Prayer 2章① 蔵原走

「──いるんだな、神様って」

バカを言うな。そんなわけないだろう。
誰かが囁いた言葉に、走は寝返りを打ちながらそっと毒づいた。
神様なんて、所詮はどうしようもない状況に置かれた昔の人間が、すがるものほしさにつくった何かでしかない。よい人間がひもじい思いをして、悪い人間がのうのうと暮らしている。そんなのは社会でザラにある、ありふれた出来事じゃないか。世界は決して平等につくられてはいない。当たり前だ。当たり前すぎて、多くの者が気がつかないふりをしているだけだ。
──随分と偉そうに。そういうお前はどうなんだ。
心の奥で響いた幼い問いかけには答えず、走は頭から毛布をかぶる。借り物のそれは、お香のような、どこか遠くの田舎を思わせる生活臭がした。
わかっている。走はただ規則的に足を送り出すことしかできなかった。狭いトラックに閉じ込められて、時間の流れと格闘していただけだった。何もできず、何も変えられやしなかった。答えなんて、自身が一番わかっている。
まどろみの縁。全身が柔く解けていくような感覚に身を委ねる。夢うつつなまぶたの裏には、環状八号線付近の雑多な住宅街が流れていく。穏やかで静かな暗やみだった。
「……はい。ようやくスタートラインです」
音にならない返事を汲み取ったかのように、声の主は窓の向こうでわずかに苦笑した。

──竹青荘。
年季の入った板に、かろうじてそれだけが読み取れた。すっかり日の落ちた時間帯ということもあり、建物全体がどこかおどろおどろしく見える。
いつか聞かされた三匹の子豚の中で、二番目の兄が立てた木の家が登場したが、まさにそんな雰囲気である。ひとたびの突風で、吹き飛びそうなほどに心許ない。文化財と言われた方がまだ納得できる古めかしさだった。
「俺たちはアオタケと呼んでいる。あっちが大家さんの家だ。あとで挨拶に行こう」
清瀬と名乗った青年は、走の視線をさして気にする素振りなく、「犬のニラだ」と、玄関前の雑種犬の頭を撫でた。

自室となる一〇三号室に通された走は、腰を落ち着ける暇もなく、竹青荘に住まう人々を紹介される運びとなった。手渡された真鍮製の鍵をポケットに滑り込ませ、案内されるがままにアパート内をうろつく。一階の食堂、手洗いの電気は点いておらず、今は誰も使っていない様子だった。
「門限はなし。布団は明日用意するから、今夜は俺の毛布で我慢しろ。掃除当番のローテーションは月ごとに台所へ張り出される。飯は、朝と夜は俺がつくる。風呂はこの先の『鶴の湯』に行ってもいいし、大家さんの家の風呂を借りることもできる」すらすら語りながら、清瀬はうぐいす張りかと思うほどに軋む階段をほとんど音を立てずに上っていく。
慌てて背中を追った走は、同じ顔をした二人の人間と相対した。
「紹介する。二〇一号室の城兄弟だ。兄の城太郎と──」
「ジョータでいいよ」
「──弟の城次郎」
「俺、ジョージ」
間違い探しをするかのように二人の顔を比べる走へ、双子たちは同時に「よろしく」と声をかける。いかにも活発な雰囲気で、細かいことは気にない質のようだ。
すぐ側の部屋から「カラカラ帝の公衆浴場! よし!」嬉々とした叫びが聞こえた。
清瀬に続いて走が室内を覗き込むと、空のティッシュ箱を早押しボタンに見立てた男がクイズ番組と向き合っている。
ちょうどそこにも二人の住人が居合わせていたらしい。部屋の主であろうやや小柄な青年は、扉付近まで出てくると人好きのする笑みを浮かべた。
「二〇五号室の杉山高志。商学部三年生──あだ名は神童」
「神のわらべって書いて、神童。よろしくね」
「奥のが二〇二号室の坂口洋平。社会学部。俺と同じ四年生だ」
清瀬が、背中を見せながら設問に奮闘する青年を示す。
「キングって呼んであげて。クイズ王なんで……ああ、自称ね」
温和な雰囲気のなせる技か、彼の言葉に嫌味たらしさは一切ない。多少警戒心を持っていた走までふわふわとした心待ちにさせられる。次に訪れた部屋で「触るな!」といきなり呼びかけられ、温度差にひっくり返りそうになるくらいには。
「……絶妙なバランスで成り立っている。何が起きても責任は取れない」
「──だそうだ。二〇四号室、柏崎茜。文学部二年。あだ名は王子」
走は、高く積まれた本たちを触れないよう注意して眺めた。この部屋は一〇三号室のちょうど真上にあたる。先刻下の部屋に入った時、天井がキイキイと鳴いたのは絶対に彼──彼の所有物のせいだ。
「俺の部屋と場所を交換しませんか」
「湿気の多い一階に大事な本を置けと? ご冗談を」
必死な走の提案に、王子は重そうなまつ毛をしばたたかせ、「ナイアガラの滝の下で暮らしていると思いたまえ」と補足した。抗議の意図を視線で示すも、清瀬は静かに首を振る。こればかりは無駄、と言いたいらしい。
家鳴りへ一層気を揉みつつ再度一階に降りれば、廊下の奥で青年──と呼ぶにはいささか仕上がりすぎている男が、黙々とタバコをふかしていた。
「一〇四号室、平田彰宏さん。皆はニコチャン先輩と呼んでいる。理工学部三年。はじめて会った時は先輩だったが、今では俺の一年後輩だ」
走が小さな声で「大学って何年いられるんですか」尋ねると、ニコチャン本人が「八年。俺はまだ五年目だ」と答えた。走の見立てでは、その年数に加えて複数年浪人もしている。
清瀬が肩をすくめるのと同時に、対面の部屋からまた一人飛び出してくる。
「ニコチン中毒だ! ニコチン中毒! ニコチン大魔王! 臭い臭い!」
「うっせえな、お前が神経質すぎんだよ」
「これ訴えたら百─〇でこっちっすよ。ちょっと聞いてんすか! ニコチャン先輩! まだ吸うか!」
「お前だって夜中にチャカポコチャカポコ。わけわかんねえ音楽を一晩中聞きやがって」
「深夜はヘッドホンしてるっつーの!」
眼鏡をかけた、いかにも神経質そうな男。かいつまんだ会話で察するに長いこと煙害に苦しめられているらしい。勢いのある噛みつきに走が呆気にとられていると、いつものやりとりだ、と清瀬が目配せした。
「こっちが一〇二号室。岩倉雪彦。ユキと呼んでる。司法試験に一発合格の法学部四年生だ」
続けて隣の母屋に連れて行かれ、促されるまま大家の田崎に挨拶をした走は、「今ならまだ風呂が借りられる」との進言を受け、はいともいいえとも答える前に脱衣所へ突っ込まれた。
道中で入浴を終えたばかりの住人と遭遇し、全裸の相手から握手を求められる。
「留学生のムサ・カマラ。理工学部二年だ」
微笑むムサを見上げながら、走は自分よりもやや大きなその手のひらをとる。彼が風呂上がりのためだろうか。じんわりとした熱が、指先から沁みていくような気がした。
その後、「あがったら一声かけてくれ。一〇一号室。俺の部屋だ。ああ、ゆっくりでいいぞ」と言いたいことだけ一方的に残し、清瀬はそそくさとアパートへ帰っていった。
置いていかれた格好の走は、このまま何もしないで出ていくわけにもいかず。仕方なく風呂をいただくことにした。脱衣所には大型の洗濯機が備えられ、大家と思われる達筆な字で使用の注意事項が明記されている。
億劫に服を脱ぎ、身体を流し、張られた湯へ体を沈める。鼻の上まで浸かると、自分の心臓の音だけがやたら大きく鳴り響いた。まとわりつく水が重い。
──こんなところで一体何をやっているんだろう、俺は。
痺れた頭の奥が、自身を諌める。好きにしろ、と厄介払いをするように告げた両親。元チームメイトの嘲笑と怒り。そして、つい一、二時間前までの記憶が、浴槽へ収まりきらない湯のように溢れ出す。
「──待ちなさい、こらあ」
うるさい。
「──待ってえ……万引きです……誰かあ」
うるさい。うるさい。
まぶたを閉じる動作に力がこもる。響く鼓動が、リズムを伴って車輪の音と重なる。
星の見える夜道。チェーンのからまりそうな自転車にまたがって、立ち漕ぎで、自身を追いかけてくる青年。風でドテラがなびく。濡れた髪にこの向かい風は堪えるに違いない。
しかし、彼はそんなこと気にも留めていない様子だった。ただ、瞳の中にうつくしい流星を宿して。走に並走しながら、青年は問いかける。
「なあ──走るの好きか」
なんで。
「走るの好きか?」
なんでそんなこと。今、俺に。
思わず足を止めた走へ、その男は「急に止まるな、少し流そう」と親しげに告げた。垣間見える問答無用の圧力に押され、数十メートル先の自動販売機前まで歩を進める。小銭が落ちる音がしたかと思えば、なめらかな動作でお茶のペットボトルを放られる。
「きみは、いい走りをしているな」
「……はあ」
もらったペットボトルに口をつけてよいものか。走が悩んでいると、青年は「ちょっと失礼」と断るなり突如屈んだ。驚く走を無視して、ふくらはぎへ手を伸ばす。
優男か、はたまた変質者か。読めない行動に慄きながら、走は半ば投げやりな心持ちで男の腕に身を任せた。細かなことをいちいち考えるのは億劫だった。この際、どうにでもなれだ。
開き直った走の態度を許可と捉えたらしい青年は、脚についた筋肉をじっくりと確認し、「なんで万引きなんかした?」問いかける。
「──ああ、警察には言わない。約束する。お前が何者か知りたいだけだ」
さっぱりとした眼差しは、純粋な興味だけを色濃く反映していた。
「俺は寛政大学文学部四年、清瀬灰二。お前は?」
「……蔵原、走」
「蔵原……。家は? この辺に住んでるのか?」
「いや、あの、寛政大で」
途端、清瀬の顔色が変わった。悪い方ではなく、かといってよい意味でもないのだが、明らかに興奮した様子である。やはり、先刻の二択は変質者の方か。
「寛政大の学生か? 学部は?」
男の剣幕に、走は後ずさった。
「いや、もう、マジで」
「後輩なら余計放っておけないだろう。どこだ、学部は」
これ以上離れることを許さないとでも言いたげに、伸ばした腕で力強く肩を掴まれる。痛いくらいにギリギリと。薄い皮膚に指が食い込んだ。
「社会学部……あの、もういいすか、本当」
「待てって。金がないのか? 仕送りはどうした」
「あ……アパートの敷金、全部雀荘で」
だから、雨風凌げる場所を探し、大学の体育館脇で寝泊まりしていたのだ。コンクリートの外階段がつくる陰は肌寒かったが、他に行く宛もない。簡単に身を寄せられる場所がないからこそ、がむしゃらな心だけ握りしめて上京して来た。家を出るにあたり持ってきた荷物も、スポーツバック一つに収まる量だった。
「それならうちに来い」目の前の青年が、あっさりと言い放つ。
「……は?」
「俺が住んでいるアパートを紹介する。部屋に一つ空きがあるんだ」
「いや、だから金が──」
「払える時でいい。任せろ。俺が必ず話をつける」
訳がわからなかった。やたらと説得力のある青年の言葉に押され、走は手持ち無沙汰に視線を彷徨わせる。
「…………なんで。そんな──清瀬さんは、俺を信用してくれるんですか?」
「信用? 何を言っている。できるわけないだろう。俺たちはまだ出会ったばかりだ。俺が知っているのは今会ったばかりのきみだけだ」
「はあ? じゃあ……」
「そうだな。あえて言うなら、実にいい走りっぷりだった。生き生きしていて、とても自由だった。俺は、ただそれがすごく気に入っただけだ──その走りの分だけ、きみを信じる」
先刻から走の脚を気にしていたのはそのためか。
走は不審めいた清瀬の行動にようやく、わずかながら合点がいった。自身が誰かに認められた経験なんて、これまでも走ること以外にはなかったのだから、言われてみれば当然だ。
不思議なことに、清瀬は「陸上経験者か」、「現役の選手か」などと走へ聞いてこなかったが、彼の放る言葉は、受ける側が恥ずかしくなるほどにまっすぐで。それでいて、走の空っ風で乾いた心を傷つけず、すとんと内へ収まった。
立ち尽くしていると、ぴゅうっと音を立てて風が通り過ぎていく。手に持ったままの菓子パン。込められた手の力でビニールが潰れ、小刻みな音を鳴らす。
「俺のことは、ハイジと呼んでくれていい。さて、まずはコンビニか……──謝りに行こう」
こうして、野良犬のように過ごしていた走は健康サンダルの足音を追いかけ──数日ぶりの熱いお湯に包まれながら、呼吸を止めているのだった。
息止めは、子どもの頃から定期的に繰り返してしまう行動だ。無心になるためのルーティン。湯船の中で、静かに数字を数える。自分だけを見つめて、自分だけと向き合う。ストイックに、時間の概念とだけ戦うこの無垢な時間が、走は嫌いじゃなかった。
ただし、今日に限っては余計な雑念が多すぎる。普段よりも十数秒早く、水面から顔を上げてしまう。こぼれ落ちた記憶は、浴室内の水蒸気へ吸い込まれていく。
窓の外から、隣に住まう人々の生活音が響いていた。

走が改めて竹青荘を訪れると、二〇一号室へと誘導された。双子の部屋である。九部屋の中で最も広いこの場所は、何かと会合用にされているらしい。
すでに集まった住人たちは料理を囲み、思い思いに会話を進めている。中央ではニコチャンがムサを羽交い締めにしていた。同学部の後輩へ物理的に代返交渉をしているようだ。
エプロン姿の清瀬が王子の首根っこを掴んで引きずってくる。王子が何かを小さくぼやいたが、その内容は華麗に無視された。他の者も特に気にしている様子はない。普段から適当な愛を持ってぞんざいな扱いをされているようだ。
これで、先刻紹介されたメンバーは全員揃ったことになる。
部屋の入り口付近に腰を下ろした清瀬が缶ビールを開け──ふと顔を上げると、清瀬と走を除く八人がどこから調達したのかクラッカーを掲げていた。
「よせお前ら! 近いって! 近い近い近──」
「──祝! 満室!」
清瀬の忠告虚しく紐は引かれた。続く「十人目の入居者を歓迎しまして、カンパーイ!」の音頭と復唱。乾いた破裂音を向けられた走は、とっさに両耳を覆った影響で乾杯に乗り遅れ、外からは破裂音に反応したニラが吠えている。
「ほら食えよ、お前も」
「きみの歓迎会なんだから」
どう立ち振る舞えばいいのか困惑している走へ、ユキがちゃぶ台の上を示す。神童が同調し、空いている皿を滑らせる。
「ハイジがつくってるから、田舎料理みたいなのばっかだけどな」
「ねえ、地元はどこ? 僕は山形なんだけど」
「えっ……と」
「ああ、別に無理には」
「僕はタンザニアです。ご存知ですか、タンザニア」
先輩のヘッドロックから逃れたムサが、ややあと会話に混ざる。
「……アフリカ?」
「そう! 行ったことは?」
「ないです」
「なかなかね。ムサはね、国費留学生なんだ。頭いいの。すごいでしょ、日本語」
「そんな。とんでもございません」
ムサの丁寧な言葉遣いは、いかにも温厚な神童と暮らしていることも要因の一つに違いない。
部屋の端で、双子と王子が漫画談義を交わしている。かと思えば、キングが膝歩きで神童、ムサへ声をかけにやってきて、就職活動時の服装について相談をはじめた。ニコチャンとユキは互いに遠慮のない口調で、最新のタブレット機器について話し込んでいる。アオタケ内の人間関係がこれだけでもなんとなく察せるものだ。
清瀬はそんな住人たちの隙間を縫いながら、各々に対して甲斐甲斐しく世話を焼いていた。
先ほど、住み始めて十日程度だという双子が、さっそく床の間に開けた穴を発見した時は「玄関寄りの板間は弱くなってるって忠告しただろう」と、こめかみを揉んでいた。「その辺の雑誌で塞いでおけ」と、アオタケを我が子のように思っているらしい大家にバレないよう、的確な指示を出したスピードはさすがである。床を踏み抜いた際に脚を怪我しなかったか、と後輩の安否にまで気を配っている。
「ほーら、こぼしてるぞ、ジョータ。ほーら、じっとしてろ。笑うな」
現在進行形でも、服に煮汁を垂らした住人の首元を布巾で拭いてやっている。まるで母親のようだ。
走の横にどかりと座り込んだニコチャンが、空のコップにお茶を注ぎながら「で? どうやって知り合ったんだよ、ハイジと」問いかけた。走が清瀬の様子を窺っていることに気がついたようだ。
「……たまたま、道で」
「へえ」
「何しろ、ハイジ念願の十人目だからな。どんな奴が来るのかヒヤヒヤしてたんだけど」
先刻までニコチャンと会話していたユキが、そのまま割って入る。
「どうせとんでもないの連れてくんだろうっつってな」
「よかったよ、まともそうなやつで」
自分はまともなのだろうか。走はとっさに返事ができず、曖昧に笑って誤魔化すこともできず、無言のまま近くにあったグラスへ口をつけた。酒が混じっていたかもしれない。中身の液体は苦い風味がした。走の渋い顔に気がついた先輩二人は揶揄うようにして笑う。和やかだった。その時までは。
突如──乾いた音がした。
走は、先刻同様に両手で耳を塞いで、いきなりの衝撃に目を白黒させる。
「びっくりした」、「なんだよ、おい」口々に不満を漏らす住人たちを無視し、片手にクラッカーの残骸を持った清瀬は飄々とした佇まいである。
「縁もたけなわだが、聞いてくれ。大事な話だ」
アパートの実力者から、このタイミングで知らせがあるようだ。
就職活動のためにしばらく料理作りをやめにするだとか、きっとそんな話だろう。耳を傾けて推し黙る下級生をよそに、上級生は手を叩いて盛り上がる。
「まさか女絡みか? ついに紹介する気になったのか」
「よし、聞くぞ。ハイジ」
ユキが前のめりの姿勢でニヤリと笑った。
「知ってんだぞ。たまに夜中話してること。どこの誰なんだ? お前がぞっこんの『先輩』ってのは」
「電話はなあ、壁うっすいからなあ……。何? その先輩がお前の彼女なの?」
「ハイジさん、いつのまに彼女をつくってたんですか?」
「ではない。彼女もいない」
取り囲む住人たちはまだそのテーマを続けたそうであったが、清瀬は力強く否定し、飛び火した話題を無理やりに閉める。
「蔵原が入居して、ついに俺たちは十人になった」
走が「まだ住むと決めたわけじゃ……」と漏らす。当然のように聞き入れてはもらえない。
「ちょうど十人だ」
「それ、双子が来てからずっと言ってんよな。あと一人、あと一人って」
「呪いの言葉。番長皿屋敷」
キングが早押しの要領で茶化した。少なくとも双子たちは「番町皿屋敷」が何を指しているのか理解できていないようだ。ムサも同様に首を捻りつつ、
「よかったですね。意外と早く部屋が埋まって」
と、演説中の先輩に向かって微笑んだ。
「ああ、やはり思うだけじゃダメなんだな。願いは口に出して言うべきだ。運命は自分で手繰り寄せるしかない」
「なんだ? ハイジお前、さては女じゃなくて宗教にでもハマったか」
「違いますよ。神道、つまり言霊信仰じゃないですか」
神童のフォローに、「シンドウ? 神童さんとなにか関係があるのですか?」とムサが疑問を投げかける。
「神の道と書いて『神道』。万物に神が宿るって考え方のことだよ。八百万の神って表現、知ってる?」
神童の端的な説明に清瀬は深く頷き、走へ目をやった。
なぜだろう。産毛が逆立つような、いやな予感がする。
「なんだかよくわかんねえが、じゃあ十人揃った記念に、皆でどこか旅行でも行くか」
「ああ、いいっすね!」
「旅館に泊まってよ、酒でも飲んで」
「それ今と変わらないじゃないですか」
上級生たちがゲラゲラと笑う。
「皆でどこかへ、いいですね。それならうってつけの場所があります」
「お、どこだ?」
「──箱根だ」
清瀬がよどみなく断言した。一瞬の静寂が場を支配する。
「……まあ、確かに」
「温泉もあるし、移動も簡単ですもんね」
「いいじゃん、ハイジ。じゃあ電車か、レンタカーか」
軽いフットワークでスマートフォンを取り出したユキが、手際よく検索の態勢に入る。
「いいや、乗り物は使わない。移動はすべて足だ」
清瀬はごく自然な流れで手段を取り下げた。
この男は一体何を言いたいのだろう。全員の表情が疑問符で埋め尽くされる。
「この十人で頂点を目指そう。誰でも一度くらいは目にしたことがあるだろう? 正月、雑煮を食いながら」
皆、何も言わなかった。否──言えなかった。
「──出よう、皆で。箱根駅伝に」

清瀬の宣言の後。静まり返った室内へ最初の返事を戻したのは、意外にも癖が強い住人たちの中で比較的大人しいと思われる神童であった。
「いや……えっと、え? どういうことですか」
清瀬は無言のまま、一体いつ持ってきたのか、アパート表の看板を自身の横に置いた。これを見ろ、ということらしい。各々が清瀬を取り囲むようにして古めかしい木の板を覗き込む。
先刻、走も目にした「竹青荘」の文字の横。
──寛政大学 陸上競技部 錬成所。
「いつそんなもの書き足したんですか!」
「この経年劣化が最近のものに見えるか?」
「読めなかったんだ! 汚れがひどすぎて」
ムサが悲鳴をあげる。それを皮切りに、他の者も口を注いで文句を言い始めた。「バカも休み休みにしろ」、「寝ぼけてんのか?」、「生涯ドテラ男」など、なかなかに容赦がない。
こそこそと二人で会話している双子に至っては、駅伝とマラソンの区別もついていないようだ。
清瀬はこほんと咳払いをし、
「ここは寛政大学陸上部の部員寮──つまりきみたちは、寛政大学陸上部の所属部員というわけだ」
と、もっともらしく目を細めた。住人たちの罵詈雑言は一旦なかったことにしたらしい。
「してないしてない! してないぞ、そんな手続き!」
「ここに入居したということがその手続きだ。おかしいと思わなかったか? 今どき家賃三万で、朝晩まかないがつくなんて」
ユキが「なんで先輩が知らないんすか! ハイジより先にここに住んでんでしょ!」と標的をニコチャンへ移した。しかし、「だってじいさん、なんも言ってくれなかったし」最古株は言葉少なである。
「はあ……司法試験合格後の最初の仕事が自分の民事裁判とは」
「訴えても無駄だぞー。入居届が入部届だ」
清瀬は表情は至って通常運転である。
「まさか忘れていないよな? 毎年正月に帰省したくないと駄々をこねるきみのため、特別におせちと雑煮をつくってやったことを。去年、司法試験のせいでバイトができず、金がないと言っては俺に昼飯をたかったことも。俺の記憶が正しければ──十八万二千五百円だったか」
「……脅す気か?」
「人聞きの悪いことを言うな。ああ、そうだ。ニコチャン先輩。この試験は絶対落とせない、と泣いて頼んだ先輩を、時間に間に合うよう叩き起こしたのは誰でしたっけ? 毎年、ヤニの付着した壁紙を貼り替える手伝いをしたのは? 廊下の床板を踏み抜いた時、大家に告げ口せず修繕したのは?」
清瀬の家事能力に日々恩恵を受けている全員の間に、薄寒い空気が流れる。誰もが何かしらの弱みを握られていることは明白だった。ヒリヒリと危険の匂いが漂っている。
「俺が今まで何のために毎日飯を作って、皆の体調管理に努めてきたと思う?」
清瀬が淡々と住人たちを追い詰める。すがるようなキングの視線に気がついた走は、躊躇いながらもそこでようやく言葉を発することができた。
「──……登録は? 関東陸上競技連盟への登録です」
「もちろん登録される」
「本人の承諾も得ずに? 陸上部には全部で何人いるんです」
「短距離をやっている者は、十数人。インカレで活躍するような選手は皆無だが。長距離はここにいる十人だ」
いつ俺が入部した、との反撃を無理やり飲み下し、走は質問を続けた。
「監督は?」
「大家の田崎源一郎氏」
双子が顔を見合わせ、「ヨボヨボじゃん」と首を傾げる。
「失礼なことを言うな。大家さんは日本陸上界の至宝と言われた人だぞ。円谷幸吉が食べ物づくしの遺書を書いて亡くなった時、大家さんはすでに寛政大に名コーチありと言われていたほどの人なんだ」
「すごさがさっぱり……」
ここにいる連中は東京オリンピックのマラソンで銅メダルを獲得したランナーさえ知らないのだ。走だって別に業界通というわけではないし、むしろ競技に取り組んでいた者としては、他の選手に興味がない方だ。それでも多少長距離をかじる者であれば、なんとなく耳にしたことある名前だろうに。温度差に走は目眩がしそうだった。
「っていうか、詳しいね新入り。何? その、関東学生……」
「そうか──関東豪学連のことですよ、男塾。構成員千人にも及ぶ、伊達臣人を総長とした……──」
「──無理だ。箱根なんて、絶対に無理だ」
何やらはじまった王子を遮り、走は拳を握りしめる。
が、真っ向から否定した走に対し、清瀬は相変わらずいやな顔一つ覗かせない。瞳の中は終始穏やかで、それも走にとっては腹立たしさを助長させる要因だった。
「それは──誰にもわからないだろう?」
「……わかります。陸上の強豪校が、何年もかけて、毎日毎日ハードな練習をこなして、それでもやっと、一握りのチームしか出場できない。そういう大会です」
「……詳しいの? 箱根駅伝」
先ほどから何度か重ねてくる双子の設問に、走は答えなかった。
「大丈夫──夢も挑めば現実になる。箱根は蜃気楼の山なんかじゃない。俺たちが襷をつないで登っていける場所なんだ」
清瀬は、ぐっと感情を込めた声色で十人たちを見回す。
「ニコチャン先輩は陸上経験者だ。ユキは剣道部で県大会に出ている。双子とキングは高校で三年間サッカーをやっていた。神童は毎日往復十キロの山道を歩いて学校に通っていたそうだ」
「それ、スポーツじゃねえし」
「そして、ムサに秘められた潜在能力」
「こ、黒人は足が速いなんて完全な偏見です!」
「筋肉の質がいいことは風呂場で確かめてある」
「だからいつもジロジロ!」
ムサの顔がさあっと青ざめる。べたべたと脚を触られた先刻の出来事を思い出し、あれが清瀬なりの入部試験であったことを察した走は痛む頭を抑えた。同じようなことを他の人にも……、と辟易しながら、腹の奥が沸々と苛立っている。
「──そして蔵原だ。皆にも早く彼の走りを見てもらいたい」
清瀬のなめらかな語りは止まらない。
「……失礼。今僕のことが数に入っていなかったみたいだけど、つまり僕は走らなくて」
「ついに揃ったんだよ、十人が」
「入ってはいるみたいだぞ、数に」
お手上げ状態のユキが他人事のように王子を見やる。
湧き上がる怒りと呆れが頂点に達した走は、そこでおもむろに立ち上がった。皆の注目が集まるが、何も言わずに床へ散らばる雑誌を跨いで出入り口に向かう。
「蔵原。いいのか? 走れるんだぞ──誰にも咎められることなく」
「走りたきゃ一人で走る」
「なぜ?」
「……なぜって。ただ走ることに、理由がいるんですか」
所詮走る時は一人だ。高校時代、否もっと前から知っていた。
走は、面倒なもの、絡みつくしがらみを全て捨ててここまで走ってきた。理由がなきゃ走れない人のことなんて、その気持ちなんて、わかるはずがない。
そして、この清瀬という男はまさに「理由を持って走る人間」の筆頭であるかのように思えていた。この世界で、走がもっとも理解できない人種筆頭。
「走る気ないんで。……あんたたちと」
じろり。全員を一瞥する。後ろ手に閉めた扉は滑りが悪く、思った以上に背中で大きな音を立てた。

明け方六時頃、ランニングウエアに身を包んだ走は玄関を飛び出した。朝晩十キロずつのジョギングは高校の頃からの習慣である。
住宅街に人気はほとんどなく、街全体がまだ眠いような空気。色で例えれば水で薄めた青だろうか。時折、新聞配達の自転車やサラリーマンととすれ違いながら、この数日でおおよそ地形が掴めてきた道を進む。一方通行の道脇には緑が多く、ルートを選べば車も少ない。
あらかじめ目星をつけていたコースを駆け抜けた走は、アパートに戻る途中で小さな公園横を通り過ぎた。ふと、目の端に知っている顔が写り込む。
その人は俯き、こちらには気がついていない様だった。ベンチに腰掛け、右の裾を捲り上げて膝から脛の辺りを揉んでいる。
思わず首を伸ばした走へ、リードに繋がれたニラが吠えた。首元にはビニール袋がくくりつけられている。中身を察するに、処理した糞を自分で運ばされているようだ。嗅覚の鋭い動物に対し、いささか合理的すぎやしないか。
同時に、ニラからの挨拶で走の存在が完全に先輩へ知られてしまった。無言で近寄ったことを気まずく感じる走へ、当の本人は「おお」と気安い声をあげる──清瀬だった。
そこで走はようやく、昨晩窓の外から聞こえた声の正体が、目の前の青年であることに気がついた。
「……あの、昨日」
「ん?」
「夜、誰かと」
「ああ。悪い、起こしたか。ユキにバレてたからなあ……一応外でかけたんだが」
「いえ……別に」
走はぶっきらぼうに目を逸らす。清瀬はそんな青年の態度を咎めない。足に擦り寄る犬を撫で回しながら会話を続行する。
「毎日走っているのか? 俺もだ。ニラの散歩がてら」
「……それは、健康のためですか」
「いや──俺にとって走ることは、健康のためでも趣味でもない。蔵原にとってもそうであるように」
清瀬は、走が自身の足を視認したことに気がついている具合だった。
彼の膝には手術の痕が残っていた。メスを入れている。しかも、ここ数年以内に。
「聞かれる前に言っておく。やったのは高校時代だ。もう少しで全快する。半年後にはお前のペースにだって合わせられる」
「……なんですか、それ」
「俺は本気だぞ。必ず出る、箱根駅伝に。今日から全員口説き落とす」
一人さっさと竹青荘へ戻ろうとしていた走も、さすがに振り返った。昨晩のあれは酔った勢いではなかったようだ。
「……だから、それは」
「お前のこともな──仙台城西高校、蔵原走」
びくり。久方ぶりに飛び出した母校の名前に、跳ねるようにして体が反応する。その肩書きは、苦さと一緒に故郷へ置いてきたはずだった。
走は眉根を寄せ、威嚇を受けた野生動物のように、目の前の青年から距離をとる。
この人は何を、一体どこまで知っている。
清瀬は朝日を逆光に、一切の迷いがない目で走を見つめている。
彼の瞳の中に映る走は、街灯の影がつくるラインへ偶然にもぴったりと爪先を合わせていた。
──はじまりの号砲を暗示するように。