*
──お前なんかより、俺はずっと箱根を走りたい。
チームに対して思い入れなんかないくせに。自分の力をただ誇示したいだけのくせに。
運よく天才でよかったな。どこにも属することなく、迷惑をかけることなく、一生一人で走っていればいい。もしくは、ぬるま湯に浸かり続け、唯一の拠り所たる才能すらも腐らせてしまえばいい。
寛政大学との接触後、榊は苛立たしく地面を蹴りながら、あの日の事件とそれに至る経緯を思い返していた。
*
名門──仙台城西高校の生活を一言で表すのであれば、「学校の名誉」のために走り続ける日々だった。
「──おい! 十秒も縮んでないじゃないか。何のトレーニングをしてたんだ、お前は。特待生だろ? 走って答えを出す以外にやることなんてないだろ。追加で十キロいけ!」
怒声が聞こえるたび、ああ今日もはじまった、と首を縮こまらせたものだ。
長距離部門の監督は、十数年以上このチームに勤めてきたいわゆる名物とされるに相応しい人物。その期間、部活という狭い世界で頂点に君臨し、多くの学生から敬われてきた。
指導者や先生という種族は、どうして得られた立場を自身の能力によるものだと勘違いしてしまう人が、一定数存在するのだろう。電車に乗れば、どこにでもいる中年の一人として括られるくせに。
例に漏れず、監督の言葉はいつだって刺々しかった。特に選手の出した結果が、自身の理想と噛み合わないとき。
「他の奴らもランナーは結果が全てだぞ。一切の甘えは許さんからな」なんて。監督の機嫌が悪いと、適当な部員を捕まえて小言がはじまる。榊たちは「いつもの」と目配せをし合い、形だけの返事を戻す。「はい」が条件反射以外に何の意味も持たなくなったのは一年の秋だった。
選手育成のノウハウを懇親会で話すであるとか、建前ばかりに注力し、肝心のメニューはコーチ任せだ。
その一方で、県総体の役員に優秀な選手を紹介し、自分の指導の成果だと吹聴する。偶然に得られた過去の栄光だけで周囲からチヤホヤされている。 なにが「仙台城西高校の品格を落とすなよ!」だ。お前はどうなんだ。
「全国でもトップクラスでしょう。出てますね、指導の成果」
「いやあ。恵まれているだけです」
「今年は総体も国体も楽しみだ」
「ご期待に添えるよう」
そんな会話を聞くたびに、部員たちはひそひそと陰口を叩き合う。後ろめたい気持ちは、面と向かって戦う勇気を持ち合わせず、こうして裏で鬱憤を晴らしている所以に違いない。
彼から目をつけられない程度に上手くやれれば十分だ。適度に評価され、公式戦や駅伝でそこそこ重要な区間を任せてもらう。そこで記録を出し、大学推薦を狙う。
ただ、そのあたりの機微がどうしてもわからない人間も部内にはいる。
「……足が痛い? もう少し気の利いた言い訳はできないのか? 誰だって一つや二つ故障を抱えながら頑張ってんだよ。それでもタイムを縮めるのがランナーだ。走れ」
「はい!」
「成績が出ないやつはどんどん切っていくからな! 覚悟しとけよ」
監督の機嫌くらい確認してから声かけろよ、と二年生が眉をひそめる。苛々されたまま練習に顔を出されたらたまったものじゃない。
「要領悪」
「しょうがねえよ、一年だし」
「言ってやれよ。あの人が見てる時だけ頑張れば大丈夫だって」
「お前が言えよ」
「聞かねえよ。俺の言うことなんて──特待だもん、あいつ」
純粋な憧れから入学してきた一年生は特に悲惨だろう。中学の時に築き上げた鼻っ柱と自負を折られ、講演会とは違う監督の姿や、部の実態に絶望する。それでも一度駅伝に出場すれば、県内有数の実力を持つチームなのだから厄介だ。それは甘い甘い蜜である。
榊が部室棟の裏を通ったとき、追加メニューを終えた特待生へ、走が「……ダメなら、いいと思う。走らなくて」と、言葉をかけていた。
あの男は、本当に何もわかっていない。
「……先輩はどこかを痛めたことはあるんですか?」
ほら、後輩のすがるような目つきの意味が、走にはおそらくは理解できない。身体の痛みに堪えているだけではないのだ。もし痛むのが脚だけならば、あんな表情にはならないはずだ。
お前じゃダメなんだよ、榊は小さく呟く。宇宙人に、俺たちの気持ちは決してわからない。
──やめるか? 陸上部。どいつもこいつもここで役に立たなかったら、この先どこに行っても役に立つことなんてないぞ。ここで決まるんだよ。わかってんのか?
監督の声はいつだって頭の中で反響を続けている。部活は社会の縮図。監督は大統領。部員たちは選挙権を失った国民。彼が黒と言えば白も黒だ。じわじわと時間をかけて洗脳され、その発言の違和感を誰も指摘しなかった。
──田舎でどんだけ速かったか知らんが、こちらは長年の理論に基づいて指導してんだよ。
──この程度のレベルについて来れないのは、完全にお前らの性根の問題だ。
──いいか、生きるか死ぬかの勝負と思え。名門の看板を背負っている自覚を持て。走れないやつは置いていけ。付き合う暇はない。
監督にどこまで同調しているのかは知らないが、少なくとも走は監督の指示を、ずば抜けた記録を通して体現できてしまっている。
そんな男が告げる言葉に、スランプを抱えた後輩が何を思えるのだろう。どうやって救われろと言うのだろう。高みから偽善ぶって施される情けほど、プライドを切り刻まれることはない。加えて、当の本人は自身が安全圏ということすら認識していない。
そういうところが──否、だからあいつは、厄介極まりないのだ。
走への苛立ちが、ほんの少し波が立っただけでも溢れそうになったころ。
忘れもしないあの日──確か、春休みの終わりだった。
冬季の仕上げとなる地獄の合宿を終え、少しずつメニューをスピードに置き換えていく時期。各種目上限三名の公式戦エントリーが決まるのもちょうどこの頃で、部内の雰囲気は特にピリピリしていた。
その中で、二、三日練習を休んでいた、くだんの特待生が姿を見せた。左足を引きずり、片手には一枚の紙きれを握りしめている。
「──……無理?」監督がその紙を、ゴミでも見るような目つきでねぶる。
「今年は……今年は無理ですけど、来年には──」掠れる声で特待生は告げる。
そこで周囲にいた部員は、彼の差し出したそれが医師の診断書であることに気がついた。声なく、それでもざわつく空気。
監督は、すがるようにつづられた懇願を鼻で笑う。
「来年? いいや。埋まらないって、すぐには。そういうもんだ。皆毎日毎日、血の滲むような努力を積み重ねるんだよ。お前が休む間に──安心しろ、お前が抜けてもチームはなんとかなる──しっかり治して新しい道を探せ」
──カラン。
瞬きの間に、一年生は松葉杖を放り出した。痛むであろう脚を折り、その場にうずくまって土下座の態勢をとる。同学年数人がとっさに駆け寄ろうとしたのを上級生が止める。
もうあれはダメだ。どうしようもない。このまま行ってもミイラ取りがミイラになるだけ。それならば、せめてもの介錯で、追加の腐乱死体が転がることだけは阻止しよう。これが自分たちにできる精一杯だ。
「──お願いします! 俺、陸上推薦なんです……。部活辞めたら、何にもないんです! 走らせてください……お願いします──お願いします!」
「時間だ、はじめろ」監督はその言葉を無視して、主将へ号令をかける。
「……は、はい! グラウンドー!」
ゾロゾロと整列する部員の横で、「……お願いします。戻らせてください……。怪我してすみませんでした……お願いします」悲痛な謝罪は続いている。
榊は耳を塞ぎたい一心を無理やり飲み下し、明後日の方向へ目を逸らした。晒し者にしてやる気はないが、庇えるほど自分の力を過信してもいない。明日は我が身である。今のポジションを永遠に維持できる保証なんてどこにもないのだ。あいつは運が悪かった。ただ、それだけのこと。
監督は、そっと特待生の前に腰を下ろすと「……なあ」おもむろに呼びかける。
わずばかりの震える期待を胸に、恐る恐る頭を上げる一年と目が合う。
「──俺はな、俺の言った通りに走れるやつしか相手にしない。頑張れ……一応、応援してる」それは、ゾッとするほど鋭利な囁き。こんなにも情のない台詞があるものだろうかと、榊は眉根を寄せ──。
その瞬間だった。
一人の男が出発直前の縦列から抜け出したのは──監督の胸ぐらを掴んだのは──シワの多い顔面を力任せに殴りつけたのは──地面に血飛沫が飛んだのは──誰かが飛び出した男の名を叫んだのは──榊たちの、高校における競技生活が終わったのは。
それは、一体誰の──。
*
顔の正面から生ぬるく湿った風を受けると、手持ち無沙汰に寮のベランダで時間を潰した時期が蘇る。
その時の走の行動により、監督は鼻の骨を折る大怪我をした。仙台城西高校陸上部はじまって以来の大事件である。
噂はすぐさまOB間を駆け巡り、それ以上事件が表沙汰になるのを恐れた学校は、陸上部の活動を自粛するように命令を出した。一週間後には、記録会を含め、すでに決まっていた大会をも全て棄権する手筈が整えられていた。
榊たち三年生は、目の前が突然真っ暗になったような感覚を味わったものだ。
走はそのまま退部となり、陸上部の寮を放出された。自宅で謹慎処分を受けた後、ひっそりと学校に通っていたらしい。学校側の措置で、走は陸上部員のほとんど在籍していないクラスへ移されたため、以降は校内ですれ違うことすらなかった。
風の噂によれば、決まっていた大学推薦も取り消しになったという。しかし、それを「ざまあみろ」の一言で片付けるには消化しきれていない感情が多すぎた。
うだるような、何の面白みもない一年の消化。その中で、榊にとって忘れられない出来事がひとつある。
走が寮を出ていく日、彼の同室であった同級生が榊の部屋を訪れた。
彼は向井といい、ドロドロとした人間関係渦巻く部活の中で、誰に対してものんびり話しかける優しいやつだった。走にとって唯一の幸運は、同室の一人が向井であったことだろう。
「少し風に当たろう」と、向井に言われるままベランダに出た榊は、グラウンドのトラック脇をとぼとぼと歩く大荷物の青年を見つけてしまった。今さら見間違えるはずもない。二年強、中学時代のレースを含めればさらに長く見てきた男の背中。
「……榊は、大学でも陸上続けんのか?」
向井は頬杖をつきながら、榊と同じく元チームメイトの後ろ姿を望んでいる。
号砲が鳴り出せば、獣のようなスピードで先を行くくせに、その日のそいつはやたら歩みがのろのろしており、なかなか視界の端から消えてくれない。が、あえて視線を外すのも負けたような気がして悔しかった。あの日の特待生からはすぐに目を逸らせたのに。今さらこんな些細な箇所で意地を張ったところで、何にもないのに。けれど、それでも──。
「──……こんなところで終われねえから」
榊は自分自身へ宣言するように言い切った。
「……そっか」
正門前に植えられた桜の甘い匂いが、土埃に混ざって立ちのぼる。入学の時にも、同じ香りを嗅いだような気がする。その時は、こんな風に幕を閉じる高校生活の結末を、想像だにしていなかった。
向井は、榊の回答を聞いて微笑むと、ゆっくりとまぶたを閉じる。
「──……俺は、ここまでだ。実家で農家継ぐことにした」
「……農家?」
「父ちゃんも若くねえから。……高校までこうやって好きなことやらせてもらって。そろそろ恩返ししねえとバチがあたる」
「……そうか」
すぐ側にあるはずの向井の顔を、榊は見られなかった。
「──ああ、そうだ! お前宛にもリンゴ送ってやるからな。美味いぞー、うちのは。大きい大会で賞とって、テレビのインタビュー受けてさ。そしたら……うちの商品、たくさん宣伝してくれよ」
──だから走れよ、これからも。
向井は不器用に場を茶化し、わざとらしく明るい声色を装った。それでも、途中に鼻をすする音、わずかに喉に引っかかった嗚咽を、榊は聞き逃せない。
本当は、誰よりも心残りがあるのだろう。
その時──確かに榊は、遠さがる走の背中へ誓った。
もしもあの男が、のこのこと大学陸上界に戻ってこようものなら。そんな舐めた振る舞い、許してたまるものかと。
ましてや駅伝に出場したいだなんて言い出したら、一体どうしてやろうか。
人の想いがわからない宇宙人に、つなげるものなんて何もない。他人をバカにするのもいい加減にしろ。これから一生、少なくとも榊の手が届く範囲では絶対に居場所なんてつくらせない。妬み、嫉み、いやがらせ。誰に何を思われたっていい。あいつがチームメイトの感情を無視したのとまったく同じことじゃないか。
少なくとも走なんかより、榊はずっと箱根を走りたいという自負があった。
走にはあるのだろうか、自身以上の理由が──ないよな、ねえだろ。
榊の頬を、静かに熱い雫が伝う。隣の向井が「なんでお前が泣くんだよ」と震える声で笑った。