Prayer 4章⑤ 岩倉雪彦

六月上旬──とある週末。鶴の湯のモダンな浴室にはいつものように熱気がこもっていた。異なるのは、その熱がアフリカのサンバを思わせる陽気さを伴い、蛇口から継ぎ足される湯の跳ねる音ですら、楽しげに響いていること。
それもそのはず。本日行われた喜久井大学記録会にて、ついに双子とムサが公認記録を突破したのである。
「やっほーい!」
「熱い! 熱いですって!」
「いいじゃん!」
お湯を掛け合う三人の表情は非常に朗らか。茹だる浴槽から立ち上る水蒸気が裸体にまとわりつき、蛍光灯の光を反射する。それはミラーボールの点滅よろしく、彼らを照らしていた。
一方、ともに出走した神童、ユキの言葉数は少ない。脇下まで湯船に浸かり、しぶきがもたらす波紋をじいっと眺めている。
「……人には個性がある。陸上選手も当然。トラックよりロードが得意な者もいれば、スプリントに勝負をかける者、ペース配分に長けた者、上り、下り。適性は様々だ」清瀬が半ば独りごちるように呟く。
「……だから気にするなって? 個性って言やあ聞こえはいいが、よくよく向いてないやつもいるってことだろ、中には」
神童とユキが感じている焦りは、その程度の慰めでは払拭されない。休むことなく、日々真面目に練習に取り組んでいる。が、この一ヶ月ほど五千メートルのタイムに目立った変化は見られなかった。
試合の雰囲気にも少しずつ慣れてきている。緊張していたから、という言い訳もそろそろ苦しい。
「……タイムが全てではない」清瀬の反論も、湯船の中でほぐれた心境の影響か、どことなく迫力が足りなかった。
「でも目的はタイムだろ? 箱根の予選会に出るには、まず公認記録が必要なんだから」
「だが……手応えさえあれば」
「いや、こっちは素人なんだから。これが手応えだって教えてもらわないと何が手応えなのかもわかんねえし」
ユキの意見はもっともで、大学以前からの経験者であるニコチャン、走が互いに目配せを交わし合う。
個々によっても異なるその感覚は、第三者が容易く説明できるものではない。レースを重ね、自身の中へ蓄積する経験から判断していく。
同じ思考を巡らせていたらしい清瀬が、再度口を開く。
「長距離は文字通り持久戦だ。簡単に答え合わせができるものでは──」
──と、そこで。
「すみません──僕、限界です」
やたら思い詰めた表情の神童が、おもむろに浴槽から立ち上がった。
皆が一斉にその青年を見やり、双子やムサも「急にどうしたの」と言わんばかりに動きを止める。キングが「おいおい。やめるってどういう──」と苦笑いを浮かべた瞬間、場の空気を察した神童が
「……ああ! 違う違う! ほら、お湯がね」
と、早口に訂正を入れた。

「……走れんのかよ、こんなんで」
季節はすっかり梅雨へと突入していた。
本練習前、なまえが購入してきた合羽をかぶった住人たちは、玄関に並んで降り注ぐ雨粒を眺める。
黒色の雨具で揃えた面々は、等身大のてるてる坊主に見えなくもない。そんな格好で悪天候を睨んでいる光景は実にシュールだ。フードを被っていることから、怪しい黒魔術を行う一味のようでもあった。
「通気性は悪いが仕方がない。元々雨天には適さないウェアの者もいるしな。応急処置だ」
「わたしはこの後バスで追いかけます。よしよーし、ニラは留守番ね」
なまえが、足元に擦り寄る飼い犬をわしゃわしゃ撫で回す。雨が降り出す気配を察知し、本降り直前で盛大に吠え始めたニラは、先刻ギリギリで屋内へ避難した。
「……いいよなあ、ニラは」キングが漏らす。双子は「キングさんが言うとなんか不純っすね」と、皆がうっすら感じつつも言葉にはしなかった感想を述べ、ユキから小突かれる。
「さあ、行った行った」
清瀬に追い立てられるまま渋々区営運動場へ向かった一同は、ようやく辿り着いた練習場のコンディションに改めてげんなりとした。タータンが貼られたそこは一応全天候型のはずなのだが、いかんせん経年劣化の影響がもろに来ている。小降りならまだしも、こう大粒の雨が降り注いでしまうと厳しい。
「だめ! 今日は使用中止だって」
フェンスに張り出されたラミネートの掲示を確認した双子が大きく両手でバツを作る。
「んだよ、ここまで来たってのに」
「原っぱにしようか。今日はクロカンに絞って」
神童の提案に、潔癖の気があるユキは「だめ、ぬかるんで足が取られる。反対」と眉を顰めた。
「汚れるのがいやなだけだろ」
「おいどうするよ」
「ロードにしましょう。車さえ気をつければ」フードを深く被り直しながら、走が大通りの方向を視線で示す。舗装された硬い地面は膝に負荷がかかるものの、そこは練習後のケアで折り合いをつけるしかない。
「ああ、できるだけ安全なコースを選ぼう」清瀬も頷く。
「んじゃ、早く終わらせて鶴の湯に行こうぜ」
「有村ちゃんに誰か連絡入れとけよ」
「えー! 持ってきてるわけないですよ、携帯なんて! 水没しちゃう!」
「なまえさんには俺から頭を下げるさ。やりあってるうちに暗くなって、道で誰かが怪我なんかしてみろ。そっちの方が怒られる。俺は怒らせたくない」
改めて清瀬に促され、皆来た道を戻るように駆け出した。雨足はますます強くなり、比例して不快指数も高まっていく。合羽の中が汗で蒸れ、内側はサウナ状態。そこらのダイエットスーツが青ざめて逃げだすのではないかと思うほど。
とはいえ、散々文句を言いながらも指定された距離をしっかり走り切るのは、住人たちが順応している成果に他ならない。もちろん、普段の練習同様──それ以上に、慣れないトレーニング環境への疲労は溜まっていた。
夜、一階奥という配置から常に湿気へ悩まされるユキが、せめてもの快適さを求めてムサの部屋を訪れる。そこにはすでに双子の姿もあった。皆考えることは同じらしい。彼らの部屋も雨漏りがひどく、なにかと近くの先輩の部屋へ押しかけるのだ。
ストレッチをする双子は見るからに気だるげだった。
「……なんかプールの後って感じ」
「わかる、だりい」
「ちゃんと拭かないと風邪を引いてしまいますよ」
甲斐甲斐しくタオルを渡して世話を焼くムサ。双子たちは「雨に打たれた時間を風呂にカウントしてよいものか」をついぞ真面目な顔で話し合っている。
「生乾きが一番くせえんだって。大人しく行ってこい」
ユキは呆れながらジョージの尻を叩いた。
「二人は昨日も入っていないのでしょう。そろそろきちんと身体を洗わないと、ハナちゃんに驚かれてしまいますよ」
こういう時、葉菜子の名前を出すのが一番効くということをムサも学んでいる。先輩からの追撃を受け、「それはいやだなあ」と悩む双子を静観していると、「明日、一限あるんで今日はお先に!」と神童が就寝の挨拶を入れにきた。
「おやすみなさーい!」明るく戻し、「神童さんって絶対休まねえよな、大学」ジョータが尊敬の念を込めて呟く。
「真面目だよなあ」
「いやあの人は真面目すぎ。……神童さん大丈夫なんすかね」
「え?」
「んだよ、急に」
「昨日の記録会の後、けっこう落ち込んでたじゃないすか」
「おいおい、それを言うなら俺もだろ」
ユキが眉根を顰めると、「ユキさんは言葉に出すけど、神童さんってなんにも言わないし」と、ジョータが続ける。
「ほら、あの人周りに付き合っちゃうところあるじゃないすか。疲れるじゃん、自分以外のペースって」
「それは……」
レースの話か。練習の話か。それとも別の──。
ユキは、隣のムサと顔を合わせながら、同様に言葉を詰まらせた。

表現し難い不安に呼応したのか、襲来した厚い雨雲が関東上空に停滞していた、晴れ間の覗かない日が一週間以上続いている。
競技場の使用も難しい。いやいやながらクロスカントリーコースを周回したり、長めのロードをこなすなどして体力維持に努めるだけで精一杯だ。雨の日は夜のジョギングがない分、ゆったりと鶴の湯で身体を癒せる。それだけが唯一の救いかつ、ここ数日の恒例となっていた。
体重計に乗ったニコチャンが「お」と、嬉しそうに声を漏らすのを聞きながら、ユキは脱いだTシャツをロッカーのカゴに放り込む。練習後、一度竹青荘で着替えたにも関わらず、ここに来るまでの道のりで横殴りの雨にあった。水を吸った布地はぐっしょりと重い。これを見越し、もう一枚替えを持ってきた自分を褒めてやりたい。
「つーか、部費でレインウェアくらい買えねえのかよ。有意義に使わせていただこうぜ。後援会なんだからさ」
「会員がまだ十五名しかいないんですよ……」
神童が申し訳なさそうに告げる。
「え、そんなもんなの?」
「はい。ジャージを揃えるだけの金額もまだ……。ハナちゃんがSNSで呼びかけてくれてもいるんですけど、陸上部の知名度がないから厳しいみたいで。もうすぐサイトが完成するので、今のところはそれ頼みです」
「商店街の皆さんも応援はしてくださるんですが、あとひと押しが」ムサも続く。
「アメリカ横断クイズが続いてりゃあな。俺が賞金取ってきてやるのに」キングがニヤニヤと笑った。双子が「横断クイズ?」とジェネレーションギャップを発揮し、「お前ら知らねえの⁈」とキングに衝撃を与える。年齢的には大差ないため、おそらくキングがおかしい。
「あとは何かの大会で優勝するとか。ハナちゃんのこともありますが、やはり我々には実績がありませんでしょう」
「確かに。ねえの? そういう全国大会的な」
ムサの発言に唸ったユキが、この場でもっともそういう情報に詳しいと思われる人物は目をやった。
「……あることはありますけど」走である。
「なんて大会だよ」
「インカレ──インターカレッジ全日本大学選手権」
名前だけならば聞いたことがある者も多い。さっそく手持ちのスマートフォンで検索をかけた神童が概要をなぞった。
「……へえ。五月に関東大会があったんですね」
「もう終わってるってことじゃん!」
画面を双子やムサも覗き込み、スライドショーの体裁で掲載された競技写真を眺める。
箱根と同じく、インカレにだって誰もが挑戦できるわけではない。まず、遅くとも四月中には標準記録を突破しておく必要がある。竹青荘でこの記録を持っているのは走、清瀬の二人のみであった。
大学トラック種目の頂点を決める大会。特に短距離部門はこの大会が一年の山場とも言えるため、エントリーできる時点でそこそこの実力を持っていることが確約されている。近年はオリンピアンの学生も多いことから、各雑誌は今のシーズンこぞってインカレを取り上げていた。
「走は読んだか? 藤岡の記事」
その中でも清瀬が示しているのは、月間陸上通信の関東インカレレポートのことである。
「たまたま。売店で」
「気になることが書いてあったな」
清瀬がわずかに口元を緩める。旧友のコメントが思わぬ檄になったのだ。藤岡は、関東大会の優勝インタビュー末尾を、こんな内容で締め括っていた。
──今回は思い通りのレースができましたが、関東にはまだまだ有力な選手が眠っています。駅伝シーズンには必ず仕上げてくると思っていますので、油断せずその時を待ちたいと思います。
「ハイジさんは、不安なんですか」走は滴るような思いをふと唇に乗せた。そこで、そのあまりの直球さに歯噛みする。しかし、覆水と同様に一度飛び出した言葉は盆に返らない。
「不安?」清瀬は走がかけた単語を反芻する。
仕方なしに、走は頭の中に散らばる気持ちを組み合わせる作業を開始する。
「……まだ半分のメンバーが公認記録を出せていない。王子さんのタイムが縮んだ時、走るってことが少しわかった気がしたんです。でも、やっぱり難しいです。正直、俺は不安です。きっと──ユキさんと、神童さんも」

当初ほどの豪雨ではなくなったとはいえ、記録的長期の雨は続いていた。区営運動場の開放が再開したことから、毎日小降りになってきたタイミングを見計らい、住人たちは本練習へ出かける。
竹青荘から二キロほどの距離。サポート陣もレインコートを着込んで自転車で駆けつけてくれる。今日も、タイムトライアルの記録を取る葉菜子へ、なまえが傘を差し出してやっていた。最優先は少女の手元で、自身の肩が濡れているのは気にならないらしい。
「今日はここまでにしよう。各自、ウールダウンを──」
メニュー表を確認した清瀬が、皆へ声をかけた瞬間、
「すいません! もう一本追加していいですか! もう一本! お願いします」
神童が息を切らしたまま告げた。インターバルのラスト一本を終えたばかり。地面を見つめて立ち止まり、上半身を丸め、膝には手をついている。清瀬が「だが……ラップも落ちている。今日はもう」と嗜めた。
しかし、神童が欲する衝動は、その程度で止まってはくれない。
「タイムが全てじゃない。そう言いましたよね。確かにタイムは出したい。……でも、それよりも今はとにかく走りたいんです! 納得いくまで。ただそれだけなんです!」
神童が、少なくともメニューについて清瀬に反論をするのははじめてで、トラックの内側にいた住人たちは驚き、その場に立ち尽くす。
「お願いします。……お願いします!」
言うなり、彼は清瀬の返事を待たずにトラックを駆け出した。
何においても丁寧で、真剣で、いつも誰かのフォローにまわって。そんな彼の、滅多にしないお願いが、よりにもよって「走りたい」だなんて。
──一体どこまで真面目、いやクソ真面目なんだ。
ユキは目を瞑ってわずかに口角を上げた。気まぐれを装い、「じゃ、俺も」と続く。同じ心持ちであったらしいムサも、すぐに「今日はまだいけそうな気がしていたんです」と、軽く足首を回して走り出す。
すると、
「しゃーねえな」ニコチャンが。
「おーれも」双子が。
無言で王子が。
「へ、もの好きだね。どいつもこいつも!」キングが。
「──俺も」走が。
それぞれが、先頭を行く小さな後ろ姿を追いかける。
清瀬はコーナーを曲がる九人の横顔に、目を奪われる。何ものにも変えがたい、尊い何か。それが確かにそこにあった。
「ハイジ君は?」なまえが、すでに彼の答えを知っている顔で首を傾げる。
「走るさ」清瀬は、仲間たちを追いかけるべく古いタータンの上を駆け出した。
「タイム、とりますね!」葉菜子が呼びかける。
十人がトラックを一周し、横並びで再度スタートへ訪れる。その足が同時にラインを越した瞬間、なまえと葉菜子は顔を見合わせ「よーい、スタート!」と明るい声を張り上げた。

竹青荘の玄関。練習から帰った住人たちがアパート内に水分を持ち込むことがないよう、清瀬が事前にタオルを準備している。それを一枚手に取ったユキは、ふと後輩の背に目をやった。
「──神童って走り方がちょっと違うんだな」
「え?」
「最後の一本。後ろから見てたんだけど、なんつーか重心? 他のやつらと違うんだよ。特に走みたいなスピードで前に行くやつとは。走るっつっても人それぞれなんだな……。はじめて気づいた」
神童は数秒瞬きを繰り返した後、
「あ、ありがとうございます!」
ユキへお礼を言い、先輩たちが靴を脱ぐのを待ちながら雨ざらしになっている走へ「この後少しいい⁈」と声をかける。突然声をかけられた後輩は、きょとんと無垢な表情で頷いた。
上下一式取り替えた後、そろって王子の部屋へ乗り込む。ルームランナー上を走りながら、その場で細かくフォームを確認するためだ。
「もう少し重心を上げるイメージで。胸は逸らさない」
「……外でやればいいのに」ただでさえ足場のない部屋を占領された王子は非常に窮屈そうだった。
ユキは静かに「お前が言うな」と告げる。もとを辿れば、このルームランナーは神童からの貸与である。王子のやる気を削ぐわけにはいくまいと誰も口にしないが、竹青荘の寿命は彼がこの機器を使うたび確実に減ってもいる。この程度の協力はしてもらわねば。
走のフォームチェックを終え、神童は晴々とした表情で「ありがとう。また見てもらってもいいかな」と微笑んだ。
「もちろん」
「先輩にも、改めて」
「別に、気づいたこと言っただけだし」
ユキは唇を尖らせて頭をかく。ストレートにぶつけられるお礼には慣れていない。この天邪鬼な性質は生まれつきだった。
そのまま神童の部屋へともに上がるユキへ、走が「まだなんかやるんですか?」と問いかける。
「延び延びになっちゃってたから、今日中にホームページをね──と言っても、ニコチャン先輩と有村さんがほとんどやってくれて、僕の仕事は写真を入れるだけ」
一拍置いて、走ははっと何かに気がついた面持ちとなった。
「……お、お茶入れます!」
宣言するが早いが、軋む階段を駆け足で下っていく。
「あいつも少しは社会性がついてきたか」
不器用で、まっすぐで、実に素直な後輩である。神童とユキは目配せし合い、同時に吹き出した。

部屋に到着すると、神童は「せっかくだから」とテレビをつけた。BGMとして、人気芸人を起用した旅番組が流れはじめる。本日のテーマは「秘境・パワースポット」らしい。
神童の奏でるキーボードの音、ぼんやりとテレビの画面を眺めるユキの衣擦れの音、走が茶をすする音が、テレビの中から聞こえる和やかな笑いに混ざり、居心地のよい空間をつくりあげていく。
「──……うわ、すげえ美人」
ふと、めずらしく呆けた調子でユキが呟いた。居合わせた二人の住人もつられてテレビへ視線をやる。好きな女優でも映り込んだのだろうか。気を利かせた神童が手元のリモコンで音量を上げると、ちょうどリポーター役の芸人が、一人の女性へインタビューをしている場面であった。
「……──名前は似てるけど、由来はまったく別物っちゅーことなんや」
「ええ。木花咲耶姫がご祭神と思われる方も多いのですが、彼女は富士山に祀られていらっしゃいます。浅間神社といえば、想像できる方もいらっしゃるのでは」
「なるほど、浅間神社か! あそこの神様って咲耶姫だったんや……。いやあ、知らんかったわ。ほんで、浅間神社が咲耶姫とすると、ここの由来はどういう?」
「旧暦十月、神無月ともいわれるこの月は、出雲国では神在月とされます。全国から出雲へ参集された八百万の神は、最後にこの場所へとお立ち寄りになり、旅立つまで束の間の時を過ごされるのです。『神々がこの花の元で宴会を催す』情景そのものから、名前をいただきました」
一切のよどみなく説明を行う神職は、息を呑むほどうつくしかった。テロップにて示された「みょうじ薫子」という姓名までも。その美貌は若々しさの中、すでに何十年の歳月を積み重ねたような貫禄と凄みを持ち合わせている。
小さな卵形の顔、陶器のように滑らかな肌、薄くさした頬紅。すっと通った鼻は主張しすぎない程度に高く、形がよい。薄い唇は桜色に色づく。後ろで一つに束ねられた、刷ったばかりの墨にも思える、絹艶を持った髪。伏目がちの切れ長な瞳を長いまつ毛が縁どり、濡れた大きな黒目が覗いてる。それら全てのパーツが、あるべき位置に完璧な黄金比で置かれていた。
先刻までリポーターを務めていた女性ローカルタレントが、この神社に限り芸人と交代したのも頷ける。これではどちらが芸能人かわからないどころか、引き立て役になるかすら怪しい。
編集がなされていることもあり、プロの芸人は現場をうまく回しているように見えるが、一つ前のスポットではカメラ裏のスタッフをも巻き込んでいたトークが、神職の女性との二者間にとどまっている。おそらく撮影班が萎縮しているのだ。現実離れした造形美を前にすると、人間という生き物は無意識に畏まってしまう。画面越しであっても、彼女が語る内容はほとんど頭に残らなかった。脳のリソースが見目に持っていかれてしまっているのだろう。
「……出雲の神社ですって。ハイジさんなら知ってるかもしれないですね。もしかしたら知り合いかも」
「意外とそういうの疎いからなあ、あいつ。それよかなまえさんじゃねえの? 神社のつながりで」
「ああそっか。そういえば、有村さんの実家の神社の名前なんでしたっけ……この間聞いたはずなんですけど」
「あん時はこいつと王子の件もあったしな……。今度改めて聞いてみようぜ」
走に視線をやって、ユキが悪戯っぽく笑う。
「そういや秘境つながりってわけじゃねえけど、前から気になってたんだよな。これって神童の実家? すげえところにあんのな」
番組内のコーナーが切り替わったタイミングでようやく我にかえり、壁に飾られた写真へと視線を移したユキは、のどかな田園風景、険谷にかけられた吊り橋を指差した。
「ああ、一応道はあるんですよ。あるんだけど、それより谷を登った方が早いんです。学校には」
「車出してくんねえの? 親は」
「うち農家やってるんで朝は……。むしろ僕も手伝わないと」
「俺に娘がいたら、絶対こいつと結婚させるわ」
「なんですか、それ」
作業を再開させた神童が、ノートパソコンを触りながら笑う。半分以上本音であったが、ほんの少しでもからかいが混じっている限り、彼にあしらわれるであろうことはわかっていた。そういう部分が好ましいのだ。
「ちゃんとしやがって」
「……してないですよ。全然」
──と。しばらく隅で静かにお茶をすすっていた走がぽつりと呟いた。
「……神童さんが、誰よりも先に走ってみたいって言い出したじゃないですか」
「そうだっけ?」
「すみません……。あの時俺、絶対諦めると思っていました」
相変わらず直球な物言いに「まあね」と神童が笑みをこぼす。
「でも──違いました。このチームは神童さんがいないとはじまらなかったし、神童さんがいないと続けられてもいません──……強いです。神童さん」
彼の言葉は、純粋に、異物なく心に沁み渡る。生まれつきそこそこ高性能な頭を持っていたばかりに、どうしても斜に構えてしまう癖があるユキにでさえ。こそばゆく、それを含めて悪い気持ちがしない。走の言葉にはいつだって冗談がないのだ。馬鹿正直なほどにまっすぐなストレートが切り込んでくる。
神童は、走からもらったものを噛み締めるように、ゆっくりと告げる。
「この十人で箱根駅伝に出る。いいよね。夢があって。でも語るだけなら誰でもできるでしょう? ……いやなんだよね、そういうの。皆もそうでしょう? やると言ったらやる。ハイジさんもそう。多分有村さんも、ハナちゃんも、商店街の人も。僕は強くなんかないよ──ただやるだけ、何があっても」
「──はい」深く、走は頷いた。
「……絶対出すぞ、公認記録」
ユキの言葉に「ええ、またそんな。クールなくせに、先輩は」と、神童が笑った。
「うるせえ。出すったら出す。俺が決めて叶わなかったことはない」
「じゃあ、信じますよ──神様じゃなくて、先輩を」
ユキが「なんだよ、その言い回し。テレビの影響か?」とからかう。その声は単なる照れ隠しでは抑えられないねぎらいを帯びていた。

週末の東京体育大学記録会は、先日公認記録を出した双子、ムサの三人がサポートに回っていた。五月半ばに倒れた清瀬の復帰戦も兼ねている。「箱根の山はー?」、「天下の剣!」というコールも、重ねた出走の中ですっかりお馴染みになりつつあった。
本日が記録会への初参加となる葉菜子は、なまえに各種ポイントを教授されている。いつにも増してサポート要員が潤沢であることから、ラップを二〇〇メートル地点、四〇〇メートル地点に分けて取得する運びとなっているのだ。スタートとなる第三コーナーにはなまえが向かい、ゴールとなる第一コーナーには葉菜子と双子、ムサがつく。ラストスパート時、目の前に仲間の姿があった方がよいというなまえの配慮である。
鳴り響く号令。走はいつも通り、順当に先頭集団でレースを引っ張っている。マナスが同組であるため、いつにも増して展開が速い。先頭の面々がラスト二周に差し掛かる。スパートに向けた位置取りが激しくなっていく。
他の選手を置いてけぼりにして、マナスと唯一競っている走が第二集団を追い越す。タイムを狙うトップ選手には一レーンを空けるのがマナーでもある。六、七人の隊列が崩れ、その隙に神童とユキがポケットから抜け出し集団の先頭に立つ。
走と同組であることを確認し、あらかじめ考えていた作戦だった。前半はユキがペースをつくり、神童をフォローする。逆に後半は神童さんがユキを引っ張る。スイッチのタイミングは走に追い越される瞬間。周回遅れを見越して、はじめからユキがコースをとっていたのだ。
開けた視界の中、二人はラスト二〇〇メートルを苛烈に争う走とマナスへと目をやる。ホームストレートでは、双子、ムサ、葉菜子が跳ねながら応援している。他大学のジャージを纏う選手が口々に「すげえ」とこぼす。
自慢の後輩は、最後の数メートルを競り勝ち、組一着。十四分フラットの好タイムでフィニッシュラインを超えた。その後、数十秒をあけて清瀬がゴール。彼もまずまずの記録を叩き出したはずだが、自身の結果よりも走のレース内容が嬉しかったようで、ゴールするなり丸い頭をわしわしと撫で回す。
その仲間の横をすり抜け、神童とユキがラスト一周に突入する。
鐘の音が短く鳴り響く。激しく長く鳴らされるのは先頭通過時のみで、以降は端的に鳴らされるだけなのだと教えてくれたのは清瀬だっただろうか。それともなまえだっただろうか。いや、ニコチャンだったかもしれない。
ユキは、全身がポンプになったような不思議な心待ちがしていた。左側から聞こえた鐘の音が血管に入り、ドクドクと身体の内側でリズムに変わる。
以前どこかで聞いた話によれば、心臓の寿命はおよそ二十億鼓動らしい。人間も、ネズミも、ゾウも。どの生物も平等に。大人しく生きていれば、その分だけ拍動のペースもゆっくりとなるのはそのまま自然の摂理である。
自他共に認める理論家のユキは、今まで体を酷使して汗をかく人間を見るたびに、何をそんなに生き急いでいるんだと、相入れない思考への疑問符を持っていた。
けれど、今後ろにある息遣い。仲間の足音──その理由が少しだけわかったような気がする。
最後のカーブを終えたところで、清瀬と走が電光掲示板の横で叫んでいるのが見えた。すでに指定された距離を走り終えたくせに、必死に自らの心臓を酷使して。
うるせえな、わかったよ──俺もあと半年だけ、生きるスピードを速めよう。
ユキは残った力を振り絞り、脚を前へと運んだ。

「──……有村ちゃん、涙ぐんでたな。神童とユキが公認記録突破した時」渡されたタオルで汗を拭きながら、ニコチャンがニヤニヤと笑う。
全員のレースが無事に終わり、日も暮れ始めた競技場では各大学が帰り支度をはじめていた。いそいそと物品を整理していた中で突如話を振られたなまえは、思わず手にしていたボトルを落とす。
「ち、違いますよ! あれはびっくり涙です」
「違くないじゃん」
「嬉し涙じゃなくて?」
双子からもっともな突っ込みが入るが、「びっくりしても涙は出るの。生理現象なの」と、なまえはもごもごと苦しい言い訳を吐いた。
「あくびじゃねえんだから」呆れるニコチャンの横で、
「涙が出るくらいびっくりする時ってなにがある?」
と、双子は至ってのん気である。
「色々あんじゃねえか? その、なんだ……適当に言った答えが正解とか、福引で一等引き当てるとか、いきなりキスされるとか」キングが顎に手をやる。
「最後だけは絶対ないでしょ」
「うっせえな! たとえ話だろうが!」
葉菜子かクスクスと笑っている。いつも通りの和やかさが、梅雨明けとともに戻ってきたようだ。
──と。
そんな彼らのもとへ、猫背気味な影が一つ落ちた。眼球周辺が落ちくぼみ、頬のこけた、どことなく骸骨のような雰囲気を纏う男。
一番に気配に気がついた葉菜子が「あれ? この前うちに……」独りごちる。ユキが「知り合い?」と尋ねれば、「この前うちのお店に来て。寛政大学の駅伝部はどこで練習してるのかーって。運動場が使えない時だったから、わからないってお父さんが返したんですけど」と、戸惑い気味の声色が戻ってくる。
ピリピリとした危険信号に、ユキはチラリ清瀬へ視線を向けた。対する清瀬は飄々とした様相を崩さず、おそらく何かを感じているではあろうが、それを態度に出さない。
「面白いチームだね、寛政大学。六道の藤岡選手に聞いたよ。箱根を目指しているんだって? まだ公認記録を出していないメンバーもいるみたいだけど……」
近づいてきた男は、話しはじめに下手くそな笑顔を浮かべた。好意的とするには、いささか粘つく目つきである。
「ああ、それなら問題ありません。チャンスはまだ十分──」
清瀬のフォローに被せ、男は続ける。
「うん。それにしても抜群だったね。一年でこの時期にこのタイムは驚異的だよ──蔵原君って、仙台城西高校の蔵原君?」
走は眉を顰め、頷くも首を振るもなく黙り込んでいる。
「おい、聞いてんぞ」空気の重さを察したキングが、わざと冗談ぽく声をかけるも反応はない。
「……すみません。心苦しいのですが、本日はお引き取り願えますか? 今からミーティングをするところだったんです。その後も大事な予定がありまして、スケジュールをずらすわけには」
清瀬をちらりと見やったなまえが、走を背中へ隠すように一歩進む。予定といっても、反省会を兼ねた宴会なのだが、そんな素振りお首にも出さない。
「それは失礼……。ちなみに、ミーティング内容を聞かせてもらうことは? いい記事になりそうだと思ってね」
「──申し訳ありません。取材であれば事前にご連絡をいただけると助かります。せっかく扱っていただくのに、適当に受けるわけにも……。チームとしてきちんと準備をさせていただきたくて」
柔らかなトーンでやんわりと、かつ有無を言わせず。凛としたなまえの受け答えによって男が押し戻される。
「……随分と頑固なマネージャーさんだ。では、改めて正式に取材させてもらうよ──週刊真実の望月と言います」
対面するなまえへ名刺を無理やり握らせた望月は、存外あっさりと踵を返す。
「なんだったんでしょうか……」不安そうにムサが呟く。
「週間真実ねえ……」ニコチャンは、その雑誌が芸能人の下世話なゴシップを扱うものだと知っていた。その記者がわざわざ取材の申し入れをしてきたとあっては、いやな予感しかしない。
「悪いな、有村ちゃんに対応させちまって」
なまえはさして気にする素振りなく、努めて明るく告げる。
「いえ。ホームページもできたことですし、SNS含めて広報窓口を集約した方がいいと思っていたんです。今、杉山君と手分けしてるんですけど、わたしとハナちゃんで引き取りたくて。選手以外の担当者がつくだけでも、ある程度虫除けになると思いますし。何より選手の負担が減りますし──ね、ハイジ君」
「返す言葉がないな」槍玉にあげられた清瀬が苦笑する。
「……すみません」ようやく、俯いたままの走がこぼす。
なまえと葉菜子は、多摩川土手で榊と走が再会した際に最初から居合わせていた。走が高校時代に触れられたくない事件を起こしていることをなんとなくは察しているのだろう。なまえがそんな青年に気を遣ったのだと、その程度は走にも容易く理解された。
「そんな畏まらなくたって。そもそも、こういう後方支援はサポートの──」
「違います。あ、いや、違くはないんですが──この間のこと。まだちゃんと謝っていなくて」
なまえは一瞬驚いた表情を浮かべ、きまり悪そうに眉毛をハの字にする。
「その話ならもっといいよ。おせっかいなこと言って、わたしこそごめんね」
「──違うんです。俺、ずっとイライラして、焦っていました。アオタケに来る前からです。……ただ走るだけで、あまり周りが見えていなかった。それを、皆に当たりました」
突然の素直すぎる告白に、思わずキングが吹き出す。
「いきなりなんだよ」
「結局、走のそれは誰への謝罪なの?」
他の住人たちも口々に走をからかいはじめ、輪の中心となった走は「俺はただ思ったことを!」と、一人慌てている。予想外の客人によって緊張感の走った空気が、一気に穏やかさを取り戻す。
ニコチャンは隣を見やり、皮肉屋に見せかけて実は誰よりも熱い後輩へ、「なあ」と呼びかけた。
「いい一年にしようぜ、ユキ──アオタケで一緒に過ごす最後の一年をさ」
「……なんすか」
いつにも増して冷たい返事がただの可愛げであると、ニコチャンにはわかっていた。