、襟足がくくれるくらいの長さになっていた。
「気がついてたのか」
「はい」
ジャージ以外の私服は初めて見る。薄手のパーカーにTシャツとラフな装いにも関わらず、やけに大人びた姿だった。
「びっくりしましたよ。もう一生会えないかと思ってたので」
話したいことがある。二日前に送った、誘いというにはあまりにも簡素なメッセージ。
俺だって、たったの九文字を送る決心がつくのに、こんな時間を要するとは思わなかったよ。
「やめろって。お前に会えなくなったら困る」
「え、どうしたんですか」
寝不足ですか、以前と立場が逆転したかのような発言だった。
ああ、残念ながらそうだよ。
緊張してなかなか寝付けなかったもんだから、寄せては返す浅い眠りをずっと揺蕩っていたんだ。
「……お前と同じ理由だよ」
あの日「会いたかっただけ」と言った訳がようやく分かったから。
確かめに来たんだろ。
自分の気持ちが「好き」か「それ以外」か、どちらに傾いているのかを。「それ以外」だったら、ヘラヘラ笑って、そのまま何も言わずに別れるつもりだったんだろ。藁にも縋るような思いだったんだろ。
分かるよ。
俺も、猫箱を開けに来たんだ。
「聞きたくないです」
俺が言わんとしていることを真波は敏感に察したらしかった。くるりと背を向け、姿勢からもその意思を示してくる。
「……俺が女の子だったら手嶋さんに好きだなんて言いませんでしたよ」
どうしてだか分かります?
裾から覗く指がぎゅうっと握られたのが分かった。同時に俺の心臓にも手がかけられたように痛む。
「少子化基本法って、子どもの人数を増やすためにできたやつじゃないですか。最初から俺は相手候補にすら入れてないんです。男だから。でも、だから、分からないから、もしかしたらって信じられるじゃないですか。男も女も関係なかったら、そんな組み合わせがあったら、手嶋さんは俺と、って」
ゆっくりとこちらを振り向く。後ろには深い藍に変わりつつもかろうじて青を保つ大気があった。
真波がいるその風景が、今まで目にしてきた何よりも綺麗だと思った。
「だから、言わないでください。答えはいらないです」
頼むから、そんな捨てられた猫みたいな、今にも泣き出しそうな目をしてくれるなよ。
勝手に言いたいことだけ言って、俺の前からいなくなるな。一生会えないとか言うな。
お前ばっかりずるいじゃんか。
「……放って置けないから、じゃだめ?」
近くに停車していたバスが動きだす。その排気音を合図に、まとまらない何かをぽろりと吐露した。
なんでだろう、分かんねえけど。俺、お前を一人にしたくないんだよ。
「俺、結構単純なんだ。憧れの先輩に主将に向いてるって言われたら張り切るし、相性がいいって言われたら気になるし、好きって言われたら、きっと、好きになっちゃうんだよ」
完全に唖然とした面持ちだった。
数秒の沈黙。視線がうろうろとアスファルトを移動し、ええ……と情けない呟きを漏らしながら、真波は頭を押さえる。
「……通知は? 政府通知の相手は」
「めちゃくちゃ好き」
「言ってること無茶苦茶ですよ」
「本命がいても浮気する奴いるじゃん。こういう気持ちなんだろうなって。怖いよな。途中まで自覚がないの」
「……うわあ、普通に最低です」
「普通にな」
遅くなったけど、気が付いちゃったんだよ。薄々分かりつつ、名前をつけないようにしていたんだ。
でも、先に箱を開けたのは真波だろ。俺はここに箱があることすら知らなかったんだから。
「多分、普通にお前が本命なんだ」
厳禁な奴だよ。だから俺も何でお前が俺を好きなんて言い出したのかさっぱりで。ましな部分を切り取って、美化してるんじゃないかって不安なんだ。
でも、お前もお前じゃん。勝手に告白して、挙句の果てにファーストキスまで奪いやがって。
箱入り娘のあいつに、お互い初めてだね、ってずっと言われてて、そろそろしたいな、って。やっとだぞ。三年間プラトニックもいいところで。
もうしちゃったよ、なんてどの面下げて伝えればいいんだ。
「……好きってことですか?」
「それはまだ分かんねえけど」
「好きかどうかも分からないのに本命なんですか?」
真波の声は驚きを通り越して呆れていた。
「あの、男同士じゃ子どもはできません」
「バカにすんな、知ってるよ。でも、子どもくらい、その辺の自転車の中からいきなり出てくるかもしれねえじゃん。扇とおうなだよ」
「……かぐや姫?」
その返しが今できれば大したもんだ。
もう分かりません。俺の人生計画ぐちゃぐちゃです。いきなりすぎますよ。全部手嶋さんのせいです。
真波は熱を測るようにずっと額を抑えていたが、終いにはその場で中腰になり、顔を覆ってしまう。唯一覗いている耳は真っ赤だった。
「……手嶋さんは、俺と、一緒にいたいんですか」
「そうだよ。今日だってデートのつもりで来たんだ」
男二人ですよ。
最後の忠告は、ぐずついた嗚咽交じりだった。
*
結論から言えば、政府通知の破棄を切り出し勘当寸前までいった場を収めてくれたのは、恋愛結婚したという向こうの祖父母と、他ならぬ彼女だった。
マナミが同性だと知っても、泣き腫らした目をしていても、彼女はついに、最後の最後まで、真波が真波であることを否定しなかった。
ごめん。何回言っても足りないくらい。でも、これだけは本当で。やっぱりすげえ好きだよ。すげえ好きだった。
だから、ごめん。
猫を見つけて、ごめんな。