もがく華奢な肢体を右手で抱え込む。目まぐるしい水流で、白く泡だつ周囲。得られる情報量の少なさに歯噛みし、呼吸を求めて水面を目指す。
しかし、激しい雷雨でこれではどちらが水中か分からない。何とか外気へ顔を出し、ぶつかる雫や鳴り響く雷の音を聞く。隣でゲホゲホと咳き込むような響き。救助者の意識があることに安堵する。
俺は陸に上がれる場所を探し、目を凝らした。かなり河口まで流されてしまったため、川幅が広く、地形的にも崖に囲まれる形となっている。この荒れ具合、岸辺を目指すのは困難だ。
おもむろに腕の中の彼女が右を指差す。続けて「信じて」と震える声。腰に回した腕へ力を込め、目には見えないゴールへ舵を取った。
「……よく、ここを、知っていたな……」
「……一応、探索組だから……ね」
互いに荒い呼吸で岩壁に背を預ける。
彼女が示した先には確かに洞窟があった。人間二人でいっぱいになりそうな狭い入り口のおかげで雨風をかなり凌げる。空間自体は狭いものの、ガスが充満していることもない。酸素の抜け道は確保されており、明日まで腰を落ち着けるには十分だ。
「とんだ無茶をしてくれる」
「……ごめんね、巻き込んで」
彼女もといなまえは、自身を抱きしめながら謝罪の言葉を放った。
「今更責めるつもりはない……が、貴様よくあの激流に飛び込めたな」
今晩はひどい嵐になる。気象予想から科学王国一同、早々に造船を切り上げた。各家の雨漏りなどを昼のうちに見て周り、必要であれば修繕を行うためだ。
予想は見事的中し、夜中には眠りを妨げる大きな音が住居を襲った。そんな中、兄の眠る洞穴の冷蔵機器に異変がないか心配した未来が起き出したのだ。そして、足を滑らせ川へ転落した。
なまえが未来の様子に気がついたのはおそらく偶然だろう。部屋から顔を出し、小さな体が激流に揉まれる場面を見て助けに入った。しかし、未来を河岸に押し付けた後、本人はそのまま流されてしまったわけだ。
ずぶ濡れの未来が駆け込んできた際は肝を冷やした。下流には岩場があり、奇跡的にそこまで息が持ったとしても危険すぎる。
フランソワへ未来を引き渡し、はやる気持ちを抑えて川辺からなまえを探した。その後、ようやく見つけた腕があまりにも力無く空を掴んでいて。結果、今に至る。
なまえがいなければ未来は助からなかっただろう。その決断力には感服するが、圧倒的な自然の猛威が降り注ぐ夜の川へ、自らの意思で入るというのは相当な胆力だ。ましてや彼女はクラフト班。戦闘要員ではない。
「……手放すのが苦手なの、なんでも」
隣の彼女は、いつもの、少し困ったような表情で頷いた。
「昨日まで当たり前にいた誰かがいきなりいなくなると、最初から一人の方が良かったって後悔するから」
「……危うい思考だな」
「……ごめん」
「いや、俺以外にもとんだ欲しがりがいたものだと感心しただけだ」
人によっては綺麗事だと一蹴するであろう台詞も、実際の行動後では重みが違う。大戦時、不殺を掲げていたらしい羽京にも通ずる何か。
ソナーマンの場合は、元自衛隊の幹部候補生であったという立場から、その志を持った経緯が推察できなくもない。
しかし、彼女はどうだ。確か、記者の話によると都内の大学に通う一学生だったという。千空がゴリラチームと揶揄する他復活者と比べると、フィジカル的な面で見劣りする。
そこまで思案したところで、なまえが小さくくしゃみをした。
生成色の下穿きが水分を含んでかなり重そうだ。かつ、キャミソールが肌へ隙間なくくっつき、体のラインを露わにしている。膝を抱え込んで小さく丸まっているためセンシティブな部分こそ見えないが、いささか扇状的だ。
そして、おそらくは気化熱でかなり体温を奪われている。俺も全身ずぶ濡れだが、なまえほど薄着ではない。重ね着で、幾分か空気の層ができ、最低限冷えを凌げている。
「なまえ、これは提案だが」
「うん」
「ここに入れるか?」
俺は膝を立てて開き、足の間にスペースを作った。言葉なく、なまえがぎょっとした顔を浮かべる。足元と俺の顔を視線が往復。
「肺炎にでもなって数週間休暇を取れば、作業効率が大幅に下がるだろう。ただでさえ測量要員は少ない」
「なるほど、そういう……」
最後は半ば一人ごちるような形で呟く。そして、数秒の躊躇いを経て「……じゃあ、お言葉に甘えて」と立ち上がった。いそいそと服の裾を絞り、元いた場所に水溜りを作る。
「お邪魔します」
遠慮がちに腰を下ろした彼女を引き寄せ、首筋から腕を回す。触れると肩幅の狭さがよくわかった。つむじが近く、濡れた髪からほのかになまえの匂いがする。また、配慮してはいるものの、彼女が身じろぎするたび柔らかい部分に腕が押し付けられてむず痒い。
「……ね、明日何食べたい?」
俺の腕へやんわり手を添え、なまえがため息混じりに漏らす。
「明日?」
「うん、明日」
突然の質問に、そのままの意図で戻して良いものか考えあぐねていると、足の間でなまえがくすくすと笑った。
「石化前に見てたドラマの話。絶体絶命の状況で主人公が同僚に聞くんだ。私も同じことを聞いてみようと思って」
そういうことか。流れが腑に落ちる。
「とりあえずあったかいものがいいよね」
「フランソワのシチューは絶品だぞ」
「うわ、それ絶対美味しいやつ……。でも今ちょうど卵焼きの口で、どうしようかな。両方ってありだと思う?」
想像以上に能天気な回答が返ってきておかしくなる。状況を俯瞰すればするほど、だ。全人類が石化した後に、頭からずぶ濡れの人間が二人、寄り添ってただ食べたいものを語り合っている。
「カレーもいいけど、あれは金曜日のご馳走だし。今日は……あれ、何曜日だった?」
「フゥン、心持ちはとうに船乗りだな」
「船といえば、プリンって大航海時代にできたんだって。知ってた? 余り物を卵で蒸して偶然できたんだって」
正確に言えば、イギリスの主婦が有り合わせを布巾で包んで蒸し、偶然生まれた説も存在する。しかし、一船乗りとしては前者の説に少々肩入れしても仕方あるまい。
こくり頷くと、なまえは嬉しそうに手のひらを合わせた。
「プリンならこの時代でも作れるよ。卵、蜂蜜、牛乳があれば。そうだ、子ども達と船の上で調理実習なんてどうかな。竣工前に」
「ハッハー! いいぞ、帰ったら千空達に提案しよう」
その後しばらく、思い浮かんだ料理名や食材を挙げては、互いに感想を言い合う時間が続いた。
すると、指折り候補を挙げていた彼女がふいに声を潜める。
「……龍水君、助けに来てくれてありがとうね。今更なんたけど、さっきは謝ってしかいなかったから」
表情は伺えない。ただ、血の気を失った肌にあって、耳だけがわずかに赤かった。
「嗚呼、貴様を失わず済んで良かった」
純粋な本心。科学王国の人員としても、ほんのり生じた個人的な興味でも。
この近さで声量は必要ないだろうと、普段よりも小さな声で、囁くように戻す。すると子ども向けのおもちゃがごとく鋭いバネで、なまえが「おっわ」と間抜けな声を上げた。振り向いたその顔が耳同様に赤い。
「き、君ねえ……!」
「なんだ」
「なんでもない……いや、やっぱりなんでもある。龍水君って今何歳?」
「石化時点で二十、今は二十一だが」
「あー、うーん、そっか。そうか……。お酒も合法の年で」
「……ますますどうした」
気にしないで、と眉間に手をやったなまえに違和感を覚える。とはいえ深掘りは避け、明け方コハク等に救助されるまで再度取り止めのない話を続けたり、時にはうつらうつらしながら過ごすこととなった。
***
夏の終わり、ペルセウス号の進水式にてプディングが振る舞われた。
フランソワがこの時代にあわせ、より簡易的に再考したレシピ。なまえと杠が指揮をとり、子ども達と調理に励んだらしい。設置された立食用のテーブルに、小さな背丈がデザートを運ぶ。
そんな中、未来が運んできた皿は、俺となまえのものだけ多量のカラメルがかけられていた。黄色の側面がほぼ見えない状態。焦茶色の滑らかな液体に、卵の船が浮かんでいるようにも見える。
「これ一皿で何ドラゴ⁈ 本当にもらっちゃっていいの?」
なまえが驚き半分、嬉しさ半分の悲鳴をあげる。台詞通り、サトウキビから取れる甘味はまだ貴重であるため、このサービスはかなりの大盤振る舞いだ。
「うちが盛り付けも担当したんやけど……。なんや張り切りすぎて……」
二人は命の恩人やし。
そわそわ指を絡ませながら告げる少女が、こちらを喜ばせようと画策した様を想像する。その可愛らしい配慮と、最終的な結果のギャップがやけにおかしく感じてしまい、思わず測量士と顔を見合わせて笑ったものだった。