Prayer 5章① 城太郎

「なんで山なんか選んだ!」
「なんでも! 商店街のバ、バッティングセンターの岡井さんが、別荘を貸してもいいって! ハイジさんに!」
ニコチャンの悲鳴に、舌を噛みそうになりながら神童が答える。ただでさえ危なっかしい清瀬の運転に、自然の凹凸まで加えられたとあっては気の休まる暇もない。バンへ箱詰めにされた住人たちは、それぞれ窓際の取手を掴んだり、前方の背もたれにしがみついたり、シートベルトを抱きしめたり、身の安全確保に勤しむ。
「食材も全部、商店街の皆さんが提供してくれると! これは八百勝さん経由です!」ムサが叫ぶ。
車体が跳ねるたびに誰かが悲鳴をあげることから、声を張らなければそもそも聞いてすらもらえないのだ。
「てかっ! てか! なんでこいつがシートで俺が後ろなんだよ!」
「しょうがないでしょう! キングさんじゃんけんで負けたんだから!」
ニラとの座席トレードを申し出るキングを一蹴しながら、ジョータは完全に酔ってしまった王子の頭を窓から出させた。山道に観光客がいないのをいいことに、そのまま先輩の喉奥に指を突っ込む。爽やかな空気に人工物──否、体内で形状を変えた天然物が流れていく。
風下のジョージはその匂いを完全にもらってしまったらしく、先刻から口元を押さえている。窓の外をゆく汚物を見ながら、ユキが鼻をつまんだ。
「どこのヘンゼルとグレーテルだよ!」
「ばっかやろ、こんなグレーテルがいてたまるか!」
童話を題材に、先輩たちは言いたい放題である。
決してのどかとは言い難い状況の中、十人の長距離部員がこうもバンに詰め込まれている理由は単純。目的は「灼熱地獄からの脱出」ただ一つである。
前期の授業、ともなうテストが終了し、寛政大学が夏休みへと突入したのはつい先日のことだった。浮かれ気分の学生を後押しするつもりなのか、太陽は休みなく働き続け、観測史上トップクラスの猛暑を日々更新している。昨日も都内は四十度近い気温を記録した。
エアコンのついていない竹青荘は、その影響をもろにくらい、常に蒸し風呂状態。熱帯夜の寝つきづらさから食欲失せ気味の部員たちは、練習への集中力も削られつつあった。夏合宿と称し、数週間の大移動が計画されたのはそういうわけである。
「──おお、そろそろだ。湖楽しみだな」
荒れ狂う後部座席を意にも介さず、清瀬は上機嫌にハンドルを握り直した。

別荘は長らく使われていなかったらしい。建物前のスペースに車を停め、恐る恐る中を覗き込んだジョージは盛大にくしゃみをした。至るところにホコリ、砂、土が積もっている。一歩踏み出すごとに、ふわりと軽いゴミが床付近を舞う。
「……ま、現実はこんなもんだよな」悟ったユキの言葉が妙にすんなりと入ってくる。
はるばるここまで足を運んだのだから致し方ない。寝床を確保するため、面々は大人しく掃除から手をつけることにした。不幸中の幸い、屋根の作りがしっかりしているため雨漏り等の心配はなさそうだ。また、電気、ガス、水道等のインフラにも問題はない。清潔ささえ担保できれば、常時の竹青荘より快適かもしれなかった。
天井の四隅から柱にかけて広くクモの巣が張り巡らされており、該当箇所を行き来する住人は、全員盆踊りを踊るような格好で頭上に手をやった。その様子が面白かったジョータは、途中からリビングの中央でそれらの動作を真似た創作舞踊をはじめ、「真面目にやれ」と清瀬に叱られる。
そんな一コマを挟みつつ、男手が複数人もあれば、二階建てのペンションは数時間である程度のうつくしさを取り戻す。片付けがひと段落し、双子は素の木目を露出させる床へだらりと横になった。
デッキの外では、緋色の太陽光を木漏れ日がまばらに遮っている。フローリングに葉っぱの影が模様をつくった。目を細めたムサが、「うつくしいですね」と感慨深く告げる。
「よし、準備完了。あとはルーを溶かすだけだ」
休む間もなくカウンターキッチンで寸胴に向き合っていた清瀬は、微笑みながらエプロンを脱いだ。
「いきなりカレーか。ベタなことを」ユキがからかいを投げる。
「あとは溶かすだけって、溶かせよ。もったいぶんねえで」続けて、キングも冗談混じりに唇を尖らせる。
「何を言っている。飯の前にひとっ走りだろう」
「……はあ?」
「俺はいいんだぞ。芋やにんじんをただお湯で煮込んだだけの汁でも。素材の味が楽しめることだろう──もちろん、ルーのありかは俺しか知らない。ほら早く。夜道でクマに襲われたらことだぞ」
清瀬の手抜きをしない性格は、調理においても順当に発揮されている。竹青荘でカレーをつくる際も、本練習前にとろとろになるまでタマネギを煮込んでおき、事前に数種類の市販のルーを独自にブランドして味を整えるのだ。その美味さを知る住人たちパブロフの犬を思わせるスピードで、潔く腹を鳴らせた。
以前「清瀬に飼い慣らされている」と表現したのは誰だっただろうか。ジョータは「どっちにしても地獄だよ」と足をバタつかせる。
「正面の坂をしばらく下れば湖畔に出る。湖は一周三・八キロ。三周したら別荘に戻ってよーし」すでに清瀬は玄関に向かい、アップシューズの靴紐を結びはじめていた。
渋々住人たちもペンションから出て、信濃路自然歩道をそろって駆け出だす。十分も走ると、湖と道の間に並んでいた木々がなくなり、全景へ湖畔が望んだ。透き通った湖へ、夕日が沈んでいく。お約束のやりとりとばかりに反対の声をあげたものの、いざ走り出してしまえば今さら十キロ少しのジョグに辛いも何もなかった。
一周目の途中から各自のペースに切り替えた一同は、順次帰還し、それぞれ夕食準備の続き、風呂、荷物整理等に勤しみはじめる。
「──ちょっと待て! どうする気だ! それを」
先輩権限を発動して一番に風呂を終えたユキは、漂うカレーの匂いに釣られて台所を覗き込むも、思わずぎょっとして足を止めた。今にも清瀬が、鍋の中へプロテインを投入しようとしている。ましてや、大容量袋に詰められたストロベリー味のそれ。
「だって……ユキがベタとか言うから」なぜか清瀬はわずかにいじけた素振りを見せる。
「いいベタで! ベタがいい!」
「ええ。試しにやってみようぜ」
「いや、いいって言ってんだろ!」
四年生のじゃれつきを横目に、ジョータは開けた一階をぐるりと見渡し、微かな違和感に首を傾げた。
「なんか……足りなくね?」
「はあ? こんだけありゃ足りんだろ。どんだけ食う気だよ」早くも炊飯器の中をさっくりかき回しているキングが呆れる。
ジョータと同様の感覚を持った様子の走が、「そうじゃなくて──人、足りなくないですか」と補足をした。
カウンターで夕飯準備を手伝うのは、キング、走、ジョータの三人。
「ああ、だりい」リビングにはだらけるニコチャン、無言でソファーに横たわる王子。
「……あれ、けっこうイケる」コンロの前には、予期せぬマリアージュに驚くユキと、得意げな清瀬。
「上がりました! カレー! カレー!」脱衣所から飛び出してきたのはジョージ。
──ムサと神童の姿がない。

「うわ! なんにも見えねえ!」
ペンションの外へ恐る恐る踏み出した一同は、自身の指さえ見えない環境へ各々叫び声をあげた。普段なら「うるせえ!」と誰かが言い出しそうな声量ではあるが、この暗闇ではそれぞれの悲鳴で位置が把握できるため、有難いとすらされる。
「下手に動かない方がいいんじゃねえ?」
「でもこの寒さですよ」
「沢に落ちて動けなくなってたりして……」
「怖いこと言うなよ!」
「携帯持ってねえかなあ、あいつら」
「持ってても入んねえだろ、電波」
「落ち着け、皆。二手に別れよう。ここに残る者と車で捜索に向かう者」清瀬が住人たちの意思統一を試みる。
「──じゃあ俺が残る!」
が、全員の意思は、想定とは違う形で、ある意味完全に統一されていた。
「二手と言っているだろう! なぜ皆残りたがる」
こんな暗闇の中、清瀬の運転する車へ乗りたくないからに決まっている。しかし、そんな不躾なことは今さら言い出せない。暗闇の中、自分以外の住人へこの大役を押し付けようとそわそわしはじめた一同は、微かに響くうめき声で静まり返った。
山の上の方から聞こえたような気がする。
「な、なんですか、今の……」
「野生動物?」
「おい、近づいてくんぞ」
「落ち着くんだ、こういうときは──」
だんだんと闇夜に目が慣れ、互いの輪郭が視認できるようになる。清瀬がポケットから鈴を取り出し、まっすぐ腕を伸ばして正面に構える姿までも。
「鳴らさなきゃ意味ねえだろ! 護符じゃねえんだぞ!」
「音を出せ、音を! 振れ! 頼むから!」
ニコチャンとキングが大声を出した瞬間、山の上から転がり落ちてきた二つの影が、清瀬の横を駆け抜け、バンの側面へぶつかった。

「──すごい才能を持っているんですよ、神童さんは! 急な山肌をホイホイ登ったり。星で方角を見たり」カレーライスをスプーンで丁寧にすくいながら、ムサが友人の能力を力説する。
「いやあ」神童は困り眉で、自身の頭へ手をやった。
「いやあじゃねえし!」
「心配させやがって。無傷だったのが不思議なくらいだわ」
「脇道に小道を見つけてしまって。クロカンにちょうどいいかなって探りに入ったら、そのまま道に……」
「山育ちだったんじゃねえのかよ」
「慣れてるけど、方向音痴でもあるんですよねえ……」
「私もです。友人に誘われても、決してサバンナには行くなと、本国でも親にきつく言われていたほどで」
「なんかムサさんのスケールがよくわかんないんだけど」
ジョータは、我ながらもっともな指摘を入れた。竹青荘の最終防衛線こと優等生コンビ、生まれ育った環境が他のメンバーより遥かに自然豊かだったせいか、思考に遊牧な点が見受けられる。
神童、ムサが迷った経緯を聞きつつ、終始こめかみを揉んでいた清瀬は、
「運よく無事だったからよかったが、これが箱根の本番だったらお前たちはコースアウトで失格だ」
と、厳しい口調で告げた。
「……すみませんでした」
「……おっしゃる通りです」
「とにかく、以降気をつけるように」
竹青荘の中でも特に真面目な二人が心底反省していることから、清瀬もそれ以上咎めることはやめたようだ。「いや先導車いんだろ」ユキが小さくぼやき、ジョージが吹き出したことも要因の一つである。
「──あ! そういえば。ね、ムサ」
「あ、そう! びっくりなんです!」
そこで、ようやく落ち着いたリビングの雰囲気に安堵した神童、ムサが顔を見合わせる。
「東体大も来てるんですよ! こっちに」
「はあ?」
「灯りに引き寄せられるように藪を抜けると、綺麗な建物がありました」
ムサの入りに、ニコチャンが「おいおい、マジでヘンゼルとグレーテルじゃねえか。勘弁しろよ」と首裏へ手をやる。
「お菓子の家?」
「面子的にはアルプスの少女だろ。ハイジに、ユキに、クララ」
「クララ?」
「ほら、走の名字」
「……まさか蔵原で? ちょっと無理やりすぎません?」
「アルムのおんじ、ユキのお友達のハナも追加」
「……それ、なまえさんとハナちゃんのことすか?」
童話や少女文学の方向へ話が進む中、現実的に東体大の食事へ意識を向ける一部のメンバーは「先方の夕食は焼肉でした。モツ、レバー、ロース、カルビ。あのサシの入り方は間違いない──国産黒毛和牛です」とのムサの一言に肩を落とした。
スプーンですくったカレールーを間近で眺めてみる。
「……肉、入ってないよなあ」
もの悲しさを代弁したジョージの一言が、さらに侘しい空気を助長させるのだった。

夏合宿二日目。朝のジョグを終えた直前の住人たちの元へ、彼らを運んだことで載せきれなかった荷物運搬を目的に、はるばるなまえがやってきた。
「すみません、わざわざ。しかも日帰りで」
清瀬がお詫びをしながら、大量の食材を受け取る。いったい段ボールいくつ分あるのだろうか。走り回って毎日大量のカロリーを消費する男が十人もいれば、そこそこの量が必要だと納得してはいるが、車一台の後部座席、トランクへぎゅうぎゅうに詰めても五日分程度なのだという。
「いいんだよ。八百屋の仕入れごっこみたいで楽しかったから」
彼女はこの後も夕方まで、本練習のサポート対応に残ってくれるそうだ。昨晩、春学期最後のゼミ発表を終えたと聞くが、一体いつ休んだのだろう。この時間に軽井沢へ到着するためには、日の明け切らないうちに東京を出る必要がある。
こっそりとあくびを噛み殺すなまえに気がつき、「もしかして、今何かがあったら、ハイジさんかなまえさんの運転で帰らなきゃいけないってことじゃない?」真理を察した双子が顔を見合わせる。清々しい練習環境に浮かれ、先方不注意になりがちな清瀬と、若干寝不足らしいなまえ。恐ろしいにも程がある。
「……今から免許取れるとこない? できれば一日で」
「無理でしょ」
「じゃあ、東京まで走って帰るか、二人の車に乗るかってこと?」
「……どっちも最悪」
合宿が無事に終えられるように願う一年生の心は梅雨知らず、かいつまんだ昨晩の出来事をユキから聞かされたなまえは、
「テレビ中継史上初、リアルタイム箱根遭難劇が見られる可能性があるね」
と、愉快そうに告げた。キングは「ええ? それありなんすか?」と眉根を寄せる。
「参加校が四校ぐらいだった時はあったらしいの。大正時代かなあ。どの大学も山での近道探しに余念がなかったって。その時はラジオの中継もなかったからね。電波も入らないし、運営に見つかりさえしなければ如何様にも言い訳できたんじゃない?」
「……つまり、通信技術が発達した今は、コース通りに進行するってことですよね?」
山での探索に人員を割く余裕はない。少なくとも昨晩の事件で方向音痴が発覚した二人は論外だ。念のためユキが確認を入れれば、「あっても面白かったのにね」なまえはのん気に微笑んだ。そんな部分まで、持ち前の受容性を発揮せずともよいだろうに。

坂道を下って湖畔に出ると、竹青荘の面々よりも一足早く、土産物屋の駐車場を見覚えのあるジャージが占領していた。縦二列のグループが複数つくられ、コーチの合図でロードへ飛び出していく。
「……鉢合わせるもんすね」
「つーかすごいな、なんか。本気の陸上部って感じ」
「僕たちだってそうだよ」
ヒソヒソと会話する住人の後ろからなまえが顔を出すと、偶然こちらへ視線を向けた松平と目が合った。互いに「あ」との表情を浮かべ、同時に軽く頭を下げる。
「有村ちゃん、知り合い?」目ざとくその様子に気がついたニコチャンが囁く。
「四月の記録会で少し。でも、それだけですよ。顔見知りというのも申し訳ないくらい」
「え、何? ナンパ?」
「なわけないでしょ」キングの差し込みは、彼女本人によって即否定される。
とはいえ、これは寛政大長距離陸上部にとっては嬉しい情報に違いない。走と榊の関係性から、今回の合宿でもいざこざが起きるのではないか、口には出さずともうっすら気を揉んでいたのだ。先方の主務である松平となまえが多少とはいえ知った仲なのであれば、干渉せず穏便に練習をこなせるかもしれない。松平が一年生の手綱を握っていることは、記録会の様子からも予想がつく。
──が、そんな住人たちの淡い期待はあっさりと裏切られた。
東体大駅伝部の部員の多さから、複数に分けられた組み分け。そのうち一つ──Dグループが、榊を中心とした一年十数人で構成されていたためだ。監督はもっとも力のあるAグループにかかりっきり。一周数キロのコースでは、その他サポーター陣の目もずっと光っているわけではない。東体大の学生たちはやりたい放題である。
進路の妨害にとどまらず、わざと竹青荘のメンバーを取り囲み、ポケット状態にしてプレッシャーをかける。監督、上級生、マネージャーの目を盗み、からかいの言葉を投げる。
走、清瀬、一応ニコチャンといったある程度試合に慣れている面々はまだしも、まだ初心者に毛が生えた状態の住人は、それらのいやがらせに萎縮してしまっていた。設定ペースも何もあったものじゃない。
午後に計画していたメニューの半分を終えるころには、それまで我慢強く静観していた清瀬も、ついに堪忍袋の緒を切らせていた。
「──練習の邪魔はやめてもらいたい」
休憩中の一年生が屯している場へ突撃し、淡々と述べる。
数メートル後ろでその場面を見る住人たちも、蓄積した怒りが脳天に来ていた。キングなど「一人あたり、二人ぶちのめせばいい勘定だな」と半分冗談とはいえ、腕捲りをしている。
「はあ? 邪魔? 邪魔なんか……なあ?」
清瀬の迫力を一対十数の人数差で相殺した榊は、「言いがかりですよ。行こう。まだトレーニングが残っているので」と、口元を歪める。
「ちょっと待って」
はぐらかす先方へ、呆れながらも大股で歩み寄ったなまえは、ポケットから取り出したスマートフォンを掲げた。そこには、歩道に広がり、神童とムサの行く手を邪魔する様子が鮮明に記録されている。
「フォームの確認がしたい、って部員から頼まれていたんです」
持参した折りたたみ自転車にまたがり、先刻まで彼女も練習へ伴走していた。決して遠くから撮影をしていたわけではないのに。ましてや盗撮するつもりなんて毛頭なく、あからさまにカメラを向けていたというのに。十数人の集団にあって誰もその様子に気がつけないほど、彼らはいやがらせへ夢中になっていたのだろう。
なまえの発言に続き、清瀬も静かに交渉を再開する。ジョータの隣では、走が強く拳を握りしめている。
「このピンぼけ写真を、きみたちの監督やキャプテンに見せに行くようなことは、俺もできるならしたくない──わかってもらえると嬉しいんだが」
「今は、うっかりSNSで拡散……なんてこともありますからね」王子が呟く。
「……わかりますよ。俺たち真剣なんで。ミーハーなチームは相手にしていられないって」
小さく舌打ちをした榊は、再度嘲る表情を作り直す。
「ミーハー?」
「出れば注目される。出たいと言えば話題になる。そんな浅い考えで叶いもしない目標を掲げてはしゃぐ、ミーハーな連中のことですよ」
おそらくは怒りで、かすかに震えはじめた走の肩。ニコチャンが牽制的に指をかける。
「そうだ、勝負しますか? 俺たち一年と十対十で──そうすればわかりますよ。真剣さの意味が」
「じゃあ俺とやれ。俺だけでいい。この人たちは関係ない」
一歩前に出ることでニコチャンの制止を振り切った走は、三白眼気味に榊を睨みつける。ジョータが「走」と声をかけるが、カッとなった彼には届かないようだった。
「……相変わらず蔵原は自信過剰だな。そういうところがチームを壊すんだよ」
「もういい。帰ろう」辟易とした口調で清瀬が告げる。
しかし、ついにターゲットを引っ張り出すことに成功した相手の猛追は止まらない。
「いいタイム出して、注目されて、悪気はしないよなあ。誰の犠牲があったかも忘れて──」
「──勝負はしない。ガキくさい連中を相手にしても大した成果は得られない──戻ろう、時間がもったいない」再度清瀬が場の解散を試みる。が、相手にされずあっさりと切り捨てられたことが、榊は気に食わなかったようだ。
「なあ、今仲良くかけっこできてるのに、どうしてあの時はできなかったんだよ。なんで俺たちの努力を無にするようなことをしたんだよ。ちょっと我慢すればいいことだったじゃないか」
「……もういい、と俺は言ったはずだが」
清瀬の声色が数度冷え込む。普段から飄々と腹の内を悟らせない彼だが、今この瞬間は特に無表情だ。ジョータは、ジョージとともに「ハイジさんが爆発寸前!」と、身振り手振りでもう一人の同輩に情報を送った。早く立ち去らなければ、この後どうなるかわかったものじゃない。
ピアノ線のように張り詰めた空気の中、標的である走へ、榊は絞り出すように叫んだ。
「守ってもらって満足か? やっとできた仲間と走るのは──仲良くかけっこできて満足かよ!」
──その瞬間。
血がにじむほどに、自身の下唇をぎゅうっと噛み締めていた走が飛び出した。
光にも劣らない速さで、清瀬となまえの間をかいくぐり。元チームメイトの胸ぐらを掴み上げる。
「──走!」
「──蔵原君!」
とっさに、振り上げられた走の右腕を清瀬が抑える。
走と榊の間に割り行ったなまえが、二人を力任せに引き剥がす。
走の腰を後ろから神童が引きずる。榊の服を掴んでいた左腕をニコチャンが確保する。
双子は走を隠すように、東体大と住人たちの間に立って、同級生の代わりに対面するチームへ鋭い視線を投げかける。
ケホケホ乾いた咳を数回鳴らした榊は、羽交い締めにされつつも興奮収まらない走を嘲笑った。手足を無意味に上下させ、獣のように「ふーっ」と息を漏らす姿は、非常に滑稽な様相に見えたのだろう。
「……な? あの時のままだ。そうやって誰かの努力をぶち壊すんだよ、お前は。見てねえんだ、他の奴らのことなんて。……才能かなんだか知らねえけど、自分だけはどうにかなると思ったら大間違いなんだよ!」
元チームメイトの言葉で、走の目に鏡のかけらを思わせる悪魔の輝きが宿った。青年の拳に力が入り、彼を抑える住人たちの身体が軋む。
「走──走! ……俺たちがいることを忘れるな」
清瀬が殊更静かに、先刻までの氷点下を打ち消すほのかなあたたかさを寄せて、走へ言い聞かせるよう耳元で告げた。
ジョータは、幼い頃母に読み聞かせられた絵本を、一瞬脳裏に過ぎらせる。昨日からヘンゼルとグレーテルだの、アルプスの少女ハイジだの、懐かしい話ばかりされたせいだ。氷の女王の最後で、冷え切った少年の心臓へ少女が贈ったような。ただ一つの想いに名前をつけたページが、目の前の二人に重なった。
清瀬により、凍てついた心をわずかに絆された走は、かたく締め上げていた筋繊維をも少しだけ解かせた。低い呼吸を繰り返しながら、徐々に、ゆっくりと拳を下ろしていく。
「──……きみにも言い分があるのはわかる。だが走はいまは、寛政大学の選手だ。無闇に傷つけたり動揺させたりするのは、やめてもらいたい」
走が太腿の横に腕を下ろした様子を確認した清瀬は、もう一度榊へ向き直る。
「……何をしたんです? 彼は」
「とりあえず、各方面からモテモテって感じだな」
走の救出に一歩出遅れた王子とキングが、背後で小さくやりとりを交わす。
「……土壇場でそいつに裏切られないように、あなた方も気をつけたほうがいいですよ」懲りない榊は、竹青荘の面々へ捨て台詞を吐きかけた。
「俺たちがいかに真剣か、その答えは予選会で見せることにしよう。……あ、でもそっか。きみ達一年は雑用で手一杯でレースを見る暇もないか──まずはレギュラー、頑張ってくれ」
一方、舌戦で清瀬へ勝利するにはまだ経験が足りなかったようだ。見事に竹青荘の実力者に軍杯が上がる。穏やかにまくられ苛立った様子を見せた榊は、仲間たちと連れ立ってその場を後にする。
「……おい、大人気ないのはどっちだ」
「性格悪いんだよ、ハイジは」
「十人しかいない弱小部にも、いいところがあるということです」
身内から散々な言われようだが、清瀬にとってはそれすらもどこ吹く風である。
東体大の影が小さくなるのを待ってようやく拘束を緩められた走は、その場で一人俯いた。彼を取り巻くもの全てが重たそうであった。住人たちの知らない過去が、走の足を取り続けている。細い背中が居た堪れない。
「……走、平気?」
ジョータが呼びかけるも、青年は返事をするのも億劫そうに、固く結ばれた自身の靴紐を見つめていた。きつく絡まり合って、二度とは戻れない、おそらく戻りたくもない──そんな、旧い人間関係のようなそれを。ずっと。