unmeasured あなたが切符を切る前に

「セーフティがないしね。万が一があった時、私が龍水君の後ろ髪になるわけには、って思うし」
まだ癖はあるものの、初期よりも飲みやすく改良されたワインに口をつけ、なまえははっきりと告げた。
「私は、龍水君の妥協になりたくない」
司帝国時代からの親友として、出会った時から変わらない芯の強さを嬉しく思う。同時に、その強さの裏に秘められた、彼女の脆さに気がいった。
控えめに見えて、本当は誰よりも頑固で、自分なりの筋の通し方を考えている。
本当の感情とは別に、どうするべきかという軸を持っていて、咄嗟にそっちを優先してしまう。だから、いつだって、自分の痛みは二の次だ。
「船長の婚約者としては立派だよ。だけど、アタシはアンタの友達として、普通に聞きたいだけ。他愛のない愚痴とか感想をさ」
手に持ったワインを一気に飲み干す。
今日は久しぶりに二人でゆっくり語らえると、リリアンの話、造船時代の話と、尽きない話題に花が咲いた。
つい、喉を潤すためにアルコールも進んでいる。下戸でないとはいえ、なまえもかなり酔いが回っているようだった。本音を引き出すには、またとない好機とも言える。
「どうなんだい。一度飛び出せば、それこそ神のみぞ知るなんだから」
「……ニッキーだけに言うけど、本当はね、一回だけ誘ってみたの。誘った、っていうか、半分は偶然なんだけど、流れがあって」
空になったグラスを机に置く。乾いた音がした。
「怒られた。保っていられる余裕がない、って。こんなこと言うのアレだけど、ちょっと嬉しいじゃない? 龍水君も私と同じ気持ちなのかもしれないって想像したら。それは、もう、それだけで……」
俯いたなまえが、噛み締めるように呟いた。

龍水と親友が婚約したと聞いたのは、石化から目覚めて数時間後のことだった。
ルーナ、羽京、大樹達から南米での顛末を聞き取る中、船出立前の大立ち回りとして、公開プロポーズの話が飛び出し、二人を知るメンバーは全員目が点になった。
もちろん、意外だったからじゃない。展開が早すぎるからだ。
北米行きの船の中は、航路をめぐる押し問答にはじまり、毎日何かしらの事件があった。一方、色恋ごとに限れば、自覚のない龍水をただ見守る時間だった。
なまえの気持ちを本人から直接聞いたのはアタシだけ。あとは、自力で察しているであろうメンタリストのゲンと、羽京ぐらいだ。
見たところ、龍水はこのまま向こう十年気が付かない可能性も余裕であったし、龍水が押さなければなまえは絶対に動かない。
痺れを切らし、なまえに「脈アリだと思うけど」と声をかけた時は、「むしろ脈のない人がいないよね」と指摘された。あんまりな言いようだけど、正直その通りだから仕方ない。
そんな二人が結婚間近。あの龍水が自覚し、あのなまえが折れたのだ。
一体旅路で何が?
さすがにそこに至るまでの詳細なやりとりは知らないらしく、報告はお開きとなった。

詳細が聞けたのは、さらに二年後。
ロケットエンジンと一緒に、なまえが日本へ帰ってきてからだ。
飛行士選抜が行われることもあり、造船作業に関わった初期のメンバーが久方ぶりに集まって再会を喜んだ。電話やモールス信号でのやり取りは可能だったけど、やはり対面の会話は情報量が違う。
そこで、ここぞとばかりに女子会開催を強行した南が、なまえを捕まえ、質問責めにした。気を遣って聞かなかっただけで、皆知りたかったことばかり。誰も止めようとはしない。
余程のことがあれば声をかけるつもりではいたけど、アタシも馴れ初めは気になってたしね。
そこで、相手のプライバシーは守りつつ、のらりくらりと質問を交わすなまえに、すっかり記者魂を刺激された南がぶっこんだわけだ。「結局、龍水とはどこまでいったの?」と。
その場の全員が、声を潜めた。ちなみに、スイカの耳は杠が塞いでいた。
「ハグとキスまで」
のほほんとなまえは笑った。
「これ以上のことは難しいだろうな、少なくとも今は」
「……それ、大丈夫? 龍水、どこかで爆発するんじゃない?」
「したい、とか、したくないとかならいいんだけど。できる、できないの世界になっちゃうと、さすがにね……。今はできない」
意思のこもった言葉に、南はやや困った顔で、足を組み直した。
「まあ、なまえがしない、って言ったらあいつはそれを尊重するだろうけど……」
なまえは、いつものように眉尻を下げて微笑む。些細な変化に気がついたのは、おそらくアタシだけだったと思う。

***

寝息を立て始めたなまえをおぶり、しばし逡巡。悩んだ末、婚約者の元へ運ぶことにした。
力の抜けた細い足に、宝島でイバラにつけられた傷跡はない。二回目の全人類石化で、無事に回復したんだ。
非戦闘員のくせに、千空といい、なまえといい、自らの身を粉にしすぎな気がする。そりゃあ、戦闘員がなんでも盾になれって言うんじゃないけど。
居住区の中でも一際大きく、見晴らしの良い場所に構えられた家にたどり着くと、フランソワに出迎えられる。追って、龍水もやってきて、「めずらしい」となまえの肢体を凝視した。
すやすやと、アタシの背中ですっかり安心して眠りこけている親友を引き渡す。うやうやしく体を抱き上げながら、龍水は若干眉をへの字に傾けた。
「しかし、妬けるな……貴様」
「なまえとの付き合いはアンタよりも長いからねえ」
「いや……ありがたい。貴様のような存在がいることが」
龍水が、横抱きにしたなまえを見つめた。
その顔は今まで見たことないほど優しく、慈愛に満ちている。普段、皆の前で話す時とは、そもそもの発声から違うような、甘ったるい声色だ。
背中がむず痒くなり、見ているこっちが恥ずかしい。親と囲んだ食卓で、ドラマのラブシーンが流れたような気分になる。
「本当はなまえの家に連れて行こうかと思ったんだけど、だいぶ酔ってるし、アンタに言いたいこともあったしさ」
「俺にか?」
「なまえがアンタと……ああ、焦ったいな、だから、つまり、その……キス、以上を求めないのは、アンタが月に行くからだってことだよ」
未だ、この手の用語を自分の口から吐き出すのは慣れない。
「いくら片道が往復になったとはいえ、何が起こるかわからないだろ。億が一子どもができたら、アンタの決意に水を差すかもしれない。それは船長の婚約者として相応しくない、って思ってんのさ」
なまえが泣くところを今まで見たことがない。怒ったところも見たことがない。
フランソワの料理に感動して泣いた、と言っていたけど、その時だって背中を向けてそっと目頭を押さえただけで、涙自体は見せなかった。
このストーンワールドで、それがどれだけ難しいことか。
アタシが、本来二人で解決すべき問題に、お節介にも首を突っ込んだのは、俯いたなまえの目が水の膜で滲んでいるのに気がついたからだ。こぼれないよう、動きを止め、瞬きもせずに堪えていたから。
「……アタシはなまえの味方だからね。婚約者を泣かせるなんて、強欲が聞いて呆れるよ」
龍水はしばし無言で、なにやら思案するように数度顎をなぞった。
「もう一度言う……なまえに貴様がいて良かった。改めて、最高の美女だな」
フン、と鼻を鳴らすと「感謝する、改めてきちんと礼をさせてくれ」と、龍水が告げ、アタシもお役御免とばかりに踵を返した。

翌日、二日酔いを理由になまえが午前いっぱい寝込んだ。
昼食ごろ、合流したなまえが、アタシに駆け寄ってくるなり手を合わせる。
「昨日、ニッキーが運んでくれたって聞いたの。ごめんね、久しぶりに話せたから楽しくなっちゃって、この歳にもなって羽目を外すのはさすがにないって反省した……頭痛は戒めだと思って受け入れる」
「問題ないよ、聞きたかったことも聞けたしさ。それより目がちょっと赤いけど」
「あ、冷やしたんだけどなあ……目立つ?」
「いや、多分アタシくらいしか気づかないよ」
慌て出したなまえをフォローすると、ホッとした面持ちになる。
「そういえば龍水君が、ニッキーには自分からもお礼するって。面目ない……私が迷惑かけたからだね。本当ありがとう」
「ふーん……」
頭を下げるなまえの首筋や、鎖骨になんの痕も残っていないことを確認する。
潰れた彼女に、その場で手を出さなかった忍耐力は及第点じゃないの。
「ま、頑張んなよ」
「そうだね! 早く完成が見たいね」
微妙にすれ違う答えだったけど、昨晩よりも晴れやかな顔を見ていたら、どうでも良くなった。

おまけ
横抱きにした彼女をベッドに寝かせる。
と、振動で気がついたのか、なまえがわずかに目を開いた。
「龍水君」
火照った頬、ほんのり蒸気した肌、汗の香り、掠れた舌ったらずな声。左腹の白い肌が露出し、月の光を浴びている。
これはかなりまずいかもしれない。咄嗟にそう思った。
だが、恋人に名前を呼ばれ、無視を貫くわけにもいかない。
「どうした?」
脇に腰掛け、そっと頭を撫でる。
すると、俺の右手を両手で握り、頬を擦り付けたなまえは、「好き」と小さく告げた。
そのまま石化跡の化粧が残る指へ、一本ずつ口づける。正直、品のない表現をすれば下半身にきた。
「……好きすぎて、たまにどうしようもなくなる。言葉だけじゃ全然伝えられない」
困るねえ、と微笑んだなまえがたまらなく愛おしくなり、彼女の上半身を掬い上げて抱きしめる。どこにも行かない、と囁いてやれない分、普段よりも強い力で。
俺の胸に顔を埋めていたなまえと、ふと視線が合う。どちらからともなく引き寄せあって、唇を重ねた。
先ほど俺の指を相手にしていたように、触れるだけを数回。その後、呼吸のため開いた隙間に舌を差し込み、絡める。
こんなに長時間、キスだけに没頭したことはなかった。ただ、ひたすらに離れ難く、この気持ちを唇越しに伝えようと必死になった。
途中、なまえが涙を流した。自分でも驚いたようで、周辺を擦ろうとする。彼女の手をやんわり取り、目尻から頬に向かって溢れる水滴を舐めとった。
「……なんだよ」
到底似合わないぶっきらぼうな口調だった。無理やり口角を上げ、泣き笑いの表情をつくっている。
震える唇に舌を伸ばすと、わずかに塩辛かった。

外が白み始めた頃、隣にはなまえの寝息があった。口付け疲れ、という言葉は聞いたことがないが、今の彼女は完全にそれだ。
花田仁姫の言葉も思い返しながら、俺は、少し腫れて赤くなったなまえの唇を弄ぶ。今度は起きる気配がなかった。
したいか、したくないかでいえばもちろんしたい。無論したい。
呼吸に合わせて上下している膨らみや、細い腰や、そのさらに奥。全て暴きたいという欲がある。
ただ、衛生面、セーフティーが不確かであるなどの懸念点を理由に、これまで衝動を押し殺してきた。彼女を遠ざけた瞬間さえある。
いつだって、行為で苦労するのは女性の方なのだから。暴きたい以上に、大事にしたいと思う。
「……参るぜまったく」
音にしたことで、ありありと感情の輪郭が露わになっていく。
この世界で、弱みとも捉えられそうな言葉を口に出したのは初めてのような気がした。