Prayer 4章③ 坂口洋平

前回の反省を生かし、喜久井大記録会にはなまえの運転で向かうことになった。
素知らぬ顔で助手席に乗り込む清瀬を総出で引きずり下ろし、ナビ係としてユキを突っ込む。清瀬が隣に座っていても、いざという時なんの役にも立ちやしない。東体大記録会への道中で全員を阿鼻叫喚に陥れた張本人は、「地図くらい読める」と不服そうである。
──が、まずこれが大きな問題を引き起こした。なんと彼女の運転技術は清瀬よりもひどかったのだ。
彼と異なるのは本人にもそこそこ自覚があり、事前に「いいの? わたし、すっごく下手だよ?」と申告していた点である。それでも、清瀬よりはましだろうと無理やりなまえにハンドルを握らせた住人たちは、今さら文句をつけるわけにもいかず、込み上げてくる胃酸を必死に飲み下すことになった。いつ嘔吐するかわかったものじゃない時限爆弾──もとい王子は、窓から顔だけ露出させることで万が一に備える。
耐えきれなくなったジョージが「二分の二でハズレなことある?」と失礼極まりない発言をしたが、誰も否定はしなかった。清瀬を持ってして「以前のきみ達の気持ちがわからないまでもないような気がしなくもない」と、あやふやなコメントを残す始末である。
大きな事故だけはギリギリ免れ、所沢へ到着したなまえは「片道切符にならなくてよかった」と胸を撫で下ろした。それは単純な道程のことか。それともあっちの世界へ行く道のりのことか。
何はともあれ──風に当たる、水分補給などを繰り返し、出場する五人を中心になんとか気分を持ち直させた面々は、ぐるりと競技場を見渡した。
東体大とはまた趣きの異なる会場である。まず違うのはタータンの色。先日は海のようなブルーだったが、今回はレンガを思わせる褪せた朱色だった。
それらの風景をものめずらしく眺めながら、出走メンバーはウォーミングアップを行うべくトラックへ駆け出していく。清瀬は手続きのため運営テントへと向かった。
一方、本日出場しない面々は、手持ち無沙汰にコースの脇をうろうろするしかない。
サポータ陣の足元には、なまえが持参したプラスチック製のカゴが二つ。スーパー等で買い物する際に使用されるものだ。招集後、これに住人の荷物を入れて運ぶという。
それもこれも、五千メートルが四〇〇メートルトラックを十二周半することが所以だ。スタートが第三コーナーとなるため、サポート陣は直前に選手から預かったアップシューズ、ジャージ類を全てまとめてゴールまで持って行かなくてははならない。
同様に地面へ鎮座している保冷バックの中にはドリンクボトル、補給用のゼリー飲料、一口サイズの俵型おにぎりが詰められている。
「有村ちゃんもハナちゃんも、普段こうやって俺らを見守ってんだな……」
「つーか今回は五人だけど、前回は十人全員が同じ組だったじゃないすか」
「それぞれのラップ取りながら、荷物運んで、声掛けして? 無理無理。どういうスキルだよ」
ニコチャンとキングは、はじめてのマネージャー業務へしみじみと感嘆の声をあげた。本日葉菜子は学校行事のためこの場にはおらず。なまえが少女の分まで「サポーター冥利に尽きます」と微笑む。
「さっき確認したんですけど、昨日皆で確認した予報ほど気温は上がらないみたいですよ。不安要因が一つでも減ってよかった」
「雑草根性だけは逞しいからな。どんな天気でもなんとかなんだろ。精鋭部隊だぜ」
「確か公認記録をクリアするためには一周──」
「一分十九秒を切るペース」
「七十九秒を切るペース」
ニコチャン、なまえが即答する。キングは「おお」とたじろぎながら「……そう考えるととんでもなく速いすね。前回は走るのに必死で自分のタイムなんて気にする余裕なかったからなあ」眉をひそめた。
談笑をはじめた上級生の後ろ、取り残された王子と走は手持ち無沙汰にアップする面々に物憂げな視線をやっている。
──と。
「……命拾いしたとは思ってないよ。むしろ後がなくなったと言える」
王子がぽろりと呟いた。
「あれは……」
気まずく走が言葉を濁す。「あ」思い当たる節に振り返ったキングが「そうだ。お前、王子になんか言ったらしいな。お前さ、一年だよな?」口を挟み、ニコちゃんに嗜められる。意外にも、竹青荘の中でこのあたりの上下関係に厳しいのはキングであった。
「あれは、あの時の勢いっていうか……」
昨日の清瀬との押し問答からどうにも勢いが薄れた走が口ごもり、王子が「へえ」と重そうなまつ毛を上げる。
「……撤回するんだ?」
「しませんよ──俺は俺で本気だから」
「……やっと本音言いやがった。責めてねえよ」ニコチャンが肩をすくめる。先輩のからかい混じりな笑みに絆され、王子も少し表情を和らげる。
「……こうやって休日に陸上競技を観戦してるだなんて、一ヶ月前には想像もしてなかったな」
そこで、労わりの面持ちで様子をやりとりを窺っていたなまえが「そういえば」首を捻った。
「柏崎君って、陸上が題材の漫画は読んだことないの? 題材が魅力的だと、実際にその競技を見てみたくなることあるじゃない。エースをねらえ! とか、巨人の星とか、アタックNo.1とか……」
例として挙げられたラインナップがことごとく古めかしい事実に、突っ込んだ方がよいのだろうか。
「なみだの陸上部は持っていますよ。あれは名作ですから──今日だって、ほら」
なまえの質問に、王子はリュックサックの中から文庫タイプの漫画本を取り出して見せた。表紙にはベリーロールを決める女性の姿が描かれている。
「高跳びの話?」
「八〇〇メートルの話です。一巻の途中から長距離が中心になりますが……。このヒロインは一万メートルの五千通過が僕より速い」
「……なるほど」言うに事欠いたなまえが顎をなぞる。ヒロインが天才ランナーなのか。または王子が──これ以上は深掘るまい。きっと前者だろう。
「今度読ませてもらおうかな。絶版とかじゃないよね?」
「昭和の連載なので店舗にはないかと」
「そっか、残念。今度国会図書館でも覗いてみようかなあ」
「ご実家にはないんですか? なかなかの量をお持ちだと思いますけど」
「お父さんが講話の引用目的で集めたものだから、メジャーな少年向けに偏っちゃってて……。少女漫画はほぼないの。ベルバラくらいかな」
走は、王子に借りればいいじゃないか、と言いたげな表情で二人を交互に見やる。しかし、割り込むまでには至らなかったようで、そろそろスタートラインに並びはじめそうな面々に視線をやった。なまえもそれらの動向に気がつき、そそくさと荷物の回収に向かってしまう。「ったく! こういう時は男手使えっての!」ニコチャンが慌てて駆け出す。キングもあわせて、彼女の華奢な背を追った。

レースが開始し、残り五周ほどになると、第四コーナ付近で声かけをしていた清瀬が合流した。東体大の記録会と異なり、今回は前半飛び出す選手がいない。全体的に固まっている。一定のペースでラップを刻んでいくため、ルーキーにとっては比較的やりやすい流れに違いない。
とはいえど、さすがに中盤を過ぎると集団がばらけ、縦に伸びはじめる。その中でも双子は先頭に食らいつき、ムサも第二集団を引っ張っていた。神童、ユキも第二集団後方で着実に自身のペースを保つ。
「おい、こりゃいけるんじゃねえか?」キングが電光掲示板を覗き込む。
「先輩、さっきの一周何秒でしたっけ」
「ああ、ええ、あ、一分……ああ、忘れた」
「ちょっと! さっきドヤ顔で即答してたでしょうが!」
「うるせえ! お前が覚えねえのが悪いんだろうが! 今は声出せ、声!」
ニコチャンとキングの漫談を無視し、清瀬は選手たちへ呼びかける。
「ここから正念場だぞ! 落ち着いてそのままキープ!」
目の中に入りそうな額の汗を手の甲で拭ったジョージが、視線をほんの少しサポートメンバーへと向けるのがわかった。
「いけー! いけー! アオタケー!」キングが上半身を逸らしながら叫んでいる。
「まだまだー!」ニコチャンが眉間に皺を寄せ、鬼の形相で張り上げている。
「死ぬって思っても意外と死なないからー! やれー! 絞り出せー!」なまえが物騒な台詞を並べている。
「そのままー! そのままー! 出し切れー!! ラストー! ラストー! ラストー!」清瀬が、左腕を肩からぐるぐると回している。
王子が口元に手を添え、猫背気味に何かを言っている。
そして──その横では走が。何かを、必死に声をあげて、トラックの中へ呼びかけていた。
出走メンバーの表情が、苦しさの中でほんの少し和らぐ。呼吸は限界に近い。足もじわじわと疲労に侵されている。それでも、ふわりと心が重力を無視して浮き上がる。
ジョータも、ジョージも、ムサも、神道も、ユキも、否、この場にいる全員がきっと同じことを考えている。不思議な確信が、活力となって選手たちの背中を押した。

「……いやー、しかし惜しかったな。俺はいけると思ってたんだけどな」
夕暮れ、競技場から駐車場までの道のりを歩きながら、キングが腕を組んだ。
「お前は本当」とユキが唇を尖らせるが、「ユキだって自己ベストだろ? 公認記録は出てねえけど、全然悪くねえよ」ニコチャンがいたずらに告げる。
「まだ走らなきゃいけないと思うと、それだけで吐き気がしそうなんですよ。……負けっぱなしで終わるのはもっと性に合わないすけど」
ユキはやはり素直じゃない。苦笑する清瀬が「神童も惜しかったな」声をかけると、呼びかけられた本人は照れた微笑みを浮かべる。
「中盤で様子を見過ぎました……。もっと早く仕掛けられた。僕はスプリントで勝負できるタイプじゃないということがよくわかりましたよ」
「言ってることが陸上選手だ」清瀬は重ねてくすくす笑う。
そこでジョータが後ろから飛び跳ねるようにして手を上げた。
「っていうか、俺笑っちゃいましたよ! 皆見てました⁈ ラスト一周っていう時のハイジさん!」
「何言ってるか全然聞こえねえんだけど、すげえ目に入ってきて。恥ずかしい! やめて! って思ったら、けっこうスパートできたよな」兄の差し込みにジョージも続く。
「わかります。応援とは本当に、本当に必要なものなのですね。僕はこの二人が、何か言ってくれていると思うだけで目の前が滲んで……──ありがとうございました」
涙もろいムサがすでに瞳を濡らしながら、走、王子へ視線をやった。
「見えましたよ、僕には。言ってましたでしょう、何か」
「はあ⁈」思わぬ方向から話を振られた走が、顔を赤らめる。
その様子を見逃さず、双子は走の両脇を囲んだ。
「目めっちゃいいからね、ムサさん」
「そう! スカイツリーのてっぺんからアオタケが見えんだからな」
ここぞとばかりになされた吹き込みへ、ユキが「嘘をつくな!」と頭を抱える。
ふと、それまで口を閉ざしていた王子が、
「──名前を呼んでましたよ、皆の」
まっすぐに走の瞳を見つめた。
「そ、それは王子さんだって……」
「僕は申し訳程度。彼は叫ぶようにです。……隣にいるのが恥ずかしくて、どうしたものかと思いましたよ」
走が「ずりい」とこぼし、そわそわと投げ出した指を動かす。不器用な動きは彼の精神にもシンクロしているようで、やたらおかしみを覚える。
「根はいいやつなんだよ、こいつも!」大きく笑って、ニコチャンがその肩を抱いた。
「ちょっ!」と走が腕の中でもがくが、自身の倍はガタイのよい先輩からは到底逃げようがない。
二人のじゃれあいに、住人たちは明るい色を持って笑った。その様子をあたたかく眺めながら、清瀬は改めてゆったりとしたトーンで語りかける。
「出場した皆も、応援に回った皆も、本当によくやってくれた。おかげで皆大幅にタイムを縮めることができた。これは大きな大きな進歩だ。俺たちには俺たちのやり方がある──信じろ、チャンスはまだある」
久方ぶりに、ゲラゲラと声を出しながら笑った気がした。取り留めもなくふと、キングは自分以外の九人が、変え難く尊い何かに思えてむず痒かった。
その輪の中に自分も入れたとしたら、周囲も自分をそう思っていてくれたとしたら、なんて嬉しいことだろう。一度逃げ出そうとした数週間前の罪悪感が、ゆるやかにほだされてしまうくらい。

夜は当然、反省会を兼ねた宴会が催される。双子の部屋に集合し、サポート側が出走者たちを労わるのだ。
その中では、たびたび清瀬の応援が題目に上がり、その都度当人は「なんのこっちゃ」という顔をしていたのが面白い。完全に無意識でやったことだったのだろう。王子が「大正時代の扇風機かと思いましたよ」と例え、妙に全員を納得させた。
いつもこういった飲みの場に参加せず帰宅するなまえも、今日ばかりは住人たちに半ば無理やり引き込まれ、誕生日席へ座らせられている。
研究室の合間を縫ってわざわざ手伝いに来ている彼女を、練習外まで拘束するのはいかがなものかと、これまではそれぞれがうっすら気を遣っていたのだ。
特に、母方の実家で祖父母と生活をともにしているなまえは、主に研究室での活動を理由に、自宅で夕食を取る機会が少ないらしい。そのため、祖父母とダイニングテーブルを囲めそうな時は、極力そちらを優先するのだと、いつかの雑談で聞いていた。
もっとも、老年旅行を趣味にする祖父母が家を空けることも多く、祖父母との夕食は月に三、四回程度とそこそこの小頻度。帰りの車内で、まさに本日が旅行期間だと知った双子が、押しの強さで参加の約束を取り付けた。
本人は最後まで、選手たちだけの場にいちサポートが顔を出すことを躊躇っていたようだが。なまえや葉菜子がゲストであれば、住人たちとしては歓迎でしかない。
なにはともあれ、竹青荘の面子となまえは、こうしてはじめて酒を飲み交わすこととなったのだ。
飲み会冒頭は、住人たちが酒を煽るペースに──未成年である一年生三人は置いておくとしても──なまえはすっかり唖然としている様子だった。「味噌とか塩だけでも永遠に飲めそう」との呟き通り、つまみが底を尽きた際は、食堂から拝借したそれらで会が継続される。
一方住人たちからも、ニコチャンに続くペースで日本酒を進ませながら、全く顔色を変えないなまえは相当の猛者だと思われていた。女性は化粧で火照ったことがわかりにくいといえ、最近実験試料で石炭を扱っているという彼女は、ふるい分けのたびに顔を洗わなくてはいけないからと、かろうじて日焼け止めだけ塗り直したすっぴんスタイルで登場している。今日も朝方研究室に寄ってきたらしい。眉毛を整え、リップを塗る程度の薄化粧だ。
キングが手洗いから戻ると、部屋の前でなまえと遭遇する。室内の男たちはすっかりへべれけで、どんちゃん騒ぎに相応しい音が廊下まで漏れていた。
盛り上がるよねえ、と背後の部屋を示して肩をすくめながら彼女が笑う。
「ただ、さすがにそろそろお冷がいる頃合いかなって。……ついでに熱燗ができるかも聞きたくて」
「まだ飲むんすか⁈」
「うん。あったかい飲み物って永遠に飲めると思わない?」
「そうなんかな……」
慄きながらキングも彼女と一緒に階下へ降りる。
食堂内では清瀬が品数を増やすべく調理を進めていた。振っている鍋の中から、香ばしいごま油の匂いが広がる。
気にせず足を踏み入れようとしたキングは、なまえに服裾を掴まれ、入り口脇へと引き戻された。しーっと唇前に人差し指を当てる姿に促され、息を止めながら中を窺う。
「──どうだ、外から見て。いたか? なあなあで走っているメンバーが。俺には見当たらなかった。全員が必死だったよ。うちだけじゃない、出ている選手全員が」
「……ハイジさんの言いたいことはわかります」
室内にはもう一人、皿を並べる走の姿もあった。外にいる二人の気配には気づかず言葉を紡いでいる。
「俺も、皆が公認記録を逃した時は自分のことのように悔しかったし、周りで応援する人たちの本気もはじめてそばで感じられました。だから言いたいことはわかります」
なまえがキングに「一度上に戻ろうか」とジェスチャーで示す。
「……でも、それでもやっぱり俺は無理だと思うんです。もし記録会で全員が公認記録を出せたとしても、箱根は──」
そこで言葉は途切れた──否、かき消された。
何かが落ちるような、ぶつかるような大きな音がアパート内に響き渡ったためだ。キングとなまえはその場で飛び上がり、二人して顔を見合わせた。転がる勢いで、衝撃の発信源である食堂に飛び込む。
そして──火がついたままのコンロを背に、ぐったり横たわる清瀬を見つけ──さあっと血の気を引かせるのだった。

まぶたをめくり、胸に聴診器を押し当て、額をさすり、熱の有無を確認する。
清瀬の部屋に集まった一同は、医者の一挙一足を息をのみながら見守っている。
「先生──清瀬君は……」なまえは、自身がお世話になっているというかかりつけ医へ、診断結果を尋ねた。
この時間に緊急往診を引き受けてくれた優しげな風貌の老年は、「んー……」と唸る。あわせてもたらされたその回答──。
「──過労」
「かろう?」双子が、皆の頭の中を汲んだように復唱する。
「貧血を起こしたようだが、これは気絶じゃない──寝とる」
言葉の通り、布団に寝かされた青年の胸は規則的に上下を繰り返していた。耳をすませば小さな寝息も聞こえてくる。
眼鏡のレンズ部分を手持ちの布巾で拭った医者は、「睡眠不足で疲れがたまったんだろう。栄養剤を打っておくから、今夜はこのまま休ませなさい。何かあったらまた電話してきていいから。あまり無理させてはいけないよ」と穏やかに告げる。
不治の病とはいかずとも、発作、緊急疾患。そんな類を想像していた住人たちは、そろって胸を撫で下ろした。

竹青荘を後にする医者へ「ありがとうございました」と頭を下げた双子、ムサ、神童、ユキ、キングの六人は、生垣の向こうに姿を見送るなり、ゆっくりと顔を見合わせる。
「注射器刺しても起きねえなんてよっぽどだな……」
「実際、いつ休んでるのかよくわかんないすもんね」
「寝なくても平気な人かと思ってた」
ユキの感想に双子が同調する。
「練習だけじゃない。食事の世話まで全部やってくれてましたから……。とりあえず、明日の練習は僕らだけでなんとかすべきですよね。食事もこれからは当番制にして」
「賛成です」ムサがゆっくりと頷き、キングは「俺、お茶漬けしか作れねえよ?」と、申し訳ない気持ちを携えながらボリボリ頭をかく。
「監督兼、コーチ兼、マネージャー兼、寮長か……」
誰かが現状清瀬が請け負っている役割を、端的に表した。
「改めて聞くととんでもねえな」
「俺たち、ハイジさんがいないと生きていけないのかも……」
続けて、ジョータが気まずそうに「なまえさんまだ怒ってるかなあ……」と告げた。彼らが共通して思い返すのは、清瀬が倒れた直後の彼女についてである。
清瀬がふらつき、床に落ちるまでの始終を唯一見ていたらしい走は、目の前で起きた衝撃に立ち尽くしていた。飛び込んだキングが「ハイジ! 死ぬな!」と呼びかける。
「──あ! っつ!」
重力に従った鍋が、清瀬の頭を直撃しそうになったことを察し、焼けた鉄板を素手で掴んだなまえは悲鳴をあげた。なんとか人のいない方向へ転がせたからよかったものの、これが後頭部に当たったら軽い火傷ではすまなかっただろう。ましてや意識がない相手に対して。
じくじく痛む手のひらを後回しに、清瀬の手首を取って脈を見たなまえが「蔵原君、倒れた時に頭は打ってた⁉︎」尋ね、動揺で「あ」としか答えられない走を「しゃんとする!」と叱りつける。腹の据わった声量でようやく我に返った走は、「い、いえ! 多分打ってないです」と姿勢を正した。
また、ドタバタ階段を降りてきたその他面々に対しても、
「坂口君は布団を敷いて! 誰の部屋でもいいです。一番近いところ。平田さん、岩倉君は清瀬君を運んでください! 呼吸はあります。頭も打ってないみたい。でも連れ出す時はゆっくり、急に上半身を起こさないであげて。ああ! そこ踏まないで! 熱いから! 救急車……じゃないな。わたしは往診の電話入れてきます。杉山君、ムサ君は、田崎さんに報告! 二重で病院へ連絡しないようフォローしておいて!」
ものすごい剣幕かつ、見事なマネジメントであった。およそ一時間前を思い出し、一同は冷や汗を滲ませる。
「仕方ないよ、ハイジさんと有村さんは僕らよりずっと長い付き合いなんだから……。心配して当然だよ」
神童は開きっぱなしの玄関から、灯りのこぼれるアパート内を見やり、ほう、とため息をついた。
廊下から──おそらく清瀬の部屋の前から「縁起でもないです」となまえの声が聞こえてくる。寝息を立てる清瀬に向かって、大家が手を備え拝んでいたようだ。
「即身仏じゃないんですから」
「だが──こういう時にどうすればいいのかわからんのだ」
「こういう時こそ、どっしり構えていてくだされば十分なんです」
「うむ……そうだな」
これではどちらが監督かわからない。

玄関でぞろぞろ解散した一同は、各自の部屋へ戻っていった。流れに続く中、喉がカラカラであることに気がついたキングは一度食堂へと立ち寄る。
そこでは片付けを行う走、すっかり沈んだ王子の姿があった。二人だけにするわけにも、と帯同したニコチャンですらまとわりつく空気の重さに辟易としているようだ。
中華鍋がひっくり返ったため、床には水分を飛ばしきる途中の米粒が散乱。それらを黙々とほうきで掃き、ゴミ袋に詰めていく。あれだけ美味しそうに漂っていたごま油の匂いは、もうどこにも存在しなかった。
「……俺のせいです。俺が心配かけるようなこと」走が絞り出すように、掠れた響きを漏らす。
「……心配なら僕の方がたくさん」
王子が走に被せるも、「いや、俺が」と走が否定する。これでは埒があかない。
室内に入るタイミングを失ったキングが、入り口付近の廊下で右往左往していると、「──全員だ、全員。何かしら心当たりはある」それまでだんまりを決め込んでいたニコチャンが二人を嗜め、ややあと続けた。
「なあ、手打ちってことでどうだ? タイム出なかったらチームを辞めろ? んなこと言ってる場合じゃないだろ」
「……提案したのは僕じゃないので」床にへばりついた米を一粒ずつ指で取り除きながら、王子が戻す。
「お前も先輩なんだからよ」
「俺も不安も口にしただけなんで」
「それを僕にぶつけたというなら迷惑な話です」
「さっき言ってたじゃないですか。心配かけたって──かけてるんですよね? 心配」走も折れる気配はない。
「いい加減にしろ。ハイジがお前らに託したもん、無駄にすんじゃねえ」
ニコチャンが再度仲裁に入ると、後輩たちは「それじゃ死んだみたいじゃないですか!」と一言一句違わずに反論を試みた。そんな二人を交互に見つめ、「……気合うんじゃねえのか? 本当は」ニコチャンは困ったように告げた。それにはキングも同感であった。