*
早朝──まだ眠い雰囲気の中、湖畔周りをジョギングしながら清瀬は皆へと言い聞かせる。
「空気が綺麗だ──呼吸をするのも嬉しくなる。そうは思わないか? 風を感じろ。リズムをキープ。これも立派なトレーニングだ」
きつい本練習をこなしていくうちに、設定ペースも緩く比較的低地で行われるジョギングは、住人たちの息抜きになっていた。
走から見ても彼らがめきめきと力を伸ばしていることは明白で、素直に喜ばしい。いくつか設定したコースの中、それぞれの特性によって得意不得意が現れつつもある。自身の癖がある程度把握しきれている走にとって、その点も興味深かった。
たとえば山道であれば、王子なんかは
「走るっていうより這い上ってるって感じじゃない? 木の根っこがあちこちにあるし、捻挫したらどうするんですか」
と、ぼやきながら、腰を引かせて登っていくが、その先にいる神童はひょいひょいと体を運んでしまう。上りだけであれば、走にも迫るペースだ。
軽快に走る先輩を虚に眺める王子へ、清瀬は「これくらいで捻挫するやつは、運動神経が悪くて、足首が固いんだ」と、なかなかに辛辣な言葉をかけた。
が、王子も王子で、だからといってメニューを中断するようなことはない。練習メニューをこなせた日にだけ、彼は持ち込んだ漫画を読むことが許される。楽しい夜のひとときを確保すべく必死に戦っているのだった。合宿二日目、高地トレーニングのラスト一周、ハイキングをする老夫婦に追い越された男と同一人物とは思えない。
また、ムサの平地における伸びやかな走りは、トラックの五千メートルで彼と近いタイムを持つ双子を驚かせた。清瀬が当初「ムサに秘められたポテンシャル」と無理やり理由をつけたが、今さらそれが証明された格好である。
ニコチャンとキングは設定ペースを着実に守り、長い距離を走り続ける力に優れている。
ユキは細かなペース配分やギアの調整が得意で、各コースの癖を覚えてからは随分生き生きと練習をこなしている。これは余談だが、地頭のよさもあり科学的なアプローチを含めてメニューに対する理解度が群を抜いてもいる。経験がものを言う部分を除けば、すでに清瀬以外は敵わないだろう。
双子はオールマイティにどんな地形でもある程度はこなせる器用なタイプであったし──走は言わずもがな、天性のスピードランナーである。
そして清瀬も、チームで堂々二番目のタイムを持つ実力者だった。彼には、どんな天候でも、地形でも、脚を確実に前へ運ぶ強さが備わっている。
改めて走は、走ることへの適性という意味で、この十人を引っ張り出した清瀬の思惑と判断へ胸を馳せた。
*
一週間に一度の頻度で設けているポイント練習──三度目は、高地にてクロスカントリーを行うことになっていた。
「今日はコースを八周しようと思っています──約二十五キロ。走と俺は最初の一周は十二分で入って、徐々にペースを上げ、最後は十分を切るまで持っていきたいところです。他の者にもレベルに合わせたペースを指示しますが、一番遅い王子でも、最初の一周を十六分で入ってもらうつもりです」
清瀬から監督へうやうやしくメニューの確認が入る。ハイキングコースを早々に散歩すべくうずうずしている大家は、コメントを放棄し、すべてを「任せる!」と一蹴した。住人たちは、本当にこの人は頼りになるのか、と改めて不安を募らせる。
「……ハイジさん、いいんですか」
「……いいさ。監督がメニューをこなすわけじゃないからな──さて、時間もない。さっそく始めるぞ。ペースが落ちても極力時計を見すぎないこと。なるべく体で感覚を覚えるようにして」
「──暑いのに複雑な指示出すな!」
監督への確認をさっぱりなかったことにし、気を取り直して掲示された指示。住人たちは思い思いに吠えかかった。
いずれにせよ清瀬の計画した高負荷メニューがとんでもなくきついことは、これまでの経験から十分にわかっている。それぞれがその時点でなんとか走り切れるであろう最上位を的確に狙ってくるのだ。その裁量たるや、実はこの男サトリなのではないかと恐ろしくなるほど。
たとえば、初回のポイント練習は、ロードで五千メートルを八本という総距離ほぼフルマラソンのメニューであった。父の運転する軽トラックの荷台で、柄杓に水をくんだ葉菜子が定期的に強制水分補給を敢行してくれなければ、誰かしら土の下で永い眠りについていたかもしれない。
「……骨は拾ってくださいね」ハイキングコースのスタートラインで、王子が青ざめながら告げる。視線を向けられた葉菜子は、「健闘を祈ります!」とガッツポーズを見せた。
──が。いざ練習がはじまると、メニューの厳しさ以上に、サポート陣から差し入れられたプロテイン入りレモン水が衝撃をもたらした。
最初の被害者は、もっとも早く補給地点を通過した走と清瀬である。葉菜子から手渡されたボトルに口をつけた走は、忖度なしに胃液の味がすると思った。喉に張りつくそれをなんとか飲み下しながら、盛大に顔をしかめる。
「……ものすごくまずくないですか、これ」
「まずいな……。でも飲んでおけ。この気温だと脱水症状を起こすかもしれない」サポート陣のなすことについては基本的に全面肯定の姿勢を崩さない清瀬ですら、とっさに口元を手で覆う。
数十秒後、背後から「なんでー⁈」というなまえの悲鳴が聞こえた。どうやら葉菜子お手製のドリンクを今さら試飲したらしい。気がついてくれたのは助かるが、次の補給までに中身全てを入れ替えるのは厳しいだろう。
走と清瀬は、数分後にその地点を通過する他の住人たちが、同様のリアクションをとる様を想像する。しかし、ペースを維持して足を進める彼らにはどうしようもない。ひたすらにその死が安らかであることを祈るだけだった。
願いは虚しく、体力的なきつさ、味覚の渋滞というダブルパンチで、住人たちはもれなく瀕死となった。気を失おうにも周回のたびに衝撃的なまずさで強制的に目覚めさせられる。ある意味ではよかったかもしれない。練習明け、死人の行列のような面々を見渡し、その論を唱えた神童が「ね? 結果オーライですよ」と誤魔化す。しかし、彼の顔にも明らかに覇気がない。完全には取り繕えないほどダメージを食らっている。
そのまま屍たちは、葉菜子となまえが偶然見つけた川の支流へぞろぞろ移動した。案内された場所は全体的に岩で囲まれており、流れが緩やか。深さもちょうど膝下までのため、アイシングに最適である。
地獄から一転、面々は現れた極楽に安堵のため息をつく。
「──……整うって、本来こういうことかもしれねえなあ」キングが岩に腰掛け、脛を冷やしながら伸びをする。
若い双子は早々に体力を回復させたようで、互いに水を掛け合ってはしゃいでいる。しぶきの煽りを受けた王子が「おやめなさい」とか細く声をかけていた。もちろん希望は届かない。
神童、ムサ、ユキは川辺の安全地帯へ腰掛け、プラプラ脚を浸している。その横では葉菜子が全員分のタオルを整理しながら、清瀬と話している。姿の見えないなまえ、大家の二人はおおかた車に戻って事務ごとでも済ませているのだろう。
ニコチャンは、隣でアイシングを行う走へ「なあ」と呼びかける。特に脈絡もないが、ふと思い出した出来事があった。
四日前、ダウンのため皆で湖畔沿いまで降りた際、東体大を取材に来たという『月間陸上マガジン』の記者と遭遇したのだ。東体大は昨年度、ギリギリで箱根駅伝本戦のシード権を逃していたため、予選会からの逆襲を記録する意図があったらしい。
そんな記者は、駆け出す前の走たちを一目見るなり「きみたち、長距離の選手だろう。体型でわかるよ」と言い当てた。広報担当としてメールを捌いているなまえが不在であったため、暫定的に神童が窓口へ立つ。
「寛政大、知ってるよ。最近あちこちの記録会で走っているよね」
佐貫と名乗った記者は、人好きのする優しい笑顔で走と清瀬を見やった。先日出会った週間真実の望月とは異なり、まず身元を掲示する時点で好感が持てる。
「蔵原君──それに、出雲一高キャプテンの清瀬君──……陸上を続けていたんだね」
記者は心底嬉しそうに続ける。名指しされた清瀬は腹の内が読めない笑みを浮かべ、「はい」と頷いた。
佐貫の話によると、大学以前に別件の取材で清瀬と会話をしたことがあるらしい。普段聞かない彼の高校以前の話に、全員が顔を見合わせる。
その間にも清瀬へ質問を投げかけた記者は、十人で箱根駅伝を目指すという発言に「へえ!」と目を輝かせ、具体の練習内容を深掘りした。また、監督の名前に「ほう」とうなり、箱根で活躍しないとアパートの家賃が上がるという話に「それは本気にならざるを得ないね」と笑った。さすがの聞き上手である。一応の顔見知りを無碍に追い返すつもりは清瀬としてもないようで、いつにも増して誠実な対応を見せていた。
しばらくそれらのやりとりが続き、メモをとっていた佐貫の手帳が次のページに差し掛かったあたり──そこで彼は、「……そうだ、寛政大と言ったね。ちょうど聞きたいことがあったんだよ」と、人差し指を立てた。
「七月の記録会にいた女性のことなんだけれど──違っていたらすまないが、もしかして出雲三中のみょうじさんじゃないかな。彼女も陸上部員かい?」
聞き慣れない名前に、住人たちは首を捻りながら「人違いじゃない?」、「誰?」ひそひそやり合う。
事情に通じているらしい清瀬が、ほんの少し困った様相で「彼女は選手ではないんです」と戻す。相対する佐貫の返答を待たず、「みょうじさんって、有村さんのことですよね?」走が重ねた。
「藤岡さんもあの人のこと知っていました。……有名な選手だったんですか?」
「そうか……藤岡君も。そういえば、あの時一緒に走っていたのは彼だったかもしれないな」
佐貫はしばし悩んだ末、「シークレットの場ではなかったけれど、今は本人も不在だしね。ここからは僕の独り言だと思ってほしい」と前置き、訥々と言葉を紡いだ。
「……十年ほど前に、中国地方の選抜練習会を見学してね。そこに当時中学二年のみょうじさん──今は有村さんと言うのかな──と、中学一年の藤岡君がいた。僕は別の選手の取材目的で行っていたから個別で話すことはなかったんだけど。ただ、練習の締めにレクリエーションを兼ねて、男女混合のスウェーデンリレーをやることになって──そこで彼女は、四〇〇メートルを五十九秒台で走った。手動ではあったけれど、記者の端くれとして、あの走りを見れば計測ミスじゃないことくらいすぐにわかったよ。その時の印象が強く残っている」
唯一事前にくだんの件を知っていたらしい清瀬が、唇をほんの少しだけ引き結んだ。
「……それって速いの?」ジョータが眉を顰める。
「あー……、正直短い距離はよくわかんねえよな。女子だし」
「六十秒……五千メートルを十二分半のペース?」
キングが指を折り、ざっくりとした計算結果を導く。
佐貫は、初心者丸出しの面々にもいやな顔一つ見せず
「四〇〇メートルが中学女子の公式種目だったと仮定すれば……こんなもんかな」
と、両の手のひらをを広げた。
「……十?」
「あ、わかった。市内で十番目とか?」
「ええ、でも女子でそのタイムだろ。もうちょいいけるんじゃね? 県で十番!」
双子がそれぞれ予想を口にする。佐貫は元気よく挙手した二人へ、にこやかに微笑んだ。
「いやいや、さらにだよ──全国でも十本の指っていうのが妥当かな。なにせ関東インカレの標準タイムでさえ五十七秒半ば。時期的にも、あれが本練習後のTTであったことを踏まえても、これより評価されたっておかしくない。四〇〇メートルが公式種目として解禁される高校から、一気に化けるんじゃないかと思っていたんだが──結局インターハイにも国体にも出てこなかった。日の目を見なかった早咲きか、陸上界が逃した大魚か……どちらにせよもったいない」
そこまで言い終えた記者は目を細め、至極残念そうに肩を落とした。
選手として活躍するなまえの姿を想像したことのなかった皆々はぽかんと口を開け、異性であれどタイムを聞いた時点である程度レベルを察した走、ニコチャンはそれ以上に驚きを隠せなかった。
ニコチャンはゆったりと下流に流れていく水を眺めながら、「……なんで辞めちまったんだろうなあ」と呟く。
走は、木漏れ日を崩す波紋をじいっと眺め、「……俺にはよく」と答えた。
スポーツは高校までと、区切りをつける人間は多い。なまえが理系の大学生であることからも、勉学との兼ね合いで競技を諦めた可能性は大いにある。が、話を聞く限り彼女が陸上をやめたのは中学卒業のタイミングである。走には、彼女が陸上を辞めるに至った理由がいまいち想像できなかった。現役時代のレベルが高いならなおさら。高校や大学にだって推薦という道が掲示されていたかもしれないのに。
さらに、彼女が住人たちへ、住人に限らずともランナーへ送る眼差しはいつだって濁りなく純粋で、とてもうつくしかった。それは走ることに対する、残火にも近い情熱ではないだろうか。少なくとも走にはそう思えてならないのだ。
「まあ、お前はそうだよなあ」先輩が半ば呆れ交じりに笑う。
ニコチャンからすれば、才能、怪我、年齢、環境、その他諸々。その大きさや影響は当人次第と言え、要因はいくらでも考えつく。ひとつめは自分自身であるし、おそらくふたつめは清瀬だった。
「詮索するもんでもねえけど……俺が思うに──」
──と。
ニコチャンを遮り、背後でいきなり大きな悲鳴が上がった。
反射的に振り向いたニコチャンと走は、びしょ濡れで倒れ込んでいる王子、清瀬、なまえの姿を目視し、呆気に取られる。
「……何やってんだ?」
「ごごごごめんなさーい!」
「怪我してない⁈」
どうやら、水遊びの最中に後退りしたジョージが。偶然後ろにいた王子と衝突したことが発端らしい。
見事にバランスを崩した王子は、追加のタオルを配りにやって来たなまえをドミノ倒しの要領で突き飛ばし、よろけたなまえが付近の清瀬を巻き込んで倒れたのだ。
「もし漫画を持っていたら一大事でしたよ……」
水浸しの王子が、尻餅をついたままくしゃみする。
「ああ? お前風呂でも読むタイプ?」
「読みませんよ……。ページがふやけるでしょう」
「じゃあなんでその例えにしたんだよ」
王子を支え起こしたキングは、流暢に回る彼の口から大きな怪我はないだろうと判断した。安堵しながらポリポリと頭をかく。
同じく倒れた際のしぶきで全身を濡らしたなまえが、ようやくゆっくりと顔を上げた。彼女に押し倒され背中から川に突っ込んだ清瀬は、依然くらくらと目を回している。突如景色が半回転したため、脳が混乱しているのだろう。
なまえは真下の清瀬と至近距離で目を合わせるなり、尻尾を踏まれた猫のような声をあげて飛び退いた。
「──ごめん! 怪我は⁈ どこか痛めてない⁈」
なまえが片手で髪をかきあげ、もう片方の腕を清瀬へ差し伸べる。
パステルグリーンのTシャツが彼女の肌に張り付き、薄らと透けていた。その下、インナーに忍ばせているタンクトップが覗いている。
風に揺れた木漏れ日が形を変え、二人の姿をスポットライトのように光が捉える。清瀬の焦茶色の瞳の中には、彼女の姿が映っている。彼が数秒ほど惚けたのが走にもわかった。
「──清瀬君?」
「あ、ああ──いえ……あ、いや、はい。無事です」
「本当に? 足捻ったりとか……もしかして頭打ったりした?」
目の前の女性を見つめていた清瀬は、一呼吸おいて差し出された手のひらへ気がついた。それを握りしめ、水の中から立ち上がる。
その後、三人に目立った怪我がないことを確認した神童によって、双子は厳重注意を受けた。連鎖反応が巻き起こした悲劇とはいえ、二人がきっかけに違いない。
「何もなくてよかったわ」他の住人たちは呑気なもので、王子に至っては被害者にも関わらず「公衆浴場みたいですね」と微妙にズレた発言をかます。
「──ったく。お前ら、びっくりさせんなよー」ニコチャンが、しゅんとしてしまった双子へ呼びかけた。騒がしい要員には、この後も景気付けにまた明るさを振りまいてもらわねばならない。そんな思惑からなる彼の気遣いであろう。
「──あの、さっき……何か言いかけてましたよね」
展開されたドタバタ劇を一通り見届けていた走は、改めてニコチャンを見やった。示すのは、水しぶきがあがる寸前で事切れた会話のことである。
「……ああ、すまん。なんか杞憂だったみてえだわ」
「そうですか、じゃあ」
ニコチャンの苦笑いを受け、走はあっさりと引き下がった。
*
およそ一ヶ月にわたる夏合宿──最後の夜。
学業都合で一度帰宅したなまえから、打ち上げ用の食材とともに大量の花火が差し入れられた。昨年の商店街イベントで余った品である。使用期限も近いことから、せっかくなら竹青荘の住人たちて消費し切ってくれ、との要望があったのだという。
「すげえ! 打ち上げ花火もある!」
「ハナちゃんどれやりたい?」
「ええ! 迷うなあ……全部!」
ダンボールいっぱい詰められたそれに、双子と葉菜子は大はしゃぎである。
盛り上がった気持ちが功を奏し、住人たちは最後のポイント練習を花火とバーベキューに意識を向けることで乗り切った。楽しむ準備は万端だ。
八百勝の主人と左官屋も午後に駆けつけ、住人たちを労うべく日の高いうちから調理を進めていた。おかげで気力が切れれば立っていられないほどしごかれた面々は、すぐさま浴槽に放り込まれ、風呂から出た頃には心踊る料理がお待ちかね、というVIP待遇である。
嬉しさに飛び上がった住人たちは、山盛りにされた食材を次々腹へと収めた。ちなみに野菜を焼くのは八百勝の二人、肉の調理は左官屋となまえが担当している。
上下関係の抜け切らない走が手持ち無沙汰にそわそわしていると、皿の上にどんどん品を乗せられてしまう。おせっかいなサポート陣が四人も周回しているのだから当然である。目を離すとこぼれてしまう勢いのそれ。食品ロスを回避するためには食べるに集中するしかなく──男所帯かつ最下級生であっても、食いっぱぐれることなく夕食を満喫することができた。
運ばれた食材が無駄にならず皆の腹へ収まったのは、調理センスの乏しい葉菜子が、父のブロックで裏方へ回ったことも大きいだろう。逆になまえの焼いた肉が、指摘したり、弄ったりするには中途半端な程度で焦げており、「これくらいの下手さが一番厄介なんですよ」と王子に直接小言を言われていた。
必死に咀嚼を進めつつ、走はなまえの束ねられた後ろ髪が跳ねる様子に、選手としての姿を重ねた。膝下の長いすらりとした体躯にはランニングウェアがよく映えそうだった。
そういえば、あの時──清瀬が過労で倒れた時。往診先の病院の前でなまえたちと別れた後のこと。
王子と走が朝に交わした問答を聞いた清瀬は、声を出して笑ったものだった。
「──完全に言い負けたな、それは」
「……笑い事じゃないです」
「屁理屈じゃ勝てないさ、王子には。屁理屈でもないが……──僕の速度で話せ、か」
清瀬は感心するように視線を遠くへ向ける。
「あのままでいいんですか? 王子さん。今日はじめてちゃんと見ましたけど。フォームも何もあったもんじゃないですよ。ちゃんと矯正してあげないと」
「はじめてちゃんと見たんだな」
「それは……──」厳しいところを突かれ、走は言葉を詰まらせる。
当初、箱根駅伝を目指すと宣言してからあれだけ住人たちに付きまとったわりに、いざ練習がはじまれば、清瀬は徹底的に各自のペースを尊重した。どんなに鈍くても、自分の力でゴールまで走り抜く様子を、隣で見守っている。
だからこそ、走の至らなさを指摘されたようで痛かった。
「ああ──責めちゃいないさ。お前にはお前の問題があったからな。でも、向こうはきっと見てたと思うぞ。いつこっちを向くんだろうって。前ばっかり見て。王子だけじゃない。皆がお前の後ろを走っているんだ。走が振り向かない限り、その位置から皆が見えることはない──誰が、どこを、どんなふうに走っているのか」
あの時に清瀬の告げたことが、今の走ならもっとちゃんとわかるような気がする。
後ろにいる顔も、沿道で声を張り上げる顔も。見ようとしなければ、気がつこうとしなければ、ずっと知らずにいたであろう想いを。
清瀬の言葉を噛み砕くとすれば、ただ見るだけでもダメなのだ。見て──その上で目を凝らさなければ。清瀬の言う「見る」はそういう意味を内包している。
食事がおおよそ片付いてからは、複数のバケツを足元に随所で手持ち花火が行われた。
派手な花火を両手に走り回る双子、神童、ムサの姿を葉菜子が写真に収め、歓声をあげる。花火を光源に漫画を読み始めた王子を、目を悪くするぞと清瀬が嗜める。
キング、ユキ、キングの三人は、少し離れたエリアで打ち上げ花火の準備を進めていた。走が手伝いを申し出たが、こういうのは先輩に花を持たせるものだと押し返されてしまう。
駐車スペースへ運んだバーベキューの用具類は、八百勝主人と左官屋がアルコールを嗜みながら片付けるらしい。最後くらい若者たちで楽しめと、二人からも追いやられる。
すっかり手持ち無沙汰になった走は周囲を見渡し、ペンション一階のバルコニーからミラーレスカメラを構えるなまえの元へ足を運んだ。
お土産に、冷えた缶ビールを手渡せば「あらまあ」と、芝居めきながら驚く彼女が手を伸ばす。
「気が利くねえ」
「いつもの有村さんほどじゃ……」走は頰をかく。
本人はあえて詳細を口にしようとはしないが、彼女が多忙な中手伝いに来てくれていることは、間接的に漏れ聞こえる情報で察していた。東京へ戻る度、学科の顕微鏡リース、喜久井祭の展示相談、修士論文の実験、家庭教師のバイトなど、積もったタスクを片付けているらしい。
あの人は頼まれごとを断るのが下手だから。見かねた清瀬がこぼした。その時に、お前が言うなと差し込んだのはユキだったか、それともキングだったか──。
「蔵原君、花火は楽しめた? すごい量だったよね」
「あ、はい。さっきまで向こうで」
緩やかな斜面の少し下では眩しい光が点滅している。
なまえは「よかった」と穏やかに微笑んで、プルタブに指をかけた。音を立てながら吹き出す泡を、唇を押し当てて迎える。化粧っ気の薄い顔は、熱源に近いところで作業していたため火照っていた。きめ細かく柔らかそうな頬、それが薄紅に色付いている。
走は、彼女が自分を追ってきた時のことを思い返した。はじめての東体大記録会を終えた後のこと──こうして二人きりになるのも、考えてみればあの時以来。もう随分と昔のことのような気がしているが、まだ四ヶ月程度しか立っていない。
走の心持ちがこの期間でそれだけ大きく変わったのだろう。
「あの──」
タイミングは今しかない。走は、胸の奥でもやもやと揺蕩っている疑問を投げかけることにした。
「──あの……なんで辞めたんですか、陸上」
もっと自然な流れで聞き出せればよかったのだが。惜しくも、適切な回り道が思いつかなかった走は、気まずい面持ちでなまえの横顔に目をやった。
「……これまたすごい火の玉ストレート」彼女は優しげな目元に一瞬驚きを映して、ほんの少し笑いながらバルコニーの手すりに缶を置く。
「だって、その……記録も」
「清瀬君から?」
「……有村さんが東京にいるとき、偶然会った記者の人からです。昔練習会で有村さんを見たって。四〇〇メートルを走っていたって」バツの悪い表情を浮かべたまま走は答えた。
なまえは「なるほど。それは偶然……」と顎に手を添え、「ああ、別に何も隠してはないんだよ。ただ、今目の前の競技へ向き合ってる皆に、わざわざする話でもないかなって。そう思ってただけ」と続ける。
「それに、他人の昔話なんて──」
「──つまらなくないです」走は被せるように告げた。
「有村さんは他人じゃないですから……──あ、いや、つまり、アオタケの皆にとって」
焦り混じりのフォローに、再度口元を緩ませた彼女は、「可愛いこと言ってくれるよね、蔵原君は」と、走の頬に缶ビールの側面を押し当てた。冷たさに仰天した走は盛大に飛び退き、改めて先輩の笑いを誘う。
「か、からかわないでくださいよ」
「ごめんごめん」
言いながら、なまえはあまり悪気がないように肩を震わせている。
そのまましばし走の挙動を弄った後。花火が照らし出す湖を背景に、彼女は改めて青年に向き直った。一瞬の躊躇い──が、すぐに鈴を思わせるわずかに金属質な声が言葉を紡ぎはじめる。
「この間、蔵原君の話を聞かせてくれたよね。あの時、やーっときみのことがわかって、すごく嬉しかった。……でも本当は、ちょっと羨ましかった。飾らないただの自分を、そのまま受け止めて、飲み込んで、好きだって、そう言ってくれる誰かがいること。……家族同士だって、必ずしもそんな関係が築けるとは限らないのに──ね、蔵原君って一人っ子?」
「え、あ、はい。兄弟はいません」
「そっか。なんか親近感があるから、お兄ちゃんかお姉ちゃんがいるのかもって思ったんだけど、外したなあ」
「有村さんにはいるんですか」
「うん、いるよ。二つ上に」
彼女の髪の毛が風に揺れる。癖のある毛先から、ほんのり甘い香りがする。
「……そもそも、わたしが陸上をはじめたのは姉の影響だから」
走は無言で相槌を打った。純粋に、ただ聞きたいと思った。彼女の話を。一言たりとも漏らさずに。そんな意思が伝わったのか、なまえはわずかに微笑んで、これまで語ることのなかった自身の過去を紡ぎ出した。
──幼いころから二つ年上の姉が大好きだった、と。
彼女の姉は、意志が強く、情に厚く、困っている人を放っておけない。生まれつきそんな性質を持つ女性。自身を慕うなまえを可愛がっていた。仲睦まじく、定期的に喧嘩もしたそうだが、翌日にはこのまま話せなくなるのではという不安が勝り、喧嘩の要因を作った方が半べそで謝りに行ったらしい。
そんな姉は中学に進学して陸上部へ入り、一〇〇・二〇〇メートルを専攻。市大会で何度も入賞する程度の力を持っていたという。特に中高は短距離の競技人口が多い。その話だけで、姉がそこそこの選手だったとうかがえる。
セパレートを駆け抜け、誰よりも早くゴールラインを通過するユニフォーム姿。小学生だったなまえは、満天を瞳の中で輝かせた。
中でも、明確に決め手となったのは、姉が出走した四継のレースであったという。コーナー走を得意としていた姉がアンカーにバトンを渡した瞬間、第四コーナーで自分が待つことを夢見た。テイク・オーバー・ゾーンの中で伸ばす腕が自分のものであれば、大好きな姉から受け取ったバトンを、自らゴールに運べたら──そんな憧れを抱いたのだ。なまえは、姉と一緒にリレーにエントリーされることを夢見て、同じ中学の陸上部へ入部した。
しかし、学年が二つも離れていれば、当然、ともに出走できる機会自体が限られる。
加えて、なまえの適性は中距離にあり、幸か不幸か、その適性は県の強化指定をもらうほど高かった。姉妹それぞれが公式戦の枠を確保している以上、部内でわがままを言うわけにもいかない。最後の公式戦に、個人種目でエントリーが許されない三年生だっているのだから。なまえは、ほとんど同じタイムを持っていた先輩へ、姉の引退試合のリレー選抜枠を譲ることになった。
そんな経緯を経た姉妹二人は、バトンをつなぐ約束を高校へ持ち越すと決めた。高校に上がれば、女子の公式種目として四〇〇メートルが解禁される。四継に限らずとも、マイル──四×四〇〇メートルリレーを選ぶことができる。それは、互いの得意距離である二〇〇と八〇〇の中間でもあった。
マイルは四継ほどバトンの精度がシビアでなく、個々の走力を重視する。なまえが一年生であっても、インターハイ予選のメンバーに抜擢される可能性は高い。
なによりそれを提案された時、なまえは姉の意思表示そのものが嬉しかった。
「いい……お姉さんだったんですね」
走が人並みな感想をこぼせば、なまえから「今だってすごくいいお姉ちゃんだよ」軽く小突かれる。
「でも……今の話だと、有村さんは高校でも陸上を続けるつもりだったってことですよね」
もっともな疑問。青年の目の前にいる女性は、曖昧に微笑んで、返事の代わりに話を再開させた。
「──いつか、わたしが島根の出身だって言ったよね。出雲市にある神社。大社ほど有名じゃないけど、千年以上続いていて、神在祭の時は全国から集まった八百万の神様が最後のお立ち寄りになる。神議りの締めくくり、直会、神等去出まで。……代々受け継いできたものがある分、ずっとうちを見ていてくれる氏子さんもありがたいことにたくさんいらして、中には旧くからのことわりについてすごく厳格な方も」
淡々とした語り口の裏、柵の上で握りしめられた彼女の指が震えていることに気がつき、走は無言のまま頷く。
「……昔から家業を手伝うたびにね、しょっちゅうご意見をいただいてた。お姉ちゃんと一緒に、同じ日に、同じことをしても、いつもわたしだけ。髪がダメだって。生まれつき茶色いの。お姉ちゃんの髪の毛、まっすぐで、黒檀みたいに綺麗なの。家族が言うのもあれだけど、顔も人形みたいに綺麗で、キリッとしてて、見惚れちゃうくらい。そんな完璧なお姉ちゃんと比べて、わたしの天然パーマとか、顔立ちとか、全然神社の娘らしくないって。ああ、もちろん寄ってたかって全員から意見がきたわけじゃないよ──ほんの一部から。でも、十分だったな。その件で、わたしが中学三年の時ついに祖母が激怒して……。相手が市議会の議員だったこともあって、地域で問題になっちゃって」
高校入学のタイミングで、なまえが母の実家でもある東京へ越してきたのは、これ以上のトラブル拡大を避けるためであった。両親が別れていないにも関わらず、公的な場合を除いてなまえが母の旧姓である「有村」を用いるのもそういった経緯がある。
「実家どころか地元を巻き込んで、まあまあな騒ぎを起こしたくせに、姉妹でリレーが走りたいから残るなんて、さすがに言えないよ。……お姉ちゃん、ずっと教師になるのが夢だったの。家族の中で、わたしだけが知ってた。でもね、わたしの東京行きが決まった時から、やっぱり実家を継ぐって言いはじめた。……全部、どうしようもない妹がきっかけ」
なまえは缶の汗を指で拭い、長いまつ毛を伏せる。
「──そんな環境で、自分だけやりたいことを続けるわたしを、きっとわたしは許せない。独りよがりなことも、見栄っ張りなことも、今さら取り返しがつかないことも、そんなのわかってる。けど……それでも、好きだからこそ、差し出すことには意味があると思うの。誰も見ていなくたって、神様が見てる。たとえ神様が見ていなくたって、わたしがわたしを見てる──だから、もう八〇〇メートルも、四〇〇メートルも走らない」
なまえは、やたら明るい声色で結んでみせた。これまで何度も繰り返してきた葛藤。そして、そのたびに自分自身へ言い聞かせてきた文句なのだろう。その背景を知ったからこそ、こんなにも潔く、こんなにも寂しく思えてしまう。
彼女は、「望むこと」と「べき姿」を天秤にかけた時、最終的に後者を取れる人間なのだ。選択できる強さと誇り高さを持っている。そうすることに大それた理由なんて必要ない。ただ、そうせずには自分が自分でいられない。走自身がチームや表舞台を離れてなお、習性であるランニングをやめられなかったように。
何か言いたかった。しかし、肝心の言葉が走の中に生まれてこなかった。一瞬訪れた沈黙の中、ふと彗星のように彼の中で記憶が流れる。それを過ぎるまま唇から落とす。
「──……みょうじ、薫子さん」
小さな呟き。その声になまえは驚きの表情で青年へと視線を移す。
「……ど、どうして、蔵原君がお姉ちゃんの名前を?」
「テレビで、この間。その時から、あの、もしかしたらって……藤岡さんも、有村さんのことをみょうじさんって呼んでいたので」走は頭の中の引き出しを覗き込みながら、おずおずと補足する。この場で迷わず名前が出てきたのは奇跡である。
「……そうなんだ」
なまえは目を丸くしながらも「……冗談でも蔵原君が他人の話を聞いてないって言ったこと、取り消さなきゃ」と呟き、バルコニーの縁に腕をかけた。彼女の発する音が、先刻よりも少しだけ柔さを持つ。それは今語った時代よりもさらなる過去を思い返したことによる、童心の影響かもしれない。
幼い頃目にした真っ白な雪野原が、走の内側に座するスクリーンへも投影される。
普段より早起きして近所の野原を覗くと、夜の間に降り積もった雪があたりを一変させていた。見慣れた場所が全く異なる空間になったようで、魔法を思わせるひとときを走は一人堪能した。足跡のない白い地面を踏み締め、駆け回る。通った道でうつくしい模様ができている。それだけで嬉しい。ひたすら、心が指し示すままに走った。走が、純粋に走ることを楽しいと思った──最初の記憶。
「……有村さんは、走るの好きですか」
「いきなり何の質問?」
なまえは笑って、
「──好きだよ」
一等なめらかに微笑んだ。
清瀬がドテラを靡かせながら、自転車のペダルを踏みながら、いつか走に尋ねたこと。なまえは答えてみせた。一切の迷いなく、穏やかさの中で力強く。走は、目の前に佇む女性が「躊躇いなしに、走ることを好きだと言い切れる自身」をも、プライドとして持ち続けているのだと気がついた。
──ああ、そうか。そうだったのか。
この人は、姉に憧れて走り出し、それを続けるうちに、走ることそのものを愛してしまった。時間の長さなんて関係ない。要は深さだろう。そして、これからも一点の曇りなく、走ることを愛していたかった。そういう自分で居続けたかった。
だから、綺麗な姿でいるうちにトラックから降りることを選んだのだ。言葉を借りれば、差し出した。彼女が見つけた「ありたい自分」と「望むこと」の境、わずかに重なった祈り。すとん、彼の中に落ちていく。
落ちて、落ちて──。
「──……有村さんは『綺麗』です」
彼女の過去からバトンを受け取って、青年は絞り出すように囁いた。
「その、見た目の話じゃなくて……いや、そっちもすごく綺麗ですけど。えっと、そういう意味じゃ……だから、あの、見栄っ張りでも、格好付けでも、なんでもいいと思うんです。だって……そうしようとする有村さんの意志そのものが、もう『綺麗』で……それは、今までも、多分これからも──きっと変わりません。絶対に変わらない。北極星みたいに。だから、いいんです……無理して、神様になろうとしなくても──そのままで、すごく『綺麗』です」
精一杯の言葉だった。声に出してから、もっと上手い伝え方があったのではないかと、しどろもどろにしか話せない自身へ恨めしさが募る。
これ以上はどうしたものか。走は不安を宿しながらなまえを見やった。
彼女はわずかに唇を開けて、彼に視線を向けていた。甘やかな驚き。放たれた言葉をひとつも取りこぼさず宝箱へしまうように、長いまつ毛に縁取られた瞳をダイヤモンドに見立てて濡らしている。それがあふれる直前で、思いがけない自身の機微に驚いたのか、はっとして目元を擦る。そうして、改めて走に視線を向け直す。
「……まいったなあ、きみってやつはもう」
「お、俺……あの、何か……まずかった、でしょうか」
「ううん、違う。これは違うの。ただ、びっくりしちゃって。ごめん、急に。あー、なんか恥ずかしいな……。もういい大人だっていうのに……すごいよ、本当に。蔵原君はすごい。すごすぎる──……あのね、清瀬君がきみを見つけたとき、一言目に『流星』って言ったの。流星を見つけた、って。自分がずっと探していたのはこいつなんだ、って。すれ違った瞬間に直感したって。……二人の出会いを切り出したら、運命っていうか、まるでハウルとカルシファーみたい」
心臓を星の子に差し出し、その代償として魔法の力を得た少年が、こころを取り戻すまでの物語。彼女が告げたのは、物語のきっかけ──今にも命が尽きそうな星の子を、少年が救う場面だろう。
こころ──痛んで、騒いで、弾んで、乱れて、鬼になって。移って、こもって、沈んで、砕かれて。状態を表す言葉は山ほどあるもの。誰でも知っているもの。にも関わらず、色、大きさ、その形。共通の事実が、この世界に存在しないもの──不思議な概念。
くしゃりとなまえが笑った。髪が揺れる。手元のアルミ缶が反射して一部が銀色に光る。星屑で染められたように。
「──……あのね、こころって重いらしいの。ひとつひとつにちゃんと重力がある。清瀬君がきみを流星でたとえたのは、そんな力を無意識に感じたからじゃないのかな」
清瀬は走の持つ重力に引かれ、その純粋なうつくしさに惹かれたのだ。
彼女は、言葉を紡ぎながら祈るようにそっと両手を合わせ、改めて青年の瞳をまっすぐに見つめた。
「わたしも清瀬君と同じ。……さっき、蔵原君がくれたこと。すごく、すごく嬉しくて。どうすればこの気持ちが伝わるか考えているんだけど……ごめん、もう少し時間がかかりそう。だから、今はお礼だけ言わせて──あのとき、あの時間に、あの場所で、あのひとに出会ってくれてありがとう。……わたし、きみに出会えて、本当によかった」
お礼を言われることなんて何もない。走は落ち着かない気持ちで唇を噛み締めた。背筋をあたたかい羽毛で撫でられているような心地。
もし自分が流星の姿をしていて、半年前、清瀬に見つけてもらったのだとしても。それは、清瀬がもっと、ずっと前から、彼女の光を見上げていたためだとわかっていた。
彼の視線がもともと頭上に向いていたから、星が流れる瞬間を見逃さなかっただけだ。彼の心は、島根でも、東京でも、濃紺の宙へ向けられていた。
迷った時に、立ち止まるたびに、しゃがんで靴紐を結び直すたびに、いつだって進むべきを教えてくれる道しるべ。有村なまえ──みょうじなまえは、清瀬にとって北極星の形をしていた。
走は狂おしいほどの喜びともどかしさの中で、言葉にできない自身をもう一度悔やんだ。ただ、隣の彼女はすべて「わかっている」と言わんばかりに、優しい眼差しをくれる。瞬きをすると、その瞳から一筋の流星が溢れ、頬を伝う。
ああ、やはりこのひとは──とても綺麗だ。
華やかに打ち上がった夜空の大輪は、地上の二つの星を柔らかに照らしていた。