【Case F】
「──SAIは、どうして時々『俺』って言うんだよ?」
それは、インド洋を横断する最中の出来事だった。
今朝方まで船を揉みに揉んでくれた嵐を抜け、現在は絶賛快晴。龍水を筆頭に、尽力したメンバーは代わる代わる休憩や睡眠をとっている。
一方、乗船メンバーの中でタフネスはあれど、どちらかといえば非力な部類に入るなまえは、若干の手持ち無沙汰であった。
そもそもこの世界には暇を潰すという概念がない。常に時間は足りないもので、持て余すことなんて滅多にないのだ。SAIのように、大荒れによって盛大に船酔いし、いまだぐったりと寝込んでいれば、話は別だが。
なまえは大きく伸びをして、人気のないデッキより身を乗り出した。遥か遠くまで澄んだ空の境へ目を凝らしても、残念ながら陸地は見つからない。オーストラリアに到着するまで、もうしばらくかかるらしかった。
甲板に設けられたバースペースはがらんと寂しい。普段カウンターに並べられている酒類等は、悪天候に備え倉庫に格納されている。物が散乱しているようなら今のうちに片付けでも、と思ったが先んじた対応の前にその気遣いは不要だった。
「……よし」
改めて数秒悩んだ末、工学者はシェフの手伝いを申し出ることに決めた。先刻、数日ぶりに漁ができる、と呟いていた誰か。その至極嬉しそうな響きをふと回想したのだ。
新鮮な食事は船乗りにとって贅沢品だ。同時に、缶詰、下準備を済ませているパン種と異なり、調理工程も増えてしまう。卓へ並べるにあたって、人手が多いに越したことはないはずである。
決めたならば即行動すべし。フランソワへ単発の弟子入りを果たすべくうろうろしていると、偶然連れ立ったスイカも手をあげた。
一朝一夕で執事の神速には追いつけずとも、三人そろえば何とやら。多少は効率的に違いない。調理場で準備を進めていたシェフへ声をかければ、凛とした微笑みに出迎えられた。
さっそく夕食に備えていそいそと魚を捌きはじめ──冒頭、小柄な科学者の発言につながるわけである。
「SAI様の自称について、ですね」
いつ指をばっさりいってもおかしくない、拙すぎるなまえの手つきを視界の端に置き、フランソワは回答を試みた。
「ずっと前からそうなんだよ?」
「ええ。龍水様との会話の中でも、そちらの一人称を使われることはございましたよ。それこそ、本家でお過ごしだった時から」
スイカは、彼と出会ってから一ヶ月弱の記憶を辿った。直近の出来事で思い当たったのは、つい先日までの、コーンシティ総出でとりかかるコンピューターの設計を行なっていた期間だ。メモリー部分について相談していた際、機械が数字を覚えるのか、というもっともな疑問に対して「そこは『俺』もわからない」と目を点にしていたはずだった。
「どういう時に『僕』で、どういう時に『俺』なんだよ?」
「私もそれ気になってました!」
三枚おろしを達成したなまえが、満足げに合いの手を入れる。本人の、やってやったぜ感に似つかわず、手元の切り身は見るも無惨だ。フランソワの視線が数度冷えこむ。
眼差しを意にも介さず、なまえは次のイトヒキアジを手に取った。勢いよく頭が落とされ、中骨に数ミリ単位で身を残したまま、左右が分断される。ある意味潔い。
「なまえ様、最初にぜいごを削ぎ取ってください」
「ぜいごってこの硬いところですか? ……あの、加熱したらペリペリって剥がれて、わあ便利! みたいなシステムは搭載なしです?」
「初耳です」
カルパッチョとして仕上げる予定のアジは、そもそも火を入れる工程を検討しておらずである。
尾の付け根から伸びる硬い鱗。それらを流れるような手捌きで剥いでいくシェフの指摘に、工学者は物悲しい顔を浮かべた。
なまえがインドで目覚め、そろそろ半月が経つ。応じて、彼女の性質は一行の中でも共通認識となりつつあった。
特に目を引くのは、この女性の「ガサツ」な一面ついてである。
料理だけではなく、掃除、裁縫、整理整頓をまるっと苦手にしているらしい。これは自己申告ならびにSAIからのタレコミが情報源だ。見目はきりりとシャープな印象であるため、最初こそ「まさか」と笑い飛ばされていたが、しばらく寝食を共にすることで異論の声はあっさり消えた。
起き抜けはいつもどこからかアホ毛が飛び出ている。寝癖の位置で天気を占えそう、とチェルシーに突っ込まれて以降、手櫛で整えていると胸を張っていたが、側から見れば効果は怪しい寄りのまずまずといったところだ。
フランソワは魚と悪戦苦闘する工学者へ猫の手から仕込みつつ、その真剣な表情を覗き込んだ。
彼女の瞳は満天を思わせるハイライトが散らばり、いつだって強い意思を感じさせる。この目が主人の兄にまっすぐ向けられていたことを思うたび、気弱な一面を持つ彼がよく正面から受け止められたものだと、感慨深さを覚えるのだった。
インドへ飛び出す前の十代半ばまでとはいえ、七海財閥で徹底的に管理されていたSAIは、能動的な人付き合いが得意とは言い難い。
他者の懐に入る行為は、ある種のバランス感覚が重要である。第三者からすれば失礼な言い回しも、その二者間では釣り合いの取れた、ここまで踏み込んでも逆鱗に触れないという親しさの証だったりする。この点において、自身の言動で周囲へ不快な思いをさせまいとする心配りや、期待に応えなければというプレッシャーは、かえって一線を引くことにつながる。SAIはまさにそのタイプで、根っこに存在する優しさが、どこか周りと距離をつくってしまうのだ。
とはいえ、フランソワの主人である龍水、地理学者のチェルシーなど、その垣根を軽々飛び越える人物が船内に一定数存在していることは、この世界で幸運と呼べるのかもしれない。加えて感情の機微を敏感に察するメンタリストまで常駐ときた。
SAI自身がそれをよしとするかはさて置き、もてなしのプロとしてフランソワは彼を取り巻く新たな環境に安堵していた。
そして、その中でもやはり特筆すべきは彼女の存在である。
一執事の立場から述べれば、ゲストに対し興味本位での深掘りは御法度になるものの、自身のペースが乱されることを極端に嫌うSAIと、目の前の女性。二人が今日までの友人関係を築いてきた経緯について、少なからず関心を抱いてしまうのは致し方なかった。
「なまえの前でも、SAIはよく『俺』って使うんだよ?」
「よく、ではなかったかなあ。たまに。まれに?」
「たとえば、どんな時なんだよ……?」
手元作業に四苦八苦しながら、なまえは過去の記憶を手繰り寄せる。
「どんな時……あ、バイクの後ろに乗せた日とか。『降ろしてっ! 絶対降りるぞ、俺はっ!』って叫んでた」
スイカの頭に、南米での移動手段に用いたバイクが浮かんだ。あわせて現れたなまえとSAIが、それにまたがるや否や想像の砂利道を駆けていく。彼女の、ギリギリ怒られないラインを攻めた運転に、腰へしがみついた青年が悲鳴をあげた。なまえの告げた台詞が一言一句違わず、彼の声で再生される。
「いったい何があったんだよ……」
「え、えへ」
宇宙工学者は照れ半分、誤魔化し半分で微笑んだ。こういう時、彼女が若干わざとらしい笑い方になるのもすでに既知だ、
「七海君が、二、三日寝付けないくらい楽しみにしてたゲームのイベントがあったの。IGXって有名なやつらしくて。その中の……確か、トーナメント? 事前エントリーまでしてたのに、まさかの寝坊をかましちゃって。もう間に合わないかもって半泣きの電話が」
なるほど。細かな旧現代用語こそ飛ばしてしまったが、彼女はSAI直々の依頼でバイクを出動させたようだ。これに関しては、頼んだうえで、運転にケチをつけた彼側に非がありそうである。
「……ってことは、七海君が『俺』って言う時、頭で考えたことじゃなくて、反射的な感覚の部分がぽろっとしちゃう、みたいな? とっさの本音が出てるのかもですね。痛いとか、びっくりしたとか、熱いとか、脊髄で反応する部分」
「なまえ様は、SAI様のことを大変よく見てくださっているのですね」
フランソワは工学者の述べた考察に、ほう、と感嘆の吐息をついた。
執事の興味を引くのは、彼女のこういった性質である。七海SAIという人間について、本人ですら気がついていないような事項を察している。
これが彼女の一方通行であれば、観察眼の鋭い女性としてカテゴライズできたのかもしれない。が、SAIの発言の節々からも、少なからず「理解されている」という自負が感じ取れる。ともすれば、彼の方が彼女の存在を、原点に近い座標へ置いているような気さえするのだ。
「そんな! 実はこの間昔話を聞いて、私七海君のこと何も知らないんだなあって、無知を知ったばかりで。だから、何というか……せめて、一人で内に秘めてる思いがあるなら、『知られたくない』って感じてること自体をちゃんと知っておきたかったなって。私にでも理解できる予兆があった時、わかる準備をしておきたいんです。カッとなると余計な部分まで突っ込んじゃうの、私の悪いところですし……これでも七海君の友達ですから」
「SAI様も、なまえ様のお心遣いを嬉しく思っているはずですよ」
フランソワはそっと相槌を打った。彼女のどこか技術者然としたシステマチックな語りは、意外にもすとんと腑に落ちた。主人の兄が彼女を心地よいと思うのは、溌剌さの中に垣間見える思慮深さが要因かもしれない。
「……スイカにはちょっと難しかったんだよ。でも、SAIが本音を言ったってことは、なまえの運転がすっごく荒いってことになるんだよ?」
ふと、先ほどの会話に立ち戻った科学者が、もっともな事実を刺した。途端に、工学者の桜色に染まった唇が小さく尖る。
「本当に交通違反はなかったんだよ⁈ 試合にだって間に合ったし! 勝ったし!」
後出しで墓穴を掘った形となる彼女は、おぼつかない仕草で包丁をテーブルに置いた。空の両腕で大きなバツ印をつくってみせる。ジェスチャーとの接続は不明であるものの、どうやら自身の潔白をアピールしているようだ。ついでに言えば、SAIがトーナメントに勝利した結果そのものは、なまえの功績ではないのだが。
「今度スイカちゃんも乗せたげるから! そこで判定してよ。ちゃんと安全運転するって」
「遠慮するんだよ……」
「なんでよー!」
厄介すぎる善意をばっさり断られ、彼女はぐぬぬと唸り声をあげた。調理場に、スイカとフランソワの朗らかな笑いが響いた。
【Case R】
七海龍水は、これまでの人生ではじめて直面する類の議題に悩まされていた。
話は至って単純である。
石化期間を含めれば三七〇〇年、それらを抜いてもおよそ十年。当時九歳であった彼が、半ば無理やり、ボトルシップの設計プログラムを依頼したのが最後の接点だ。
久方ぶりに対面した兄と、どうやって「普通の会話」をすればよいのか。むしろ「普通の兄弟らしい会話」とはなんだ。
先日、チェスを媒介に交わしたものとは違う。明日になれば内容を忘れているような、中身も他愛もない雑談を楽しみたいのである。にも関わらず、具体で何を話せばよいのか、見当すらつかなかった。
腕を組み、フゥンと独りごちる。
どうにも埒が開かない。改めて、自分以外の誰かと接するSAIの観察でもしてみるべきだろうか。
思い立った瞬間が好機である。しばらくは安定した気候が続くだろう、とあたりをつけた船長は、眩しい日差しが降り注ぐ甲板へ顔を出した。数日前の嵐で船酔いした兄のことだ。ふとした拍子で当時の惨劇を思い出さんと、船室にはこもらないはずである。
開けたスペースを見回す。すれば、船の先端部にてSAIとなまえが話し込んでいた。二人そろって真剣な面持ちで、こちらに気づく様子はない。ゆっくり足音を立てずに距離を詰めると、彼らの会話が耳に飛び込んできた。
「……やっぱりおかしいよ」
「えー、効率的じゃない?」
「だって……え、これ僕がおかしい……? いやっ、だって、紅茶だよ?」
「でも、お湯はお湯でしょ? 七海君だってよく冷めたやつレンチンしてたよね?」
「それはまた別だろ⁈ だって、みょうじさんのはそもそもの水に麺が直触れしてるわけだし」
前言撤回。そこまで真剣ではないかもしれない。
「紅茶がダメだとしても、コーヒーならセーフ? 香りと風味が強いから、ちょっとくらい粉の風味がしてもさ、がっちゃんこ! えいやっ! 相殺! みたいな」
「相殺なら、ラーメンもコーヒーもどっちも死んでるよっ」
兄が頭を抱える。そして、その数秒後には「ほんと、何なんだ」と大口を開けて笑い出した。あのSAIが。ゲラゲラと形容詞をつけたくなるほどの挙動で。あのSAIが?
近場で見かけた兄の様子に、数コンマ思考が停止した。そのまま居座るならばと用意した、挨拶の言葉すら飛んでいく。
そこで。はた、龍水となまえの視線がかち合った。
「あれ、用事? 外そうか?」
申し出を受け、首を横に振る。まさか「レトルト麺を茹でた後のお湯で、紅茶を淹れるか否か」から雑談のヒントを探っていたとは到底思うまい。その直後、目の当たりにしたSAIの年相応な姿で、一瞬立ち尽くしていたことも。
「ただの気分転換だ、気にしなくていい」
「船のリーダーは大忙しだもんね……。業務お疲れ様です」
小さく敬礼するなまえに、片手を上げて返す。
「……お疲れ」
彼女の背に隠れるようにして、ぽつりとSAIも呟いた。完全なプライベートを目撃されたためか、どことなくきまりが悪そうである。
もう少しだけ二人の世界を覗いていたかったと。弟は小さく歯噛みした。
もはや、彼女に直接尋ねるが早い。
龍水がなまえを捕まえたのは、オーストラリア到着を目前にした深夜のことだった。人工的な灯りがほとんどない現在、陸地から離れた海上であれば尚更、プラネタリウムの美しさは際立つ。眠りにつく船員も多い中、彼女は一人星空を堪能していた。
「宇宙へ恋をすると、皆そうなるのか?」
こちらの気配を察したタイミングで声をかける。
「すっごく詩的な言い回し」
「最初のころは特に、時折今も、千空がそうしているからな」
なまえの表情が、懐かしさを伴って綻ぶ。百物語を紡いだ、敬愛すべき彼の父が脳裏をよぎったのだ。
「龍水君、南十字星はわかる? ほら、ちょうど真上の」
「あれだな」
「さすが船乗り! ケンタウルス座と間違えちゃうことが多いから。定番のひっかけクイズなの」
北極星のように便利な星がない南半球では、万が一コンパスが機能しなくなったケースに備え、方角を割り出す手法を持っておかねばならない。
南十字星を利用して天の南極を補完する、というやり方はうちのひとつである。
「マゼラン星雲? というのもいつか聞いたぞ。それも千空発信だったか」
オーストラリア近郊で、南の夜空に除く雲の切れはし。大小ひとつずつ存在するそれは、大マゼラン星雲、小マゼラン星雲という天体なのだそうだ。
星雲。つまるところ、膨大な星の集合体である。
「この状況にぴったりの天体だね」
発見者であるマゼランが世界一周の最中にその景観を見つけたことになぞらえ、彼女は晴れやかに笑った。言い得て妙だ。
その後しばらく、航海中に目印とする星座の話でラリーが続き、十数往復するころにはすっかり興奮したなまえが頰を紅潮させていた。
「船乗り視点だと全然見方が違うんだね! それに比べて……君のお兄さんは夏の大三角もあやふやだったんだから」
あれがデネブ、アルタイル、ベガ。空を指差す彼女と、隣で同じく天を見上げるSAIが容易く想像される。自分へは滅多に向けられたことのない、兄の柔らかな横顔が。いとも簡単に。胸の奥にあるわずかな欠けへ、重石が食い込んだ。
「……貴様はどうやって、いつも、SAIと話している?」
「……?」
ぽつり、漏らされた龍水の設問。なまえの顔に、訝しみの色が滲んだ。
「龍水君も、七海君と話してるよね?」
「実務についてばかりだがな」
それとは別に。思わず吹き出してしまうような、相手を軽く小突いてしまうような、そんな会話がしてみたいのだ。
船長の願いを受け、彼女は「なるほど」と顎をなぞった。
「……力になれるなら私も嬉しいけど、ひとつだけ。この間、インドで七海君に突撃しちゃったこと、いまだに後悔してるの」
七海家の特殊な事情を知らず、SAIがペルセウス号へ乗船しないことに対して憤った件である。ゲンからそれとなく経緯を聞かされていた龍水は、「ああ」と相槌を打った。
「貴様が問いただした内容は、もっともだと思うが。あれは差し引き、説明を怠ったSAIが悪いだろう?」
「だとしても、家族の問題に部外者が突っ込んじゃったのはよくなかったなあ。今から私が話すこと、七海君には内緒にしてもらえる? ほら、本人からすれば見当違いな可能性も高いし。そういうのってあんまり気分がよくないかもだし。龍水君も話半分に聞いてね」
それじゃあ、本題に。
なまえの言葉を受けて、弟はしかと頷いた。
「私の印象……七海君はあえて龍水君から距離を取ってる気がする」
「あえて?」
とっさに聞き返す。彼女は軽く頷き、口元近くで手のひらを合わせた。
「自覚のありなしは一旦不問として、龍水君はすごく大きな重力を持ってる人だよね。太陽系で言うと木星……シンプルに太陽かな。太陽は地球含めて複数の惑星を従えてるじゃない? 木星も百近くの衛星を持ってるんだけど。イオとか、エウロパとか」
巨大な重力に引かれて近寄りすぎると、その周囲を生涯回り続けることになる。いわば従属関係が成立してしまう、という旨をなまえは説明したいようだった。
「ごめん、あんまりいい例えじゃなかった! 要するに、兄弟って対等なものじゃない? 七海君は、いつもちょうどよい距離を探しているというか……なんだかんだ龍水君のお兄さんでいたがってる……と思ったり」
若干語尾が濁ったのは、前提の「話半分」を意識したためだろう。
上目で空を見やると、こちらの意図など素知らぬ顔で、億単位の年数を経ながら変わることなく輝き続ける星たちがあった。
「つまり貴様は、俺ではなく、SAIの方に要因があると言いたいわけだな」
「そう、それ! 七海君、自分の重力の強さに無頓着というか、自分は従属側だって勝手に考えてそうで。自分は振り回される側の人間なんだーって思い込んで。あの人、なんて言うのかな……プログラミングとかゲームとか、そういうのに関する俯瞰能力がものすっごく高いわりに、肝心の、自分の周りのことは主観で観察する癖がある気が」
なまえの考察に、船長はフゥンと密やかに視線を滑らせた。しばしの逡巡、そして。
「……貴様、運命を信じる質か?」
「えっと、あったら素敵だなって思う、かな? ……唐突だね。急にどうしたの?」
「SAIが日本の外で貴様のような人物と知り合って、こうして今同じ船にまで乗っているのは運命的だと思ってな」
彼女が、七海SAIという人物について想像以上に深い理解をしていることに龍水は驚いていた。その感情には、龍水がこうして尋ねるまで分析自体を悟らせなかった機微も含まれている。チェルシーがとっつきやすさと研究者の顔を高速で切り替えているのだとすれば、彼女は常にその両者が裏表で存在しているようだ。
フランソワが二人へ向ける優しい眼差しの正体にも合点がいく。兄と工学者の出会いは偶然と聞くが、だからこそ何かしらの意図を感じざるを得ない。
「本当に運命だったら……ううん、それを言うのなら、龍水君がこの世界で七海君と再会したことの方が相応しいよ。だって、最後に会ったのは龍水君が十歳かそこらの時なんでしょう? ……あ、でもそれって──」
弟の発言をやんわり訂正したなまえが何かを言いかけ、直前で我に返る。
「……今のはなし。さすがにこれは保険適用外だった」
「構わん、貴様の話は興味深い」
龍水のあっけらかんとした物言いを受けても、若干の躊躇い。
「家族の話に……本当にいいの?」
「家族になるための話だ。今の状況で多少の痛みが伴うのは、当然のことだと思うが」
「……じゃあ、答えはお兄さんにだけ伝えて。七海君よりも先に、私が龍水君の考えを聞いちゃうのは違う気がする」
最終的に、問いかけ自体を龍水へ預ける形ならば、となまえは文を綴った。ガンマ線を彷彿させる視線が、覗き込んだ龍水を射抜く。
「──……龍水君はどうして、インドまで七海君を追いかけなかったの?」
思わず、言葉を失った。
言われてみれば、確かにそうだ。
兄が国外へ逃げたとしても、龍水がまだ幼かったとしても。手に入れたいという強い意思さえあれば、それは可能だったはずだ。
なにせ減らされた後の小遣いが月額百万である。金銭的な問題は龍水にとって重要ではない。それを元手にして自ら稼ぎ、やりたいこと、触れたいものはことごとくこの手に収めてきた、その背景について、今話をされている。
SAIの気持ちを尊重した? であれば、そもそも兄が本家にいた時、追い回したりなどしていない。
完全な無意識であった。なぜ、自身はあの時立ち止まったのだろうか。今まで考えなかったということは、拒絶してしまっていたか、それが自身にとって自然だったかの二択である。
気づかぬうちに『欲しい』を諦めていた可能性を、過去から突きつけられている。
「……ごめん、やっぱり言わなきゃよかった」
「……いや、貴様の言うとおりだ。少し考える時間は欲しいが……」
そこで龍水は言葉を切り、頭上の星を一瞥した。
「……約束しよう。いつか必ず話すぜ、SAIと」
──この、南十字星に誓う。
続く船長のキザな言い回しに、なまえは安堵の面持ちで胸を撫で下ろした。
「よかった……。私、二人を見てると、勝手に、なんか嬉しくて。七海君、私と話してる時と全然違うから」
それはこちらの台詞だ、としたい気持ちをぐっと堪え、彼女の話に耳をそばだてる。
「この前、七海君と龍水君が何千年ぶりにチェスしたって聞いた時、ただ、ただ、よかったなって。ほっとして、それしか出てこなかった。七海君に血のつながった家族がいて、七海君がお兄さんしてる顔を見られて……つい、二人が羨ましくなっちゃった」
水滴が滴るような言い草だった。本来溢すはずではなかったものが、何かの拍子に落ちてしまったような。それこそ、大きな重力に引かれた結果のような。
「……羨ましい、か」
復唱し、龍水はその意味を噛み締める。自分の知らないSAIを知っているであろうなまえの言葉は、非常に説得力があった。
一方、彼女の顔には、しまった、という表情が貼り付いていた。覆水は盆に返らないもので、光源の少なさからあからさまでこそないものの、おそらく耳まで赤く染まっている。
その様子に気がついた彼が口を挟むより早く、直前の一言を上書きするように、なまえは続きを述べた。
「だ、だからっ、七海君と龍水君は大丈夫! 私が保証する! えーっと、そう! 夏の大三角に誓って!」
話を区切るように、両手が叩かれる。パチン、乾いた音。微かなエコーは、穏やかな波に溶かされていく。
──言い逃げはずるいぞ、貴様。
彼女が漏らした、おそらくは本音。それを手繰り寄せるような心情で、龍水は星空を背景に佇む兄の友人へ視線を寄せた。
【ラグランジュポイント】
「貴様、本当はSAIと何かあったんじゃないか?」
しばしの沈黙を挟み、それを尋ねるか否かで揺れた龍水は、結局興味を優先することとした。
もし、兄のプライベートを犯しすぎず、この場で聞ける何かがあるのだとすれば。それは七海SAIという人間の理解につながる。龍水は、自身が世界一の欲しがりであることを、胸の中で反芻した。
だんまりは難しいと観念したなまえは、小さな声で告げる。
「…………逆。何にもならなかったの」
ざぷん。
それまでは聞こえなかった波音が、まるで彼のターンであることを示すように、この瞬間だけ、やたらと大きく響いた。
彼女と一対一で対話し、今更ながら気がついたことがある。
結局、なまえは兄のことを「七海君」と呼び続けている。その呼びかけはあまりに自然で、龍水にとって意識の端、わずかな切先で引っかかるのみとなっていた。
これは龍水の予想であるが、兄は「七海財閥」という組織へ、いまだ複雑な思いを抱いている。その彼が、「SAI」ではなく、「七海」の呼び名を許容していることが、殊更不思議であった。
心の深い部分を紐解きながら、その実常にSAIと一線を引いている。彼女は、兄がやんわりとでも拒絶した部分に、改めて足を踏み入れようとしない。
日常生活でガサツな面を待ち合わせていることに、異論の余地はない。しかし、彼女の本質は研究者だ。その観察眼で、SAIとの距離を絶妙なバランスにて保っている。
だとすれば、そのバランスを「七海」が調整していることになる。彼女の起きざま、兄が「『SAI』はむず痒い」としたことも気にかかっていた。女性相手だから、というわけではないはずだ。コハク、チェルシーといった、他のメンバーたちにはその呼び名を使わせているのだから。
二人は相当気安い関係であろうに、互いへの呼びかけは誰よりも遠い。まるで、さまざまな要因に少しずつバイアスをかけて、距離を測っているようだった。遠目にすれば、あまりにももろい何かに感じるほど。
ふと、千空が石神村にいた時期、彼の誕生日に村の面々から望遠鏡をプレゼントされたのだという話を思い出した。
精度について千空に尋ねた際、地球外にレンズを持つ宇宙望遠鏡の話題へ飛躍した。
例として挙げられたハーシェル宇宙望遠鏡は、地球と太陽の力が釣り合う直径七〇万キロ、確かリサージュ軌道と呼称される場所を周回していたという。
二つの天体がある時、その間には重力の釣り合う位置が存在する。ある種安定した、居心地のよいその場所からは、自らの意思がなければ外れることが叶わない。
兄弟の間には、物理的な距離があった。が、三七〇〇年前から同じ場所で釣り合い続けていた感情が、この十数日に少しずつ変化の兆しを見せはじめたように思う。
しかし、どうやら兄と彼女の関係はラグランジュポイントに置かれたままらしい。少なくとも、今はまだ。
「……難儀なものだな」
「もう慣れました」
無意識に漏らされた龍水の呟きへ、なまえは眉尻を下げながら笑ってみせた。