Triangler ストラトスフィア

【トロポスフィア】

旧現代において、もっとも有名なカウントダウン。
それは、アポロ十一号のリフトオフに違いない。
現地には百万人の観衆、アメリカ全土だけで二千五百万人のテレビ視聴者、世界各国の数百万人にのぼるラジオ聴衆。その日、世界の二割がメディアを媒介として出立の瞬間に立ち会ったと言われている。
そして、三千年以上の月日が流れた現在。まさかアポロ十一号と同じ目的地へのリフトオフを、比喩ではなく世界中の全員が見守ることになるだなんて。
アームストロングの驚き、笑う顔が見たいものである。

「今日が晴天でよかった」
一号機の打ち上げを数十分後に控えた管制塔。ゼノを幼馴染の元へ送り出したなまえは、大スクリーン越しにシャトルを見つめていた。
「……こればっかりは、さすがに運だからね」
相槌を打つのは、メインプログラマーの青年である。
ロケット打ち上げ時の天候については、旧現代でも明確な基準があった。機体移動時・発射時の制限風速、降雨量、積乱雲・雷雲の有無。それぞれについて具体の数字が設けられており、悪天候で日程が延期されることもめずらしくなかったのだ。これは飛行士のモチベーションにも関わる重要事項。科学の最先端をいく施設内でも、ここだけはやたらと原始的に、てるてる坊主をぶら下げたものだった。
「成層圏から打ち上げられたらいいのにね。あそこ、絶対晴れだし」
なまえが、未来お手製のてるてる坊主を大事そうに揺らした。少女にお守りとして手渡されたそれを、なまえは壊れ物のように扱っている。
そんな彼女の様子を横目で眺め、SAIは口元を緩めた。
先刻からモニタリングしている各所の数字は、規定の範囲内に収まり続けている。今ごろ、飛行士たちが連絡通路に到着しているだろう。地上に残るメンバーと、出立前最後の挨拶を交わしているはずだ。
「みょうじさんは、行かなくてよかったの?」
「……Ⅾr.ゼノを差し置いて、私が行くわけにはいかないでしょ」
天才科学者が、友人のためにつくった噛みタバコを懐に忍ばせ、渡すタイミングを窺っていたこと。そのくせ、自分が管制塔を出るわけにはいかないと、離席を渋っていたこと。それらを知っている宇宙工学者は思わず苦笑した。あれは彼が直接手渡すべきものだ。
「七海君こそ、行かなくてよかったの?」
「うん。誰かが残らなきゃいけないなら」
先刻まで賑わっていた室内も、現在は静かなものだ。とはいえ、彼の言うとおり万が一の事態に備えて、誰かしら。正確に言えば「緊急」に対応できる人員が、数人待機しておかねばならない。
駆け出しだった工学者は、NASAの叡智を集めたと言っても過言ではない天才の元で経験を積み、ロケット技術者として着実に成長した。こうして彼が席を外す際、一時的な代理を任せられるほどに。行動が伴う信頼は、なまえにとって大変喜ばしいことだった。
また、姿勢制御、熱制御、電力接続、推進システム接続など、各所との連携。これらは、SAIが中心となり作成されたプログラムで一括判断がなされている。一秒単位で刻々と変化する数字とグラフは彼の功績だ。リアルタイムで状況を把握することは、安全管理、ひいては作戦の成功に直結する。青年が責任者としてこの場に残ったのも、系統異常が起こった際、情報部分を即座にバックアップするためだった。
出立後、宇宙で組み立てを行うために最重要とされる軌道運用。これも、実計算プログラムの要はSAIが担っている。
もちろん乗り込み時に三勇士を石化させねばならないのだから、管制塔外での役目も非常に重要である。カセキ、北米から到着したばかりのジョエルが石化装置の最終調整を担当しているはずだった。数年前、合図なしにメデューサが暴発した例も耳にしており、不安は拭えない。しかし、代替手段もない今、数日間の起動リスクは承知しなければ。幸運を信じるのみである。

「──十」
ゼノがカウントダウンを開始した。
エンジンの音、土煙、機体の震え、心臓の鼓動。それらがないまぜになって、興奮とも恐れともいえない感情が、全人類を揺らしている。
科学は、小さな一歩を、地道積み重ねていくことだと千空は言った。小さな数字をひとつずつ、決して飛ばさず、数えていくこと。

そして。これは一部のエンジニアのみが知りえる秘匿事項だが、敬愛すべき宇宙飛行士の息子へ、とあるプレゼントを用意している。
「なにせ無重力空間だ。液体は流れない。復活液の失敗リスクも鑑みて念のため、科学者を一足早く起こしておこう」などと。あのⅮr.ゼノがしれっと言い放った時の、皆の顔を見せてやりたいものだ。
なまえは、祈るように両手の指を絡め、小さく息を吐き出した。
宇宙で、一人眺む窓の景色に、少年は何を思うのだろう。
三七〇〇年が経った今も、人の目に映る地球は青いのか。いつか、直接教えて欲しい。

ロケットが、重力の影響下から抜け出し、わずかに浮き上がった瞬間、管制塔のとあるエンジニアの口から漏れたのは。
一九六九年七月十六日、十三時三十二分。ケネディー宇宙センターから発射されたアポロ十一号を見て、中継アナウンサーが溢したものと──一言一句違わず、同じであった。

数刻前まで空気の振動で伝わっていた懐かしい声が、電波を通して響き渡った。
「──とりま成功だ、百億パーセント問題ねえ」
一号機の打ち上げを担当していたエンジニアが拳を突き上げる。管制室の中が大歓声に包まれた。特に大樹は「うおおおやったな千空ー!」と、涙を飛び散らせながら叫び、同級生を労っていた。
室内では全体統括を行うゼノ、各分割機を打ち上げる四つの班がそれぞれ目まぐるしく動いている。まずはひとつめのドッキングが無事成功、続く二号機も打ち上げ目前だ。
ゼノから四号機の管理を任されたなまえは、スケジュールを秒単位でカウントしつつ、機体の移動指示を出していた。
頭の大部分は冷静に画面の情報を把握するも、その片隅で皆の明るい声を聞いている。それだけで、無限に力が湧いてくるような気がする。
にしても、千空は相変わらずだ。記念すべき一台目の接続に対し、地上にいた時のクラフトとさして変わらないトーンで報告を入れていた。コハクの「もう少し喜べ」といなす声を聞いて、同じく変わらないやりとりに和まされたものだが。
ふいに。
「……いや、地上の連中のリアクション薄くねえか?」
今ごろ、大樹あたりがお涙グダグダで、叫び声アホほど垂れ流してるはずだろが。
千空の呟きに、キーボードを叩く指がはた、止まった。
わずかな困惑。違和感。旧現代ほど高精度とは言えない電波が、今このタイミングでラグを起こしたとでもいうのだろうか。
「いや、実際今ヤベーほど叫んだじゃねえか。何のボケだよ!」
宇宙から呼びかける科学者の、訝しむような、焦ったような、そんな声色に、クロムが笑いかける。しかし、ノイズ混じりの返事はない。
違う、これは。
そこで、ようやく状況に気がついた複数人のエンジニアが各所で立ち上がった。なまえもその一人である。後ろに椅子が倒れ大きな音を立てるが、それどころではなかった。
管制塔のリーダーは、眉根に皺を寄せて画面を睨んでいる。
「……こちらからの無線が届いていない」
「……宇宙船内どっかの──電気系統の異常だ」
科学のリーダー、二人の声が、大気圏を隔てて重なった。
それは、死刑宣告にも近しい何かだった。

管制塔内は大混乱に見舞われた。
計画は中止できない。ここでタイムスケジュールをいじれば、双方向の連絡が難しい以上、飛行士三人は上空四百キロに置き去りである。予定通り、分割機を飛ばすしか道はない。
が、断片的に漏れ聞こえてくる宇宙船内部の会話より、ドッキング用カメラも不調と理解された。つまり、パイロットの経験値のみを頼りに、目視で接続を試みなければならない。スタンリーの腕を信用していないわけではなかった。しかし、物理的に無理な事象というのは存在する。天の川銀河の裏側をまだ人類が見られないように。
原因はなんだ。コンデンサが焼け焦げている? 回路の確認は何度も行ったはずである。いや、今はそんな次回への課題を考えている場合ではない。第一優先は、飛行士たちの命だ。
──一体これからどうすればいいんだ。
──この状況で後発機を飛ばす意味はあるのか?
──お前、仲間を見殺しにするつもりじゃないだろうな。ふざけるな!
──そんなことは言っていないだろう!
雷雨のごとく左右から降り注ぐ怒号は、もしロケットの打ち上げであれば中止を免れないほどに強かった。
まずい。周囲の状況を慮ったなまえは、四号機リフトオフの中心メンバーとして「落ち着いてください!」と声を張り上げ、そして容易くかき消された。焦りを孕んだ希望は意思の疎通を困難にし、視野を狭める。
時間だけが無意に過ぎてしまう。ダメだ、このままでは本当に──。
突如。
「──俺が行く!」
それは、凛とした、まっすぐな、大海を思わせる──色でたとえるならこの世界のどんなものよりも青い、何かだった。
その声は、至るところで散乱していた全ての波を打ち消し、室内へ響き渡った。
「四号機は月着陸船だったな? ならば俺一人乗ったところで何の問題あるまい!」
彼の目が、該当機の主担当であるなまえたちを射抜く。
「操縦方法も叩き込んでいる。飛行士としての訓練も積んでいる! 俺以上の適役はいない! 違うか⁈」
横暴だ。なまえは、いきなり放たれた提言に、「バカ言うな!」としたいのをなんとか飲み込んだ。
「…………ち、違うもなにも、そんな無茶な」
「……今僕が思いつく点だけでも、致命的な問題が二十はくだらない」
ゼノのかたい呼びかけにも、船長は怯むどころか動じすらしない。さらに、驚くことに龍水は、彼へ注目する皆を見渡して豪快に笑ってみせた。今にも絶望で足を踏み外しそうな、この崖っぷちで。
「はっはー! ゼノ、貴様を持ってしてもたったそれだけか!」
インド洋の上で、なまえは彼の持つ求心力を太陽に重ねた。その思考はつとめて正しかったと、改めて──今、わかった。

四号機に龍水を乗り込ませるべく、二、五号機以外の各班メンバーが集結した。一からフローを見直し、変更が必要な部分を発見次第修正へ走る。周回軌道上のタイムリミットもあるため、打ち上げ時刻は大きくずらせない。マンパワーで間に合わせるのみだ。
「酸素、予備のボンベ格納します!」
「先発組の詳細位置は出てる⁈」
「宇宙服は一旦E区画へ入れれば……⁈」
「一二〇秒、いや九〇秒で済ませてくれ!」
「姿勢制御については彼に考えがあるらしい! 優先度を下げる!」
「交換用の配電回路、念のためクッション材を噛ませて! 手持ちでいい!」
年齢性別言語関係なく、あらゆる指示が飛び交う。乱雑な会話にも関わらず、先ほどとは異なりひとつの筋に向かって突き進んでいる光景は、船長を思う意思に他ならなかった。
月への着陸船としてつくられてはいるものの、生きた人間を乗せて打ち上げる想定まではされていない。唯一の石化装置は遥か空の上。これまで以上に失敗は許されない。言葉の通り、それは完全に命取りとなってしまう。ましてや乗り込むのは七海龍水だ。こんなところで失わせやしない、絶対に。
そんな、慌ただしい管制室の中。
一際大きなモニターの前に着座する、四人目の飛行士の兄。彼は、止まらない手の震えをなんとかしようと、強く唇を噛んだ。
機体が無事に打ち上がったとしても、その後、大気圏の外で千空たちが乗り込む本機とドッキングしなければならない。そのために、軌道演算の修正が急ぎ必要だ。
やらなくてはならない、SAIが。龍水を──弟を無事に送り届けなくてはならない。
弟ならばやりかねないと心のどこかでわかっていた。彼が声をあげた時に、お前ならそう言うと思ったよ、と呆れながら誇らしくもあった。にも関わらず、なぜか指がカタカタと小刻みに震え、言うことを聞かなかった。こんな状態でキーボードへ触れれば、どんなタイピングミスを起こしてしまうかわからない。ハイフンひとつ抜けただけで、と過去に事例を持ち出したのはSAI自身であったはずだ。
力任せにぎゅっと目を瞑る。頭にモヤがかかったようだ。時間は刻一刻と迫っているのに。顔の側面を冷や汗が伝うのがわかる。急げ。急がなければ。でも、どうすれば。
息をするのが苦しかった。
あの時と同じだ。七海財閥にいた時。否、やっと居場所を見つけたと思ったインドの地から、連れ戻されそうになった時。
自室のカーテンを閉め切り、真っ暗闇の中で毛布にくるまった。誰も来るなと願ったくせに、指は電話帳をたどっていた。本当は、SAIを、SAIとして望む誰かが、光の向こう側から自身に呼びかけるのを待っていた。
「……ん、七海才っ!」
奥へ奥へと潜っていた意識。それが、水面近くへ無理やり戻される。
襟首を左横から引っ張られ、椅子から転げ落ちかけたSAIは目を大きく見開いた。世界が眩しい。瞳孔が開いて、今自分の身に何か起きているのかとっさに判断できない。
ただ、柔らかい何かが自身の唇に押し付けられるのだけがわかった。
優しい匂いのする房が、彼の頬を撫で、遠ざかる。
「──いきなりごめん、ショック療法。あとで……絶交してもいいから」
一瞬にも、永遠にも感じられるそのひと時は、聞き覚えのある鮮やかな声によって閉じられた。
なまえが彼の襟首を、半ば締め上げる勢いで掴んでいた。細腕に力が入り、ふるふると震えている。
「前も言ったけど! 七海君は自分の世界に入ると、本っ当に人の話を聞かない!」
「──なっ、えっ⁈」
先ほどの柔く、甘い感覚の正体。思い当たる節に、SAIは「なんでっ⁈」と、半ば叫ぶように告げた。
「今キスする必要あった⁈」
「その点はシンップルにごめん! でも! びっくりすると止まるでしょ⁈ 震え!」
「それは、しゃっくりだろ⁈」
一時的とはいえⅮr.ゼノの代理を務め、きびきび機体整備の指示を出し、スケジュールと睨めっこしていた、優秀な技術者。目の前の彼女と、到底同一人物とは思えない。
なんだ、この人。一体なんなんだ。あまりにも突飛な対処療法にもはや笑えてくる。
指摘を受けた途端、「は⁈」と、両手を離して飛び退いたなまえは、みるみるうちに顔を赤らめ、顔どころか鎖骨付近まで染め、「あ、あとで改めて謝罪するから!」捨て台詞を吐いた。くるりと振り返り、平らな床へつっかえながら駆けていく。
わずかに頬が痛かった。
きっと彼女は、SAIの怯えた様子に気がついて。彼が自らのミスで弟を失うかもしれない可能性をわずかに想像して、いても経ってもいられなくなったのだ。正気に戻そうと呼びかけて、おそらく実力行使で顔をはたいて、それでもぼんやり内へこもり続ける彼に、最終手段を持ち出した。友人が唯一の弟を失うくらいなら、友人と友人でいられなくなる方がましだと思った。自身と龍水に優先順位をつけて、龍水を選んだ。
「……ますますっ、失敗するわけにはいかなくなったじゃないか」
メインプログラマーの彼は、自身へ言い聞かせるように呟いた。
改めてモニターに向かい合うと、いつもより画面が小さく見える。こんなミクロの世界で組まれた式でさえ。弟を行きたい場所に送ってやれる。家族をヒーローにしてやれる。そう考えると、これまでの全てがあっけない何かに思えた。
ほんの少し息を吸って、吐く。キーボードにそっと手を乗せる。震えは止まっていた。使い慣れたそれは、吸い付くように指へおさまった。
離れた机から、一人のエンジニアが彼に呼びかける。
「Mr.SAI! 残り一五〇秒でいける⁈」
三〇秒もあれば十分過ぎるほどだった。 

【ストラトスフィア】

「──本っ当にごめんなさい」
なまえは、目の前のプログラマーへ深々と頭を下げた。
「つい、カーッとなっちゃって……。あーもう、こういうところ……。緊急事態とはいえ、他にやり方あったよね」
彼女にしてはめずらしく、たどたどしい物言いである。
「お詫びはなんでも。ご飯奢るとか、役に立つかは微妙だけどプログラミング手伝うとか、迷惑料とか……あと」
──絶交、とか。
最後の二文節。ちらりとSAIの表情を窺う。

四人の宇宙飛行士が地球へ帰還し、数日が経過した。
しかし、石化光線の脅威がなくなった安堵感。誰も失わずに全人類共同プロジェクトを成功させた達成感。そして、千空の持ち帰った未来科学と、新たな希望。世界が文字通り一丸となって成功させたプロジェクトの余韻は落ち着くどころか、指数的な盛り上がりを見せていた。
数日後には、彼らが主役の記念式典も開催される運びとなっている。当然、地上側の立役者たるゼノをはじめ、彼を支えたSAI、なまえも招待を受けていた。
勇敢な飛行士たちの凱旋を祝うべく、すでに各地で人々が移動をはじめている。宝島も例外ではない。定期船には準備を終えた島民、エンジニアが思い思いに乗り込んでいた。
そんな中、すっかり人気のなくなった管制塔に、二人だけが残っている。この場で決着をつけておきたい議題があったためだ。

「……絶交は、いやだ」
SAIは、ぽそりと呟いた。
彼女の口からある種覚悟の証だとしても「縁を切る」という選択肢が飛び出したこと。それによって、彼自身も深手を負っていたのである。
自身から切り出したくせに、「……よかったあ」と、心底ホッとした面持ちで、なまえは胸を撫で下ろした。
「それとなーく確認したけど。誰にも見られてなかったみたい。ほら、あの時全員バタバタしてたし、周りもうるさかったし」
絶交はしない、という彼の宣言に一安心したためだろうか。この場を訪れ、話を切り出した数刻前よりも、幾分かかたさが抜けている。
「……変な勘違いされなくてよかった。七海君と、今までみたいに話せなくなるのはしんどいもん」
彼女は、ふと自身の足元を見やった。右には、SAIと同じく光の反射を拒む石化痕が残っている。以前彼が尋ねたところ、太腿付近までヒビが続いているとのだと教えられた。七分丈のパンツに隠され、肌との境目をSAIが見ることは叶わない。ただ、彼女と近しい女性エンジニアが「彗星の尾」にたとえて、羨ましがっていたのを覚えている。
なまえがしばし逡巡を挟み、プログラマーへ視線を戻す。目の中にはいくつものハイライト。それは、夜空に降り注ぐほうき星のように美しかった。
「それで、ね……かました側が図々しいとはわかってるんだけど……あれ、ノーカンってことにできないかな」
「……ノーカン」
「ほら、あの時の、七夕の日の、七海君のハグ一回分と相殺、とか」
彼女は青年の瞳を覗いた。映り込む自身に言い聞かせるように。
「……ううん、それも関係ないな。これは私なりの区切り。友達でいようって決めたのに、ずっと──あの時告白したことに甘えてたから。友達なら友達らしく、もっとちゃんと一線を引くべきだった。……今まで、気を遣わせてごめんね」
そんなことない。甘えていたのはこちらの方だ。
贈りたい気持ちは言語化できず、痛いほどSAIの胸を締め付ける。
「もう、好きなんて言わない。七海君の前で泣いたりしない。慰めてもらったりしない。当たり前だけどキスもしない。だから……この約束に免じて、あれはなかったこ──」

なまえの言葉は最中で止められた。正確には塞がれた。
目を閉じる暇もなく、突然。
驚きで見開かれた彼女の視界には、伏せられたSAIの睫毛の長さが、やたらと印象的に映った。額を彼の髪が撫で、むず痒い。感覚の鋭い箇所で感じるそこは、かさついているのに、濡れていた。背筋が羽でなぞられたように痺れ、直後名残惜しさとともに解放される。
「──じゃあ、これが一回目だ」
彼女の耳から顎のラインを固定するようにして、彼の指がある。そのせいで顔を背けるわけにもいかない。心臓の鼓動が、触れ合う部分を通じて伝わってしまいそうで、無意識に呼吸を止める。
「……今更ごめん」
吐息がかかるほど近い距離で、掠れた声がする。視線の熱に浮かされる。

「──みょうじさんが、好きだよ」

「……な」
嬉しいだとか恋しいだとか、そんな感情に先立って、なまえの中にまず生じたのは、もっと根本的な疑念だった。
「…………なんで?」
「うええっ⁈」
一世一代の告白を、クエスチョンマークで戻されたSAIは、焦るようになまえの両肩へ手を添え直す。
「なっ、なんで、って。なんで」
「だ、だって、七海君が友達でいたいって言ったから……私、そうしようと思って…………悩んで、諦められなかったけど、やっと覚悟決めて──お、遅すぎるよ、このっ、バカ!」
ここぞとばかりに正論である。SAIは、「ぐっ」殴られたかのような呻きを漏らし、しおしおと俯いた。そのまま視線を彷徨わせ、明らかにしょぼくれる。
「……僕だってっ、あの時に、ちゃんと言えてたらって……思ってるよ……」
みょうじさんは、もう、僕のことなんか。
僕なんか、もう──好きじゃない?
なまえを上目に見やる。ずるすぎる顔だった。すがるような。こちらの本心を掬い上げるような。この場では言い切れない思いを、なんとか眼差しだけで伝えようとしているような。つまるところ、今の彼女にとってその表情は正解だった。
「……女心は天気と同じくらい変わりやすいって、いつかの船で弟が言ってたでしょ」
全く困った男である。
自分勝手に、彼の一方的な都合で、いつだってなまえを振り回す。
そもそも、この世界で目を覚ました瞬間からそうだった。彼女を起こした理由は、ただ星を見せたいから、それだけだとのたまった。
けれど、そんな部分を含めて嫌いになれない。それどころか、そんなところこそ。
「──……私の気持ちが成層圏にいなかったら、一体どうするつもりだったの?」
それはロケット技術者なりの、精一杯の照れ隠しだった。