*
「──なあ、まさかハイジに付き合う奴はいないよな?」
清瀬の宣言から一夜明け、朝食を取るために食堂へ集まった住人たちへユキは目配せをした。先ほどムサが当番のトイレ掃除へ出て行ってしまったが、タイミングとしては清瀬がニラに餌をやりに行った今しかない。
「昨日のあれか? まさか」
「ありえない、絶対にない」
上級生のニコチャン、キングがすぐさま反応を寄越す。その顔には「わかりきったことを聞くな」とはっきり書いてある。
「なんだあ、よかった」
「先輩らがやるって言ったら、俺、マジで逃げ出すところだったよ」
「さすがに話が急すぎますよね。ムサも勉強とバイトで手一杯だって」
双子、神童が安心した様子で続く。
「なら全員反対だな。いいな? 新入り」
ジャージ姿で食堂に現れ、現在黙々と鮭の切り身に箸をつけている走へ、ユキが命じる。まだ幼さを残す顔が縦に振れた。
皆の協調が確認できたことで安心したらしい。キングが爪楊枝で歯の隙間をいじりながらこぼす。
「まあ……、あいつは便所掃除をサボるとネチネチ嫌味を言ってくるが、それ以外では基本いいやつだからな。俺たちが団結して、本気でいやだと言い張れば……──」
「──そうでしょうか」
遮ったのは、おそらく竹青荘の中でもっとも走ることに向いていないと思われる人物──王子であった。線の細い顔に影が落ちている。
「僕は、このまま引き下がる人とはどうにも思えないんですが。今日のおかず、このひと月で一番豪勢ですよ……。ふざけてものを言う人じゃないでしょう」
確かに、一人あたり魚の切り身が二切れ。副菜の小鉢も複数。普段より一段と彩り豊かな食卓に、起き抜けは「お」と思ったものだ。
「……けっこう飼い慣らされてるよな、俺たち」
その場の全員が同じ感想を持ったのだろう。揃って顔を見合わせる。まだ竹青荘に来て一日目の走だけ、端で首を傾げていたが、声をあげ、話の腰を折らない分よしとする。
ユキはご飯茶碗を置いて、大きなため息を吐き出した。
想定していた通り、これはかなりの長期戦になりそうだ。清瀬がアパート内で手にしている強権、非常事態宣言、その他諸々。それらをかい潜るために、まずは策を練る必要がある。後輩たちが大学やバイトから戻り次第、改めて集合をかけ、認識をそろえた方がよいだろう。特にいささか頭の足りなそうな双子周辺は気になる。唯一のアドバンテージである「多数派」まで渡すわけにはいかない。早めに対抗策を練るべきだ。
今後の流れを整理し、毎晩の楽しみに向けて少しばかり仮眠を貪ったユキは、夕方竹青荘入り口の引き戸が開く音で目を覚ました。
足音が複数。おそらく、その中に清瀬はいない。あの男はこのオンボロ木造の構造や傷み具体を大家よりも理解している。彼が混ざっていれば、玄関戸を開けるのにあそこまで手間取ったりしないだろう。ユキも入学後しばらくして清瀬に教わったのだが、スムーズに開けるには、戸を少し持ち上げながら横に滑らせる必要があるのだ。
一階奥から廊下の先にあたる土間を覗き込んだユキは、予想通りの面々が上がってくるのを目にした。ムサ、キング、神童、王子、双子。これに自身を含めた七人の住人が、現在竹青荘に帰っていることになる。
会議をするには好都合だ。ユキは「お前ら」とそのままの姿勢で呼びかけ、はた。こちらに一瞬視線をやった彼らの様子が、朝と比べて明らかにおかしいことに気がついた。それぞれがユキを目視するなり明後日の方角を向き、名指しされることを避けている。
違和感とするにはあからさますぎる誤魔化しを逃さなかったユキは、すぐさま全員を双子の部屋へ連行した。事情聴取の時間である。皆心当たりがあるらしく、大人しくユキの背中を追ってくる。
被告人たちを畳に座らせ、彼らが姿勢を正座へ正した時点で、ユキは勘ぐりが確信に変わったのを感じた。
「お前らの言い分はなんだ。どんな取引をした」
「取引なんて!」
「違いますよ!」
「だってよう」
「……いいから、一人ずつ話せ」
揃って首を横に振る一同を、冷たい視線で黙らせる。小さく丸まった彼らは、順繰りに経緯を語り始めた。
まず、ムサ曰く──。
彼は、留学生シンポジウムを覗いた後、早めにバイト先の精肉店へ向かったそうだ。そこへ、夕飯の材料を買い出しするため、清瀬が現れたという。
「ありがとねえ、こんなに」
アパートを切り盛りする清瀬は商店街の面々から非常に可愛がられており、それは精肉店の女将さんも同様である。
「こちらこそすいません、無理を言って」
「なあに、お安い御用よ。ムサ君いつも頑張ってくれてるし、お得意さんだし。うちは本当ハイジ君様々よ」
「いや、僕なんて。でもよかった、紹介した甲斐があったというもんだ」
「本当働き者でね」
「だってさ。さすがだな、ムサ。褒めていただいてるぞ」
和やかに会話をしながら、ムサを見つめる清瀬の目は一切笑っておらず。人間の黒目がこんなにも黒くなる様をはじめて見たムサは、絞り出すようにしてお礼を告げつつ、指先が冷えていくのを感じた。
いやな予感。たとえば、清瀬がやってきたのは買い出し目的ではなく、この会話をムサに聞かせるためではないか、だとか
「本当いい先輩を持って。大事にしないとね、出会いを。一生ものよ」
「だってさ、ムサ。一生ものだって、ムサ。ムーサ」
流れで翌日の朝の予定を聞かれ、つい「何もないです」と回答してしまったムサに、同情の余地がないかと言えばしばし悩むかもしれない。ムサなら断れないと踏み、弱そうなところから狙ってきたのだ。
ユキは、「ハイジめ」と呟きながら眉間を揉んだ。
次に、キング曰く──。
彼は、空いたコマを利用し、大学内のキャリアセンターで業界研究を行っていた。悲しい話、オンボロアパートに入居者用のWi−Fiが通っているはずもない。パケットを気にせずに調べ物へ勤しむならば、大学に腰を据えるのが手っ取り早かった。
エントリーは三月解禁、本選考は六月以降のルールが日系企業にあるとはいえ、足の早い外資はすでに内々定が出ているという。学科の友人からそれらの話を聞き、キングの気は焦るばかりだった。片っ端から各企業の就職偏差値を調べ、頭を悩ませる。
そんな中、忍び寄るようにして背後に清瀬の姿があったという。悲鳴をあげて飛び退くも、後ろの青年はまじまじとキングが開いていたサイトを見つめている。
「へえ、希望の職種は?」
「……お前に言ってどうなる」
「確か、マスコミだったか。使えるけどなあ、面接で。駅伝の話」
知ってんならいちいち聞くんじゃねえ、と返したかったが、清瀬はキングの耳元に唇を近づけ、「誰もが経験できることじゃない。有利になるぞ」と続けた。将来への不安を抱えた就活生の、ガラスのような心を煽る囁きである。それも端的で、非常に的確だ。
ユキは「騙されるんじゃない」と頭を抱えた。
続いて、神童曰く──。
彼は、図書館でゼミの課題に取り掛かっていた。神童の所属するゼミの教授は熱心で、積極的に学生とコミュニケーションの場を持ちたがる。このレポートも、次のディスカッションで使用する予定だった。
真面目な神童はしばらく集中して文献をなぞっており、ひと段落したところで肩を回しながらふと隣の席を見やると。そこにはいつの間にか清瀬が座っていたという。
彼は雑誌をめくりながら、まるで独り言のように言葉を吐いた。
「今年は出てこなかったなあ、山の神。まあ、毎年出てくるようじゃなあ。ありがたみがなあ」
「あ、あの、ハイジさん。ここ、図書館なんで、声」
清瀬がプレッシャーをかけに来たことはすぐ理解された。静寂がよしとされる図書館において、躊躇うことのない堂々たる声量もその一つなのだろう。ヒソヒソと神童が注意を促すも、一切聞く耳を持たない。
「神童の田舎は?」
「……は?」
むしろ不躾な質問を戻される始末。
「実家、かなりの山道なんだろう? 箱根とどっちが険しいかなあ」
「く、比べたことがないので……」
「しばらく帰ってないよな。連絡は? とってるのか」
「ハイジさん、それより声」
「喜ぶよなあ。正月なかなか会えない息子が、テレビの向こうで元気に走る姿を見たら」
家族思いの神童の心へ、一見優しさとできなくもない提案を畳み掛ける。が、それは確実に罠だ。
甘い餌の奥で目を光らせる清瀬の様子が目に浮かび、ユキは「はあ……」と、寂れた天井を煽った。
また、王子曰く──。
彼は、所属するマンガ研究会へ新入生を勧誘するため、キャンパス内の杉並木にブースを設置してビラを配っていたらしい。
しかし、午後になっても一向に希望者は現れず、申し訳程度に双子と走の名前がリストにつづられているだけだった。この署名もブースに来たという証、いわば受付であり、決してサークルへ入る意思表明ではない。
王子が心許ない名簿を見ながらどうしたものかと考えていると、狙いすませたタイミングで清瀬が襲来したという。
「精力的だな」
「そこに立たれると、ちょっと……」
設置した折りたたみテーブルの真ん中を陣取られ、これではもし新入生が訪れたとしても機会損失になりかねない。
「いやあ、王子の場合準備が大変そうだから、先に言っておこうと思って」
「準備?」
「運営上、陸上部員でない者をアオタケに置いておくことはできないそうなんだ。つまり、陸上部員になることを拒否した場合、早々に部屋を──」
「出てけってこと⁈」
皆まで言わせず、王子は清瀬の言葉に被せた。テーブルに乗り出し、口をあんぐりと開ける。衝撃の余波がじんじんと体の中を巡る。
「いやいや。言い方に気をつけてくれ。走らないならあそこに住めないよー、と言ってるだけだ」
「出てけってことじゃないか!」
「ああ、とも言えるか……。あの物量じゃ引越し費用もバカにならないよな。部員になるなら出て行く必要はないんだが」事実上の撤去勧告である。
「……これが入り納めかもしれませんね」と、よろよろ母屋の風呂へ向かった彼を止めない程度の気配りは、さすがのユキも持ち合わせていた。
にしても、燦々たる結果である。
「くそ! 一人で行動させるんじゃなかったぜ。まあ、こいつらよりはマシか」
じろり。部屋端に正座させた双子を睨む。
「だってずるいよな、ジョータなあ」
「俺らてっきり、皆駅伝に出るって約束をしたんだと思ってさあ」
「ちゃんと最後まで聞いたのか。ハイジの言葉を」
「だから、皆やるよーって」
「へー、じゃあ俺たちもーって」
ユキは力任せに双子の頭を叩いた。平和主義のムサが「ユキさん!」と驚くが、言ってくれるな。ここまで我慢したことを褒めて欲しいくらいだ。
全くこいつらは。朝の食堂での話をなんだと思っている。忘れていたのか。いや、単に海馬が機能していないだけに違いない。
「で、でも! でも! やってもいいかなって思ったんだよな!」
「そそそそう! 皆知ってます? 箱根に出ると女子にモテるんですよ!」
畳を滑るようにしてユキから距離を取り、ムサ、キング、神童の後ろに隠れた一年生二人が野次を飛ばす。
「そんなのはなあ! 大会に出て、ちゃんとした記録を出せるごく一部の上位ランナーだけの話だ! そもそも出られるわけがないだろ、俺たちが!」
「どういうこと? 出ますよって言ったら出られるんじゃないの?」
「嘘だ! モテるって言われたんだよ、モテるって!」
双子の悲鳴と同時に、母屋から空気を切り裂くような叫びが聞こえた。何事かと声の方向へどやどやと移動した一面は、大家宅の浴室で素っ裸のまま震える王子を見つける。
「うーむ……。まさかこのタイミングで壊れるとはな。悪いが直るまでうちのは使えん。鶴の湯があるだろう。しばらくあそこへ通ってくれ」
王子が途切れ途切れの掠れた声で「心臓が止まらなかったのが奇跡ですよ……。むしろ止まった方がよかったまで」呟いた。人騒がせな男である。
ただ、こうして起きてしまったことは仕方ない。先刻までの話を一時的に保留とし、その場にいた住人たちは連れ立って鶴の湯へと向かうことにした。まだ銭湯の場所を知らない双子、王子への案内も兼ねている。
道中で、偶然ニコチャン、走とも遭遇した。ユキは二人の共通点から密会を訝しみ、とはいえその疑いを腹にしまって、まずは発覚したばかりの風呂事情を共有した。
ニコチャンは愉快そうに笑い、居心地悪く視線を彷徨わせていた走へ、「出て行く前に面白いとこ連れてってやる」声をかける。どうやら新入りは、竹青荘を退去することまで視野に入れていたらしい。
そこまで走りたくないのだろうか。その気持ち自体は他の住人と同じだが、昨日の様子を見るに、その前置きとして「誰かと一緒に」がつくのだろう。
ユキは大人しそうな風貌をして、やることなすこと不器用な走の観察がだんだんと面白くなってきた。現状、清瀬に抗う最終防衛線というのも理由の一つである。
「まあ付き合えよ、新入り」ユキが肩を叩くと、走はしばしの逡巡の後「……わかりましたよ」ぶっきらぼうに告げた。
鶴の湯は、竹青荘から十分ほどの歩いたところに構える、昔ながらの銭湯である。ここが下町ではなく山の手であることは一旦置いておくとしても、湯船は江戸っ子御用達の温度に調整されており、はじめて入った双子は足をつけた瞬間に飛び上がった。王子は「この世の地獄ですよ」と、すっかり正気の抜けた表情である。
先輩の言う「面白い」とはまさにこの温度が肝。下級生がタイルの上で蠢くのを、ニコチャンはにやにや眺めていた。
しかし、そんなじゃれ合いも束の間。
「──なんだ、皆いるんじゃないか」
訪れた人物を見て、全員が金縛りにでもあったかのように体を強張らせた──他でもない、清瀬その人である。
手頃さから大家宅の風呂を借りる住人が多い中、清瀬だけは昔から鶴の湯の常連である。この時間帯に訪れることも決して不可解ではない──ないのだが。
「ええー、大家さん家のー? お風呂があー? 壊れたあー?」
「……まさかハイジさんが」
「言うな、考えたくもない」
後輩の恐ろしい予想を、ユキは言葉半ばで押し留める。たとえそれが本当だったとしても信じたくない。
当の清瀬は清々しい表情で、浴槽から遠巻きに佇んでいた走へ声をかけている。
「どうだ、いい銭湯だろう。皆、熱すぎると言って嫌厭するんだが」
「お前だってそうだろう。一分と持たねえじゃねえか」
竹青荘の住人たちが到着する前から銭湯に来ていた左官屋が、湯に浸かりながら清瀬を見やった。出鼻をくじかれ、清瀬は照れたように苦笑する。
「いらしてたんですね」
「おうよ。っていうかハイジ。これって全員?」
「ええ、アオタケのメンバーです」
「そうか、おーん。じゃ、ついに十人」
左官屋の眼差しが好奇に変わる。ユキは、着々と外堀が埋められていくような気配に身震いした。
「俺は違います」
「昨日、ここを出た後知り合ったんです」
一人否定する走へ、清瀬が言葉を被せる。
「だから俺は──」
「蔵原、勝負しないか。どっちが長く浸かっていられるか。負けた方が勝った方の言うことを聞く、なんでも」
清瀬が煮えたぎる湯船を一瞥し、突然そんな提案を入れた。
「おい、そんなの受ける理由がないぞ」
竹青荘の面々に、鶴の湯の浴槽は釜茹でにしか見えない。後輩を地獄へ誘う鬼が現れたように感じた住人たちは、必死でフォローを試みる。が、構わず鬼の誘いは続く。
「断れば逃げたとみなす。逃げたきゃ逃げろ。これ以上は追わない。何しろ速いからなあ──お前の逃げ足は」
昨晩から薄々気がついていた。この新入りは沸点が低いのだ。明らかに苛立った顔で、湯船の方向へ足を向けた。あそこまで単純だと清瀬も扱いやすかろう。
「ダメだこりゃ」ユキは静かに目を閉じた。
「おい、あんまり無理するもんじゃねえぞ」
急遽審判として駆り出された左官屋が、顔を真っ赤にして浸かり続ける二人へ、呆れたような声掛けをする。
「そう、言ってくださってる、ぞ」
「なら、お先に、どうぞ」
すでに三分が経過した。しかし、我慢比べが終わる気配はなく、上空で舌戦まではじまる始末。左官屋の後ろから野次馬として観戦する竹青荘の面々が「やりすぎんなよ」と口々に労わる。
「すげえな、ハイジの執念」とユキは呆れるようにぼやいた。隣のニコチャンが「まあ、もう四年だからな。最後となれば」とユキの独り言を引き取る。
「なに感傷的になってんすか。まさか付き合ってやる気じゃないでしょうね」
鶴の湯を訪れる直前、入浴セットを取りに戻ったユキは、普段であれば家主がいなくともくすぶっている煙草の匂いと煙が、今日に限って薄いことに気がついた。そうっと一〇四号室を覗くと灰皿は空。雷でも落ちるのではないかと、窓の外を確認してしまったくらいだ。
昨晩清瀬によって、先輩が高校時代まで陸上部であったことも知った。生まれた疑念は、先刻走と歩いていたニコチャンの足元が、使い込まれたランニングシューズだったことでより硬度を高めている。
おそらく、きっと──この人は。
ユキがわずかな機微を察知していることに気がついたのか、いないのか。四分が経過したところで、腕を組んだニコチャンがぽつり呟いた。
「ユキ、俺たちも勝負しねえか。どっちが勝つか賭けろ。お前が勝てば、お前の言う通りにする」
「……はあ? ずりいよ、それ」
「早く」
「じゃあ……新入りで」
ユキは悩んだ末、最初に頭に浮かんだ選択肢をとることにした。
「お前、勝つ気あんのか」
ニコチャンがいつものように笑う。いつもと変わらない、斜めに構えている風でその実誰よりもお人よしな微笑み。ただ、やはり煙草の匂いだけが普段よりも少し薄かった。
最終的に、限界まで粘った清瀬と走はすっかりのぼせ上がり、同時にダウンとなった。双子が大騒ぎで番台まで水を取りにいき、ムサ、神童が脱衣所の扇風機前へ二人を運ぶ。
「しっかりして!」、「意地張りすぎだよ!」と慌ただしく声が飛び交う中、ニコチャンは「やるなあ、新入り」と頭をかいた。
ユキが呆れ顔で「引き分けの場合は?」と尋ねる。対するニコチャンは「お前は細けえなあ」曖昧な返事をしただけだった。
*
早朝。鶴の湯での出来事から一夜明け、竹青荘の面々は玄関前に並ばされていた。正確に言えば、オタマと鍋が織りなす不協和音によって叩き起こされていた。体育座りで睡眠の続きを貪る双子を「ほおら、目を開けろ。事故るぞ」と清瀬がいなす。
「全員揃ったな。今日は多摩川の河原まで走ってみる。各人のレベルを確認して、今後の練習計画を立ててみるから、そのつもりで」
「今後なんてない!」
否定の声も、清瀬にとってはどこ吹く風である。
「なんだかんだ参加するんだな」ユキが隣の走を見やると、仏頂面を浮かべる横顔は、「……今日だけ」と絞り出す。初日に彼のことをまともそうとしたが、撤回が必要である。この男もただの変人だ。
「ご飯は? 俺、お腹すいちゃったよ」ジョージが寝ぼけながら進言する。
「食った直後だと腹が痛くなりやすい。少し腹が減っているくらいが一番楽に走れる。なにより、走った後の飯は格別だぞ。行こう」
「待って、待って! ……多摩川って、あの多摩川?」
王子が混乱した顔で周囲を見渡した。
「そうだ、あの多摩川だ」
清瀬はさも当然の姿勢を崩さない。自然すぎて、わざわざ尋ねた王子の方が世間知らずに思えるくらいだ。もちろん、文脈通りただ場所を尋ねたわけではないのだが。
「ゆうに五キロはあると思うんだけど……」王子の顔には、驚愕と悲壮が浮かび上がっている。
「おお、地理に詳しいんだな王子は。さ、行こう」
「いやいやいやいや! 五キロだよ。片道五キロって、つまり往復十キロもあるんだよ? 朝から十キロ⁈」
「何か問題が?」
「……誰かに水着を借りましょう。走るより、川に流された方が速そうだ」
かろうじて他の者が運動着の中、一人ジーンズ姿の王子が呟く。さらに水着も手持ちがないようだ。確かに王子がプールや海へ遊びに行く姿は想像できない。
「やめておけ。第一、この季節じゃあ風邪をひく」
「ハイジさんは、川に落ちるか、走るか、の二択を迫られたことがない側の人間だからそんなこと言えるんです。好きな地獄を選べと言われているようなものだ。どちらも地獄であることに変わりはないのに」
「川……はないが、亀の尾の瀧に落ちたことならある。経験から言うと、その二択なら走った方がいい」
「どこですかそれは!」
「寝起きでそれだけ声が出せるならいけるさ。さあ」
ごねる王子と宥める清瀬を横に、痺れを切らした走が、無言で石垣の隙間から飛び出していった。路地を覗くも、瞬く間に曲がり角を抜けて姿を消す。そのスピードへ、双子が「はや!」と目を丸くする。清瀬は「まったく……」呟き、その背中を見送った。
「まずは自分のペースで走ればいい。ほら、ゴーゴー」
「行けばいいんだろう、行けば!」
清瀬に促された一同は、もうしばらくやり合うつもりらしい王子を残し、ぞろぞろと玄関を後にする。背後で「せめて、帰りは電車でもいいってことにしない?」との交渉と、すげない却下が聞こえた。
最終的に、清瀬が荷造り用のダンボールを持ち出したことで、王子は渋々竹青荘を出発したらしい。蝶々より遅いペースの王子へ、終始励ましの言葉をかけ続けた清瀬の熱弁は、帰宅後も止まることはなく。
「箱根駅伝に出場するようなレベルの大学では、どの選手も五千メートルを十四分台前半で走るんだ。我々もそこを一つの目安と考えていく」
「全然イメージ湧かないんだけど」
「単純計算で一キロ三分弱」
ユキのコンマ数秒の集計に、「はあ? カップラーメンにお湯入れて食べ始める頃には一キロ?」とキングが反応する。
「逆にわからないですよ、それ」
「人の走るスピードではないということですよ」
「いっぱいいそうですけどね。ムサさんの地元」
「ほら、また偏見だ」
「僕の高校、持久走三キロしかありませんでしたよ」
「まあ、だいたいそんなもんだよな」
未知の数字へ、住人たちは言いたい放題である。
ユキもそのペースが具体的にどの程度辛いものなのかはさっぱりである。しかし、百メートルを十八秒というのは、成人男性が達成するには無理と言い難い速度だ。一本であれば確実にこなせる。それを五十回、絶え間なく繰り返すというのが厳しいのだ。
「確かに、簡単に実現できるスピードじゃない。でも、わかってないと目指しようがないだろ」
食後の一服を試みたニコチャンの煙草をするりと抜き取り、清瀬は皆を見回した。
「然るべきトレーニングを積めば、話は変わる。目標を箱根だけに絞る。それだけで可能性はぐっと高まる」
「……なにを根拠に言ってるんですか。そんな妄想」
──と。食堂前の廊下に走が覗いた。ジャージから私服に着替えている。いずれにせよ一切の飾り気がないのは変わらない。身支度を整え、どうやら今から外に出るらしい。
「いいのか? 飯は」
「借りを作りたくないので」
走はギロリと清瀬を睨んだ。
朝のジョギングで早々に河原へ到着した走は、一向に到着しない面々に呆れつつ、自身の身体を冷やさないために堤防の上を往復していた。一キロあたり三分半。走にとっては普段より格段に遅いペースである。
道と腕時計を何度も見比べ、刻々と過ぎていく時間を感じながら、この程度の距離に何を苦戦しているのかと。なにより、住人たちに何をさせているのかと、清瀬への不満が募っていったのだ。その感情は、刺々しく言葉に乗る。
「これでわかったんじゃないですか? どれだけ馬鹿げてるかってことが。今朝皆が走った距離、たったの五キロ。でも箱根駅伝はどの区間も全て二〇キロ以上あるんです。四倍以上ですよ。それだけの距離を厳しいトレーニングを積んだランナーたちと競わなければならないんです──十年やっても追いつけませんよ」
「大丈夫、十年もかからないさ。何しろ本番まで十ヶ月もないんだからな」
やはり返事は清瀬の方が一枚上手である。走は鬱陶しそうに眉を顰め、下駄箱へ向かっていった。
けれど、たとえどんなに怒っていても。大家が大事にし、先人たちの日々が詰まった竹青荘の玄関戸を力任せに閉めない部分へ、ユキは新入りへどこか憎めなさを感じるのだった。
やや態度が直球すぎる嫌いはあるが、根っこはいいやつなのだろう。論理と気持ちを一緒くたにしない性分ゆえ、ユキとしては、清瀬の思惑に乗ってやるつもりも、表立って走を庇うつもりもないのだが。
翌日の朝ジョグを、クラブから戻らないという強硬手段でサボったユキは、昼前に戻って仮眠をとった後、再度夜に新宿の街を凱旋することにした。
あれだけ啖呵を切った走も、結局練習に参加したらしい。習慣的な要素も大きいのだろうが、自分に置き換えて考えるとユキにはその意図がいまいちわからなかった。
ほぼ毎日のように訪れているため、今や顔見知りとなった受付へ会釈し、ドリンクを片手に慣れたトークで女性陣へ声をかける。やはり鉄板ネタは司法試験の話である。ユキが前年度の最年少合格者であると知るや否や、相手の目の色が変わるのは実に現金だった。
特に多い反応は「将来安泰じゃん」、「裁判の時は助けてね」などの媚。その度にユキも、至極軽い口調で「やるよー。やるやる」と戻す。結婚のパートナーを探しに来ているわけでもない。その程度のフランクさがユキとしても心地よかった。
それに、期待がない分、たまに拾い物のような出会いに心躍る。
たとえば、先日知り合ったとある女性は、ゆるり可愛らしい顔立ちと暴力的なボディから一般的に連想されるイメージに反して頭の回転が早く、話の引き出しも多く、やりとりに刺激があった。国内の私立大学最高峰──喜久井大学で理工学を学んでいるという。いわゆるリケジョというやつだ。
とはいえ、そんなケースは稀。今晩知り合った目の前の二人は、例に漏れず「あるんだ、裁判沙汰」、「わかんないじゃん」と女性間できゃいきゃいやりとりをしながら、連絡先交換のためスマートフォンを操作している。
「てか、モノホン? お兄さん努力とか無縁そうなんだけど。チャラいし」
「これで嘘だったらガチ笑える」
「詐欺じゃないの?」
「んなわけないじゃん。詐欺なんかやらないって」
明るく返しながら、ユキは心中で舌打ちをする。もしかしたら、少しだけ口元が引き攣ってしまったかもしれない。声も上擦ったかもしれない。この会話を切り上げたら、もう彼女たちと話すことはないだろう。
膨大な労力をかけて資格を取得したからこそわかる。いくら冗談だとしても、自身に向かって「詐欺」という言葉は使ってほしくないものだ。身近なところに、ユキの何十倍もその職業へ適任の男だっているのだから。
詐欺師の条件として、よく挙げられる要素は複数ある。清潔であること、人の目を見て話すのに躊躇しないこと、口が上手いこと、腹の中を見せないこと。ターゲットの人間関係、日々の行動とパターン、趣味趣向、癖。多様なデータを事前に集め、念入りな下準備を行う強かさを持っていること──いわば執着。
「──じゃあ、俺も教えてもらおうかな」
背後からかけられた聞き覚えのある声に、ユキはいつか雑談用に仕入れたそのネタを脳裏によぎらせた。
「──頭おかしいのか⁈」
突如会話に乱入してきたジャージ姿の青年を、店から引き摺り出したユキは、改めて向かい合うなり盛大に噛みついた。
「ああ? すまない、耳が。すごいな、よくずっといられるな。あんなところに」
「無駄だぞ!」
「ああ?」
「無駄! 俺には走る理由もメリットも何にもないんだ! 思い出づくりも、仲間との交流も必要ない! 先の一年の自由は、これまでの自分に対する然るべき報酬なんだ! 享受されるべき人生のバカンスだ! 俺を説得しようとするのは無駄だ。無駄無駄無駄無駄!」
怒鳴り散らした反動はそのままダイレクトに心肺を冒す。肩で息をするユキをまっすぐに見つめ、詐欺師予備軍──もとい清瀬は、「俺の方にはあるんだ、理由が。十人いないと出られないからな。箱根は」と告げた。
「お前のために存在してるわけじゃない!」
「……確かに。もちろん、俺の意思だけを押し付けるつもりはないんだ」
「なら──」予想外にあっさり引いた同輩に違和感を覚えながら、ユキがかすかな希望に反応すると、
「──明日も来る。俺も付き合うさ。俺の方だけ付き合わせるのはフェアじゃないからな。互いを尊重し合い、理解し合うのはチームとしてとても重要なことだ」
うん、と頷いた清瀬の表情は、いかにもスポーツマン然としていて。逆に、この上なく胡散臭かった。数年の濃い付き合いで、その宣言が本気であるとわかるのもタチが悪い。
ユキはこめかみを抑えながら大きくため息を吐きだす。続けて、とりあえずこの場を切り抜ける手段として、適当な、可能な限り難易度の高そうな条件を掲示し、はぐらかすことを思いついた。相手が相手だ。これも「俺の意思だ」とかなんとか言って、時間を稼がせてもらおうじゃないか。
「……わかったよ。そうだな──お前が噂の『先輩』とやらを朝練に連れてきたら、参加を考えてやらんこともない」
自分と同じく大学四年の清瀬が「先輩」と呼ぶ人物。短大、専門学校であったとしても、順当に現在は社会人である可能性が高い。こちらの都合で、早朝に引っ張り出すのは難しいはずだ。彼の地元が島根であることから、地方で暮らしている説もある。先日の清瀬の話からすれば特別な仲でもないらしい。この場合、なおさら好都合だ。
「おお、そうか」
ユキのしてやった顔を意にも介さず、清瀬は快活に微笑んだ。
「よかった。ユキにも紹介したかったんだ。それじゃあ明日、玄関前に六時」
──……この詐欺師め。