unmeasured うしお

「龍水君って、時々潮ちゃんみたい」
なまえがくすくすと笑いながら、俺の肩へ体重をかけて立ち上がる。
宝島から日本へ帰還後、片足が不自由な彼女が気になり、移動の気配を感じるたび声をかけた。もちろん恩着せがましくするつもりは毛頭ないため、あくまで自然の範囲内。最初こそ躊躇いの様子を見せていたが、ついぞ観念したようだ。
じわりと広がる温かい手のひらを布越しに感じながら、初めて聞いた名前の主について考える。
「潮、というのは? 女性か?」
「あー、響きだけだと女の子みたいな名前だよね。ちゃんと男だよ」
「……フゥン」
「ちゃんと」に含まれている背景を想像するも、なぜか仄暗い感情が胸を覆う。
なまえが特定の誰かを、それも石化前の知り合いを引き合いに出すことは少ない。これは全員に言えることでもある。共通の知人でもない限り、わざわざ具体名を出して掲示する必要がないからだ。復活者と網羅的に顔見知りである記者の特異さも、これらが要因とできる。
食堂までの道のり。先ほど出た名前の主について詳細を聞こうかしばし悩んだ。しかし、結局口には出せずじまい。どこか後ろめたい指摘しづらさに加え、作業場を出たところで合流した羽京による「ポイント・ネモ」という単語に、めずらしくなまえが食いついたからだ。海については博識とは言い難い彼女の言動に耳をそばだてると、どうやら測量技師が導いた場所だと授業の補足で扱ったらしい。
タイミングを逃し、この後数年間に渡って微妙な蟠りは胸に残り続けることとなった。問題が解決したのは、なんと月から帰還した後へと大きくジャンプする。
彼女が「弟だよー」と、のほほんとした口調で微笑んだ、ある日の夕方のことだ。

***

五七五四年十一月。
イシガミ賞授与式からおよそ一ヶ月が経った頃、愛する恋人から海を渡って手紙が届いた。
普段離れている時は電話でのやり取りが多いため、このパターンはめずらしい。ただ、手元に残し、何度でも読み返せる点はありがたく、まだ旧現代と比べれば弱い情報網において、少ない利点とも言える部分だ。
フランソワから引き取った封筒を、レターオープナーで開封する。
龍水財閥を本格的に発足すべく慌ただしい毎日を送っているが、並行してなまえへ正式なプロポーズをすべく準備も進めていた。南米で別れる間際のあれは、適した表現が難しいものの予約に近い。無事に起こされた彼女の家族へ、対面で挨拶したい旨もやんわりと伝えている。
もしかすると、そのスケジュールの相談かもしれない。いや、であれば電話で済ませる。急ぎの用事ではないにしろ、手紙を出すに値する重要事項。設立したての建設会社についてだろうか。
頭の片隅であれこれ想像しながら、滑り出てきた一枚を開く。内容は非常に簡潔だった。
『話がしたいです。姉さんには内緒で。』
以上。
用紙の左下に申し訳程度の大きさで折り返し先が明記されている。その名前を見て、俺は思わず目を疑った。
潮。
封筒に記載された差出人と苗字は同じ。しかし、署名されていたのは、紛れもなく恋人の弟の名前だった。

「さすがに場所は合わせますよ」と、平坦なトーンの譲歩を受け、待ち合わせはオーストラリアとなった。各国持ち回りで行われる主要会議の会場である。
議題が多かったことからやや後ろへずれ込んだ会議を済ませ、足早に指定の喫茶店へ向かう。
二人きりで、との希望を出されてしまったからには大人数を連れ回すわけにもいかず、フランソワのみ距離を空けて着いてきている状況だ。気軽に車も出せない。
市街地ともなれば、すでに整備が済んでいる。特にこのシドニーは港も近く、物資が潤沢だ。道なりにオープンテラスのカフェがいくつも見受けられた。南半球は初夏であることから、外出しやすい気温。行き交う住人も多いような気がする。
人混みをかき分けながら目当ての通りに辿り着き、俺はじわりと滲む額の汗を拭った。

ビューテラス、パラソルの下。一人でメニュー表を眺めている東洋人。
「……待たせてすまなかった。貴様が『潮』か?」
呼びかけに応じた彼は、座ったままこちらを覗き込み、深い海の底のような黒い瞳を瞬かせた。
顔のつくりはまだ幼く、青年というよりも少年のようなあどけなさを持っている。なまえとは五つ離れていたはずだ。先月石化から目覚めたことを加味すれば、現在十六歳。
日に当たると柔らかな茶を透かすなまえの癖毛とは異なり、濡烏と言うのだろうか。艶のある直毛が清潔に整えられている。
「あなたが姉さんの『彼氏』ですね」
涼やかな眼差しが、頭のてっぺんから爪先までをなぞった。
「どうぞ、座ってください」
いつかなまえが告げた「潮ちゃんはちょっとクールだけど、根っこは素直だから」との言葉が頭をよぎる。もう少し詳細を聞いておけばよかったのかもしれない。
「……姉さんとはいつから?」
「出会ったのは、今から十四年前だ」
「付き合いだしてどのくらいなんです?」
「もう四年になる」
人見知りであればまだ良かったものの、完全に値踏みされている気配。やや温度を保ち始めたぬるい視線はさすがに居心地が悪い。それが恋人の親族であるならば尚更だ。
特に印象的なのが、これらの質問中ほぼ静止を保つ表情筋である。吸い込まれそうな目の深さも相まって、尋問を受けている気にすらなる。
ふと手持ち無沙汰な俺の指先を見やった彼が「……失礼しました。注文も聞かずに」とメニュー表を滑らせた。

「こうして直接お会いするのは初めてですね。なまえの弟の潮です。今日はお忙しいところありがとうございます」
コーヒーが運ばれてきてしばらく。ミルクが撹拌される様子を観察していた彼が、ようやく向き直った。表情は相も変わらない上、口調も淡々としている。しかし、その内容は決して尖っておらずだ。
「七海龍水だ。よろしく頼む」
差し出した手は綺麗に無視された。
「いきなりですけど、七海さんは」
「龍水でいい」
「……七海さんは、姉さんのどこが良いと思って、そういう……恋愛に至ったんです?」
頑固だ。このあたり血筋を思わせる。とはいえ、口を尖らせていても話が滞るため、このまま進めることにする。
「適切な言葉をずっと探している。一言で表すのは難しいが、要素に分けると語りきれん」
「そうですか」
しばし潮の逡巡。何か俺から続けるべきか悩んでいると、彼がポツリと呟いた。
「……七海さんは、カルピス飲んだことありますか? というか、そもそも知ってます?」
「知っているし、飲んだこともあるぞ」
宝島へ向かう前、小銭やファーストフード店についても同様の質問をされた記憶がある。
「失礼しました。じゃあこれも知っているかもしれませんが。あれって原液を水で割って作るので、家庭の味があるんですよ。傾向として、お金がない家ほど水の割合が多い」
バーフランソワで、スイカのために調合されたカクテルが思い起こされる。「すっごく甘くて美味しいんだよ」と、頬を緩ませていた少女。とはいえ、石神村の住人は甘味に現代よりも敏感なため、比較対象にはしづらい。
「ご存じでしたらすみません。つまり、うちはまさにそれで、他の家に比べてすごく味が薄かったんです。僕も友達の家に遊びに行くまで、自分の家が普通だと思ってたんですけど」
潮の口元がわずかに引き結ばれた。
「それを姉に言った日から、家で姉がカルピスを飲んでいるところを見たことがないんです。以降、僕の分は前よりずっと濃くなりました」
「それは、らしい話だな」
「……七海さんは、それが姉さん『らしい』と思うんですね」
潮は、コースター周囲に水溜まりをつくるグラスを手に取り、長く細く息をついた。その仕草に何かを堪えているような、些細な違和感を感じ取る。
「話半ばだが、俺からも一つ確認したい。貴様は俺に何か直接伝えたいことがあったんじゃないのか?」
「そうですね。さっきまでの話は余談です」
「遠慮せずに聞かせてみろ」
「怒ると思いますよ」
「俺がそんな男に見えるか?」
「そう言う意味じゃないですけど……。嫌なことを言う自覚があったから、直接話したかったんです。言い逃げはずるいので」
俺の首元を射ていた瞳が、虹彩に焦点を合わせる。限りなく黒に近い藍色。深い、光の届かない海溝のような。オーストラリアの青い空を映し込む澄んだ目。
その美しさに思わず息を呑むと、潮はさざ波を思わせる密かなトーンで告げた。
「--姉さんとの結婚、考え直してもらえませんか」

***

「他に適任はいるだろうがよ」
研究室は、雑多にものが散乱しているようで、その実作業が進みやすいように整えられていた。懐かしい薬品の香りに鼻腔をくすぐられながら、こちらに背中を向けてフラスコを揺する科学者を見つめる。
「話したい時に話せるみょうじ境を含めての『適任』だ。違うか?」
わずかにポンと音がし、ガラス内の反応物を確かめる。
作業に目処がついたらしい千空は、「言っとくが、ろくなアドバイスはできねえぞ」と振り向いた。
「ただでさえ大樹と杠がうだうだしてんだ」
「あの二人は別格だろう。結局のところ、大樹は気持ちは伝えられたのか?」
「杠の両親が見つかるまでは余計なことで悩ませたくないんだと」
「さすがの器量だな、あいつは」
初期のインフラを支えた力強い仲間。真っ直ぐな精神と強靭な忍耐力を思い起こし、笑みが溢れる。
次の瞬間、先日見つかった恋人の両親が連想され、併せてこの状況に至った理由が蘇る。
「……先ほど、なぜ自分なのかと問うたな」
少し似ているように思えてな、貴様は。
「なまえの弟に、か?」
主語の足りない台詞は、めずらしく千空によって補足された。
こくりと頷く。平均よりも線の細い体つきだけではなく、あくまで合理性や理知的な部分を重んじそうなところ。内に覗かせる人間らしさ。潮の方がかなり表情筋は気難しいと思われるが。それでも、だ。
「貴様だったら、の『たられば』を聞かせてほしい」
「……人間関係のアドバイスは専門外だ。期待はすんなよ」
鼻から聞く気がなければ、彼のスケジュールを一時間こじ開けるのは相当の困難だろうに。お首にも出さず、通常運転に見せかけるのが千空たる所以だろう。
「貴様相手に期待するなというのは難しい相談だな」
本心からの台詞は、「アホか」と簡潔かつ気安い軽口に流された。

「正直、誰が誰と一緒になろうが関係ねえんだが……身内が、っつーことだよな」
改めて詳細を聞き終えるや否やの第一声。目の前の男は後頭部をガリガリとかき、唸る。石神村の巫女とわずか一分で離婚した男は、言葉の重みが違う。
「仮説一、シンプルにテメェが気に入らねえ」
「オブラートのオの字もないな!」
はっはー! と景気良く指を鳴らしてやる。
「仮説二、七海財閥が気に入らねえ」
「否定はできん」
知ったのはそれこそロケット製作期間になるが、彼女の父は七海海輸の下請の下請に勤めていたらしい。そこで唐突に首を切られ、家族揃って厳しい経済状況に直面していたと聞く。
そういうことはもっと早く言え、と思ったものだが、いつもの眉尻を下げた優しい笑顔で「龍水君が解雇したわけじゃないでしょ」と返されてしまえば惚れた弱みである。
「仮説三、そもそも理由なんかねえ」
「フゥン?」
「生憎論理的ではねえけどな」
そこで千空は「あ」に濁点つけて唸った。
「悪いがこれ以上はお手上げだ」
「いや、十分だ」
差し出されたグラスの残りを一息で飲み干す。この科学一筋男も、いくらかはもてなしの術を覚えたのだと、先ほどは感心したものだ。
音を立てる氷の器を目で追いながら、千空はふと声を上げた。
「……今回は王子と姫に喩えねえのな」
今となっては懐かしい。自らの欲望に、優先順位を課した日の記憶だ。
「登場人物が変わったからな」
「そうかよ」
返ってきたのは、あの時から変わらない、若干含みのある笑い声だった。

***

「そうしてると普通の人に見えますね、って言おうと思いましたけど、全然普通じゃないですね」
復興半ばの、過去でいう無人駅に近い作りのホームを背に、潮は眉根を寄せた。
「そうか?」
「普通の人はそういうオーラを出して人待ちしませんよ。あと、砂浜を待ち合わせに選ばないと思います」
「貴様は海が好きだと、以前なまえに聞いたからな」
「……なるほど」
足元に水飛沫を浴びながら、彼は水平線へと視線を移す。
「ちょうど満潮ですかね」
「波の満ち引き、貴様のことだな」
目を数回瞬かせ、彼は「ああ、潮」と自らの名前を呟いた。

数日前、久方ぶりに日本へ帰還した俺は「返事をするから付き合え」と、強引にアポイントを取り付けた。意外と言うべきか、すんなり二つ返事をよこした彼は、こうして現在進行形で俺の隣に佇んでいる。

本当は姉さんが潮って名前にあるはずだったんですよ。
「女の子だったのでひらがな表記の。父さんが海の好きな人だから。でも、祖母の意見が強くて今の名前になったんです」
「それは……初耳だな」
「そうですか」
太陽がもうすぐ沈む。
「よかったです。姉さんが『うしお』じゃなくて。七海なんて苗字に、名前まで海の気配がしたら腹立つじゃないですか」
お似合いで。
「その時は、貴様がなまえだったのかもな」
「気持ち悪いこと言わないでくださいよ」
「名前の話だ」
そうだ。たかが名前の、されど名前の。
「俺は、彼女が『うしお』だったら、今と同じような愛し方をしていたかわからない」
この出会いが単なる偶然であると知っている。偶然を必然と信じたいだけだ。そして、だからこそ尊いのだと分かっている。
「なまえの幸せを願っている。同じくらい、なまえが欲しい」
「……やな人だなあ」
「性分だ」
弟は、これまでよりも柔らかい声で告げた。
「心配しなくても姉さんはあの通り頑固ですから、僕が反対しようとしまいとあなたと結婚しますよ」
「言っておくが、俺は貴様からの祝福も欲しいぜ」
「なんですか、それ」
潮は肩を落とした。
「姉さんに内緒で、姉さんの好きな人に嫌なことばっかり言って、僕なら僕に祝われても嬉しくないですけど」
「だが、なまえが貴様を愛している」
「は……あ」
「--望み通り、改めて考え直した結論だ。俺は貴様の姉が欲しいと思っている。なまえが愛す貴様ごと、彼女が欲しい」
「……噂以上の欲張りですね、七海さん。姉さんを、絶対幸せにするとは言ってくれないのに。願ってるだけだ」
「幸せになるためになまえと一緒になりたいんじゃない。幸せじゃなくても、正しくなくても、俺は彼女と、貴様の姉と、共にありたい。もちろん、可能な限り善処するが」
「……あは。そんな救世主みたいな台詞、真顔で言われたら」
呆れたような素振りで、それでも確かに、はじめて潮が口元を緩めた。少しだけ細められた目元、下がった眉が愛する女性と重なった。

***

後日、それとなく話題に上げたカルピスのエピソードに、なまえは口元を手で覆った。
「潮ちゃんに飲ませてあげたかったのは本当。でもちょっとは拗ねたよ、聖人君子じゃないから。布団の中で不貞腐れたこともあったし」
それでも、あの子は私の弟だから。
そうすることに、そうしたいと思うことに、理由なんてないのだと、彼女は潮の香りがする髪を揺らした。