Prayer 3章間話 坂口洋平

なんてことはない平日。夕方というには幾分か浅い、年季の入った生垣の切れ目から、帰宅中の小学生が時折覗くような時間帯。
竹青荘が誇るクイズ王──キングこと坂口洋平は、石畳に腰掛けながら、玄関先でニラと戯れる女性へ視線を向けていた。
アパートまで足を運んで遊んでくれる人間は、大家とその家族、住人を除けば滅多にいない。その物珍しさも要因となり、彼女と触れ合う際のニラはいつもご機嫌である。例に漏れず本日も元気に訪ね人の足元を駆け回り、高く吠えている。
たまに葉菜子が来るときも似たような調子であることから、単に若い女が好きなだけかもしれない。だとすればとんだスケベである──が、相手が犬である以上直接文句を垂れるわけにもいかない。間に割って入る勇気は、当然キングにない。言い難い面白みのなさを抱えながら、ニラの小劇場を眺めるのみだ。
十分ほど彼女の足の周りを回っているうちに、三半規管をやられたのか、雑種犬の足取りが怪しくなってきた。と思った瞬間、付近の草で薄ぼんやり手遊びをしていた王子と衝突する。結果、ニラはその場に踏みとどまり、か細い青年だけが正面方向に吹き飛んだ。
「えー!」
衝撃映像に、女性が驚愕の声をあげ慌てて駆け寄る。しかし、「大丈夫⁈」と差し伸べられた白い腕を無視して、王子はのそのそと起き上がった。失礼なやつだ。幸いなことに、対する彼女は王子の無礼を気に留めず、怪我がないことにひとまず安堵したようだった。そのまま人間だけが吹き飛んだ理由を考えている。
「これは一体どういう理屈なんだろう……」
「……スピードと体積の掛け算ですよ。敗者は口なしですから、これ以上は」
「……物理演習が題材のバトル漫画ってこと?」
「天空試験編です。タイトルはセンター・センター」
「集英社に訴えられそう……」
二人の掛け合いは正直何を言っているのかよくわからない。しかし、住人たちに対する態度と変わらず、女性とも自然体に接することができる点について、キングは王子が羨ましかった。二次元にしか興味がない、と彼が太々しく言い放ったのはいつのことだったろう。あの時は当時の竹青荘メンバーで大笑いしたものだが、実際にそのメリットを目の当たりにすると、心がそわそわと落ち着かない。自身の膝で頬杖をつきながら、キングはため息を吐き出した。

気になる彼女──有村なまえは、同輩の連れてきた女である。
出会ったのはひと月ほど前。清瀬が強権を発動した早朝ジョグの折り返し地点。まだ肌寒い河川敷にも関わらず、ひだまりのように優しい笑顔で手を振ってくれた記憶が新しい。一度はじめた会話をなんとか続けようと、キングが早口でけしかけた雑学シリーズにも楽しそうに相槌を返してくれた。
彼女は、大学以前から清瀬の知り合いだったようで、無謀すぎる計画の手伝いに駆り出されている。何か清瀬に弱みを握られているのだろうか、と思ったが、それにしては協力的だ。
なんでもこの辺りに住んでいて、竹青荘にも徒歩で来れる範囲内なのだという。ただし通っている大学は寛政ではない。なまえが在学中の喜久井大は、私立の双璧を担う難関校だ。
就活生であるキングの視点だと、彼らが同じ面接グループにいるだけでやる気を削がれる。スタート地点から社員の見る目が違うのだ。スーツの準備すら直前までできず、高校時代のブレザーで乗り切れるだろうかと悩んでいた自身では全くもって歯が立たない。
そんな経緯から、喜久井大の学生とは今後一生並行線だとキングは思い込んでいた。だからこそ、食わず嫌いの中に飛び込んできたなまえがやたら輝いて見えてしまうのかもしれない。正直、話せるものならもっと話してみたい。
ただ、何人かのグループで雑談をすることはあれど、一対一の会話を仕掛けて、プライベートのなまえに踏み込むことは難易度が高かった。
ここでひとつ注釈をつけると、同じく女性で、かつ可憐な容姿をしている葉菜子の存在がある。キングにとって葉菜子への心理的距離も決して近くはないのだが、まだ高校生という年齢も相まって異性というより妹のような安心感がある。少女の人懐っこく屈託のない性格も起因し、そこまで心の準備をせずとも声をかけることができるのだった。免疫が十分でない身としてはありがたい限りである。
その点、なまえはまず年上というのがいけない。ただでさえ緊張するのに、使い慣れない敬語のせいでさらに言葉が出づらくなる。
長く柔らかそうな髪の毛がいけない。天然だという茶色のウェーブを勝手に目が追って、何を話そうとしていたのか忘れてしまう。
ほのかに香る匂いがいけない。緑茶を思わせる清涼感の中、どこか甘い気配がある。それは髪が風になびくと、ふわり感じる程度ではあったが、鮮烈ではないことが逆に意識を散らすのだ。
なにより──。
「──坂口君」
惚けた思考の折、名前を呼ばれて顔を上げると、しゃがんだなまえの姿が目の前にあった。上の空でまったく気がつかなったが、何度か声をかけられていたようだ。彼女が「考え事してた? ごめんね」と手を合わせる。
咄嗟にキザな返しが出てくるわけもなく、キングはどもりながら「あ、おう」と微妙な相槌を打った。そんな焦った素振りには一切動じず、なまえは庭の端を示す。
「まだ皆来ないみたいだから、ちょっとだけ付き合ってほしくて」
視線の先には、大家がたまに洗濯物を干すために使っているおもちゃのハードルが五台。等間隔で並べられている。同じく声をかけられたらしい王子が、付属のマスコットのように付近で体育座りをしていた。
キングを手招きしながら移動したなまえが、ハードル横に立つ。
「体の軸をつくるトレーニング。ぜひぜひウォーミングアップでやってみて。トレーニングとはいってもあくまでドリルだから、練習前に疲れるものでも、変にフォームが崩れたりするものじゃないし。股関節のストレッチにもなるし、一石二鳥ってね」
喋りながら、なまえは軽々と障害を跨いでいく。
「脚の上に腰をこうやって乗せて、すとん。落とす」
最後のハードルを飛び越え、くるりと戻ってきたなまえが「はい」とキングに続きを促した。「俺ぇ?」と情けない声をあげるも、目の前の女性は有無を言わさず微笑むばかり。本練習前にわずかでも体を動かすのはごめんだと、気配を消してアパート内に避難しようとした王子を後ろ手で捉えると、改めてキングに視線を合わせる。「どうぞ」と小首をかしげられれば、もう舞台に上がるしかない。
押しに負ける格好で、キングは渋々一つ目のハードルを跨いだ。続いて二つ目に行こうとするが、リズムが悪いのか想像していたよりも難しい。子ども用の高さにも関わらず、飛び越える際に踵がバーへ引っかかりそうだ。ハードルは軽く柔らかいシリコン製のため、万が一転んでも問題ないとはいえ、一瞬背筋がひやりとする。先ほどなまえの実技を見たときは、至極簡単そうに見えたのだが。
「その場で軽くジャンプしてみて。メトロノームの気持ちで、一定に。はい、トントントントントン。おお、すっごくいい感じ! そのままジャンプを続けながら、上半身の力を抜いて。腕をぶらぶらさせみよっか。肩を楽に、深呼吸……そして、脱力。そうそう、上手い! あとは、坂口君のよいタイミングでひょいって。飛び越えた方の足が接地したときに地面を押すでしょう? その時の反発で進む。地面を踏んだ時に返って来る力を感じて」
のせられるままに五つ目までを終えたキングを、なまえは盛大な拍手で迎えた。
「……大袈裟」
照れ隠し半分、恥ずかしさ半分で彼女のリアクションを静止させる。
「全然、大したことじゃねえし……いいっすよ、無理して褒めなくても」
悪い癖だった。すぐに卑屈な面が顔を覗かせる。自ら保険を課しておかないと怖いのだ。てんとう虫の反射と同じ、染み付いた防衛本能。自身を陥すことはピリピリ痛いけれど、第三者に刺されるよりはマシだと、これまでの経験から知っている。
就職活動でなかなか一次面接を通過できないのは、本当は喜久井大学の学生のせいでもなんでもなくて、ただキングの臆病な側面が一因に違いなかった。全部わかっている。わかっているけれど、それでも生まれ持った本質は変えられない。
「……練習サボってたし」
冗談めかして告げてみる。数日間逃げたこと。神童や清瀬をはじめとする住人たちに引っ張られて、恥ずかしながら戻ってきたこと。どんなに格好をつけようとしたって、浮かれていたって、目の前の女性にはそんな行動も含めて知られているのだ。そう考えると、彼女の前で取り繕うのがバカらしくなってくる。どうせ無駄なのに。
なまえは、むず痒く視線を逸らしたキングをまっすぐ見つめていた。彼女はキングの卑下をやんわり否定することも、揶揄うこともせず、ただ透明な眼差しを青年から離さない。
「──……坂口君は、過程よりも結果を大事にできるひと。リスクとリターンを考えて、合理的な選択ができるひと。できないことを無鉄砲にやったりしない。すごくちゃんとしてる。竹青荘の中で一番大人かも。まだ出会って一ヶ月ちょっとなのに、って思うかもしれないけど、逆にそれしか日が経ってなくてもわかるくらい」
「……はあ?」
予想外の切り返しに、キングは思わず拍子抜けしてしまった。
「大人って……俺が?」
「だって、普通に考えて就職活動優先でしょうに! 新卒の選択って、これから何十年と続く将来に直結するんだよ。それなのに、いきなり箱根駅伝に出るぞーなんて言われて、毎朝叩き起こされて走って。練習はきついし、遊ぶ時間はないし、バイトも禁止だし。四年生にとっては、学生生活最後の一年なのに」
歯にもの着せぬ、いっそ清々しいほど身も蓋もない言い回し。気になっていたことを全てぶちまけられた気がする。なまえにいまだ掴まれたままの王子が「そこまでわかってるなら止めてくださいよ……」とぼやいた。
なまえは、しゃがんだままの後輩を一瞥して「わかってないよ、全然。まだ会ったばっかりなんだから」と笑った。そのまま何事もなかったかのように言葉を続ける。うつくしい声音が、キングの体の中へとすべり込む。
「だから、今から言うのはわたしの独り言で、綺麗ごとなんだけど。坂口君は、ちゃんと客観的な判断をしてたと思うの。箱根なんてさすがに厳しいだろう、って。だから一度は就職活動を優先しようって決めた──でもね、そんな坂口君が、改めて走り出して、清瀬君の夢に向き合ってくれたじゃない。わたし、あの瞬間に、なんか……すごく、すごーく嬉しかったの。発起人の清瀬君でも、もう自分が就く職を定めた岩倉君でもなくて、他でもない坂口君が言ったことだったから。坂口君の選択じゃなきゃ、わたしはそんな気持ちにならなかっただろうなって」
「んなこと……」
それ以上、キングは言葉が出なかった。みっともないところを晒して、それでも自分がよいだなんて。自分だったからこそだなんて、そんな風に第三者から伝えられたのははじめての経験だった。じわじわと、今感じている気持ちが、これまでに知らなかった嬉しさの概念なのだと察する。あたたかく手触りのよい感情が、胸の中に広がって落ち着かない。
「……大袈裟だって」
二周目となる憎まれ口を叩く。耳が熱かった。心臓が早鐘を鳴らしていた。
なまえが目を細める。ふと、彼女のはにかんだ表情が好きだと思った。わずかに吹いた夕方の風が、彼女の髪を揺れる。毛先が楽しそうに跳ねて、パステルカラーを思わせる優しい爽やかさが一瞬香る。
この人はずるい。なによりもずるい。男同士ではつい意地になって見せられない弱みを、通りすがりの顔をして慰める。なぜ、こんなにも欲しい言葉をくれるのだろう。なぜ、こんなにも適切にキングの腹のうちを言い当てたのだろう。苦い気持ちを、自分の体験として知っていたかのように。まさか、彼女も劣等感に苛まれた過去があったりするのだろうか。
誰もが知る名門大学に進学して、しかも理系の女性で、今後の就職活動なんか楽勝だろうに。金銭面で人並み以上に苦労してきたわけでもなさそうなのに。見た目だって悪くないのに。自己肯定感の低さとは無縁の、順風満帆な人生に思えるのに。
それなのに、どうして彼女は──有村なまえは、清瀬の計画に協力を決めたのだろう。同輩が連れてきたこの女性は、一体どういう人なのだろう。
生まれた疑問がなぜかやたらと気になって、ただこんなことを直接尋ねるわけにもいかず、キングは口をもごもご動かす。その様子を見ていた王子が「……虫歯でもできたんですか」と、不躾なコメントをこぼした。