彼女を救出したのは、科学王国がイバラに勝利した二日後のことだった。
一時的に船を占拠された経緯より、ペルセウス号の中を捜索したところ、予備の資材置き場に憔悴しきったなまえを見つけたのだ。
島内の牢に入れられているのでは、と予想していたが、イバラは島民を石化させた後、石神村へ向かうつもりだったらしい。なまえは案内役に使う予定だったのだろう。
怪我をしていたとしても、石化さえすれば復活時にあわせて回復する。しかし、イバラの計算通り光線の範囲外だった船の中でその恩恵は受けられない。駆けつけたフランソワが、思わず眉を顰めた瞬間を、俺は見逃さなかった。それほどに痛々しい姿だった。
腫れ上がった左足首は折れており、至るところに青紫の打撲痕があった。頭上で縛られている手首は擦り傷まみれ。また、縄のかかった柱には黒い跡が残っている。強く頭を打ちつけたのだろう。乾いた血液が髪の毛に絡まり凝固していた。
なにより、その状態で二日間飲まず食わずで放置された結果、唇はひび割れ、頬にも血色がない。わずかに息があることだけが救いだった。
波は高くないといえ、微細に揺らされ続けるこのみょうじ境は治療に不向きだ。「くれぐれも慎重に」というフランソワの指示のもと、なまえを背負って船を降りる。
イバラとの最終決戦は、イレギュラーこそあれどなんとか上手くいった。この作戦には、様々な要素がからんでいるが、その一つに情報操作を担当した彼女の役割がある。モズとの取引により、あえて拘束されることで、イバラに俺たちの表向きの情報を小出した。この傷は、拷問を受けた結果耐えられずに仲間を売った、というパフォーマンスのためだろう。決行日が作戦通りだったという結果が、その働きを証明している。
あの時もそうだった。この女性は、自身のことを駒として俯瞰するきらいがある。
背中に冷えた体温を感じながら、数ヶ月前、嵐の夜の記憶を反芻した。
不幸中の幸いと言うべきか、なまえの怪我は左足以外そこまで重傷ではなかった。出血量の多い頭部が心配だったが、深く割れてはおらず、一通り検査を終えたフランソワが安堵していた。特にスイカは、なまえが自身の身代わりになったという意識が強かったのか、救護施設で号泣したという。杠と花田仁姫が、嗚咽する小さな背をさすり続けていた。
彼女の回復は目覚ましく、五日後にはカセキが即席でつくった松葉杖をついて、ひょこひょこ歩けるまでになっていた。痛み止めに効く薬草として古来使われていたハマゴウが採取できたため、気休めとはいえ効果があったのかもしれない。
また、司と未来のため、残り電池が心許ない石化装置は使わないことにしたのだそうだ。あの合理的な千空が珍しく言い淀み、なまえから切り出した現場を覚えている。
岩に腰掛け、作業に勤しむ背中を見ていると、この細い体のどこにあの胆力が眠っているのだろうかと不思議に思う。視界の中に彼女がいないと、つい探してしまう。そして、無事な様子を窺っては勝手に胸を撫で下ろしている。
後日、船修復のため、一部再測量が必要な箇所が出てきた。千空やクロムが代わりに行う予定ではあるものの、念のためこれまでの手法を確認した方が良い。
「なまえ、少しいいか?」
状況を説明すると、「あそこかー」と、額に手を当てた彼女が片手で松葉杖を取った。
「あのあたり、かなり曲度がある木を使ったから水平にするのが大変かも。水準器は出してた? 念のため私も行こうかな」
「こら。貴様、無粋だな」
立ちあがろうとするなまえを無理やり座らせ、右足を立ててひざまづく。
「こうするだろう、当然」
俺がしゃがんだことで斜め上から降り注ぐ視線。その目は逡巡の気配を持っていた。
「あの、おんぶはダメ?」
「こちらの方が色々見やすいと思うが」
「うーん、おっしゃる通り……困ったな」
しばし悩んだ後、いそいそと俺の足に腰掛けると、ほっそりした左腕が肩に回る。合図をして抱き上げると、なまえが歓声を上げた。
「わ! 思ってたより高い! 龍水君って身長どれくらいだっけ」
「石化前は、一八五程度だったか」
「なるほどね。おかげ様で、いつもより遠くまで見える気がする」
目を細める横顔。頬に小さな擦り傷の痕。唇付近に痣。髪の生え際にも瘡蓋が残っており、数日前の姿を呼び起こさせる。
「頭は、まだ痛むのか?」
「ちょっとだけ。ここって血が出やすいから少しの怪我でも大仰に見えちゃうよね。ご心配おかけしました」
「顔に傷が残らないといいが」
「いいんだよ、これくらい。守るほどのものじゃないし」
なまえが飄々とのたまう。
続けて、普段と違う視座からの景色を改めて見渡した後、呟くように告げた。
「……本当に気にしないでね。私の判断だから、これは私のせい」
「それは……」
「龍水君、私にすっごく気を遣ってくれてるでしょ。分かるよ、そういうの」
思わず歩みを止めてなまえの表情を窺う。元々口角が上がった顔立ちにより、なかなか心の内が掴めないこともあるが、今ばかりは容易い。子どもを嗜める時に見せる面持ちだ。
「だから、ごめんねって言いたかったの。ただでさえ航海中は頼りっぱなしなのに。船の上じゃなくても、修復作業の指揮とか、それ以外の役割分担とか、龍水君が回してるよね。考えることたくさんあるのに、私にまで気を遣わせてごめん」
満ちてはすぐ引く波のように、胸がざわめく。
「……貴様の、その性質はいつからだ?」
「性質?」
「いざという時、自分をないがしろにする嫌いがあるだろう。あの嵐の日も、今回も。一体いつからそうだった?」
「……そんな大層なことではないんだけど、強いて言うなら弟が生まれた時から?」
「……兄弟か」
「一種のおせっかいかもしれないなあ。私、いつだってお姉ちゃんでいたいの。しょうもないけど、あの子の唯一の姉っていうのが、私が私であるための羅針盤にもなってるから」
以前からの関心事に、ようやく一つの答えが導かれた。彼女のこれまでの行動、言動が線で結ばれる。
同時に、俺は彼女が抱える反射的な危うさとその結果すら、すべて理解したいのだと気がついた。衝動にも近い感情だ。一番近くに寄り添い、可能であれば俺だけ触れられることを許された、そんな何かが欲しい。
唇の下に残された痣が噛み跡に思えて、けれどその事実を尋ねて良いものか、こんな風に悩まなくても良いくらいに。
***
「ゲン、たとえばの話だが」
後日、メンタリストに問いかけた時の話だ。
「欲しいに上位互換があるとして、その気持ちに名前をつけるとしたらどうする?」
「えー、なになに? ゴイスー気になる質問なんだけど」
軽薄そうな素振りに見えて、その目の奥はこちらを観察している。食えない男だ。だからこそ忖度なしに信用できるとも言える。
「龍水ちゃんの意図はひとまず置いておくとして、そうね……」
ゲンは千空のように右手の人差し指と中指を顔のそばに立て、告げた。
「独占欲、とか?」