Prayer 2章間話 勝田秀作

「あら、美味しそうな瓜ねえ」
ダンボールを開いていた八百勝の店主──勝田秀作が振り向くと、常連の婦人が店前のカゴを覗き込んでいた。決して大きな声ではない。あくまで独り言として呟いたものと思われる。しかし、綿毛のようにさわりのよい音は、心地よく秀作まで届いた。
「いいでしょう、この白瓜。ちょうど今が旬だよ」
老齢女性の近くまで足を運び、仕入れたばかりの一品をすすめる。表面は艶々と薄緑がかり、手にするとずっしりと重みのあるそれは、熟す手前を一つずつ吟味して調達したものだ。シャキシャキとした歯応えが楽しめる、ベストな頃合いだろう。
「やだわ、わたし声に出ていたかしら。お仕事中にごめんなさいね」
秀作より頭二つ以上小さなマダムは、はっとした様子で口元を手で覆うと、申し訳なさそうに頭を下げた。
「いやいや、お客さんと話すのも大事な仕事ですから」
思わず笑ってしまう。この女性はいつもこんな調子だ。過去の雑談で、この辺りで生まれ育った世間知らずだと腰の低い発言をしていたが、要するに生粋の成城のお嬢さんである。細かな立ち居振る舞いから、常に上品な雰囲気を醸している。
「炒めてもよし、サラダにしてもよし。んー、でも個人的にはやっぱり糠漬けかなあ。シンプルであればあるほど、素材のよさがぐんと引き立つってもんで」
「勝田さんの太鼓判があるなら安心。こちらいただくわ」
常連のマダムこと有村のおばあちゃんは、胸の前で手を合わせると顔を綻ばせた。
「他はどうしましょう。献立はもう決まってるんです?」
「今晩は焼き浸しを作ろうと思っていたの。ジャガイモ、ナス、ズッキーニ、アスパラガス、エンドウ……筍って合うかしら?」婦人がぐるりと陳列を見渡す。
「ああ、いいかもね。しっかりと焼き目つけて。アクセントになりそう。あとは……ああ、焼き浸しだとこれ、春キャベツを入れるのも美味いよ」
「素敵。そちらもいただくわ」
七十を超えてなお、チャレンジ精神を失わない彼女は、あっさり秀作の提案に乗っかった。そのまま店主直々に選んだみずみずしい野菜たちをレジへと運び、精算をしながら直近の世間話へ花を咲かせる。
「焼き浸しは旦那さんのリクエスト?」
「そうなのよ。昔から主人の好物で」
可愛らしく照れる婦人を「さすがは成城のおしどり夫婦!」と茶化す。
「口が上手いんだから。おしどりなんて言っていただけるのなら、あの人にせめてもう少しくらい素直になってもらわなきゃ」
「とか言って、またすぐ一緒に出かけるんでしょう。次はどこに?」
「来週は青森ね。斜陽館へ行ってみたくて。この歳になって太宰のよさに気がついてしまったの。この間、あの人が東北行きのパンフレットをたくさん持ち帰ってきて、いきなり無言で渡してくるものだから、じゃあ行きましょうかって……。もっとわかりやすくできないものかしら」
「相変わらずのツンデレじいちゃんだなあ」
愚痴に見せかけた巧妙な惚気である。付き合いの長い秀作の頭の中には、二人のやりとりや情景が直接見てきたかのように再現された。旦那である老紳士は、色素の薄い天然の癖毛、長いまつ毛に縁取られた優しげな目元をしている。が、穏やかな外見に似つかわず、中身は昔ながらの日本男児のように寡黙で頑固だ。妻が朗らかによく喋る性分であるため、夫婦間の凹凸としては噛み合っているのだろう。
「そうだ。その旅行っていうのはなまえちゃんも一緒?」
ふと、ここ最近で一気に距離の縮まった彼女の孫娘の名前をあげる。婦人はゆっくり首を横に振った。
「それがねえ……、毎回声はかけるのだけど、来た試しがないのよ。夫婦水入らずなんだから二人で楽しんできなさい、ですって。私は一緒に行きたいのだけど、主人はなまえちゃんに選ばせてやれって。今は大学院のお勉強もあるし、ほら、最近お手伝いしているでしょう、たくさん走っている学生さんたちの」
「駅伝ね」
「そう、それよ!」
婦人は本来あげたかった単語を秀作に出され、若干興奮した面持ちになった。続けて、「だから、残念だけど仕方ないわ。一度手伝いをするって決めたのならとことんやるべきだもの」と頷く。
「まあ、だよなあ……。実はうちのも手伝ってるんですよ。主将が常連なんで、その縁もあって。田崎さん家の敷地内に学生寮に住んでる奴らなんですけどね」
「田崎さんってよく碁会所にいらっしゃる?」
「そうそう。多分旦那の友達。あの人破格の値段で学生寮やってるんですよ。寮って言っても寮母がいるわけじゃあないんで、自分たちで炊事洗濯掃除全部回して。それで今年はついに箱根駅伝も目指すんだと。大した奴らですよ」
にこやかな微笑みで「すごいわねえ」と、婦人が相槌を打つ。
秀作からすれば励む本人たちはもちろんのこと、側で彼らを支えようと意気込む有村家の孫娘も相当な強者に見える。さっそく葉菜子も懐いているようだし、人と接することが多い仕事柄、対面した相手の性質はなんとなくわかるものだ。なまえは、有村のおじいちゃんのような意思の強さと、有村のおばあちゃんのような包容力を併せ持っている。会話のたび、彼女は確かに二人の孫だと感心させられてしまう。
これからも葉菜子と仲良くしてやってください、の意図でおまけの花わさびを添えると、婦人が「いいのよ、そんな。いつもいただいてばかりなんだから大丈夫」と手を横に振った。
「食べてくださいよ、旦那となまえちゃんと」
「お気持ちとっても嬉しいわ。でもなまえちゃん、特に最近ほとんどうちでご飯食べないの。朝お手伝いして、そのまま学校に行って、夕方に一度戻ってきたと思ったら、荷物置いてまた夜学校に行っちゃうから」
「パワフルだなあ。あんな細いのに」
「本当、誰に似たのかしら……」
婦人が下げ眉のまま、自身の顎に手をやる。その素振りがなまえとそっくりで、秀作は声をあげて笑ってしまった。