*
「ひろ!」
都道百五十三号線沿いのフェンスから、奥へと目を凝らす双子が声をあげた。
「箱根の予選会は、昭和記念公園に隣接する自衛隊駐屯地からスタートする」
清瀬が、木々の境へわずかに覗くコースを指差す。
「最初に大きな滑走路と誘導路を二周する。駐屯地を出たあたりで八キロだ」
「なんだよ、ここまで来て入れねえのかよ」キングがぼやくが、クイズ王の発言にも一理ある。この距離で、内側の様子が鮮明にわかるとは言い難い。わざわざ現地へ見学に来たのだからせめてもう少しくらい、と歯がゆい気持ちがあるだろう。前のめりな姿勢の裏返しとポジティブに捉え、清瀬は「ああ」と相槌を打った。
「今日はおおよその雰囲気をつかめればいいさ。イベントでもない限り、そう気軽には入れない。どうしても侵入したいというのであれば止めないが……あまりお勧めはできないな」
「怖いこと言わないでくださいよ……。この中にいる人たちの手にかかれば、僕らなんかひとたまりもない」王子が身震いし、横の双子がひょこりと顔を出す。
「すみませんー! って、走って逃げればいいじゃん」
「そーそー。別に泥棒するわけじゃないんだし」
「この世の中には侵入罪というものがあるんですよ……」王子の返答に重ね、ユキが大きなため息を吐き出した。
「ったくお前らは……少しは考えろ!」
「まあまあユキ先輩。大丈夫、この間ハナちゃんとなまえさんから航空祭のビデオをもらったから。例年の予選会録画もあるしね」
「神童さあん」
いつものペースを崩さない、ある意味では心強い後輩たちの掛け合いを聞いていた清瀬は、「さて」と立川駅方面を示した。
「駐屯地を出た後は一般道に出て、駅前通りを進み、モノレールの高架下をくぐる。そのあたりが大体九キロ。道なりをまっすぐだ。近年コースが変わったからな。先頭集団でタイムを稼ぐエース選手たちと、折り返しですれ違うこともなくなった。以前は、そこで後続が自分たちの貯金を確認したものだが」
「代理戦争」ニコチャンが呟いて、走の背中を軽く叩く。
「とりあえず今日は一通り歩いてみよう。一キロごとに声をかけるから、各地点の目印をよく見ておくように」
「公園の中は?」
「この後向かう。砂川口経由で公園に戻ってすぐが十三キロ強。その時にも声かけするが、給水ポイントにもなっているから必ずチェックすること。その後アップダウンの多い公園を一周しなくちゃならない。各選手、気持ちを切り替えてくるぞ。踏ん張りどころだ」
清瀬の口ぶりは軽やかで、伝えるべき事柄に漏れがない。今日を迎えるまでにも定期的に立川へ足を運び、シミュレーションを繰り返してきた。案内役をつとめる者も初の現場は話にならない。実際に訪れなければ気づけない情報は多いうえ、それらを整理し、噛み砕く時間も必要だった。
スマートフォンで昭和記念公園内マップを確認していたユキが唸る。
「で、ゴールはみんなの原っぱのそば、と。なんつーか……地味だな。もっと派手なものだと思ってた」
「当日になればわかるさ。地味も派手も関係なくなる」
「結果発表もその広場でやるんですよね?」
「そうだ──そこが、俺たちの運命の場所になる」
さらりと。その中で力強く。清瀬は「運命」との言葉を用いた。
数年前まで、全国的な知名度アップにつながる駅伝競技だけでなく、本来のトラックにも力をかけるようにとインカレポイントの存在があった。しかし、今は泣いても笑っても、予選会当日の記録のみで勝敗がつく。
単純で、残酷。全日本選手権の決勝クラスを残していようが、本戦十一位でシード落ちしていようが、出雲駅伝で優勝しようが、一切優遇はない。たった一人の綻びがめぐりめぐってチームの結果となる。十人の合計タイムを足し上げてなお、一秒、二秒が命運を分けることも珍しくなかった。
予選会の一位と二位に大きな差はないのだ。十位と十一位の間に横たわる、深くも長い隔たりに比べれば。この残酷さは本戦のシード争いにも引けを取らず──否、それは本戦よりも。
「……全部、たった一時間ぽっちで決まるんだよなあ」
ニコチャンが苦笑いしながら頭をかく。道路封鎖の制限もあり、記録会のように複数組で実施とはならない。全チーム、全員が一斉に走り出す。団体戦だが、襷をつなぐ大会ではない。そのうえで、これまでの努力に、仲間との絆に、明確な順位がつけられる。
当日もたらされる結果を運命と呼ばずに、いったいなんとしよう。
竹青荘の住人たちから少し離れ、走は、フェンスの隙間を縫ってじいっと滑走路へ目を凝らしている。ただ、青年の純粋な瞳の中に写っているのは、つい先日──九月二十三日、東体大記録会の記憶だった。
寛政大学の予選会エントリーのラストチャンス。公認記録を出すため、五千メートルのスタートリストには王子の名前があった。持ちタイムが速い者から若い組に編成されるシンプルな構造の中で、王子は四組中三組の出走。
「──そばにいてやらないのか? プレッシャーをかけたくないか」
二組の最後の選手がフィニッシュ。待ちかねた出番にむけ、第一コーナーに集まって王子を激励する仲間たちを、清瀬は一人遠巻きに見ていた。そんな清瀬へ声をかけたのは、六道大学主将の藤岡。この男が一組目を危なげなくトップでゴールしたことを知っている。取材を早々に切り上げて、旧友の元にやってきたことは容易に想像できた。
「どこにいても感じる者は感じるさ。どれだけ一緒にいると思っている」
「……お前がそこまで言うなんて、羨ましいよ、彼らが」
続けて、藤岡は何かを言おうとしたが、清瀬の表情を見て口をつぐむ。仲間を見守る眼差しの中に、これ以上はすべてが蛇足だった。
南武線の車窓から、橙色の西陽が差し込んでいる。
立川で十キロ強の道のりを歩いた竹青荘の住人たちは、自動ドアを挟む形で立つ清瀬と走を残し、ほとんどが眠り込んでいた。「走る」と「歩く」では使う筋肉がまた異なる。周囲の目印も確認しながらで、終始注意力も必要だっただろう。特にロードレースに慣れない者は、当日この道を駆けていく自身を想像して落ち着かなかったに違いない。
窓ガラスにコツンと頭をぶつけると、反射した自身の顔が鏡のように臨めた。
「……甘いかな、俺は」
清瀬の独りごちたとも捉えかねられないささやかな呟きへ、走が「え?」と反応する。
「もっと走らせるべきだったか。眠る前、飯の途中、トイレの中……迷いはいつもついてくる。強豪校のように規律を与え、もっと強制してでも皆を──」
「──そんなこと思ってないくせに」
力のこもった割り込みにはっと我に返る。正面へ向き直ると、走がまっすぐに清瀬を見つめていた。
「この間はぼかしてましたけど、本当は──……ハイジさんは軍隊みたいなやり方を嫌ってるはずだ。榊は東体大の規律に満足しているみたいだけど、俺は違う。ハイジさんがあの鬼監督みたいだったら、俺は今ここにいない。練習の初日に、アオタケから出て行った。いくら強制したって人は走らない。走らせるのはいつだってその人の意思、ですよね。違いますか」
「──ああ、そうだな」
「まだ時間はあります。皆必ず、もっとタイムを縮めるはずだ。……皆の足りない分は俺が走って埋めます」
走は、ところどころでたどたどしさを見せながらも、はっきりと言い切る。
「……すまない、ちょっと弱気になった」
まずったな、と清瀬は心の中で歯噛みした。
藤岡に会うとき、清瀬は竹青荘の実力者でも、主将でも、皆の「ハイジさん」でもなく、だの「清瀬灰二」になる。ペルソナを剥いだ幼い部分が顔を出し、古いSF小説の世界へ飛び込むような、形容し難い感覚に満たされる。そんな記憶の海を辿って、無意識の中、うちに秘めていた不安が漏れ出したのだ。
他の者が弱みを見せるのはいい。むしろ一人で抱え込むよりも共有をしてくれた方が、対策を練れるというものだ。
しかし、これは清瀬自身にだけは適用されない。なぜならば、清瀬は最上級生で、この計画の首謀者だから。いつだって冷静に、飄々と、確信に満ちた態度で、たった一つの目標へと皆を導かなければならない。清瀬だけは、絶対に揺らぐわけにはいかないのに。
「……俺は」
清瀬が思案している間にも、走は足元へ懸命に視線をやって言葉を探していた。「俺は…なんだろ」と小さく発して、静かに何かを考えている。清瀬は、先ほど目の前の彼がそうしてくれたように、走を見つめていた。
「俺は……思っていました。なんで……ハイジさんが俺たちを巻き込んだのかって。こんなチームありえないって。でも、俺はずっと、ありえる陸上部がいやだった。高校時代、ずっと苦しみながら走ってました──もう、二度と縛られたくないです。俺は自分の意思で走る。ただ走りたい──自由に、遠く、どこまでも」
そう言ってはにかんだ走の黒目には、いくつもの希望がうつくしい流星の姿になってまたたいていた。
──ああそうだ、この輝きを見つけたから。出会ってしまったから。
あの日の風を切って、清瀬は、ここへやってきたのだった。
「……ありがとう。強くありたいものだな、いつでも」
先刻までの沸々とした心の揺らぎは、いつの間にか消え去っていた。
*
大学の理事長室を後にした清瀬は、先ほどまで顔に貼り付けていた笑顔を解いて、凝り固まった首筋を叩いた。
本戦へ進出すれば、大学側の協力は欠かせないものとなるのだが、現状はまだ予選会を控えている段階。大学所有のグラウンドもほとんど使用できなかっただけに、唐突な手のひら返しへ追いつけずにいる。「そもそも寛政大学は寛政の改革を起こした松平定信の精神を尊び、学業とスポーツの両立を是とする……」といったキングに聞けばさらに細かい情報を得られそうな来歴だとか、「予選突破を期待しているよ、我が校のために頑張ってくれ給え」と明らかに大学の宣伝だけを想定した激励を小一時間聞かされ、すっかり気疲れしている。
「……今すぐ走りたい」重厚な扉を背につい漏れてしまった台詞も、今日くらいは許されたいものだ。
ただ、経営陣が浮き足立っているのは、日本テレビの密着取材の対象に寛政大学が選ばれたことが大きいのだろう、と推測はできた。
テレビ局から話が来たのはつい最近。王子が予選会参加の標準記録を切り、大学のエントリーが済んだ後のこと。広報を取り仕切る神童となまえは、取材依頼が入った際「カメラを気にして集中できなくなったら本末転倒だ」と思案し、慎重に戻し方を検討していた。
走のように自身の試合前ルーティンが確立していればよいが──そのルーティンはとにかく「走る」を反復するとうシンプルなものだった──他のメンバーはまだ経験が浅く、大舞台における緊張との付き合い方が確立されていない。走と同じようにハードなトレーニングに励んだり、音楽に没頭したり、お香を焚いて眠ったり、やり方は問わないが、それぞれルーティンを見つけ出す必要があった。
そのため、極力刺激を与えるのは避けたい、というのは清瀬を含んだうえでの総合的な判断だったのだが。それらの背景を添え、念のため皆に決をとったところ、双子が「女の子にモテそうだから、絶対テレビに出たい!」、「女子アナに会いたい!」と駄々をこねたのだ。キングは気だるそうなポーズをとりつつ満更でもなさそうで、ニコチャン、ムサ、王子は押される格好で簡単に賛成派となってしまった。
広報の二人は、ユキと走が取材に後ろ向きであることを最後まで気にしていた。走が過去に後悔を抱えていることは知っていたし、ユキが小さく「親孝行って言うけど、皆が皆、親を喜ばせたいってわけじゃないんだよ……」とぼやいたのも耳聡く気がついていた。
しかし、最終的に根負け。個人パートで出張らず、画面の端に小さく写っている程度であれば、気が乗らない二人も空気を悪くするような態度は取らない。共同生活をしている以上、多数派が勝つのは致し方ないことである。ユキも走もその点は十二分に理解していた。
そのため、直近の竹青荘の生活には高頻度で密着カメラが入っている。日常を切り取ることが目的であるため、積極的に声をかけられることはないが、話しかけて欲しそうな相手にまで我慢をするつもりもないらしい。
──成り行きっていうか、ハイジさんに脅迫されたっていうか、とにかく気がついたら箱根を目指してました。風邪をひかないように、レモンの蜂蜜漬けを毎日食べてます。特別な練習はしてないです。他の大学の陸上部と同じようなメニューだと思います。
昨日、夕飯の買い出しから清瀬が戻ると、玄関前で元気にジョージがインタビューを受けていた。自分を広義にさらけ出すことで緊張と上手く付き合えるのならば何も言うまいが、もう少しくらい気の利いた言い回しができないものか。
本練習のクロスカントリー二十キロを終えたタイミングで、清瀬はダウンを終えた全員を集合させた。ストレッチしながらで構わない、と前置き、芝生に座るメンバーをぐるりと見渡す。その日の練習メニューを発表するような気張らない口ぶりだった。遠巻きにカメラクルーがその様子を捉えている。
「今日をもっていよいよ十月に入った。予選会のエントリーも締め切られた。俺たちのエントリーも無事に済んでいる。今からやっぱりやめます、はもう無理だ。諦めろ」
王子が「脅しですか……」とぼそぼそ告げた。
「なんとでも。さて、予選まであと二週間。ここからは集中力の勝負だ。予選会の日に体調も精神も最高潮を迎えられるように、集中して自分をコントロールしていこう」
「……そりゃあ、口で言うのは簡単だけどな」
ニコチャンがため息をつく。彼が何を気にしているかはわかっている。緊張由来のストレスで食欲が止まらないのだ。そんな中で我慢強く摂生していることも知っている。
ニコチャンに続いて、キングが恐る恐る手を挙げた。
「俺の繊細なハートは早くも最高潮を迎えそうだぜ。予選会までもってくれるか……」
胃をおさえている同輩へ、清瀬は奢ることなく、しかし臆することもなく応える。
「何も恐れることはない。俺たちは十二分に練習を積んできた。あとはプレッシャーをやすりに変えて心身を研磨するだけだ。予選会の日、うつくしい刃になって走る自分をイメージして、深く、鋭く、研ぎ澄ましていけ」
「詩的な表現だ」
めずらしく茶化すことなく、言葉通りの賞賛をユキが贈る。
「わかります。鍛えられた日本刀みたいに」
「研ぎすぎて本番前に折れちゃしょうがないし、逆に研ぎが鈍くて予選会当日にまだ曇っているようじゃ話にならないってことですね」
ムサ、神童が噛み砕いた比喩を穏やかに受け止め、清瀬は「その通り」と微笑んだ。
「この加減ばかりは、闇雲に練習していてもつかめない。自分の内面との戦いだからだ。心身の声をよく聞いて、慎重に研いでいってほしい」
長距離に要求される強さの正体。これを適切に表現することは難しい。
「走る」という行為はおおよそ誰にでもできる行為で、特定の人物にだけ許された特別ではない。百メートル走と違って天性の瞬発力が条件にならないし、特殊な技を習得、披露することもない。日々の練習でついた圧倒的な差が、直前の準備だけで覆ることはほぼない。これほど結果の予想がしやすいスポーツも稀だろう。
にも関わらず、レース前やその最中で自滅する選手がいる。要するに調整の失敗と称される状況だ。練習は十分に積めていて、あとはただ本番で力を発揮すればよいだけなのに。それがなぜかできない。
これは勝負ごとの不思議な部分であるが、要因は至って単純。つまるところすべて「プレッシャー」なのだ。ふとした拍子に襲う不安、払拭しきれない失敗への恐れ。真剣に取り組むほど大きくなる緊張が、心を自由にしてくれない。ただでさえ孤独な「自身に向き合う」という作業が、妥協と過剰に挟まれて、恐るべきスピードで行ったり来たりを繰り返す。この間に収めたい、というわずかな面積の間、なかなか針の先端が止まってくれない。
「研ぎ澄ませば研ぎ澄ますほど脆さが伴う。精密機械が少しのほこりであっけなく壊れてしまうように。だからこそ手に入れよう──強さを。断固たる強さを。どんな塵にも耐えうるほど、鋭くなめらかな本当の強さを」
かたく拳を握る。清瀬を取り囲む九人のメンバーが、彼らを一歩離れて見守るサポート陣が、それぞれの「強さ」を思い描いていた。
グラウンドから竹青荘へ戻る間際、清瀬はなまえを呼び止めた。
練習前、事務ごとの調整があり清瀬、神童と彼女の三人で寛政大学キャンパスにて落ち合う予定だったのだが、くだんの理事長室訪問の長引きによって急遽流れてしまったのだ。神童には謝罪を入れたが、直接グラウンドに集合したなまえにはまだ声がかけられていなかった。
「あー、いいのいいの。報告大変だったでしょ。校長先生とか理事長って基本的に皆話眺めだよね」
部屋を出た清瀬が一報を入れるまで、秋空の中ポツンと待たされたなまえは、生協に置かせてもらっている「後援会募集」のチラシのはけ具合を確認したり、同じくポスターを掲示しているスペースの人通りを確認したりと、有意義に時間を使っていたらしい。無意味に浪費させたわけではないことに清瀬は安堵した。
「ジャージのデザインがいいという話が十分ほど。本当にありがとうございます」
清瀬は身を包むスカイブルーのジャージの胸元を軽く叩く。
先日、八百勝の主人が段ボール箱を携えて訪問した。野菜の差し入れかとお礼を言いながら出迎えた一同へ、「サプライズだ!」と声高らかに宣言した彼は、商店街の皆から予選会エントリーを祝って、と人数分のジャージを取り出したのだ。
集まった全員の嬉しそうな顔と言ったら。確かに、いつまでもバラバラのジャージでは格好がつかないと思っていたのだ。もともと揃いのジャージに憧れていた双子は小躍りし、身なりに関心のない王子でさえ「悪くないです」と口角を上げた。
八百勝から清瀬だけこっそり聞かされた話によると、有志の平均年齢が高く、デザインソフトの扱いに四苦八苦したことから急遽なまえを召喚したのだという。お金は商店街から出したが、依頼段階のデザインのおこしから業者とのやりとりをすべて引き受けてもらったのだと。葉菜子とのアルバム制作に加え、こんなところでも作業が生じていたらしい。
「皆、すっごく決まってるよ」
連れ立って出入り口へ向かう一同の背中を、なまえは眩しそうに見やっている。
かと思えば、急に何かを思い出した様子で吹き出した。突然の発作に清瀬は驚く。
「いきなりどうしました?」
「……ごめんごめん。ハナちゃんのお父さんと左官屋さんが、横断幕は俺たちが! って張り切ってたこと思い出して」
「横断幕まで! それはまたありがたい」
「違うの。本題はここからなの。ほら、寛政の寛って画数が多いでしょ。左官屋さんが『勝ちゃん、どうしよっか。字がつぶれちまうよ』って。そしたらハナちゃんのお父さんが『そういうときはシャレで乗り切りゃいいんだよ』って言い出して、寛政をローマ字で表記することになったの」
清瀬は静かに頭を抱えた。
「でね、もし一部をローマ字にするなら、陸上部とか陸上選手とか、他の単語も英語で書いた方がいいんじゃない? ってハナちゃんが提案したの。正式にはジャージにも刺繍がある通り〝track and field athlete〟だと思うんだけど、それだとパッとみたときにわかりづらいって左官屋さんが言って、シンプルに競技者の意図でプレイヤーだけでいいんじゃないかって」
結果、横長の布へ「大器完成! がんばれKANSEI大! がんばれPRAYER!」とレタリングがなされたらしい。完成した横断幕を見せられた葉菜子となまえは笑い転げて、息ができなくなるかと思ったそうだ。
本来目的としていたスペルを間違えてしまったのに、奇跡的に意味が通っているような気がする。むしろ、競技をする者だけに限定しない分、関わる全員を包括している印象さえ。
「だって、〝prayer〟って──」
なまえは、笑いすぎて目尻にたまった涙を指でぬぐった。